2026年4月4日土曜日

注意欠如多動症の傾向 2:不注意

 本節では、DSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準に記載された(1)不注意の症状項目を見ていきましょう。不注意とは、必要なことに注意を向けられないことや、必要なことに注意を持続できないことを意味します。日常的な表現を用いればうっかり屋さんとかぼんやりやさんくらいに考えれば良いでしょうか。(1)不注意には、(a)から(i)までの9項目の症状が記述されています。日常の様子を念頭に置いて当てはまる数が多いほど不注意の強い子と判断すれば良いです。『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。


『(a) 学業,仕事,または他の活動中に,しばしば綿密に注意することができない,または不注意な間違いをする (例:細部を見過ごしたり,見逃してしまう,作業が不正確である).』


 これはいわゆるうっかりミスの多さです。コップをひっくり返したり、紙を破いてしまったり、物にぶつかったり、躓きやすかったりといったことです。転んだりぶつかったりしやすいので、小さな怪我(ときには大きな怪我も)がしょっちゅう見られることもあります。小学生の学習面では、引き算を足し算にしてしまったり、問題文を最後まで読まずに判断するので間違えたりします。


『(b) 課題または遊びの活動中に,しばしば注意を持続することが困難である (例:講義,会話,または長時間の読書に集中し続けることが難しい).』


 いわゆる集中力の問題です。遊びでさえ転々とする子がいます。遊びには集中するけれど、さほど興味のない活動をさせると続かない子もいます。授業の前半は先生の話を聞いたり問題を解いたりしているのに、後半には窓の外をボーと見ていたりします。不注意傾向が強くても、特定の活動、主に自分が好きなことにはむしろ過剰に集中している子も多いです。そのような子であっても、生活の中の多くの活動で集中できなければ該当すると考えましょう。


『(c) 直接話しかけられた時に,しばしば聞いていないように見える (例:明らかな注意を逸らすものがない状況でさえ,心がどこか他所にあるように見える).』


 不注意が強いと人の話を聞いていないことがよくあります。まるで耳に入っていないように見えることもありますし、話の一部しか頭に入っていないこともあります。何かに熱中したり気を取られたりしている時のこともありますし、特に何もしていない時でも人の話を聞いていないことが多い子供もいます。長々と説明していると、次第に生気のないぼんやりとした表情になり、見るからに上の空になっているように見えます。全く聞いていないのではなく、人の話の一部しか頭に残っていない子供もこの項目に該当します。


『(d) しばしば指示に従えず,学業,用事,または職場での義務をやり遂げることができない (例:課題を始めるがすぐに集中できなくなる,また容易に脱線する).』


 「指示に従えず」という表現がありますが、これは反抗的という意味ではないことに注意してください。指示された作業を一気に最後まですることができず、途中で横道に逸れて関係ないことをし始めることを意味しています。意図して指示した人に逆らっているわけではありません。着替えの最中に転がっていたおもちゃをいじり始めたり、食事の最中に手を止めて隣の子供とのおしゃべりに熱中し始めたり、プリントに取り組んでいる最中に消しゴムのカスを集めて丸め出したり、というようなことです。その結果、何かと時間がかかることになりやすいです。


『(e) 課題や活動を順序立てることがしばしば困難である (例:一連の課題を遂行することが難しい,資料や持ち物を整理しておくことが難しい,作業が乱雑でまとまりがない,時間の管理が苦手,締め切りを守れない).』


 (e)は要領の悪さ、段取りの悪さを意味します。あまり手順を考えずに目についた物に手が伸びたり、無駄な動きが多かったりします。要領の悪さが表面化しやすい活動として、片付けが非常に苦手な子供が多いです。(d)と同様に作業の途中で横道に逸れるため要領が悪そうに見えることもあります。そこを厳密に区別することは難しいと思います。


『(f) 精神的努力の持続を要する課題 (例:学業や宿題,青年期後期および成人では報告書の作成,書類に漏れなく記入すること,長い文書を見直すこと) に従事することをしばしば避ける,嫌う,またはいやいや行う.』


 小学生なら同じ漢字を何回も書いて練習するとか単調な計算問題をたくさんするということなどの時の様子を考えれば良いと思います。就学前の幼児では「精神的努力の持続を要する課題」があまりないかもしれませんが、部屋中に散らかっているおもちゃを片付けるように指示した際のことを考えれば良いかもしれません。不注意の強い子供では、平均的な子供よりも与えられた課題の量が著しく多いと感じがちです。そのため、なんとか取り組まずに済ませられないか、という方向に発想が向きやすいです。ただし、学校で公然と逃げ出す子供はかなり限られます。むしろ多いのは、家庭で親から宿題をしろと指示されたのに後回しにして逃げようとするため、親子喧嘩になることです。話は逸れますが、宿題で親子関係を崩すような事態になると、結局その子供にとっての利得と損失のバランスはどうなるか、ということは担任の先生にはよく考えていただきたい点でもあります。注意欠如多動症の傾向が明確に見られる子供では、反復学習をひどく嫌がることが多いです。典型的な例は漢字の練習です。何故だかわかりませんが、小学校の先生は漢字を習得させる際に、同じ字を何度も繰り返し書かせることが好きなように見えます。このような反復学習をひどく嫌う子どもには他の学習方法を工夫した方が良いと思います。


『(g) 課題や活動に必要なもの (例:学校教材,鉛筆,本,道具,財布,鍵,書類,眼鏡,携帯電話) をしばしばなくしてしまう.』


 (g)は、始終「あれがない」「これがない」と探し回っているような状況を示しています。中には本人は気にしていないのだけれどその子が触ったものはすぐになくなるので周りの人が困っているという場合もあります。小学生では、紛失した小物やプリントが机の中やランドセルの底からごっそり見つかるということも多いです。この失くしやすいという特徴は、物を使い終わったら片付けるよりも先に次の活動に注意が集中してしまうので、どこに置いたかわからなくなることで生じています。つまり、片付けられないことにも通じる特徴です。


『(h) しばしば外的な刺激 (青年期後期および成人では無関係な考えも含まれる) によってすぐ気が散ってしまう.』


 読んで字の如く、気が散りやすいことを意味します。取り組んでいる課題や作業に関係ない音や視覚的な刺激に注意を取られるため、しばしば作業が中断します。場合によっては、自分が今何をしているのかがわからなくなり、作業が後退したりもします。人が何かを説明しているときにも気が散るので(c)の状態につながります。何をしている時でもキョロキョロと視線が移ろっている子もいます。このような場合、自閉スペクトラム症の特徴である「視線があいにくい」ということと区別しにくくなります。DSM-5-TRの原文には「青年期後期及び成人では」と表現されていますが、自分の頭に浮かんだ考えに気が散ることは子供でも多いように思います。


『(i) しばしば日々の活動 (例:用事を足すこと,お使いをすること,青年期後期および成人では,電話を折り返しかけること,お金の支払い,会合の約束を守ること) で忘れっぽい.』


 様々な忘れ物をします。授業や活動に必要なものを忘れます。親に伝えるようにと念を押したことを忘れます。朝、せっかく準備をした物をカバンやランドセルに入れて玄関まで持ってきているのに、靴を履いたら手ぶらでドアを開けて出て行く子もいます。多くの場合、自分が楽しみなことは覚えていることが多いのですが、それでさえ忘れてしまうこともあります。今まさに実行しようとしていたことや話そうとしていたことでさえ、何かのきっかけで忘れてしまいきょとんとしていることもあります。


 (a)から(i)の9つの項目はすべて、大なり小なりお互いに無関係ではありません。子供の具体的な行動をどの項目に当てはめれば良いのかを考えているうちにわからなくなってしまうこともあるかもしれません。しっかりと責任を取らねばならない正式な診断を下すわけではないのですから、あまり真剣に悩まず勢いで決めてしまえば良いと思います。次節では多動-衝動性の症状項目について説明します。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

「学校園でできるアセスメント」:目次




2026年3月31日火曜日

注意欠如多動症の傾向 1

  注意欠如多動症の基本的特徴は不注意、多動そして衝動性です。落ち着きのなさを主訴に外来を受診した子供の親が「この子が多動かどうかを知りたくて」とおっしゃることがよくあります。そういう時、この子を見ていてよく動くなあ、じっとできないなあと思ったことがありますか?と質問すると、「そうです、よく動くんです」といった返事が返ってきます。私は、そう感じるのなら多動と言えば良いですよ、と返事をします。一般の方は「多動」は専門家が何かの方法で判定するものだと考えておられることが多いようです。しかし、そのような特殊なものではありません。日常的な言葉の意味通りに、多動かどうか、衝動的かどうか、不注意かどうかを判断すれば良いだけなのです。当然、教師や保育者にとっては簡単な話です。子供の普段の振る舞いを、何かの課題に取り組む状況も含めて直接観察している立場ですし、同じ年齢の子供の標準的な状況を踏まえた上で判断できるのですから。

 そうは言っても、不注意、多動、衝動性のアセスメントをしっかりと行うのなら、何らかの物差しが欲しくなります。そういうとき、前節で紹介したDSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準が参考になります。実際に医師が注意欠如多動症を診断するときに用いるものです。DSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準では具体的な症状項目が2項に分けられています。(1)不注意と(2)多動-衝動性です。(1)不注意には(a)から(i)までの9つの症状項目が、(2)多動-衝動性には(a)から(i)までの9つの症状項目が記載されています。多動と衝動性は関連が強いので一つにまとめられています。次節以降にそれぞれの症状項目を具体的に説明しましょう。次節以降の文中、『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。注意欠如多動症診断基準に記載された症状項目は結構わかりやすいのではないかと思います。恐る恐る最初に注意しておきますが、「しばしば」は頻度が高いという意味です。英語なら、"often/frequently"です。「そんなこと、知っとるわい!」と思った方、我慢してください。私は10年くらい前まで12年間ほど、保育士・教師の養成課程がある大学で講義をしていたのですが、「しばしば」は「ときに」「たまに」と同義だと思っていた学生がすごく多かったのです。

 対象となる子供のアセスメントにおいては、日常生活全般を思い浮かべながら個々の項目に該当するかどうかを考えていきます。ある特定の時、例えば昨日の図工の時間には妙にはしゃいでよく喋っていたなあなどというごく限定された状況のみに基づいて判断してはいけません。過去半年間くらい全体を思い浮かべながら判断します。

 該当するかどうかは直感的に当てはまると感じるかどうかなのです。もう少し具体的にいうなら、同学年の子供集団の中で明らかに目立つかどうか、多いかどうか、日々の問題になっているかどうかに基づいて考えてください。「明らかに」ということが重要です。その際、それぞれの症状項目は大なり小なりすべての人に見られるものであることを意識しておく必要があります。子供集団の中で明らかに目立つ程度に逸脱しているときに当てはまると考えるようにすると安全です。また、平均的な子供と比べて異常か正常かを客観的に判定しようと考えないでください。真面目に考えれば考えるほど泥沼にはまります。あくまで自分の主観の中で目立つかどうか、気になるかどうかということで判断してください。もともとこのような症状を客観的に判定する方法はありません。とどのつまりは主観で決まりますので、気楽に考えれば良いと思います。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院



「学校園でできるアセスメント」:目次



2026年3月27日金曜日

注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

  まず、発達障害(最近では医学的概念である神経発達症という名称を使う人も増えています)の代表的で頻度の高い診断概念である、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するかから解説します。この2つの診断概念には大きな共通点があります。それは、日常生活の中で見られる行動によって定義されているということです。具体的に言いますと、注意欠如多動症は不注意と多動-衝動性に該当する行動が多いときに診断します。自閉スペクトラム症は社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における欠陥と、限定的で反復的な行動・興味・活動に相当する行動が多いときに診断します。こう説明すると単純に見えますが、これらの行動特徴があるかどうかを判断することは結構悩ましいです。それは、いずれの特徴もどうなれば条件を満たせるかが曖昧だからです。教師や保育者にはWISCなどの知能検査推しの方が多くいらっしゃり、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を思わせる子供がいると、とにかく検査をしてもらえと保護者に勧めます。しかし、知能検査は診断には全く影響しません。その子供の日常の様子をよく知る人の観察が最も重要な情報源になります。それぞれの具体的な症状は次節以降で説明しますが、ここではわかりやすい不注意を例に説明をします。

 不注意とは、必要な対象に注意を向けられない、必要な対象に注意を持続できない、ということです。そのため、具体的には気が散ったり、忘れ物が多かったり、不注意な失敗をしたりします。さて、気が散ることや忘れ物をすることは正常とは異なる全く異常な特徴でしょうか。そんなことはありません。だれだって気が散りますし、忘れ物をします。誰にでもあることではありますが、様々な程度があります。非常に集中力が高くこまめな確認を怠らないので気が散ることも忘れ物をすることも滅多にない人がいます。逆に、常に気が散るし日々忘れ物のオンパレードと言える人もいます。そして、滅多に気が散らない人と常に気が散る人の間には様々な程度に気が散る人がいるのですから、気の散りやすさというものは連続的なものとして評価することができます。では、気が散りやすさが「ある」と見做すことと「ない」と判断することの境界はどのように決めれば良いのでしょう。

 実は客観的な基準なんてありません。頻度の観点でとても多いときや、程度の観点でとても激しいときにその特徴があると判断します。などと説明してもやはりスッキリしませんよね。結局のところ、本人や見ている人の主観によって決まります。対象となる子どもが属する社会の平均的感覚に基づいて、「多い」「目立つ」「困りそう」と感じられるレベルかどうかによって判断します。つまり、注意欠如多動症の症状としての不注意があるかどうかの境目は極めて曖昧なのです。さらに、本来は「あるかどうか」で表現できるものではなく、強いか弱いかという程度問題で考えるのが妥当です。不注意という一つの要素だけではなく、注意欠如多動症という診断概念についても本当は診断される人と診断されない人という異質な集団があるわけではありません。「注意欠如多動症的な傾向」が弱いあるいはほとんど見られない人から非常に強い人まで連続的に捉えることができるわけです。

 実際に医師が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を診断する際には公的な診断基準に依って診断します。現在よく使われている診断基準はアメリカ精神医学会が出版している「DSM-5-TR精神疾患の診断・統計マニュアル」[1]か、世界保健機構WHOが作成した「ICD-10疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10版:精神および行動の障害」[2]という診断基準集です。いずれも、できるだけ診断する人によって結論がぶれないように、一つの行動特徴、例えば不注意を評価するにあたって複数の観点から判断するようにしてあります。それでも、最終的には主観に左右されるということには変わりはありませんし、連続的に評価できる性質の特徴であることも同じです。なお、現実の臨床場面ではDSM-5-TRが用いられることが多いようです。また、ICDがすでに第11版(ICD-11)が公開されていて、日本でも間も無く新しい版が用いられ出す予定ですので、現行のICD-10は早晩使われなくなります。そのため、この文章で診断基準に触れるときにはDSMー5ーTRを用いることにします。

 教師や保育者が、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症という概念の定義と曖昧さ知り、健康とされる人と診断される人との間の連続性や境界の不鮮明さを理解することには大きな意義があると私は考えています。先生方の目の前には何も問題がない「健常児」と、明らかに異常な「発達障害児(注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を含む)」がいるのではありません。単なる子供集団がいるだけなのです。そして、個々の子供がそれぞれの行動パターンや認知パターンの個性を持っています。例えば、非常に細かい対象に注意を集中し過ぎてしまう子供もいればもっと広い範囲に注意を間配れる子供もいますし、あまりにも広範囲の対象に注意が拡散する子供さえいます。注意機能の配分の、様々の程度の個人差が見られます。注意が拡散すればするほど周囲からは「気が散りやすい」「集中できない」子供として目立つようになりますし、様々な活動での失敗に繋がり暮らしづらくなります。そうなると、支援が必要になるということになります。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に見られる特徴は特殊な病的サインではなく人としての行動や認知のバリエーションにしか過ぎず、平均からのずれが大きくなり過ぎたために暮らしにくさにつながった状態と考えれば良いのです。

 次節以降は、注意欠如多動症的傾向や自閉スペクトラム症的傾向をどのように評価するか、具体的に説明します。実際のDSM-5-TR診断基準を読んだことのある方もいらっしゃるかもしれません。そこには注意欠如多動症と診断するための該当症状項目数やその他の条件などが書かれています。しかし、教師や保育者の皆さんは、診断することを目的にしないでください。第一に、迂闊に診断名を口にすると子供自身や保護者との関係を大きく損なうことがあります。あくまで自分が指導する子供に対する理解を深める糸口として利用することを考えてください。第二に、診断できるかどうかで配慮するかどうかが決まるわけではありません。言い換えれば、どの程度以上これらの特徴が強ければ配慮が必要になるという境界線はないのです。程度の強い子供ほどしっかりと配慮しなければ子供が本来持っている能力を発揮できなくなる可能性が高くなるということであって、これらの特性が弱い子供であっても不注意や多動-衝動性を念頭に置いた配慮が助けになることはあります。どの子に対しても、その時々の必要性に応じて配慮し支援するという意識は大切です。

 この文章は支援の具体を説明することが目的ではありませんが、支援に関連して意識していただきたい注意点を書いておきます。注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向が見られるとき、そのような特徴はその子が本来持っている人としての振る舞い方や物事の認識の仕方の特徴です。暮らしにくさにつながらなければ性格とか個性と称しても良いものです。さてみなさん、冷静に自分を振り返ってみましょう。あなたは自分の性格を根本的に変えることはできますか?おそらく、自分の意思で性格を大きく変えることのできる人はいないと思います。せいぜい、違う性格を演じることが少しできる程度ではないでしょうか。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向は子供自身の意思で変えることはできません。したがって、こういう傾向を変えさせようと指導することは違う人間になれと強要することに他ならないのです。こういう行動特徴を変えるのではなく、これらの特性があってもうまく生活できるように必要なサポートを提供し、ゆくゆくは自らそういう工夫ができるようになることを目指すということをしっかりと意識していただきたいと思います。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

これはとても高価な本です。なんと23,100円もします!精神疾患の診療をする医師なら1冊買っておけと強く言えるのですが、教師や保育者が買うべき図書とは言いにくいです。ただ、一度目を通しておくと診断基準に書かれていることの理解が深まります。興味を抱かれた先生は、まずは図書館で目を通すことをお勧めします。詳しい解説を省いて診断基準だけ掲載したものとして「DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引」という書籍もあるのですが、これでも5,500円します。


[2] WHO、融 道男、他「ICD-10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)」医学書院

これは5,280円で、DSM-5-TRよりも随分安いです。しかし、お勧めしません。WHOはすでに新しいICD-11を発表しており、間もなく日本でも取り入れられる予定です。ICD-11での神経発達症の診断基準はDSM-5-TRに非常に近いものになっています。

学校園でできるアセスメント

 最近、ある小学校の先生と雑談する機会がありました。短い時間でしたが、熱心に教育に取り組んでいらっしゃるのだろうなと思わせる、素敵な人でした。発達性読字障害(ディスレクシア)に関する話題だったのですが、印象に残った言葉がありました。その先生は「私たちはアセスメントができないので」と嘆いておられたのです。アセスメントができないので発達性読字障害の子供達に適切な援助を考えることが難しい、というような訴えだったと思います。よく考える前に喋り出す傾向のある私は、即座に「え?そんなん、ややこしい検査をせんでも教科書を音読してもらうだけでかなり当たりをつけれますよ」と返事をしていました。その先生は意外そうな顔をしているので、発達性読字障害がある子供の音読時の特徴や、多くの場合は平仮名を反射的に読めないことが基本的な特徴であることや、時間がなければ拗音促音などの特殊音節をいくつか読ませるだけでもかなりの情報が得られることや、小枝達也先生、関あゆみ先生の本を参考にすればもっとしっかりした評価を学校でもできることなどを伝えたところ、自分たちで評価できるなんて考えもしなかったというような感想を漏らされました。

 このエピソードでなるほどと思いついたことがあります。実は、学校園で子供に何らかの問題がある時、例えば集中できない、かんしゃくを起こす、喧嘩が多い、勉強についていけないなどの問題を心配した時に、保護者に医療機関で検査をしてもらってくれと強く勧める保育者や教師が実に多いのです。このことを不思議に思っていたのですが、その理由の少なくとも一部がわかったように思えました。おそらく、全てではないにしても多くの先生方はアセスメントで何をするのかを具体的に考えるのではなく、子供に発達障害に関連する問題が見られる時には専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をしないといけないと思い込んでいるのではないでしょうか。そして、専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をすると何かご利益があると。

 受け持ちの子供に発達障害が疑われる問題が見られる時、専門施設の専門家のみにできる特殊な検査をしないと問題の本質を把握することや、その対策を講じることができないということは滅多にありません。学校園での子供の様子を注意深く観察すればかなりの情報を集めることができますし、対策に結びつけることが可能です。ここでは発達障害に関連する、特別な検査器具がなくても学校園でできるアセスメントについていろいろ考えていきたいと思います。念のために申し上げますが、専門家が行う高レベルで複雑なアセスメントに意味がないというつもりはありません。専門家が精密にアセスメントすることによって初めてわかる子供の特徴というものもあります。ただ、発達障害を伴う子供達への支援を行う時、そこまで頑張らなくても日常生活の中で簡単にアセスメントすることで適切な支援を開始できることが多いのです。それに、専門家による精密なアセスメントは限られた施設でしかできませんので、予約しても実現するのは数ヶ月から半年以上先になることが多いです。その間、困っている子供を放置するわけにはいきません。ぜひ、教師や保育者の皆さんは勤務されている現場で、積極的にご自分でアセスメントを試みていただきたいと思います。


目次

・注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

・注意欠如多動症の傾向 1

・注意欠如多動症の傾向 2

(続く)


2026年3月12日木曜日

指導する

  学校園の先生方は、本来仕事の要素として子供を指導することが大きな割合を占めていますので、「指導する」とおっしゃってもさして違和感はありません。何気なく当然のことという印象しか持たない人が多いでしょう。しかし、私はいつの頃からか先生方がおっしゃる「指導」とはいったい何を意味しているのだろうかと考えることが多くなりました。典型的には次の例のような状況で疑問が湧きます。

 私の外来を受診したある小学生は、学校で叫んだり他児に手を出したりするなど、問題となる行動を繰り返していました。そのことに悩んだ保護者が受診を希望されました。家では特に問題はなく、学校で問題が生じていますので学校での様子を担任の先生に手紙に書いてもらってほしいと伝えたところ、程なく担任の先生からの手紙が届きました。最近数週間に先生が観察した問題行動を非常に細かく書いてあります。暴言を吐いた、物を投げた、他児に手が出た、教室から脱走した、などなど。そして、それぞれのエピソードの後に「指導した」との簡潔な記載があります。問題が生じたのが何の時間だったかは一応記載されていますが、具体的な活動内容、場所、周囲にいる人々についての記載はありません。何が直接的なきっかけになったのかの記載もありません。そして、その問題行動が生じた後に本人や周囲の人がどのような状態になったのかの記載もありません。ただただ、問題行動の具体と「指導した」という文言が羅列されています。このような事例での「指導」はいったいどのようなものでしょうか。

 先生からの手紙を読むかぎり、問題行動そのものにしか注目していないように見えます。その行動はなぜ生じているのかを探るという発想がうかがえません。してみると、ここで指導と記載されている具体は何だろうかと考えるに、その行動はしてはいけないことだと「注意」あるいは「叱る」ことを意味しているのではないだろうかと思えてきます。さらに、なぜそのように振る舞ったのか理由を「問いただす」のではないかと想像します。冷静に考えれば、注意し、叱り、問いただすことにそれほど意味があるとは思えません。何度も「指導」されているのですから、本人だってその行動が世間では、少なくとも教室ではよくないとされているくらいのことはわかっているはずです。中等度から重度の知的発達症を有する子供のような特殊な事例では「よくない」ということが理解できない可能性はあります。それならそうで、単に注意することや叱ることを繰り返しても成果は期待できないでしょう。

 問いただすという対応もあまり成果を期待できません。まず、興奮して問題行動を起こした子供は自分でも説明できないことがよくあります。仮に説明できたとしても、先生が納得できるような説明にはならないことが多いでしょう。たとえば、友達を叩いた子供がその理由として相手が自分の悪口を言った、と説明した時、先生は「なるほど、それなら叩いても仕方ないね」で終わらせることはできるのでしょうか。注意し、叱り、問いただすという接し方は、本人が悪いと自覚していることをただひたすら責め続けていることであり、100%自分が悪かったと認め、謝罪し、許しを乞うことを求めているようにしか見えません。

 注意するな、叱るなと言う気はありませんが、何度も繰り返しているのなら立ち止まって考えてみた方が良いでしょう。子供が不適切な行動をやめ、建設的に暮らせるように促していくことこそが指導です。繰り返し注意したり叱ったりする必要があるということは、成果を挙げていないということです。同じ対応を繰り返していれば、成果を上げないだけではなく、先生と子供の関係が悪化するでしょうし、子供は自信を失っていさらに状況が悪くなる可能性が高いのです。

 問題行動は、一般的に適応的行動と考えられています。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出すことを目指す、止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。問題行動への具体的な対応を説明することは本稿の目的ではありませんので、ここでは応用行動分析が助けになることを指摘するのみとしておきます。

 この例でも当てはまりますが、多くの学校の先生は「指導する」という言葉をあまりにもあっさりと口にされるのです。まるで、「指導する」の一言で詳細は言わなくても伝わるでしょ、とでも考えておられるように見えます。しかし、何について指導するにしても、具体的なアプローチは一つに定まることは少ないと思います。繰り返し暴言を吐く、という単純な事象に対する指導を考えても、その行動を維持する要因は複数考えられるでしょうし、その要因への手の入れ方も色々なやり方が考えられそうです。もしも、指導することに何らかの成果を期待しようというのであれば、「指導する」の一言で表現できるようなものにはならないと思うのです。

 問題行動に限らず通常の教科教育についても「指導」や「教育」という言葉の意味を考える時に「成果をあげる」ということを強く意識してほしいなあと思います。私なんぞに言われるまでもなく、成果を目指して奮闘されている先生が大多数だとは思います。ただ、発達障害を主な対象とする診療をしている身としては、日常生活の中で困っていることがあって受診する子供達やその親から話を聞くことが多いのです。そのためか、学業についてもごくごく基礎的なことが理解できていないままに取り残されている子供たちにしばしば出会います。ひらがなをスムーズに読むことさえできていないまま繰り返し長文読解に取り組まされ、読解力がないと指摘され続ける子がいます。序数や基数など基本的な数量概念理解ができていない状態の子が、繰り上がり繰り下がりの計算が弱いという理由で大量の計算問題に取り組ませられ続けることもあります。このような子供達を見る時、「なぜなかなか成果が上がらないのだろうか」と一度立ち止まって考え、本人が躓いている原因は何かを分析してみたり、その子供には異なった教授法が向いているのではないかと思案してみたりしていただけないものかなあとよく思います。「指導する」ことが単に決められた学習内容を伝達することや、定まった手順での指導を機械的に繰り返すことにならないでほしいと切に願っています。

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 さて、だらだらと書いてきましたが、この「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズは今回で終わりです。一部でも読んでいただいた方には感謝いたします。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次


2026年3月7日土曜日

このままでは将来困るから

  片付けがとても苦手で、忘れ物も多いし、面倒臭くてメモも取れない子供がよくいます(大人も多いですが)。何度もなんども先生が注意したり叱ったりするのですが、一向に改善の兆しがありません。僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診します。何度も叱られたり注意されたりしても失敗を繰り返すのですから、叱ることの成果はありません。授業に必要なものを無くしたり忘れたりしますから、様々な学習で不利になります。対策を立てずに放置すれば、学校生活に大きく躓いていくのが目に見えています。それを防ぐためにはこまめに指示を出してあげたり、必要な手順を表にして机に置いてあげたり、あるいは忘れたものは学校の備品を貸してあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる方が良いのではないかと思います。僕は、必要な援助をしてもらえるように学校の先生にお願いすることを保護者にお勧めしています。しかし、実際に保護者が先生に相談するとしばしば返ってくる返事が「このままでは将来困るから、手助けをしない方が良いです」というものです。

 「このままでは将来困るから」という台詞はとてもよく耳にする言葉です。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなくお説教をして改善させようとします。何かといえば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとします。この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題があります。「このままでは将来困るから」という意見に問題はありません。確かに困る可能性が高いです。それならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探る必要があります。ところが、このような台詞を口にする先生方は得てして対応を変えようとしません。今まで散々注意したりお説教したりしてきたのに改善が見られないのです。このような対応では解決しないということを自ら実証しているわけです。成果のない方法を継続することは明らかに不適切です。成果がないばかりか、忘れ物のために学習効率が低下して勉強に遅れ出したり、繰り返しダメ出しを受けることから負の感情が高まりより一層暴言が増えたりすることがあります。

 忘れ物や無くし物が多い子供では、取り敢えず物を忘れたり無くしたりしても困らないように支援し、能力に見合った学習が進むように取り計らえば良いと思います。そのようにすることで何もかも自信をなくしていくことを防ぐことができます。そして、忘れ物や無くし物を減らすために、その子供にもできる具体的な方法を一緒に考えてあげれば良いのです。忘れ物をするたびにお説教し授業に参加できない状態を長期に続けるよりもよほど素晴らしい「将来」を保証することができると思います。何かといえば口を荒らす子であれば、少々失敬な物言いや無作法な台詞を口にしても耳に入っていないふりをしながら、そこそこ普通に話している時に言葉遣いがよくなっていることを繰り返し褒める方が、より効果が上がります。私は「このままでは将来困るから」という言葉自体を批判しているのではありません。この台詞を言い訳にして子供への一向に成果が上がらない接し方にこだわり、新しい指導の工夫をしないことに情けない思いを抱くのです。

 「このままでは将来困るから」、明るい将来を実現するための作戦を練ろうと考えることがごく自然で合理的な発想ではないかと思います。しかし、現実には「このままでは将来困るから」、このままの状態を維持し続けようとされる先生の話を耳にすることが結構多いのです。世の中には、論理的に考えれば無益な方向に進んでいても、今までの自分のやり方を変えることにひどく抵抗を感じる方が多いのでしょうか。どうも不思議です。しかも、自分のやり方を変えられない先生が目指していることが子供の振る舞い方を変えることなのですから、なんだか悪い冗談を聞かされているような気がしてきます。

 ひょっとしたら、このタイプの先生方は行動や認知の特性が日常生活の困難に繋がっている発達障害というものを理解することがどうしてもできないのかもしれません。目の悪い子供に自分の力で遠くを見なさいと説教しても無駄であり、眼鏡をかけさせる必要があります。これと全く同じで、不注意の強い子供に自分の意思で忘れ物をしないことを求めたり、衝動性の強い子供に自らの努力のみで口を荒らさないことを求めたりすることはナンセンスです。自分の意思や努力ではどうにもならない困難さで生活に支障をきたしているのだから「障害」なのです。しかし、「このままでは将来困るから」手伝わないと主張する先生方にはこのような子供たちの苦しみが見えず、単なる心がけの問題としか思えないのかもしれません。そうだとすれば、悲しいことです。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年2月28日土曜日

おたくのお子さん1人だけに違うことはできません

  発達障害を有する子供の保護者が担任の先生に何らかの支援を求めたときに、先生から「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と伝えられることが時にあります。この、「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズでは、教師や保育者が悪意なく発する、いや、むしろ善意や職務への熱意から口にしそうな言葉を主に取り上げてきたつもりです。しかし、「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」は完全にアウトです。私自身の経験からはこのようなことをおっしゃる先生はあまりいないと思いますし、少ないと信じたいです。なぜならば、もしこういうセリフを口にし、かつ言葉通りに振る舞っておられるなら、それは明らかに日本では認められないからです。

 2006年12月に改正された教育基本法には「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。(第4条第2項)」という条項が加えられました。そして、この規定の元となった2005年の中央教育審議会答申では特別支援教育について、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うものであると説明しています。同時に、この答申では通常学級に在籍する子供に対しても個々の教育的ニーズに沿った支援をすることを求めています。つまり、障害を持つ特定の子供に何らかの教育的ニーズがあれば、それに応じて「1人だけに違うこと」をせねばならないのです。
 さて、一人一人の子供に必要な支援や適切な指導をせねばならないとすれば、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのでしょうか。それを考える上でのキーワードが「合理的配慮」です。合理的配慮は2006年に国連で採択され、日本でも2014年に効力を発生した障害者の権利に関する条約では、合理的配慮は次のように説明されています。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
 障害者の権利に関する条約では合理的配慮の否定は差別とみなされます。また、国内法でも2016年に施行された障害者差別解消法で全ての事業所において(2024年4月から)合理的配慮が義務化されています。合理的配慮は"reasonable accommodation"の訳です。「配慮」と訳されたので全ての人に「善意からの心配り」が求められていると誤解されやすいのですが、実際の意味合いはかなり異なります。障害児本人が学校園で他の子供と同等の機会を提供されるために必要な「調整」と考えた方が本来の意味を反映しています。しかも、上記の説明の通り、均衡を失した又は過度の負担を課さないものという条件がつけられており、際限なく濃厚な援助をする義務が学校園側にあるわけではありません。とはいえ、発達障害を伴う子供がその障害のために学校園で建設的に暮らせていない時には、特別な支援をしなければいけません。「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言って何の配慮もなく放置することは差別とみなされ許されるものではありません。
 さて、基本的なことは押さえた上で話の流れを変えようと思います。昨今の教師や保育者の忙しさは多くの人に認識されるようになっているのではないでしょうか。決して少なくはない受け持ちの子供たちを直接指導するという本来業務だけでも大変だと思うのですが、保護者からの相談に乗ったり、時には苦情処理をしたりせねばなりません。その上、監督官庁からの通達や地域住民からの無責任な要望などにより業務が増す一方ですし、責任を負わされる範囲も増える一方だと聞いています。そのような状況だと「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言いたくなっても不思議ではありません。しかし、先述の通り、これは言ってはいけない台詞です。ではどうすれば良いのでしょうか。
 個別の配慮について考える前に、ユニバーサルデザインを意識した環境作りに触れておきます。どの子供にとっても暮らしやすい環境です。発達障害の代表として取り上げられやすい注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の子供に対する基本的配慮事項は、実は多くの子供達にとっても暮らしやすくなることにつながりやすいです。例えば、注意欠如多動症のある子供の指導でよく取り上げられる、できていることに注目し不適切な行動は無視をするという技法は全ての子どもにとって有意義です。自閉スペクトラム症への配慮としてよく言及される視覚的支援やわかりやすい形のスケジュール表をこまめに提示することなどは、自閉スペクトラム症以外の多くの子供達にとっても安心して暮らせる環境を作ることにつながります。これらの広く知られたごく一般的な配慮事項を日頃から徹底するということは、個別の配慮の必要性を減らし、先生方の負担を減らすと思います。
 個別の配慮を考える前提として、完璧を目指す必要はないことをよく意識しましょう。特に、個人の特殊な事情に合わせた支援や工夫は理想を追い求めてできるものではありません。先に説明しました合理的配慮の説明で「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と書いてありましたが、これは重要なポイントです。あくまでできることを着実に実行していくことが大切です。個別の配慮の具体は、子供のニーズによってそれぞれですから、ここで総論的に説明することはできません。ただ、ぜひ考慮していただきたいことを一つ二つ書いておきます。
 多くの先生方はなんとか子供のためになるように精一杯頑張っておられます。すでに一杯一杯になっている方も多いのではないでしょうか。その状況でまず考えるべきことは、無駄を減らすことです。私の偏見かもしれませんが、教師や保育者は一度始めたことから撤退することが苦手な人が多いように見えます。様々な工夫や努力をしていらっしゃるのですが、一定期間が経てばその成果を見直すことが必要です。計画段階から、どのくらいの期間実行すれば成果の有無を検証するということも考えておくことが理想です。少なくとも、長年続けてきたけれども成果が上がらないことは一旦中止した方が良いでしょう。私の外来を受診する子供達に関して真っ先に浮かぶのは、宿題です。宿題をすることが辛くて辛くて、毎日家で大暴れしているケースでは、宿題から得られるものなんてほとんどありません。直ちにやめればその子の宿題を確認する手間が減ります。逆に、余裕しゃくしゃくで授業を理解し課題を解いている子供も、宿題をするメリットはほとんどないでしょう。「決まっているから」とか「すべきことだから」という考え方を捨てて、これをすることが子供にとってどのような利益になるのだろうかという損得勘定の観点で考えれば、当たり前のように実行していることでも無駄なことは多いと思います。
 成果が上がらない手立ては上記のように無駄ではないかと考えることが大事ですが、その前にやり方に修正すべき点がないかを検討することも必要です。特に、専門家達が長年その成果を確認してきたような手法では、根本的に無意味というよりも実行方法に問題がある可能性を検討するべきです。例えば、これは私自身の経験ですが、視覚的支援が重要だからと子供の机に注意事項や守るべきルールを書いた紙を大量に貼り付けた先生がいました。このようなやり方だと情報量が多くて把握しきれないことに加えて、本人にとって面白くないことばかりを書いているので、貼り紙が嫌悪刺激になります。このような場合に成果が見られなくても、視覚的支援が無意味なのではなく、用い方に問題があります。すでに実行している方法を少しずつ修正することはそれほど手間を増やすわけではなく、実行しやすいのではないでしょうか。なお、このことに関連して追加しておきますと、一見手間が増えるように感じても、繰り返し実効性が証明されているスキルを取り入れることが結局は楽になる方法と言えます。最近は、少し大きな書店に行けば様々な配慮が必要な子供を念頭に置いた支援方法を記載した書籍がいろいろ出ています。また、近くに教員養成課程や保育士養成課程、あるいは心理学部のある大学があれば、いろいろ助言をしてくれる専門家がいることがあります。連絡を取り協力してもらえないかお尋ねになるのも良いのではないでしょうか。
 少し話がそれますが、ケース会などに参加している時に「やれることは全部やりました!」と担任の先生がおっしゃる場面を目撃することが何度かありました。努力が成果につながらず、疲労困憊されているのだろうということが伝わってきます。このような発言を口にされる、特に公的な場でおっしゃる先生に必要なことは休息です。ここまでに書いてきたように問題への対処は色々な選択肢があります。ユニバーサルデザインを意識して生徒全員への働きかけ、成果があまり上がらなかった工夫の細かい改良、成果の見られない手立てを止めること、問題が生じる状況を改めて観察し分析すること、これらの組み合わせ、などを考えていけばどのような状況にあっても何かしら新しい試みは可能です。やれることを全部やり尽くすなど現実にはあり得ません。しかし、この矛盾に気付けず「やれることは全部やりました!」と口にしてしまう先生は精神的に参っている状態だと言えます。休息が必要だと思います。


2026年2月21日土曜日

頑張れ!

  「頑張れ!」、「もう少し頑張ろう」、「皆んなやってるんだから頑張って」。別に教師や保育者でなくてもよく口にする台詞です。かくいう私もつい言ってしまうことがよくあります。しかし、「頑張れ!」という言葉を子供に向かって使う時は慎重に考える必要があります。子供本人が自ら進んで何かに取り組んでいる時、とりわけ楽しそうにあるいは面白そうに取り組んでいるときには問題ないことが多そうです。しかし、慎重になるべきなのはあまり成果を出せていない子供の場合です。授業や課題に集中できていない時、逆上がりの練習に取り組みたがらない時、集団での話し合いに参加しようとしない時、登校を嫌がり出した時、あまり軽々しく「頑張れ!」と言わない方が良いです。なぜならば、うまくいっていない子供たちはすでに頑張ってきたからです。それぞれの子供なりに頑張ったものの上手くいかないからやる気がなかったりイライラしたり拒絶したりしているのです。すでに頑張っているのにさらに「頑張れ」と言われてもげんなりするだけです。皆さんも徹夜続きでなんとか仕事をこなした直後に、上司から「よーし、もっと頑張ってみよう!」なんてことを言われたら逃げたくなるでしょう?

 そうです。子供達はすごく頑張っているのです。学校や保育所ですべきことをきちんとしない、不適切な行動が多い、学習の成果が上がらない、などの問題が見られる子供に対処するとき、指導者はまず大前提として「この子はすごく頑張っているのだ」という意識を持っておく必要があります。すでに頑張っているのであれば、さらに頑張らせることで問題解決を図るということは実に馬鹿げたアプローチであるということになります。では、どうすれば良いのか。向かうべき方向性は明瞭です。子供が指導者から課された目標を達成できず頑張り続けて疲れて限界に来ているのですから、必要なことは「頑張れ」という励ましではありません。頑張った挙句に消耗しているのですから、その子供を楽にしてあげなければいけません。しかも、ただ単に休ませれば良いというものではありません。挫折感を抱かせないように、日々自分は何かをやり遂げているのだとか成長できているのだとか感じられる状態を作りつつ、楽に暮らせる工夫が必要です。

 まず考えると良いことは、難易度と量の両方の面から見てその子供に適切な課題を設定することではないかと思います。当然、指導者は子供の能力や認知・行動の特性を正確に把握することが前提になります。難しく考える必要はありません。日頃の言動から、大体こんなところかなと当たりをつけて課題を準備します。子供がその課題をあまりにもあっさりと片付けられるならもう少しレベルを上げれば良いですし、かなり頑張らないとこなせない時や子どもが嫌がるようならレベルが高すぎます。ここで十分に意識しておかねばいけないポイントは、少し頑張れば達成できる課題にするということです。たとえ達成できたとしても、本人がすごく頑張ってやっとこなせる課題レベルや量は長期間維持できません。課題レベルの設定で迷った時には迷うことなく簡単な課題をまず選びましょう。簡単すぎることが判明すれば、それからレベルを上げれば良いことです。あくまで「楽に暮らせるようにする」というミッションを守らねばなりません。ごくたまにはずいぶん手応えのある課題を用意しても良いのですが、できたからといって調子に乗り、そのレベルの課題を出し続けることのないように気をつける必要があります。

 その子供にとって課題や活動に魅力があるのかということも大事な観点です。課題を達成できただけでもそれなりに満足感があるものですが、さらにその活動や課題に面白さを感じたり興味を持てたりすると大変宜しい。皆さんが「頑張れ」なんて言わなくても、子供が勝手に張り切って取り組みます。どのような要素を付け加えれば面白くなるのかが最初からわかっていることはありません。結局色々な工夫をして反応を確認するしかありませんが、普段その子供が何に興味を持ち、何を喜んでいるのかを観察しておけば工夫のヒントが得られるかもしれません。例えば、長文を読解する課題に取り組ませるとき、虫が好きな子であれば虫をテーマにした文章を教材に選べば張り切るかもしれません。

 「頑張れ」というセリフは、現場での子供の能力や認知・行動特性を正確に把握し、過剰な負荷をかけない程度の適切な課題設定とそのほかの環境調節を行い、ある程度余裕を持ちながらも日々成功体験を積ませ続けさせることのできる先生のみが口にすることを許されていると考えれば良いのかもしれません。

 少し話がそれますが、発達障害のある子供の保護者に最近の学校での様子を尋ねた時、「担任の先生が『よく頑張っていますよ』と言ってくれます」という返事が返ってくることがしばしばあります。このような時、私の頭の中には警報が鳴り始めます。先生から見て「頑張っている」状態では、子供本人は頑張りすぎている可能性が高いです。それまで学校生活の中で何も問題を指摘されていなかったのに、ある日突然登校できなくなる子供では、先生が「よく頑張っていますよ」と言いたくなりそうな状態が事前に続いていることが稀ではありません。どの子供であっても本人の主観の中では頑張って暮らしていると考えておいた方が良さそうなのですが、とりわけなんらかの発達障害の診断を受けたことがある子が学校で何も問題なく暮らしているように見えるときには、その子は無理な背伸びをして過剰に頑張り続けている可能性があると意識してみる必要があります。



2026年2月15日日曜日

愛情が不足している/しっかり愛情をかけてあげて

  暦の上ではすでに秋真っ只中のはずなのにうんざりするような暑さが続いていたと思ったら突然薄ら寒くなり出した10月末、本田英美は市内にある大きな保育所の職員室に座っていた。この保育園に通う5歳児の岡田将太は集団活動に参加したがらないし、しばしば激しいかんしゃくや他の子供への暴力が見られる。対応に困った先生達がケース会議を開いたのだが、将太の主治医である小児神経科医の英美も招かれて参加することになったのである。会議は実り多いものだった。何よりも担任の先生が真面目で誠実なだけではなく、子供の行動特徴を細かく客観的に把握しているし、見聞きした事実と自分が考えた推測とをきちんと分けて説明できる人であった。おかげで、英美は問題となっている将太の行動それぞれの生じやすい条件や生じた後の場の展開などを具体的に把握できた。このような情報から、英美は問題の頻度を増やしやすい環境やそのような行動が生じる直接のきっかけを指摘するとともに、なぜ翔太がそのように振る舞わざるをえないかという行動の持つ意味についての仮説を説明することもできた。担任と主任の先生は飲み込みが早く、英美の説明からいくつかの対処方法を思いついたらしい。さっそく、まず取り掛かれることは何かなどの作戦を練り始めていた。会議の終了時に還暦前後くらいかなと思われる園長が締めの挨拶をしたのだが、その中で「私は問題行動を起こしやすい子供って、親の愛情が不足しているのではないかと思っています。もっとしっかり愛情をかけてあげてほしいなと常々感じてます」という一説があった。これを聞いた瞬間、英美はそれまで感じていた充実感が吹っ飛び気持ちが暗くなった。こんなに優秀な職員達を束ねている園長でもこういうことを口走るのかとひどく残念な気分であったが、時間も遅かったので何も言わずにその場を辞した。

 英美は最近Chat GPTで遊ぶことがよくある。この日も帰宅後、Chat GPTに「愛情をかける、という言葉に胡散臭さを感じるのですが、どう思いますか」と質問してみた。すると彼(彼女なのか?)の第一声は「その感覚、かなり自然だと思います。『愛情をかける』という言葉には、たしかに胡散臭く聞こえる要素が含まれやすいです」というものであった。お、なかなか好意的な返答ではないか、と思いながら英美は続きを読んだ。チャット君の言い分は要約すれば次のようなものである。

  • 具体性がなく、何をどうすれば良いのかが曖昧で聴く側に解釈を丸投げしているので責任の所在がぼやける。
  • 道徳的に「正しそう」な響きを持っているので反論しづらい。
  • 信頼関係がある場面や具体的な行動とセットであれば、完全にダメな言葉とも言えない。
  • つまり違和感の正体は、「中身が語られていないのに、良いことを言った気になれる言葉」になりやすいところではないか。

 チャット君、なかなか大したものではないか。これは議論の相手としては結構いけるぞと思い、さらに質問を重ねることにした。英美は「教師や保育者が学校園で問題を起こす子供の親について『親の愛情が足りない』とか『もっと愛情をかけてほしい』と口にすることがしばしばあります。この言葉自体には客観的で建設的な意義は乏しいと思います。ただ、教師や保育者がそう思っている背景を明らかにできれば子供を取り巻く問題の一端を明らかにする一助になるかもしれません。このような発言をする教師や保育者に、どのような質問をすれば状況をより良い方向へ動かす手掛かりになると思いますか」と入力した。すると、チャット君の第一声は「とても整理された問題提起だと思います」というものであった。英美は思わず「褒めていただいて恐縮です」と言いながら頭を下げる。チャット君の説明はざっと以下のようなものであった。

 チャット君はまず、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という曖昧で検証不能で行動につながりにくい表現の裏には、教師・保育者の言語化しきれていない観察や困難感があるとのべた。なんたる落ち着いた思考であろうかと英美は感心する。そしてチャット君は、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という表現を翻訳させる質問を教師や保育者に投げかけることが有効ではないかと提案してくれる。チャット君は質問の具体例を、5つの目的に分けて示してくれた。

1.抽象的評価を、観察可能な事実や具体的行動に変換するための質問

  • 「『愛情が足りない』と感じられたのは、どんな場面を見てそう思われたのですか?」
  • 「具体的に、どんな関わりが増えると変化がありそうだと考えていますか?」
  • 「逆に、十分に関わっているように見える場面はありましたか?」

 うむ、これは「愛情が足りない」と口にする教師・保育者を一方的に非難することを避け、さらにそう感じた根拠を少しでも汲み取ろうとする試みではないか。確かに無根拠に口にしているとばかりは言えない。先生の発言の背景を具体化すると、子どもや保護者への援助を考えるヒントになるかもしれない。それだけではなく、保護者への適切な関わりを考えるように水を向けたり、保護者の評価すべき点を意識するように促したりもしている。なかなか巧みな進め方ではないか。

2.親の問題として語られているものが、実は現場の支援困難や限界感の表現である可能性を探るための質問

  • 「そのことで、先生ご自身はどんな点が一番大変だと感じておられますか?」
  • 「園(学校)での対応として、難しいと感じている部分はどこでしょうか?」
  • 「もし今より支援が増えるとしたら、どんな点が助かりそうですか?」

 なるほどなあ、「愛情が足りない」などという碌に根拠のない発言が口をついて出てきているということは、保育士教師の置かれた辛い状況がもたらすものということは考えられるな。保育者や教師の味わっているかもしれない辛さに目を向けるなんて、さすが下手なカウンセラーよりも癒し上手のチャット君である。この手の保育者や教師に共感的な眼差しというものは英美の苦手とするところである。患者やその保護者には優しい気持ちを抱けるのだけどなあ。

3.親評価から離れ、子どものニーズや特性に話題を戻すための質問

  • 「その子は、どんな時に一番落ち着いていますか?」
  • 「安心しているように見える瞬間はありますか?」
  • 「逆に、特に不安定になりやすい状況はありますか?」

 ここは重要だな。結局は子供の様子に心配なところがあることから広がって出てきた発想なんだから、子供の状況を明確にしておくことはまず必要だと思う。でも、小児神経科医の英美の場合、子供の状況から話が始まることが多いので、改めてこのような質問に繋げる機会は少なそうだ。

4.無意識の規範(例:こうあるべき親像)が判断を歪めていないかを可視化するための質問

  • 「先生のご経験上、うまくいっていると感じるご家庭には、どんな共通点がありますか?」
  • 「それは、そのご家庭の事情が違っても実現可能なことだと思われますか?」
  • 「難しい事情がある場合、どこまでを期待できると考えていますか?」

 こ、これは、すごい!「愛情が足りない」という考えに至る自分の思考過程を内省させ、客観化するきっかけを作っているではないか。チャット君、出来る子。

5.評価で終わらせず、建設的な具体的支援や連携に話を進めるための質問

  • 「今の状況で、親・園(学校)・外部支援の中で、どこに働きかけるのが現実的だと思いますか?」
  • 「この子にとって、今一番小さくても効果がありそうな変化は何でしょう?」
  • 「もし親御さんに一つだけ伝えるとしたら、どんな形が一番伝わりやすいと思いますか?」

 英美は思わず「勉強になります」と頭を下げそうになった。実に説得力のある説明ではないか。一貫して、相手を責めることを避けながら現実的な思考をさせるように促しているように見える。大したものである。しかも、チャット君は最後に次のようなまとめを述べてくれた。

「愛情が足りない」という言葉は多くの場合、不安、無力感、説明困難な違和感、支援資源の不足が一語に圧縮されたラベルです。有効な質問とは、そのラベルを観察・困難・ニーズ・選択肢へと分解するものです。あなたの問題意識は、「親を責める言説」そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています。上記のような問いかけは、相手を追い詰めずに、その構造をほぐす助けになるはずです。

 なんと、英美の問題意識を反射的な反感ではなく建設的な疑問として捉えてくれている。「えへへ、そうなのか。自分でも知らんかった」と英美は独りごちた。年を経るにつれてそれなりに社会的な振る舞いを身につけてきたとは感じているが、本来英美は単細胞人間である。相手の発言に問題を感じると、ついその問題を指摘し反論しようとしてしまう。現実社会ではそのような対決姿勢で建設的な展開が見られることはほとんどない。チャット君の大人っぽく思慮深い見解を読み、英美は頬が赤らむような気持ちである。とはいえ、英美は面白くない気持ちを抱いていた。チャット君の述べたことは英美の考えとかなり一致しているし、それがもっとスマートに整理されている。秀美が何年間も行きつ戻りつしながらまとめてきた考えを、チャット君は一瞬にして要領よく説明して見せるのである。なんだか間も無く自分は不要な存在になるのかなあという気持ちが胸の内にモヤモヤと湧いてくるのであった。しかし、秀実は一つだけチャット君の意見に明確に反論できる点がある。チャット君は「あなたの問題意識は、『親を責める言説』そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています」と述べているが、英美は明確に「親を責める言説」が問題だと考えている。子供を成長させるための仲間として保護者を迎え入れるべき立場にある保育者や教師が、保護者を問題の根本原因のようにみなして得られるものなどなかろう。百歩譲って保護者が実際に相当不適切な子供への接し方をしていたとしても、保護者を非難することによって得られるものなんて無かろうと英美は腹が立つのである。ただ、この時点で保育者や教師についても同じことが言えるのではないかということに気がついていないところが、英美の間抜けさとも言える。



2026年2月11日水曜日

寄り添う

  ほとんどの保育者や教師と、支援が必要な子供について10分間くらい話していれば、何回か耳にしそうな言葉が「寄り添う」です。まあ、悪い言葉ではありません。「困っている子供にしっかりと寄り添いたいと思います」などと言われて、非難できる人がいるとは思えません。子供の幸せを願う善意に溢れた表現です。問題は、この言葉が何を意味しているのか不明確だということです。辞書的には、寄り添うは本来、体が触れそうになるほど近くに寄ることを意味しています。物理的に相手の体の近づくことを意味しています。3つ4つの辞書で確認しましたが、似たり寄ったりの語釈が書いてあります。

 まさか先生方は支援が必要な子供に常にピッタリと体を引っ付けようと考えているわけではないでしょう(特殊な場合はそれが必要なこともあるかもしれませんが)。してみると、「寄り添う」という言葉で具体的にはどういう行動を言い表そうとしているのでしょうか。「先生は『寄り添う』という言葉で具体的に何を言いたいのですか?」などという意地悪な質問をしたことはありません。注意深く見守りたいとか(そう言えば、「見守る」も曖昧な言葉ですが)、時々の子供の気持ちを汲み取り共感を示していきたいなどの意味で「寄り添う」と仰っているのかなと推測しています。いずれにしても、随分曖昧な表現です。率直に言えば、多くの場合は先生ご自身が「寄り添う」の具体的な意味をそれほど深く意識せずに口にされているのではないかという気がしています。

 一般的に、発達障害のある子供が生活の中で何かがうまくいかず困っている時、そこには理由があります。もともと本人が持っている特性と本人を取り巻く環境がうまく噛み合っていないことが日々の困難に結びついています。問題を解決し、物事がうまくいくように子供をサポートするためには、問題が生じる理由をできる限り推測し、具体的な対策を実行する必要があります。例えば、不注意さが強く文字の読みが苦手な子供が授業中に立ち歩いたりかんしゃくを起こしたりして困っているとします。当然、授業中は色々なことが上手くいかず不愉快な時間を強いられている可能性が考えられます。集中できないので先生が何を話しているのかわからない、課題の量がとんでもなく多く感じてしまう、文章を読むことに過剰な努力が必要で疲れ切ってしまう、といったことが起こっているのかもしれません。そうであれば、不注意さを補うような指導の工夫をする、流暢に文字が読めるような練習をする、疲れ果てながら教科書を読まなくても学習が進むように本や問題を読み上げることや音声教材を使うことを検討する、などの対応が必要になります。つまり、問題が生じる原因や仕組みを具体的に想定し、それに対する具体的な作戦を立て実行していく必要があるのです。

 何をするのか具体がわからないものの、悪意を含まず何かをしているように思わせる表現は確かに便利です。私達医師が使うその種の言葉に「様子を見ましょう」とか「経過を見ましょう」という言い回しがあります。一見意味ありげにも見えますが、この一言だけで済ますなら極めて無責任な発言だと思います。どのような可能性が考えられるのか、いつまで経過を見るのか、何に気をつけておく必要があるのか、次に受診するのはどういう時か、などのことを具体的に説明しておく必要があります。

 医師も教師や保育者も専門性を持った対人サービス職です。漫然と流すのではなく、技術的に何が必要で何が不要なのかを可能な限り具体的に考え、そして現時点でわかっていないことやできることの限界も具体的に言及する姿勢がいるのではないかと思います。「寄り添う」という言葉を使うこと自体が責められるわけではありません。しかし、「寄り添う」と口にするだけで何かを言った気になり、具体的な行動計画には全く触れない姿勢はできるだけ避けた方が良いのではないでしょうか。

2026年2月7日土曜日

親の理解が悪いから

  保育者や教師が、自分が受け持つ子供の行動に問題を感じているのにその心配を保護者に共有してもらえない時、「親の理解が悪いから」と口にされることがあります。さすがに、保護者に面と向かって「あなたの理解が悪い」などと口にする先生は見たことがありません。私自身の経験では、研修会などで医師と雑談している時などにこのような発言が出てきます。おそらく、同僚同士の雑談などでは頻繁に出てくる表現ではないかなと推測しています。私がこんなに心配しているのに保護者はどうして理解してくれないのだろうかと戸惑われた経験を持つ先生が多いのだろうと思います。しかし、ちょっと立ち止まって考えてください。本当に理解が悪いのでしょうか。私の経験からは、必ずしもそうではないような気がします。

 先生方から「理解が悪い保護者」と判断された親について考える時、私の頭にまず浮かんでくるのは非常に上手に子供に接している親です。意図しているのかセンスが良いからか分かりませんが、親が子供に非常に適切な接し方をするため家庭では大した問題が生じず、したがって親は何も困っていないという状況はよくあります。この様な場合、先生と親の話が噛み合わなくなってしまいます。そういう場合でも、親に順序立てて聞いていくと子供の行動特徴は結構しっかりと把握していることが多いです。じっとすることが苦手とか、集中が難しいとか、会話に噛み合いにくさがあるとか、冷静に把握していることが多いのです。つまり、親の理解が悪いのではなく困っていない状況なのです。この様な場合に、先生が「問題がある」とか「異常だ」というニュアンスを前面に出し、医療機関受診をせっついたりすると保護者もなかなか話に乗って来れないと思います。
 先生から「理解が悪い」とみなされそうな、別のタイプの保護者もいます。それは、自分の子供に問題があることを受け入れられない人達です。このような保護者でも、自分の子供の特徴に何も気づいていないということはそれほど多くないのではないかと私は感じています。なぜなら、子供に問題があるかどうかではなく、保護者自身が家庭で子供に接する時に苦しんだり辛く感じたりすることがないかに焦点を当てて話をすると色々語り出すことがよくあるからです。例えば、「つい感情的に強く叱ってしまうことはありませんか?」という質問をする様な時です。学校園での問題や先生が心配していることを伝えても乗ってこない保護者は、現実を理解していない人なのではなく、子供にまつわる心配な事実を色々感じながらも、自分を保つために何とか問題の存在を否定しようとしているのかもしれません。
 これらの場合には、どんな対応をすれば保護者との協力関係を築きやすいのでしょうか。簡単な解決策はありませんが、少なくともいくつか念頭に置いておくと良いかもしれないことがあります。第一に、日頃から先生が気になるエピソードをこまめに具体的に伝えておくと良いと思います。問題が非常に大きくなって先生が疲れ果ててから勢い込んで保護者に連絡することは避けた方が安全です。降って湧いたような学校園からの連絡を保護者が受け止めきれなくなるからです。日常的に小さなエピソードがこまめに伝えられている方が、保護者としても学校園での様子を想像しやすく、冷静に受け止めやすいと思います。
 第二に、先生が問題と感じるエピソードを伝えるときに、できる限り良い情報も合わせて伝えた方が良いです。本人ができる様になったこと、努力していること、楽しめたこと、ほっこりするエピソードなどを合わせて伝えるようにすると良いと思います。そうすることで子供の学校園での生活が悪いことだらけなのではなく、問題があったとしてもそれは生活の中の一部分だということが親に感じ取れます。問題だけを、それも繰り返し伝えてしまうとかなり気丈な親でも参ってしまいます。
 第三に、「問題」は誰にとっての問題か、ということを意識すると良いと思います。あくまで本人にとっての問題として伝えるのが原則です。先生や周りの子供達が困っていることもよくあるとは思いますが、まずは、本人を中心に据えた説明をすると良いと思います。楽しく有意義な集団生活を過ごしてもらいたいが、この様な状況が起こるため本人が十分に力を発揮できなかったり楽しい集団生活を送りにくくなったりしているので心配である、なんとかしたいと思っているという文脈で伝えるのです。併せて、先生なりに次にどの様な手立てを考えているかも伝えると良いと思います。打つ手がなくて困り果てているような伝え方よりも、たとえ確実ではなくても解決策のプランがあるように伝える方が、保護者は冷静に受け止められます。その際に、考えつく助言やアイデアが何かあれば教えて欲しいと保護者に伝えるともっと良いかもしれません。特に、子供の特徴を熟知し上手に接している親なら先生の仕事に役立つ良いヒントをくれるかもしれません。ただし、学校園で生じている問題を親に解決させようとすることは絶対に避けた方が良いです。例えば、「親御さんからもよく言って聞かせてくださいね」などと頼んだりすることはやめておくことをお勧めします。家で親が注意したら「はい、わかりました」と学校園での行動が変わるくらいなら、最初から何の苦労もありません。親に解決を依頼しても役に立たないばかりか、学校園でも家庭でも同じことについて説教されることになり、子供が安らぐ場がなくなります。親が学校園での問題を解決することはほぼ不可能だと考えておきましょう。親に何か依頼するのであれば、確実に実行でき、かつ、親子関係を悪化させないことに限っておく方が良いと思います。例えば、学校で何かの目標を達成できた時に、保護者から褒めてもらう様に依頼するというようなことなら簡単に実行できそうです。
 最後に、保護者が共感してくれるかどうかに関わらず、学校園で生じている問題には保育者や教師が自分で対応せざるを得ません。先にも述べましたように、家庭で学校園の問題を解決することはできません。そして、現場には保護者はいませんから頼ることはできません。結局、問題を解決できる人は先生をおいて他にはいないのです。学校園での子供の様子を保護者が把握できる様にしておくことは大切ですが、学校園で生じた問題への対応は基本的に自分達がしないといけないと考え、腹を括りましょう。

2026年2月1日日曜日

できなければ全部しなくて良いよ

  昔に比べて学校の先生たちは優しい人が増えたように思います。「泣こうが喚こうが、しないといけないことはしないといけないのだっ!」と、強引に子供に何かを強いる先生はかなり少ないのではないかと思います。子供達には限界というものがあるとよく承知され、極端な無理強いを避ける先生が増えました。例えば、宿題が辛くて辛くて家庭で親とバトルを繰り広げる子供がよくいます。そのような時に、「できなければ全部しなくても良いよ。できるところまですれば良い」と子供に伝えるのです。さて、このような対応に問題はないのでしょうか。

 「できなければ全部しなくても良いよ」と言われても、かんしゃくを起こしながら宿題を全部やろうとする子供は結構います。おそらく、全部しなくても良いよと言われてやめてしまった時、それは挫折になり悔しいからではないかと思います。しかも、最終的にやめるかどうかは自分の判断に任されています。子供達は誇り高いのです。自分はできないと自ら認めることに耐えられない子が少なくないだろうということは想像に難くありません。おそらく先生方は子供の状況に同情し、善意から「できなければ全部しなくても良いよ」と申し出られているのだろうと思います。しかし、宿題が苦しくてかんしゃくを起こしている子達から見れば、「どうせ君には難しいだろ、できないだろう」と言われた気持ちがするのかもしれません。

 私は子供達(発達障害かどうかに関係なくどの子供でも)に課題を出すときは、量的にも難易度的にもその子供が少し頑張れば達成できる課題を準備することを原則にした方が良いと考えています。時にはガツンと困難な課題に取り組ませても良いのですが、それは日々成功体験を積み自分の力を信じられるようになっていることが大前提です。最も注意深く避けるべきことは、無理やり頑張れば何とかこなせてしまう課題を与え続けることです。大人は子供が頑張って何かを成し遂げることが大好きです。特に、教師にはそのようなタイプが多いように思います。しかし、頑張ればできる課題がその子供にとって適切な課題というわけではありません。日々取り組ませる課題は、基本的には余裕を持ってこなせるレベルにする必要があります。大人だって残業続きだと心の健康を壊してしまいます。退屈な課題でも困りますが、毎日背伸びをし続けないといけない課題を出し続けることは避けるべきです。

 量的にも難易度的にもそれぞれの子供が少し頑張れば達成できる課題を設定する時、難易度を下げることや量を減らすことはすぐにでも実行できることであり、真っ先に考える必要があります。ただ、同時に検討すべきことがあります。それは、子供が苦しんでいる理由や易々とはできない理由を分析することです。難易度を下げ、量を減らし、課題をこなせた経験を積むだけでもそれなりの成果を出せると思います。しかし、多くの子どもがそれほど苦しまずにできていることが簡単にはできない時、その子供のなんらかの特性が学習にとって不利に働いているはずです。例えば、注意力が弱く集中できる時間が短いとか、平仮名読字の自動化が不完全であるとか、序数は身についても基数の理解が不十分だとか。逆に、うまく利用できれば学習にとって有利になるような特性を持っていることもあります。これらのその子供に固有の特徴を分析し、苦手さを補い利用できそうな特性を長所として活用できるような学習方法を具体的に考案することも、子どもが頑張りすぎないように、楽に暮らせるようにする上で重要なポイントです。

 個々の子供に見合った課題の設定はなかなか難しいとは思います。一つの目安は、その子供がその勉強や課題を嫌いにならないことではないでしょうか。欲を言えば、楽しめることが望ましい。そう言えば、私の外来には就学を控えた子供がたくさん来てくれます。「小学校に入ったら、何が楽しみ?」と質問すると、ほとんどの子供は屈託なく「勉強!」と答えます。小学校の先生にとって喜ばしい好条件が準備されています。しかし、小学校入学後も「勉強が楽しい」と言い続ける子は残念なことに少ないです。私は、すべての教科の指導目標を「楽しいと思わせる」にしてもバチは当たらないのではないかなあと考えたりしています。


2026年1月31日土曜日

ぶりょうをかこつ

 僕は非社交的な人間なのだが、時々食事に誘ってくれる友達が少数いる。先日も長年仲良くしてくれている年下の友人から「久しぶりに飲みに行きましょう」と誘いの連絡が入った。時々このように年寄りを誘ってくれるとは優しいなあ、といった意味の返事を書きながら「ぶりょうをかこっている年寄り」という表現が頭に浮かんだ。そのまま書きそうになったものの、「そもそも『ぶりょう』ってなんだ?漢字はどう書くのだ?」という疑問が湧いてきた。スマホに任せれば勝手に漢字を書いてはくれそうだが、ここまで意味も把握せず字もわからない使い慣れない言葉をさも知ったげに書くのはちょっと恥ずかしいなと感じて思いとどまった。

 せっかくなので(なにが?)辞書を引いてみた。そうか、「ぶりょう」は「無聊」と書くのか。「無」という字を使うことは知っていたが、「聊」は初めて知った。で、「無聊」はどういう意味かといえば、「することがなくて退屈なこと」とある。なるほど、そうなのか。明鏡国語辞典には「心配事があって気が晴れないこと」という語釈も載っているが、「無聊をかこっている」の日常的な使われ方から考えるに「することがなくて退屈なこと」の方がよく使われる意味だろう。案の定、明鏡国語辞典には「することがなくて退屈なこと」という語釈の用例として「無聊をかこつ」と書いてあるではないか。やはりこっちだ。ん?、え??、「かこつ」??
 僕は「無聊をかこっている」という表現の「かこっている」は「囲う」の活用形だと思い込んでいた。「かこつ」だったのか。知らなかった。しかし、「かこつ」ってなんだ?「かこつ」を辞書で引くと「託つ」と書くらしい。意味は、「ぐちをいう、嘆く」ということらしい。つまり、「無聊を託つ」はすることがなくて退屈だと愚痴っているのである。し、知らなかった。この勢いで、「聊」という漢字は何なのかを調べることにした。なんと、送り仮名「か」をつけると「いささか」と読むらしい。「些か」とも書く「いささか」であるが、「聊か」という表記もあったんだ。うーむ、知らんことばかりではないか。「聊」を漢和辞典で調べると、ここに書くには多すぎる多くの意味が記されている。なんということであろう。知らないことが多すぎるではないか。
 人生の折り返し地点なんてとっくの昔に通り過ぎて、間も無くゴールの白いテープさえ見えるかもしれない年齢に至ってこの体たらくは情けない。もともと身につけたものが少ない上に、脳みそからばらばらと音を立てて知識がこぼれ落ち出した老人がなんとか大恥をかかぬように暮らすためには無聊を託っている暇なんてないのである。

2026年1月25日日曜日

障害なのか我が儘なのか分からないんです

  「障害なのか我が儘なのか分からないんです」は、発達障害診療の中で医師が保育者や教師から(時には保護者からも)直接受けることが多い質問です。言葉を素直に受け止めるなら、このような質問には障害と我が儘は明確に異なったものという前提がありそうです。そして、質問者は子供に見られる振る舞いが障害としての特徴なのか我が儘なのかを判断したいのにわからないと悩んでいるようです。障害としての表現なのか我が儘なのかがはっきりしたら、その先どうしようというのでしょうか。おそらく、障害の特徴なら許し助けてあげるけれど、我が儘なら厳しく指導する、くらいのことを考えておられるのではないかと想像します。

 この様な質問をされる方は、国際生活機能分類(ICF)が定義する意味での障害を理解できていない、発達障害特性の連続性を理解できていない、「我が儘」という言葉が何を意味するのか考えていない、のいずれかまたは全てだろうと想像しています。国際生活機能分類(ICF)が定義する障害については、まずは別項(「障害ではなく個性だと考えています」)をご参照ください。一言で言えば、個人の健康状態を基盤とするなんらかの特性と生活環境のミスマッチがもたらす暮らし難さや生活の困難さが障害です。目が見えないとか耳が聞こえないなどの身体的、機能的問題があるかどうかが障害かどうかの境目ではありません。活動や参加が妨げられた状態、すなわち生活することの困難さ、平たく言えば暮らしづらさがあるということが障害と判断できる目安です。

 次に、発達障害の連続性について説明します。多くの発達障害は、その行動や認知の特徴で定義されています。例えば、不注意さ、人の気持ちを読み取ることの難しさ、読字の非流暢さなどです。このような行動や認知の特性は「ある」か「ない」かや(+)か(-)で表せるものではありません。なぜならそれぞれの特徴の程度は連続的だからです。例えば、不注意かどうかを明確に線引きすることはできません。人は誰しも不注意さを見せることがあり得るのですが、世間の目から見れば不注意さがほとんど目につかないように感じられる人もいれば日々不注意だらけに見えるような人もいます。そして、その間には様々な程度に不注意な人が無数に存在するのです。ここからが異常、と線引きすることはできません。となると、不注意さが主たる症状である注意欠如多動症の診断なんてできないではないかと思った方もいらっしゃるかもしれません。一応の目安はあるのです。それは、その不注意さが明確に生活の困難さに結びついているかどうかが境目になります。もちろん、これだってそれほど明確な判断はできません。本人、家族、保育者や教師、そして医師の感じ方に左右される面は必ずあります。しかし「生活の支障になる程度に」不注意だということがその不注意さが障害であるかどうかの判断基準であるということは断言できます。困っていれば障害だし、特別な支援や合理的配慮が必要となるのです。

 さて、「我が儘」とは何でしょう。明鏡国語辞典の語釈は「他人のことは考えないで自分の思うままに振る舞うこと。」となっています。他の辞書を見ても、日常的な使用に関しては似たり寄ったりの説明です。これを子供の能力や行動特性の面から説明できないかを考えてみましょう。「他人のことは考えないで」は他人の気持ちに想像が及ばないことと取れます。つまり、人の気持ちに対する鈍感さを示しています。もちろん、人の気持ちを理解した上で考慮に入れないとも考えられますが、「我が儘」という言葉の持つ子供っぽさからはそういう作為的な印象はありません。もし、理解できていてあえて考慮しないのなら、その振る舞いが結果として自分に何をもたらすのか、自分の社会的立場がどうなるのか、ということが計算できていないと言えます。つまり、先を見通し予測する力が弱いと言えるでしょう。「自分の思うままに振る舞う」ということは、自分の主張を曲げられない頑固さとも取れますし、思いついたことを後先考えずに実行しようとする衝動性とも取れます。抑制能力の弱さで説明できるかもしれません。そして結果としては、これもまた長い目で総合的に考えられる自分の利益の計算ができていないと言えます。

 人の気持ちに対する鈍感さ、思考の柔軟性の乏しさ、衝動性、見通しの悪さ、いずれも自閉スペクトラム症や注意欠如多動症に認められる特徴です。そして、上にも述べたように、このような特徴の程度は連続的です。多少の「我が儘」は多くの人に見られるもので、特に困りません。他者からひどく「我が儘」と見做される場合は、本人の暮らしにくさにつながります。そうなると、本人の力だけでは健康的、建設的に暮らせなくなります。放置して潰せば良いのでしょうか?そんなはずはありません。どの子供も、可能な限り健康的に成長させてあげなければなりません。そう考えると、迷うことなく援助の対象になります。生活の支障になれば、困っていれば障害と考えれば良いということです。

 このように考えてくると、「我が儘」という概念を再定義したくなります。「我が儘」とは大人の側から見た大人の都合で成り立つ言葉だと言えます。大人が正しいと考えるように子供が行動しない、大人が我慢すべきと思うことを子供が我慢しない、ということを表した言葉に過ぎません。子供の立場に立って考えれば、何らかの行動特性や思考の特性から大人から非難され暮らしにくくなっている状況なのですから援助が必要な状態なのです。障害と我が儘を明確に区別できるという考えが、そもそも的外れであり、本質を見えなくしているのではないかと思います。

 さて、結論を言えば、障害でも我が儘でもいいじゃないですか。両者に共通して言えることは、自覚があるかどうかは別にして生活の中で困っている状態だということです。助けてあげましょうよ。世の中には、素敵な世界があるんだということを教えてあげれば良いじゃないですか。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月17日土曜日

障害ではなく個性だと考えています

  教師や保育者と発達障害についての話をしているときに、明らかに善意から「障害ではなく個性だと考えています」と仰る方を時々目にします。このような主張をされる人達は障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しておられるのでしょうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをし、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話です。言葉の言い換え程度で救えるものではありません。教師や保育者などの障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきです。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているのではないかと思います。

 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題があります。個性という言葉は本来、暮らし辛さや生き辛さを表す言葉ではありません。個性と言い換えてしまうことで、障害がもたらす苦しさを見えにくくしてしまいます。なぜ障害という言葉が公に用いられているかというと、本人には変えることができない暮らしにくさを有する人には社会が援助する必要があるからです。


 現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF、上図)で定義されています(厚生労働省、2002)。図4では真ん中に描かれている、心身機能・身体構造、活動、参加の3要素をまとめて ICFでは生活機能と呼びます。人が生活する状態を総合的に表したものです。ICFの定義によれば、生活機能の3つの要素全てが問題を呈している状態が障害です。障害は単に心身の調子が悪い状態のみを意味するものではありません。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での「活動」が制限されていることを含んでいます。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面や社会への「参加」に制約があることも含んでいます。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできていない「状態」を意味しています。つまり、暮らし辛い、生き辛い「状態」であり、人として当然保障されるべき権利が侵害されているのです。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まります。環境を変えることで活動や参加の状態を改善することができるのです。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための環境の調整が必要です。

 簡単に言えば「困っている」状況が障害なのですから、「それは個性ですよ」と能天気なことを言われても困ります。障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧するわけです。念のために補足しておきますが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じません。あくまで障害を持つ人たちを職業的に支えるべき立場の人たちが口にすることは問題だと考えるのです。

 話が少しそれますが、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく指導します」と口にする学校園の先生がしばしばいらっしゃいます。「障害は個性です」も、「どの子供も区別する気はありません」も、どちらも障害という括りで子供を分けたくないという気持ちが共通しているように思えます。ただ、私は両者から違う印象を受けます。「障害は個性です」には無知な無邪気さや能天気な善意を感じます。しかし、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」というセリフには自分の考え通りに人を従わせようという支配欲のようなものを感じます。これは多分に私の個人的経験の影響でしょう。私が経験した、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と仰る先生は受け持ちの子供に一律の指導をし、一律の課題に取り組むことを求めます。どれだけ子供本人が困っていても、「自分のやり方」「自分が必要と考えたこと」を押し通そうとされる方ばかりでした。個人的経験を一般化して良いかどうかわかりませんが、現在、私は教師が「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と口にするのを見ると、おそらく力量の低い先生なんだろうなと判断する癖がついています。

 話を元に戻しましょう。結論を申し上げれば、子供の健やかな成長を支えることを生業としている先生方には困っている子供を際限なく困らせることや、苦しんでいる子を弥が上にも苦しめるようなことに加担してほしくないのです。障害があるということは生活に支障をきたしているのだということをしっかり認識し、必要な支援が速やかに提供されるような環境を構築することに尽力していただきたいと願っているのです。その結果として、子供達が持てる力を十分に発揮しながら日々の生活を楽しめるような環境になったとき、今まで発達障害として捉えられていた特性を文字通り個性と称することが可能となると思います。


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月4日日曜日

接し方/指導の仕方を教えてください

  思いがけず時間ができたので、本田英美は机に頬杖をついてぼんやりしていた。視線を向けた診察室の窓の外では色付き始めたもみじが風に揺れている。英美が診療している発達障害専門外来は原則予約制で、一人当たりの診療時間が結構長くとってある。毎日隙間なく組み込まれた受診予約に沿って子どもたちの診療をしているのだが、たまに予約のキャンセルがあるとポッカリと時間が空いてしまう。こういうぼんやりしている時には得てしてあまり面白くない記憶が蘇ってくる。今日の英美は先週参加した学会での出来事を思い出していた。その学会で、英美は注意欠如多動症患者を対象としたワーキングメモリ検査得点と薬物治療との関連について検討した研究を発表した。時間内にプレゼンテーションを終え質問タイムになった時、演台に近い前方の席に座っている男性が手を挙げた。立ち上がりマイクへと歩む男性を見て、英美は見覚えがある顔だと気づいた。発達障害を専門とする臨床家や研究者なら知らぬものはいない大物である。自ら臨床に携わりながら子供の認知科学的研究でも多くの業績を上げているこの分野での権威である。男性はゆっくりとマイクを握り、穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。「素人質問で恐縮なのですが...」。その言葉を聞いて英美はぞっとした。学会場で権威のある学者が口にする「素人質問で恐縮なのですが...」が本当に素人質問であることなど滅多にない。自分が最も力を入れて研究している分野とずれていますが、程度の意味であり、むしろ自分が興味を持つ領域だから食いついてきていることが多い。事実、この時に英美に投げかけられた質問は簡単に答えられるようなものではなく、彼女は脂汗を流すことになった。

 「本田先生」、苦い記憶に浸っている時に診療所スタッフの吉川鉄子に声をかけられ、英美はハッとして振り向いた。「健太くんのお母さんと小学校の担任の先生がいらっしゃいました」と鉄子が告げる。健太くんは注意欠如多動症の小学生である。可愛らしい子なのだが、何しろ集中力が続かないし、思いついたことをすぐに行動に移してしまう。おまけに多少読字の拙さがあるため文章を読むことが苦手で、特に国語の時間は今何の説明をされているのかわからなくなることがしばしばある。そのため、授業中に離席したり、隣や前の席の子供に話しかけたり、時にはイライラして突然叫んだりする。すでに数年前から時々相談に乗っていたのだが、この日は担任の教師が医師に直接話を聞きたいと強く希望したため、母親と一緒に来院することになったのである。

 2人を診察室に招き入れ、椅子を勧める。内心、ちょっと失礼かもしれないなあと思わせる程度に古くて薄汚れた椅子なので、少々気が咎める。しかし、綺麗な調度品を揃えるほど潤沢な予算はないので仕方がない。すでに馴染みの母親はリラックスしてすんなり座った。それに続いて担任の先生も椅子に座ったが、慣れぬ場で緊張しているのか硬い表情だ。英美は、2人が椅子に座ったことを確認してから担任の先生に顔を向け、「今日はどのようなご用件でしょうか」と質問した。間髪を入れず「今日は健太くんにどのように接すれば良いのか、どのように指導すれば良いのかを教えていただきたいと考えやってまいりました」と担任は口にした。一瞬、英美の脳裏には先週の学会で英美に質問した学者の顔が浮かび上がった。いったい何を言っているのだろう。教師が医師に、よりにもよって指導の仕方を尋ねるなんて。学会場で耳にする「素人質問で恐縮なのですが...」みたいなものではないか。だが、担任の先生の顔は至って真剣である。学会で質問した権威のような余裕に満ちた表情ではない。元々生真面目そうな先生に見えるが、英美に対しても真面目に真剣に質問しているようなのだ。

 実は英美が教師や保育者からこのようなセリフを聞くのは今回が初めてではない。というか、何回聞かされたか覚えていない程度には何度も経験している。このような質問をされるたびに英美は、教師や保育者が医者に子供の指導方法を教えてもらおうとして良いのか?それが許されるのなら医師が教師に病気の治療法を教えて欲しいと相談しても許されるのか?そうなのか?と叫びたくなる。もちろん本当に叫んだりはしない。何しろこの道20年のキャリアである。どんな質問を受けても涼しい顔をしていられるだけの自制心は身につけている。それどころか、発達障害を専門に診療していると必要に迫られて色々な付け焼き刃の知識だけは膨らんでいるので、一見それらしい返事をすることさえできるようになっている。しかし、教師としての職歴はないし、教育学を本気で勉強したこともない。自分の説明が本当にそれで良いのか自信がない。一見涼しい顔をしながらも、このような、立場が逆転しているだろうと言いたくなる質問を受けるたびに心の中に割り切れない思いが満ちてくるのである。

 今日も英美はまずまず無難なことを説明し、健太くんの担任と母親はそれなりに腑に落ちた雰囲気で帰っていった。2人の姿が診察室のドアから出て行き見えなくなると、英美は溜め息をついた。「どうしました、浮かない顔ですね」と後ろから声がする。スタッフの鉄子である。鉄子はその名前に似合わずふっくらとした顔をしているし、物言いも優しげである。なぜ鉄子という名前になったのだろう。父親が製鉄会社の社員か大の鉄道ファンだったのかもしれないと英美は想像したりもするが、本当のところはわからない。

「また言われたよ、どのように指導したら良いか教えてくださいって、教師にだよ」と英美は愚痴った。

「あらあら、ぷんぷんせずに教えてあげれば良いじゃないですか」と鉄子。英美が10年前にこのクリニックで働き出した時にはすでに鉄子はいた。長年の付き合いのせいか、英美のことはその時々の気分まで鉄子は鋭く見抜いてしまう。

「だって、子供を指導するなんて、あっちの方が専門家でしょ。なんで医師にそんな質問ができるのかなあ」

「確かにそうですね。なんでなんでしょうね」

「うーん、よくわからないなあ。発達障害は『障害』なのだから明確な異常がある病気と感じているのかなあ。そう感じているのなら、医者だけが正しく診断し、適切な『治療』や『処方』ができると考えているのかもしれないけど」

「あ、そうかもしれませんね。発達障害といえばどうしても診断という話になりやすいし、医者が診断するものなら医者が治療や対処も考えられると思っている可能性はありますね」

「それは誤解なんだけどなあ。医者は教師としてのトレーニングを受けたことなんてないんだから。それに、発達障害に見られる特徴は正常の人には見られない特殊な異常なんかではなくて多くの人に見られる行動や認識の仕方のバリエーションにすぎないよ」

「先生、いつもそう言ってますね。そのことを理解していれば、指導方法や接し方なんて経験を積んだ教師や保育者なら日常の業務でしていることから発展させれば対応できそうですけどね」と鉄子。鉄子自身、以前は発達障害の子供は普通の子供とは違う独特の異常を持っている子供たちだろうとなんとなく考えていた。しかし、英美と一緒に働き出し、実際の子供達に接しながら英実から発達障害の説明を詳しく聞くうちに、以前考えていたことは誤解だったということを実感として理解できるようになった。発達障害と言われる子供は「正常」な子供とは明確に区別される「異常」があるのではなく、人としての行動パターンや物事の認識の仕方のバリエーションの範囲内にいる子供たちにすぎない。実際、診察室で出会う子供たちは決して想像を絶するような存在ではない。

「そうなんですよねぇ。教育や保育の専門家がわざわざ医者に質問するようなものではないんだけどなあ」

「でも先生、そうは言いながらもいつも説得力のある助言をされているじゃないですか。少なくとも、先生の返事を聞いた教師や保育者の皆さんは納得したような表情で頷いていますよ」

「そりゃあね、素人なりに勉強しましたもん。相談を受けるたびに、困りましたねぇ、で終わってたら格好つきませんものね」

「確かに。私がいうのもなんですけど、お医者さんって割と見栄っ張りというか、わかっているような態度を取りたがりますものね」

「ん?腹立たしくも鋭いご指摘、ありがとうございます。まあ、発達障害の診療に関連する書籍を読み漁りましたよ。応用行動分析の本には本当に助けられたなあ。読字障害や算数障害の本も目に付くものがあれば買って読むし。おかげで、『わかっているような態度』でものが言えるようになりましたよ。でもね、私自身が子供を教育指導したわけではないから、本に書かれていることの良し悪しを経験的に判断することはできないんですよ。ものを言いながらも、本当にこれで良いのかなあという疑問が常に付き纏う」

「教師や保育者たちが、先生が読んできたような本を読めばお医者さんよりももっと実践的な知識を得られそうですね」

「本当にそう思う。教育や保育を実践している専門家が関連する書籍を読めば、そして、そうすることで得られるノウハウをお互いに伝え合えば、医者なんぞが口を挟む余地もない大きな成果を上げると思いますよ。実際、そのように実践されている先生方もいることはいますよ。個人的にも知っていますし」

「教師が医者に指導方法を尋ねるのは格好悪いという意識がもっと広まると良いですね」

「本当にそうですよ。でもね、教師や保育者の先生方の立場に立つと同情してしまう点も多いんだなあ」英美は眉をひそめながら言う。

「どうしてですか?」診察室の窓のブラインドを下ろしながら鉄子は尋ねた。

「おそらく彼らは、子供の年齢ごと、学年ごとに一律の目標を持って指導することを求められているみたいなんですよ。特に、小学校以降の教科教育は基本的には学習指導要領に沿って教えなければいけませんからね。だから、学年ごとに期待される『子供像』を前提にした指導には慣れているのだけど、平均的な子供からはずれた特徴を持っている子供への指導技術には通じていないように見えますね。先生なんだから個々の子供の特徴に合わせて理想的な指導をするべきだ、って主張されても戸惑ってしまう先生が多いのではないかなあ」

「おやまあ、それは気の毒ですね。といって、医者に指導方法を聞きにくるような状況が良いとも思えないし、大体診察室でサラッと総論的な説明をされても現場で実行するには色々難しさもあるかもしれませんね」

「その通りだと思いますよ。先生によっては、医者の話を聞きながら『現場のことをわかってないなあ』と内心イライラしているかもしれませんしね」

「どうすれば子供達が救われる状況ができるのかなあ」

「私は、そもそも発達障害支援の仕組みを医療ベースで考えることは間違っていると思うんですよ」英美は机の上の鉛筆を突っつきながら言った。

「というのはどういうことですか?」

「発達障害支援は基本的に生活支援ですからね。学校や保育所などの子どもたちの生活環境が暮らしやすくなることが根本的に目指すべきことですからね。これは医療の手に余る。やはり、教育や保育自身が発達障害児を受け入れるキャパシティを増やさないといけない。そのためには行政のシステムとして教師や保育者を援助する仕組みが必要だと思いますよ。先生達からの相談を受けたら専門的な知識を持ったスタッフが現場に赴き、教師や保育者に助言をしながらその取り組みが成果を上げるところまで確認するような制度ができるといいんですけどね。そのような組織的な取り組みの中で医学的な知見も必要ということであれば私たち医療者が協力すればよいし」

「それはもっともな意見ですねえ。でも、行政の上層部や政治家がこういうことに理解を持たなければなかなか実現しないかもしれませんねえ。あ、診療時間が終了しましたよ。お昼ご飯を食べに行きましょう」

「そうですね。鉄子さん、お供いたします」

「今日の私のお弁当には、先生が褒めてくれた卵焼きが多めに入っていますよ」

「ごちになります」


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次