2026年5月5日火曜日

アセスメントとは

  このシリーズは「アセスメント」をテーマとして取り上げてきました。アセスメントとは一体何でしょうか。いくつかの英和辞典を”assessment”で引いてみると、「意見、判断、評価、査定」などの訳語がつけられています。ついでに国語辞典で「アセスメント」を引くと、「評価、査定」などの語釈が載っています。まあ、要するに「評価」といっておけば良いのではないかと思います。この「学校園でできるアセスメント」シリーズの中でも「アセスメント」と書いてみたり「評価」と書いてみたり、表記がブレブレです。さて、私の個人的経験からは、教育畑や心理関係の人は「アセスメント」という片仮名言葉を使うことが多いような気がしています。そのことにどういう意味があるのか、実は私にはわかっていません。でも、「学校園でできる」ということを意識して、学校の先生方の真似をして片仮名の「アセスメント」をタイトルに入れてしまいました。でも、文字数節約のためにこれ以降は「評価」を使います

 さて、アセスメントでも評価でも良いのですが、これは何を意味しているのでしょうか。「観察する」ことと「評価」は違うのでしょうか。評価も観察の一種と言えそうですが、観察の方がより漠然とした印象があり、評価には何やらきちっとした印象があります。「しっかり観察する」や「よく見る」よりも「評価する」ことの方が何か具体的な意味が付加されているように思います。私なりに評価とは何ぞやということを考えてみました。

 まず思い浮かぶことは、評価項目、つまり何を評価するかということが具体的に定義されているということです。身長や体重、知能、視力など、評価するものが明確です。医師の診察も一種の評価であり、やはり具体的な評価項目が決まっています。例えば、呼吸音や心音、腹部や顎下頸部の触診、眼球結膜、口腔および咽頭粘膜、などなど。医師の専門性によってもその組み合わせは変わりますし、患者の主訴によっても評価項目の力点の置き方が変わります。多くの場合、改まって評価するという場合、評価項目は複数あります。

 次に必要なことは、個々の評価項目を定量する、あるいは分類するための尺度の存在です。視力や体重など、連続変数で表せるものもあります。顔色や発疹、奇形などは連続変数として測定することはできませんのでカテゴリーを定義して分類するということになります。もちろん、発疹は分類した上で大きさや数を測定することもありますので、同一評価項目に対して評価尺度は1種類とは限りません。子供の書いた文字なら「読める」「読めない」の2カテゴリーかもしれませんし、「読めるし上手」「かろうじて読めるが下手」「なんの字か推測できるが不正確」「全く読めない」の4カテゴリーに分けても良いかもしれません。

 評価項目を特定し、どのような尺度で評価するかが決まれば、次いで必須の要素は観察条件や評価方法です。血圧なら朝起床後1時間以内に安静状態にして上腕部で測定するとか、血圧計は何を用いるのかとか。知能の評価ならどのような部屋で、どの種類の知能検査を用いるかを考えなければいけません。授業中に見られがちな問題行動であれば、当然授業中に教師自身、あるいは参観者が観察するのが自然です。前回書きました様に、ターゲットとする問題行動を具体的に規定する必要があります。行動が生じる前の状況、生じた後の状況を合わせて記録する、といった具体的な観察方法を考えておく必要もあります。

 単なる観察ではなく評価と称するからには以上の観点が欠かせません。では、評価項目、尺度、観察条件と評価方法が決まれば評価は成立するのでしょうか。とんでもありません。これでは最も重要な要素が欠けています。何の問題もなく幸せに暮らしている通りすがりの人を評価しようと考える人はほとんどいません。評価をする前提として、まずは問題意識や目的意識が存在するはずです。学校で考えれば、生徒を成長させたい、生徒が困っている、周りの人々が困っている、などの背景があり、状況を改善するために何らかの手を打ちたい、というときに人は評価することが必要だと考えます。問題を解決するために、あるいは目的を達成するためにどのような手を打つかという具体的対処方法を計画することと評価は密接に結びついています。目的別に考えるとどのような評価があるでしょうか。

 まず思いつきやすいことは現状を把握するための広範囲の評価です。現状で、何がうまくいっているのか、そして何がうまくいっていないのかを明らかにするための評価です。問題を特定することや目標設定をすることのために行います。学校で行われている学力評価などはこのような性質のものではないかと思います。評価の性質上、評価項目が多くなります。したがって、非常に手間がかかることになりやすいです。また、特定の対象をピンポイントで評価するわけではありませんので、個々の評価項目に関しては手間の少ない大雑把な評価方法を使いがちで、結果の解釈が曖昧になりやすいです。また、何を目的として現状を評価するのか明確にし、評価対象者の属性、例えば年齢などを十分に考慮して評価項目を決定する必要があります。子供の学力が伸びているかどうか知りたいのに生活の質(QOL)の評価をしても検討はずれですし、小学校1年生に5年生用の学力試験を行なっても得るものはありません。

 問題の原因や発生機序を明らかにするために行う評価もあります。問題解決(何らかの指導目標達成も含めて)のためにはどのようなプロセスが必要でしょうか。問題を具体的に特定することが最初に行なうべきことです。ふわふわと「何だか困りました」と思っているだけでは前に進めません。いつ、どこで、何をしているときにどの様にうまくいかないのかということを、日常生活全体を見渡しながら具体的に状況を整理します。問題を感じる状況を具体的に整理できれば次になすべきことは、何が問題を生じさせているのかについて仮説を立てることです。そこに辿り着くことができれば評価の出番です。仮説に関連した変数を評価の対象とするのです。例えば、全般的に理解が悪いのではないかと考えれば知能検査を計画することになります。文字の読みが下手なのではないかと考えれば読字能力の評価をすることになります。問題を具体的に絞り込めるほど、そして可能性のある仮説を明確に用意できるほど、評価は効率の良いものになります。

 問題の原因や発生機序に関する仮説を立て、それを評価で裏打ちできたのであれば、その仮説に基づき対処方法を立案することになります。計画された対処方法が有効なものであったかどうかを検証するときにも評価が必要になります。そのときに重要なことは、対処によって何を目標にするのかを具体的に設定することです。読める文字を増やしたい、3、4位数の乗除の筆算を解けるようにしたい、授業中の立ち歩きを減らしたい、などと具体的な目標を決めることでそれに応じた評価項目が自ずと決まります。

 さて、以上が私の考えるところの評価です。このような考え方が妥当であるならば、評価というものは基本的に現実を具体的に把握することで問題そのものや問題が生じる状況を整理し、そこから問題が生じる原因や機序を想定した上で、具体的に設定された目標に向けてもの事を進められるように、具体的に計画された対処方法を実行するという一連の過程の補助となるものです。常に補助的役割しか担いません。評価よりも先に、現実の子供をしっかりと観察し、問題を整理し、目標を設定し、計画を立てるという営みの中で必要に応じてより緻密な評価がなされるべきものだと思うのです。バランスを考えることも重要です。精密な検査をすることにこだわって時間がかかりすぎたり子供の負担や経費が大きくなったりすれば、評価をする相対的な価値が下がります。また、問題を具体的に把握できていない状況や、問題にしか目がいかずなぜそのような状況に至ったのかを分析推理しようとする意思がない時や、評価結果をどのように利用するかという評価後の具体的計画がない状態では、評価は成り立たないし意味を持ち得ないのです。評価、すなわちアセスメントは漫然とするべきものでは無いということを強調したいと思います。

 最後に、知能検査について私が考えていることを書いておきます。WISC-5などのフォーマルな知能検査は多種類の評価項目から構成され、結果も複数の指標が算出されます。そのため、現状を広範囲に評価できる、あるいは問題の原因や発生機序を明らかにすることができると思われがちです。しかし、実際にはそれほど多くを期待できる検査ではありません。一言で言えば全般的な知能レベルを知ることができるだけと考えておくのが妥当です。現状を広範囲に評価できるわけではありません。社会性や行動特性の特徴を明らかにすることはできませんし、学業成績との大まかな相関はあってもどの教科のどの単元が強いとか弱いとか細かく具体的な評価はできません。問題の原因や発生機序に関しても、日常生活での詳細な観察を通して立てられた仮説と検査結果との間に矛盾がなければ仮説の正当性が強化できるという程度です。皆さんがよくご存知のワーキングメモリーを例にとれば、WISCでワーキングメモリー得点が低くても日常生活では結構人の話を確実に聞き取れていることはしばしばありますし、その逆もあります。言語理解得点が高い割に、日常生活では人の言葉を正しく理解できていないことが多いという場合もあります。WISCをすればこそ立案できるし、WISCなしでは成し得ない具体的な支援計画なんてものはほとんど存在しないのではないかと思います。

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