発達障害を有する子供の保護者が担任の先生に何らかの支援を求めたときに、先生から「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と伝えられることが時にあります。この、「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズでは、教師や保育者が悪意なく発する、いや、むしろ善意や職務への熱意から口にしそうな言葉を主に取り上げてきたつもりです。しかし、「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」は完全にアウトです。私自身の経験からはこのようなことをおっしゃる先生はあまりいないと思いますし、少ないと信じたいです。なぜならば、もしこういうセリフを口にし、かつ言葉通りに振る舞っておられるなら、それは明らかに日本では認められないからです。
2006年12月に改正された教育基本法には「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。(第4条第2項)」という条項が加えられました。そして、この規定の元となった2005年の中央教育審議会答申では特別支援教育について、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うものであると説明しています。同時に、この答申では通常学級に在籍する子供に対しても個々の教育的ニーズに沿った支援をすることを求めています。つまり、障害を持つ特定の子供に何らかの教育的ニーズがあれば、それに応じて「1人だけに違うこと」をせねばならないのです。
さて、一人一人の子供に必要な支援や適切な指導をせねばならないとすれば、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのでしょうか。それを考える上でのキーワードが「合理的配慮」です。合理的配慮は2006年に国連で採択され、日本でも2014年に効力を発生した障害者の権利に関する条約では、合理的配慮は次のように説明されています。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
障害者の権利に関する条約では合理的配慮の否定は差別とみなされます。また、国内法でも2016年に施行された障害者差別解消法で全ての事業所において(2024年4月から)合理的配慮が義務化されています。合理的配慮は"reasonable accommodation"の訳です。「配慮」と訳されたので全ての人に「善意からの心配り」が求められていると誤解されやすいのですが、実際の意味合いはかなり異なります。障害児本人が学校園で他の子供と同等の機会を提供されるために必要な「調整」と考えた方が本来の意味を反映しています。しかも、上記の説明の通り、均衡を失した又は過度の負担を課さないものという条件がつけられており、際限なく濃厚な援助をする義務が学校園側にあるわけではありません。とはいえ、発達障害を伴う子供がその障害のために学校園で建設的に暮らせていない時には、特別な支援をしなければいけません。「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言って何の配慮もなく放置することは差別とみなされ許されるものではありません。
さて、基本的なことは押さえた上で話の流れを変えようと思います。昨今の教師や保育者の忙しさは多くの人に認識されるようになっているのではないでしょうか。決して少なくはない受け持ちの子供たちを直接指導するという本来業務だけでも大変だと思うのですが、保護者からの相談に乗ったり、時には苦情処理をしたりせねばなりません。その上、監督官庁からの通達や地域住民からの無責任な要望などにより業務が増す一方ですし、責任を負わされる範囲も増える一方だと聞いています。そのような状況だと「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言いたくなっても不思議ではありません。しかし、先述の通り、これは言ってはいけない台詞です。ではどうすれば良いのでしょうか。
個別の配慮について考える前に、ユニバーサルデザインを意識した環境作りに触れておきます。どの子供にとっても暮らしやすい環境です。発達障害の代表として取り上げられやすい注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の子供に対する基本的配慮事項は、実は多くの子供達にとっても暮らしやすくなることにつながりやすいです。例えば、注意欠如多動症のある子供の指導でよく取り上げられる、できていることに注目し不適切な行動は無視をするという技法は全ての子どもにとって有意義です。自閉スペクトラム症への配慮としてよく言及される視覚的支援やわかりやすい形のスケジュール表をこまめに提示することなどは、自閉スペクトラム症以外の多くの子供達にとっても安心して暮らせる環境を作ることにつながります。これらの広く知られたごく一般的な配慮事項を日頃から徹底するということは、個別の配慮の必要性を減らし、先生方の負担を減らすと思います。
個別の配慮を考える前提として、完璧を目指す必要はないことをよく意識しましょう。特に、個人の特殊な事情に合わせた支援や工夫は理想を追い求めてできるものではありません。先に説明しました合理的配慮の説明で「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と書いてありましたが、これは重要なポイントです。あくまでできることを着実に実行していくことが大切です。個別の配慮の具体は、子供のニーズによってそれぞれですから、ここで総論的に説明することはできません。ただ、ぜひ考慮していただきたいことを一つ二つ書いておきます。
多くの先生方はなんとか子供のためになるように精一杯頑張っておられます。すでに一杯一杯になっている方も多いのではないでしょうか。その状況でまず考えるべきことは、無駄を減らすことです。私の偏見かもしれませんが、教師や保育者は一度始めたことから撤退することが苦手な人が多いように見えます。様々な工夫や努力をしていらっしゃるのですが、一定期間が経てばその成果を見直すことが必要です。計画段階から、どのくらいの期間実行すれば成果の有無を検証するということも考えておくことが理想です。少なくとも、長年続けてきたけれども成果が上がらないことは一旦中止した方が良いでしょう。私の外来を受診する子供達に関して真っ先に浮かぶのは、宿題です。宿題をすることが辛くて辛くて、毎日家で大暴れしているケースでは、宿題から得られるものなんてほとんどありません。直ちにやめればその子の宿題を確認する手間が減ります。逆に、余裕しゃくしゃくで授業を理解し課題を解いている子供も、宿題をするメリットはほとんどないでしょう。「決まっているから」とか「すべきことだから」という考え方を捨てて、これをすることが子供にとってどのような利益になるのだろうかという損得勘定の観点で考えれば、当たり前のように実行していることでも無駄なことは多いと思います。
成果が上がらない手立ては上記のように無駄ではないかと考えることが大事ですが、その前にやり方に修正すべき点がないかを検討することも必要です。特に、専門家達が長年その成果を確認してきたような手法では、根本的に無意味というよりも実行方法に問題がある可能性を検討するべきです。例えば、これは私自身の経験ですが、視覚的支援が重要だからと子供の机に注意事項や守るべきルールを書いた紙を大量に貼り付けた先生がいました。このようなやり方だと情報量が多くて把握しきれないことに加えて、本人にとって面白くないことばかりを書いているので、貼り紙が嫌悪刺激になります。このような場合に成果が見られなくても、視覚的支援が無意味なのではなく、用い方に問題があります。すでに実行している方法を少しずつ修正することはそれほど手間を増やすわけではなく、実行しやすいのではないでしょうか。なお、このことに関連して追加しておきますと、一見手間が増えるように感じても、繰り返し実効性が証明されているスキルを取り入れることが結局は楽になる方法と言えます。最近は、少し大きな書店に行けば様々な配慮が必要な子供を念頭に置いた支援方法を記載した書籍がいろいろ出ています。また、近くに教員養成課程や保育士養成課程、あるいは心理学部のある大学があれば、いろいろ助言をしてくれる専門家がいることがあります。連絡を取り協力してもらえないかお尋ねになるのも良いのではないでしょうか。
少し話がそれますが、ケース会などに参加している時に「やれることは全部やりました!」と担任の先生がおっしゃる場面を目撃することが何度かありました。努力が成果につながらず、疲労困憊されているのだろうということが伝わってきます。このような発言を口にされる、特に公的な場でおっしゃる先生に必要なことは休息です。ここまでに書いてきたように問題への対処は色々な選択肢があります。ユニバーサルデザインを意識して生徒全員への働きかけ、成果があまり上がらなかった工夫の細かい改良、成果の見られない手立てを止めること、問題が生じる状況を改めて観察し分析すること、これらの組み合わせ、などを考えていけばどのような状況にあっても何かしら新しい試みは可能です。やれることを全部やり尽くすなど現実にはあり得ません。しかし、この矛盾に気付けず「やれることは全部やりました!」と口にしてしまう先生は精神的に参っている状態だと言えます。休息が必要だと思います。
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