2017年11月16日木曜日

子育ては誰のため?

 ここ5年か10年、僕は「科学」と「子育て」が結びつくと胡散臭いものを感じてしまう。ましてや「子育て」に「成功」が引っ付くと一層胡散臭い。胡散臭さの塊のような題名の本が出版された。
キャシー・ハーシュ=パセック、ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ(2017)「科学が教える、子育て成功への道」扶桑社
ぱっと見の怪しさとは裏腹に著者は学習科学と発達心理学の第一人者であり、学習科学の実験研究をもとに提示したモデルが記述されているとHONZレビューで山本尚毅さんが述べていることに興味を惹かれ読んでみた。
 著者らは、この21世紀における成功を「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と定義している。そして、成功を目指す時に子供が身につけるべきスキルが6つの”C”(6Cs)、すなわち、Collaboration(協働、協調の意味もある)、Communication(意思の疎通、コミュニケーションの方が通じやすいかな)、Content(内容、後で説明する)、Critical Thinking(批判的思考)、Creative Innovation(創造的革新、創造的刷新)、そしてConfidence(自信)だというのである。この中でContentが何を意味するのかが分かりにくいので説明しておく。Contentは計算や読み書きなど、現時点での学校教育で最も重視されているスキルのことである。通常、教育という言葉から人が思い浮かべるものはまさにContentである。しかし、Contentだけでは成功するためには全く不十分だということが著者らの主張である。詳しい内容の紹介は山本尚毅さんのレビューに譲り、ここでは読んでいる最中に僕が感じた妙な居心地の悪さについて書き留めておく。
 初めに断っておくが、この本の内容が悪いとか間違っているというつもりはない。「学習科学と発達心理学の第一人者」の著書であれば主張の根拠となった様々な研究が紹介されるのではないかと期待したが全くそういう内容ではなかった。しかし、このことは一般の人向けに分かりやすく主張を記述するという本書の性格上仕方のないことだろう。上記の6つの"C"がそれぞれ重要であることについては全く異論はない。
 では何故僕はこの本に居心地の悪さを感じたのだろうか。著者らは6つの"C"それぞれについて4段階のレベルを設定し、それぞれが最も高いレベルになることを目指して子供を育てる必要性を述べている。最初に僕が引っかかったのは、CollaborationとCommunicationである。仕事で自閉スペクトラム症の子供達などCollaborationとCommunicationが苦手な人によく接するため、こういうことを声高に要求され出すと追い詰められる人がたくさんいるだろうなと気になったのである。
 読んでいるうちに、多少考え直した。CollaborationやCommunicationが苦手な人であっても、その子なりにその領域を伸ばしていくのが良い、という風に理解すればまんざら悪いことではない。著者らも、すべての子供が6つの"C"それぞれで一定レベルを達成しなくてはいけない、とは明言していない。子供の何を伸ばしていくかと考えるときに、6つの"C"という観点を意識しましょう、その子その子に応じて6つの領域それぞれを伸ばしていくことを考えましょう、ということであれば悪いことではない。ただ、読んでいるとどうしても皆が一斉に同じ方向を向かねばならない様な気にさせられる。6つの"C"それぞれにおいてレベル4を目指しましょうと述べている様に感じられる。教育者の物言いは洋の東西を問わず「これが正しい道ですよ。皆さんこっちを向きましょうね。」という圧力を内包しているなあ、と感じた次第だ。
 僕がこういう感想を抱いてしまったのは、僕の中に教育者に対する偏見があるからかもしれない。しかし、もう一つ理由がある。この本を読み始める直前に読んでいた本がSteve Silbermanの”Neuro Tribes”だったということだ。”Neuro Tribes”では、「劣った人」とのみ認識されることが普通だった自閉症スペクトラムの人々が、平均的な人々とは性質が異なるものの様々な能力を発揮できる可能性を持った人々であることが次第に明らかになり、やがて自閉症スペクトラムの人々自らが声を上げ、自閉症スペクトラムを人間の多様性の一つとして考えてそれぞれのやり方で人生を楽しみ能力を発揮することができる世の中を作っていこうと主張し始めるまでの歴史を詳細に記述している。どんな人にとっても6つの"C"を伸ばしていくことを意識することはおそらく悪くないだろう。ただ、ハーシュ=パセックとゴリンコフの本には、世の中には様々な特徴を持った多様な人が存在しており、6つの"C"の成長可能性についても凸凹がある人が大勢いることが考慮されていない様に見える。彼女らのモデルをその多様性にどう当てはめていくのかという視点での記述がほとんどないということが、”Neurotribe”を読んだ後だけになお一層気になったのである。
 もう一点、彼女らの記述で引っかかることがある。子育てで目指すべき方向性、すなわち何を成功と考えるかについては上述の様に「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と記している。あまり文句の付け所がない文言である。ぱっと聞けば、悪くないと誰しも思うだろう。なぜこの様な成功を目指すべきかと言えば、その根拠は現代社会のニーズである。著者らは、とりわけ現在成功している産業界から出されたニーズを盛んに記述している。ドラッカーが指摘し、現にAppleやGoogleで求められる人材とはどの様な人か、そこを目指すには、という論旨が随所に展開されるのである。いや、分かるんだけど、間違いだとは言わないけど、何か引っかかるんだよなあ。そりゃ、これからの時代をよりよく生きていくためには、時代の要請、社会が求めるもの、といったものが重要になるのは当たり前かもしれない。だけどなあ、引っかかるんだな。
 一体僕は何に引っかかっているのだろう。どうして居心地が悪いのだろう。ひょんなことからこの問題の答を見つけてしまった。それはBuzzFeedに掲載された女優の東ちづるさんのインタビューの中にあった。東さんは障害を持った人々と一緒に演劇活動を行なっている。東さんはこの活動を通じて浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指しているという。東さんは「まぜこぜ社会」と表現している。障害者施設で大勢の障害者が殺された相模原事件に関連して述べられたあずまさんの言葉を、少し長くなるが引用する。
 私、あの事件について社会はもっと熱をもって怒るかと思っていたんです。でも、もう風化してしまっている。「障害者は役に立たない、いなくなればいい」という加害者の供述が報道されましたよね。怒りが見えないのは、この言葉に「わからないでもないな」と思った人が多かったからじゃないかって考えています。
 ある重度障害者のお母さんからも、事件の後に「私の子供も社会の役に立っていない。税金を使われる立場だから」って話を聞きました。言葉に追い詰められているんです。私は「じゃあ、お母さんは社会の役に立っているんですか?」と聞き返しました。みんな、社会の役に立つために生まれたわけじゃないですよねって。
 話が逆になっているんですよ。みんなが社会の役に立てではなくて、「人の役に立つ社会であれ」でしょ。社会が私たちにとって役立つ存在であることが大事で、そういう社会を作るのは私たち。そのために税金を払っているわけですよね。
 「障害者は税金を使っている。社会の役に立たない」と思う人たちは、一生、自分は税金を使われないで、強者として生きられると思っているのでしょうか?いつ、どんなことが起きてもおかしくないのに?これは無自覚な優生思想です。
 まぜこぜ、まぜこぜって言ってきたのは、この社会には、明らかな分断があるからなんです。障害を持った子供、家族は社会との関わりが弱くなった人がいる。その一方で、無自覚な優生思想もある。結局、障害者が見えないことになっているんです。だから想像力が働かない言葉が広がる。そして、追い詰められる人もでてくる。
僕の意識の根底にあったのは、まさに「人の役に立つ社会であれ」なのである。色々な考え方、様々な能力、それぞれに異なる嗜好を持つ多様な人々が互いに存在を認めあえる社会に僕は憧れているのである。社会のために存在することを人に求めるのではなく、多様な人がそれぞれに満足感を持って行きていける社会を目指すべきではないかと考えているのだ。それぞれの子供がより充実した人生を送るために6つの”C”を意識するというなら良いのだが、社会の要請に応じて6つの”C”をゴリゴリ伸ばそうという考え方には馴染めないのである。おそらく「なんて甘い考えだ」と舌打ちしながら言う人は多いのだろう。ジョン・レノンの「イマジン」並みに甘くてとろい考えだと指摘されそうだ。しかし、僕は「イマジン」の1節が結構好きである。
“You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one”

2017年11月9日木曜日

偏食は悪か?

 隣の研究室の学生が、大学教員でもある栄養士になぜ偏食はいけないかというインタビューをした。結局のところ客観的な根拠を聞くことができず、倫理観が主体だったらしい。僕も最近、たまたま知り合った栄養士になぜ偏食がいけないかを聞くと、食材の生産者への感謝の気持ちなどを理由とし、客観的な根拠は聞くことができなかった。単なる素人に意見を聞いた結果がそうであればまだ分かるが、一応自然科学系に属する食の専門家に聞いても倫理あるいは価値観としての根拠のみで偏食はいけないという。これほど国中が口を揃えて「好き嫌いはいけない」とのたまっている根拠がこの程度である。
 当然、栄養失調になるほどの偏食は憂慮すべき事態であり、早急な対処が必要となるだろう。しかし、健康を害するほどの偏食などほとんどない。ぼくは倫理として偏食を良くないものとする考え方には抵抗がある。その理由はいくつかある。まず、大上段に構えた理由から述べるが、個人が食べるものを自己決定できないということが正当化されるのだろうか。個人の食事を摂る自由を強制的に制限する権利が誰にあるというのだろうか。
 次に、現実的な健康被害が生じる可能性があるということも大きな理由である。アレルギーがある子供が禁忌の食材を食べざるを得ない状況に追い詰められる危険性がある。ここまで明確なことではなくても、ひどく嫌なものを首根っこを抑えられて無理強いされて食べた結果、心理的な悪影響が生じる可能性は十分考えられる。特殊な場合として、自閉症児にはひどい偏食が伴っていることがよくある。多くの場合は、特定の料理や食材に根拠なく悪いイメージを持ち、食べないという状況に陥っている。この程度ならなんとかなることもあるが、自閉症児にとってかなり深刻な事態もある。彼らにとってはその食材が、平均的な人が生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を食べろと強いられたのに匹敵するほどの嫌悪感を引き起こしている場合もあるのだ。当然、生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を毎日無理やり食べさせられれば心身の健康を害する人は多いだろう(例え殺菌してあったとしても)。
 偏食がいけないという人たちの日常を見ていると、その主張に一貫性がないということも引っかかるところである。「好き嫌いがいけない」と声高に叫ぶ人たちの多くに好き嫌いがある。この世で人類が食しているものであれば一切好き嫌いをせずに食べている、と胸を張って宣言できる人はほとんどいないのではないだろうか。好き嫌いなく食べましょう攻撃の最前線を担っている教師でも、「パクチーはやめときます」とか「マトンはちょっと」などと言っている人は結構いそうだし、平均的な日本人ならイナゴの佃煮や油で揚げたバッタあるいは蟻の浮いたスープを大量に出されても「勘弁してくれ」という人が多いのではなかろうか。つまり、好き嫌いを無くせと主張している人達は、いかなる食物であっても美味しくいただきなさいと言っているのではなく、私達が食べているんだからあんたも食べるべきだという同調圧力をかけているに過ぎない。
 生きるためには食事は絶対必要である。毎日毎日、普通は3回の食事を食べ続けなければいけない。禅宗の僧侶でもない人、とりわけ子供にとって、毎日の食事が苦行である必要はないだろう。食事は生きる上での楽しみであって欲しい。本当は苦しみに満ちた世の中だからこそ、楽しみがたくさんあると認識させることはそれこそ「生きる力」となる。そういう意味で、食べられるものが増えることは悪くない。「これを食べることができる様になると、新しい楽しみが増えるよ」「もっと楽しくなるよ」と思わせること、そしてより楽しい世界を「自分の意思で選ぶことができるんだよ」と思わせることが偏食への基本的な対応だと考えた方が良い。併せて、自分が食べているものの成分がどの様に自分の体を支えているのかという科学的な理解を得るように促す工夫も必要だろう。日々食事を楽しみ、食べることの幸せを噛み締めながら暮らすことができれば、食材の生産者への感謝の念も育つというものだろう。偏食が「悪いこと」だから本人を苦しめても「直す」という発想では生きることの喜びには繋がらないだろうし、食材の生産者に感謝する気持ちも育たないだろう。人間、あらゆる要素に個人差がある。皆が同じになることを目指すのではなく、様々な人が共に暮らせる社会の方が暮らしやすい。肉が好きな子供も肉が食べられない子供も、ブロッコリーをモリモリ食べる子供もブロッコリーを口に入れられない子供も、共に幸せに生きていける社会が良いではないか。

2017年9月29日金曜日

言霊の国

 何かに対する不平不満を垂れ流している文章はみっともないものである。誰かの落ち度や欠点をあげつらうような文章は、本人は「俺は分かってるんだ、俺は意識が高いんだ」と息巻いているのだが、人が読んでも得るものは少ないし面白くもない文章になりがちである。もちろん、手間暇をかけて客観的なデータをつぶさに集め、論理的な思考で丹念に問題を批判する文章には高い価値がある。しかし、さして深い知識があるわけでもないのに自分の感じたことだけを根拠に文句を垂れ流すような文章はロクデモナイものである。何が言いたいかというと、以下の文章はそのロクデモナイものですよという親切な警告なのである。
 かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
 今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
 自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
 さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
 なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
 さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
 僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。

2017年9月16日土曜日

不謹慎な話

 僕はともすれば不謹慎な言動を取りそうになる人間だ。しかし、実際に実行することは少ない。むしろ不謹慎な言動を注意深く慎む傾向が強い。基本的におっちょこちょいな僕としては驚くべきことである。ひょっとすると、子供の頃にうんと叱られて、何年もかかって学習したのかもしれない。人の不謹慎な言動に対してはどうかといえば、割と「あんなこと言ってる。良くないよな」などと考えながら眉をひそめることが多い。しかし、その場にいる誰かが明らかに傷付きそうな状況でもなければ、口に出して非難することはない。面倒を避けたいという気持ちもあるのだが、もっと大きな理由がある。僕は、たとえ現実の具体的経験では眉をひそめることが多いとしても、抽象的な概念としては不謹慎が悪いとは思っていない。いや、むしろ不謹慎であることは良いことだと思っている。正確にいえば、不謹慎な言動が許容される社会が望ましいと思っている。
 ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
 基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。

2017年8月21日月曜日

技術屋としての専門性

 以前、教師には技術レベルの専門性がないのではないかという文章を書いたことがあった(「教師の専門性」)。しかし、我ながら漠然とした感情を吐露しただけの文章であった。さて、今日小学校の先生をしている卒業生が職場に遊びに来た。彼と話していて、技術屋としての専門性についての考えが少し進んだので、メモを残しておく。ここで取り上げたい専門性を持った技術屋は、コツコツと手先の技を鍛えた職人ではない。実技を繰り返すことで長年技を磨いてきた人は匠ではあるが、僕の考える専門的な技術屋ではない。もちろんどの様な領域の技術屋でも身体で覚える技術はあると思う。しかし、それだけで終わるなら(つまり、経験だけに裏打ちされた技術屋なら)、極めて狭い領域でしか成果を残せないと思う。それはそれで価値はあるが、社会の大きな問題を解決する技術屋にはなれないと思うのである。ここで「社会の大きな問題を解決する技術屋」とは何を意味するのかはっきりと定義できないのだが、具体的に言えば、建築家、土木屋、医師、ソーシャルワーカー、教師、保育士、といったものをイメージしている。
 今日、僕は技術屋としての専門性には2つの条件があるのではないかと考えついた。まず、技術、あるいは方法を裏付ける理屈ないし理論があるということである。これは、単に××を解決するためには○○が良いという組み合わせを知っているのでは無く、××の状態に○○が良い影響を及ぼす機序を理屈として把握しているということを意味している。仮に○○を実行しても予想に反して効果が認められない時、背景となる理屈を理解できていればなぜ効果がないか、どう変更すれば効果が見込めるか、ということの仮説が立てられる。「長年こうやって来たんでさあ」しか根拠がなければ、それが効果なしと判明した時に打つ手がない。いや、手を打たずにいればまだましで、この方法が良いに違いないと意地になれば傷口を広げるばかりである。
 2番目の条件は、自分が用いた技術・方法がどの程度成果を出せたか判断するための評価法を持っているかどうかである。技術というものは演繹的に考えるだけで磨くことができるものではない。常に進化させていくためには結果の良し悪しを判断し、それをフィードバックさせる必要がある。目指す成果が比較的単純な場面では、「評価法」などと大上段に構える必要はないかもしれない。しかし、「社会の大きな問題を解決する技術屋」と考えるなら、それほど単純には成果を評価できない。どの様に客観的に成果を評価するかという方法論が用意されているかどうかも技術屋としての専門性を規定する重要な要素ではないかと思う。
 まとめると、専門性を持った技術屋としての条件は、まず技術や方法の基盤となる理論を持っていることである。そして、技術や方法を用いた時の成果を評価する方法を確保していることである。僕は今まで自分を技術屋と考えていた。だからこそこういうことを考え、文章として残そうと考えたわけである。しかしなんだなあ、自分の首を絞めている様な気がしてきたぞ。

2017年8月8日火曜日

緊急事態には穏やかに指示を出せ

 自分が医師だと、医療ドラマを見る時に興醒めすることが多くなる。医学的に明らかな間違いがある時は典型的な例である。しかし、最近のドラマは結構取材して作られることが増えているようだし、自分が医師として下り坂を転げ落ちていることもあって、明らかな間違いにテレビの前でツッコミを入れることは減ってきたと思う。相変わらず多いなあと感じる問題は、めったやたらと腕の良い、なんでも助けてしまうゴットハンド・ドクターが出て来る問題である。現実の医療はそんなに輝かしい功績を毎日積み上げているわけではない。昔に比べて解決できる問題が増えてきたとはいえ、十分に治療成果を上げられない、いやいや全く手の付けようの無い状態でさえ多いのが医療の現状である。不自然なほど腕の良い医師が活躍するドラマを観ると「ケッ、」と言いたくなる。とか言いながら、僕は医療ドラマを結構よく見ている。今季は10年ぶりに始まったコードブルーである。山Pは相変わらず優秀すぎるだろうと思うものの、第1シーズンから上手くいかないことに悩む医師に焦点を当てることが多かったし、今回は新人の育成ということもテーマになっているし、まあ、ましな方ではないかとも思うのである。で、コードブルーを見ていて急に思い出したことがある。そのことを書き留めておこうと思う。ここまでの前置きとは全く関係のない、リーダー論である。ベストセラーのビジネス書を遥かに凌ぐ内容になる予定は全くないのだが、お付き合い願えれば幸いである。
 僕は医師になって直ぐに大学病院の小児神経学を専門にする部署に所属した。小児神経学とは、てんかんや脳性麻痺など子供の脳神経疾患を扱う分野である。小児科の一領域と言っても良いが、一領域を専門とする部署なので非常に狭い領域のみに専念する医師になったわけである。総合診療医とは全く逆の方向性と言って良い。医師になって5年目が終わろうとする頃、地方都市にある中核病院の小児科に赴任した。そこはかなり大きな病院であった。日々多岐に渡る患者が受診するため、その病院の医師達は鍛えられていた。若い研修医といえどもかなり高度な治療手技を自分のものにしていた。ところで、僕は形式的には神経疾患の責任者として赴任しており、どちらかと言えば指導的立場に属していた。しかし、長年大学病院という特殊な場所の、しかも小児神経学に特化した一層特殊な部署に所属していたので、第一線の小児科医が身につけている多くの手技が習得できていなかった。とりわけ、心肺蘇生に関連した技術は極めて乏しかった。
 ある日、一人の患者の血圧が低下し、呼吸もままならない状況が発生した。病棟には僕と、僕より若い何人かの研修医達がおり、その事態に対応することになった。上述のように、僕は心肺蘇生に全く不慣れであり、その一方で研修医達は信頼できる優秀なメンバーが揃っていた。一応その場にはいたものの、僕としてはかなり見物人的な意識が強い状態であった。道具を用意したり、記録をとったり、邪魔にならないように周辺部の雑用係を引き受けていたのである。すると、研修医の中ではリーダー格の医師が僕に向かって「先生、指示を出してください。こういう修羅場には司令塔が必要です」と言ったのである。確かに、その時は患者に複数の医師が群がっているのだが、どことなく騒然として、スムーズに処置が進まない状態になっていた。そこで僕がそれぞれの医師を指定しながら次に何をするかの指示を出し、分からないことがあれば率直に質問して教えてもらいながら次の一手は僕が判断するというふうにした。すると頼りない司令塔であっても、個々がそれぞれ勝手に動いていた時よりもずっと効率的に物事が進み出したのである。この時僕は、混乱した状況では誰かが声を出して指示をする役割を引き受ける必要があることを学んだ。
 それから何年か後の話である。外来で診察しているときのことだが、隣の診察室では後輩医師がアレルギー患者の負荷試験をしていた。アレルギーの原因と思われる食物を少量食べさせて、症状が悪化しないか確認する検査である。と、突然その医師が金切り声を上げだした。看護師に呼吸をサポートするバッグを持ってくるように指示を与えている様子である。何事かと覗きに行くと、患者が強いアレルギー反応(アナフィラキシー)を起こしていた。傍目八目の強みでこちらは結構冷静である。見れば患者はさほど重篤では無さそうだ。まずは血圧の確認だなと考え、看護師に「血圧測って〜」と呑気な声で指示を出した。すると後輩医師は急速に落ち着きを取り戻し、テキパキと動き始めた。後輩とはいえ彼女は有能な医師で、僕より緊急対応のスキルは遥かに高いのである。それ以降は僕の出る幕はなかった。たまたま患者の経過が落ち着いていたので油断していたところに、予想外の強い症状が出たため狼狽えてしまったらしい。後でその医師から僕の声を聞いて冷静になれたと礼を言われた。一声発するだけで他に何もしなくても礼を言ってもらえるのだからお得な経験である。
 このエピソードで、緊迫した状況では、その場にいる人の過剰な緊張を取ることができることも様々な現場を管理する上で重要な要素だと気がついた。この時の僕の振る舞いは偶然の産物だが、後に出会った救命救急医はこの考えの正しさを裏付けてくれた。その救急医は常にのんびりと穏やかに明るく振る舞うのである。急患の処置で騒然としているERに、「どんな〜?」と言いながら、いつも飄々とした様子で入ってくる。もちろん、必要な指示や処置は的確に進めていくのである。その医師が部屋に入ってくると、場のスタッフ達にはどことなくホッとした雰囲気が漂う。その医師が醸し出す穏やかな雰囲気は、おそらくスタッフそれぞれが本来持っている力を十分に発揮できる下地になっていたと思う。
 テレビの医療ドラマは妙にギスギスした場面が多い。特に救命救急が舞台になっているものでは、登場人物がやたらと厳しいことを言い、怒鳴りあっているような演出が目につく。僕にとっての優秀な救命救急医は上記の医師のイメージである。そのため、やたら医師が喚いているドラマを観るとむしろ現実味がない気がしてしまう。
 話が逸れてしまうが、高校野球を始めとして日本のスポーツ界にはやたらと檄を飛ばしたがる監督やコーチが多い。檄を飛ばすどころか罵りと言った方が良いくらいの言動を取る人も少なくない気がする。人ごとのように言っているが、本来僕もこの種の人間である。たまたまスポーツが苦手だったので監督になることもなかったが、万が一監督になっていたら怒鳴り回していた可能性が高い。しかし、厳しく怒鳴り続けることで人が実力を発揮するかということに今の僕はかなり懐疑的である。
 とりとめのない話になりそうなので、まとめに入ろう。予期せぬトラブルや緊迫した事態が繰り返し生じる現場で、複数の人員で対処する際のマネージメントには重要なポイントが2つあると思う。まず、誰かがリーダーにならねばならない。つまり、その場の責任を背負って明確な指示を出す役割である。それは日常の役職の上下や知識やスキルを習得しているかどうかは必ずしも関係ない。非常事態が生じた時に、責任を背負う人が名乗りを上げなければ、混乱し続けるリスクがある。もう一点は、場の雰囲気を過剰に緊張させてはいけない。「緊張感を持って対処する」ことが好きな人は多い。特に、いわゆるお偉方にはこのセリフを好んで使いたがる人が多い気がする。ついでに言えば、教育関係者もこういう発想が好きな人が多いのではないかと思う。しかし、その場にいるメンバーが持てる力を余すところなく発揮するためには、リラックスさせる必要があるのではなかろうか。緊急事態や突発事態が繰り返し起こる現場や、社会の枠組みが大きく変わり今まで通りの対応では事態が改善しないような状況では、人に指示を出す役を引き受け、しかもあくまで穏やかにのんびり振舞える人は、そのような状態におけるリーダーに最もふさわしいのではないかと思う。穏やかに「緊急事態が発生しました」と言える人である。

2017年7月2日日曜日

意識的な社会的技術

 小児科医になる人は子供が好きな人ばかりというイメージがあるかもしれない。しかし、そんなことはない。実際、僕は子供が好きではなかった。では何故小児科医(細かく拘ると小児神経科医)になったのかというと、子供相手ならあまり喋らなくて良さそうだという非社交的な理由が大きかった。大学生の頃、僕は親しくない人と話すことがめっぽう苦手だった。だから、なるべくならあまり話さなくても仕事ができそうな進路を選びたかった。特に女性と話すことが苦手で、産婦人科や膠原病(女性の患者が多い)を専門とする診療科には進みたくなかった。いかに暗い青春時代を送っていたのかがよく分かる、悲しい逸話ではないか。
 さて、小児科医になってから自分の間抜けさ加減に気がついた。考えれば当たり前のことだが、小児科医はかなり喋らないといけない。幼い子供が一人で受診するはずはなく、必ず親か祖父母か、世話を焼いている大人が付いてくる。しかも、圧倒的に母親、つまり女性が多い。結果的に、多くの女性としゃべりまくりながら今日に至る。おかげで、今では仕事に関する話や事務的な話なら全く臆することなく女性と話すことができる。むしろ男性よりも女性の方が話しやすいかなと思っているくらいだ。ただし、相変わらずなんの目的もない雑談は苦手である。
 いくら苦手意識があったとはいえ、大人相手の、しかも仕事の上での話なら小児科医になって間も無くからそれなりにできていた。何しろ患者の家族は医師の話を聞こうとしてくれるし、結構気も使って話を合わせてもくれるのである。こちらとしては、最低限礼儀を失しないことに気をつけておけば、まあそこそこ仕事が成立する程度の話はできていた。意外なことに問題は子供であった。特に苦労したのは乳児である。話さなくて良いから楽だろうなんてとんでもない話だった。奴らは泣くのである。遠慮のかけらもない。1mm足りとも気遣いを見せる素振りはないのである。
 世間のイメージ通り、子供が大好きな小児科医もいる。そのような医師は何の躊躇もなく赤ちゃんに近づき、あろうことかいきなり抱き上げたりもする。子供が好きな医師からは赤ちゃんを安心させるオーラでも出ているのか、赤ちゃんも抱かれて平気な顔をしている。ところが僕の場合は赤ちゃんと顔をあわせるだけで相手の表情は固くなる。距離を縮めるともう半泣きで、赤ちゃんに手を伸ばせば7割、8割の赤ちゃんは泣いてしまう。乳児の診察で重要なスキルの一つは、いかに泣かさないかということである。学生実習の時に小児科の指導医が最初に教えることの一つに「口の中の診察は最後にしろ」というのがある。これも泣かさないための配慮である。泣かれると聴診器は役立たずで邪魔なだけの管に化してしまうし、目の動きも見られないし、手足の運動能力も確認できないし、口の中も十分見られないしで、もう仕事にならない。泣き喚く赤ちゃんを見ながら、よく考えずに小児科医の道を選択したことを後悔することもあった。
 さすがに、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。四苦八苦するうちに、色々工夫の余地があることに気が付いた。まず発見したことは、親に抱かれて赤ちゃんが診察室に入ってきた時、目を合わせないようにすると泣きにくくなるということである。診察前の乳児の挙動から得られる情報も多いので全く見ないわけではないのだが、目を合わさないようにするだけで恐怖感が喚起されにくくなるようである。このことに気付いてからは、赤ちゃんが入室後しばらくは、まるで本人には関心がなく親と会話したいだけという振りをするようにした。今から思えば、赤ちゃんが診察室や医師に慣れてくる時間を稼ぐということに加え、会話しているうちに親がリラックスしだすことにも意味があるのではないかと思う。一般的に乳児は新規な場面に遭遇した時に親の様子に注目し、親が用心していると自分も怖がるし、親が安心していると自分も安心する。社会的参照と名付けられた現象である。
 すぐに目を合わさないことの次に考え出したことは、赤ちゃんにおもちゃを渡すことである。親と会話をしている間に赤ちゃんが次第に落ち着いてくると、好奇心を表に出しキョロキョロあたりを見回すようになる。この様なタイミングで親と会話を続けながらおもちゃを渡す。おもちゃとして僕が愛用しているのは紙切れである。紙はどこでも必ず手に入るので使いやすい。そのままそっと差し出すこともあるが、赤ちゃんの前でビリビリと小さな短冊に切って見せたり、息を吹きかけて揺らしたり、丸めて小さな玉を作ったりして赤ちゃんが一層興味を持てるようにする。知らない人の前で激しく泣くので困るということは人見知りが始まっているわけで、おおよそ生後半年を超えている。この時期を過ぎるとかなり自由にものを手にとって遊べるようになる。従って、紙切れに興味を持てば積極的に手に取ろうとしだす。1歳の誕生日が近くなれば丸めた紙を指先でつまんだり、薄い紙を両手でそれぞれつまんで引っ張ったりもする。こうやって遊ばせることで赤ちゃんを安心させられるだけではなく、手先の器用さを中心に運動機能の評価を同時に行うことができる。
 かなり落ち着いていた赤ちゃんでも、実際に触ったり聴診器をあてたりしだすとやおら泣き始めることがよくある。ここでなんとかできないかとひねり出したのが、診察直前に診察道具で遊ばせる方法である。特に使いやすいのは聴診器である。赤ちゃんの前でぶらぶらと振り子のように振り注目を引きつけた上で「はい、どうぞ」とベル(聴診器の先にある、体に当てる部分)を差し出すと、多くの乳児はベルを手に取ろうとする。しばらく触らせた上で「ちょうだい」と手を伸ばすと、1歳に近い赤ちゃんであれば返してくれることが多い。こうやって聴診器に慣れた後だと無事に聴診を開始できることが多い。ここまで来ればお腹を触ったり、手足を触ったり、打鍵器で膝や足首を叩いたりと、無事に診察が進められることが多いのである。
 僕は方法を「考える」ことで、乳児との付き合い方が随分上手くなった。しかし、何も考えずにすっと赤ちゃんを抱き上げるタイプの人と比べると膨大な時間を費やしたことになるし、それでもなお赤ちゃんとの間に壁のない人のレベルには至っていない。例外的な反応を示す赤ちゃんがいれば咄嗟にうまい対応ができないことも多い。また、もっとうまい方法があるのかもしれないが、一度やり方を決めてしまうとなかなか新しいアプローチを取り入れることができない。ひょっとしたら上記の方法の何かがむしろ僕と赤ちゃんの距離を縮めることの障害になっていたとしても、そこに気付くことができない。癪に触ることには、躊躇うことなく赤ちゃんを抱き上げるタイプの人達は僕の苦労なんて気付きもしないのである。全くもって、赤ちゃんと良好な関係を築くことは赤子の手をひねるようにはいかないのである。このように書いていくと、似たような話があることに思い当たる。自閉症を伴う人達が社会に入り暮らしていく苦労というのはこういうことなのかもしれない。