キャシー・ハーシュ=パセック、ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ(2017)「科学が教える、子育て成功への道」扶桑社ぱっと見の怪しさとは裏腹に著者は学習科学と発達心理学の第一人者であり、学習科学の実験研究をもとに提示したモデルが記述されているとHONZレビューで山本尚毅さんが述べていることに興味を惹かれ読んでみた。
著者らは、この21世紀における成功を「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と定義している。そして、成功を目指す時に子供が身につけるべきスキルが6つの”C”(6Cs)、すなわち、Collaboration(協働、協調の意味もある)、Communication(意思の疎通、コミュニケーションの方が通じやすいかな)、Content(内容、後で説明する)、Critical Thinking(批判的思考)、Creative Innovation(創造的革新、創造的刷新)、そしてConfidence(自信)だというのである。この中でContentが何を意味するのかが分かりにくいので説明しておく。Contentは計算や読み書きなど、現時点での学校教育で最も重視されているスキルのことである。通常、教育という言葉から人が思い浮かべるものはまさにContentである。しかし、Contentだけでは成功するためには全く不十分だということが著者らの主張である。詳しい内容の紹介は山本尚毅さんのレビューに譲り、ここでは読んでいる最中に僕が感じた妙な居心地の悪さについて書き留めておく。
初めに断っておくが、この本の内容が悪いとか間違っているというつもりはない。「学習科学と発達心理学の第一人者」の著書であれば主張の根拠となった様々な研究が紹介されるのではないかと期待したが全くそういう内容ではなかった。しかし、このことは一般の人向けに分かりやすく主張を記述するという本書の性格上仕方のないことだろう。上記の6つの"C"がそれぞれ重要であることについては全く異論はない。
では何故僕はこの本に居心地の悪さを感じたのだろうか。著者らは6つの"C"それぞれについて4段階のレベルを設定し、それぞれが最も高いレベルになることを目指して子供を育てる必要性を述べている。最初に僕が引っかかったのは、CollaborationとCommunicationである。仕事で自閉スペクトラム症の子供達などCollaborationとCommunicationが苦手な人によく接するため、こういうことを声高に要求され出すと追い詰められる人がたくさんいるだろうなと気になったのである。
読んでいるうちに、多少考え直した。CollaborationやCommunicationが苦手な人であっても、その子なりにその領域を伸ばしていくのが良い、という風に理解すればまんざら悪いことではない。著者らも、すべての子供が6つの"C"それぞれで一定レベルを達成しなくてはいけない、とは明言していない。子供の何を伸ばしていくかと考えるときに、6つの"C"という観点を意識しましょう、その子その子に応じて6つの領域それぞれを伸ばしていくことを考えましょう、ということであれば悪いことではない。ただ、読んでいるとどうしても皆が一斉に同じ方向を向かねばならない様な気にさせられる。6つの"C"それぞれにおいてレベル4を目指しましょうと述べている様に感じられる。教育者の物言いは洋の東西を問わず「これが正しい道ですよ。皆さんこっちを向きましょうね。」という圧力を内包しているなあ、と感じた次第だ。
僕がこういう感想を抱いてしまったのは、僕の中に教育者に対する偏見があるからかもしれない。しかし、もう一つ理由がある。この本を読み始める直前に読んでいた本がSteve Silbermanの”Neuro Tribes”だったということだ。”Neuro Tribes”では、「劣った人」とのみ認識されることが普通だった自閉症スペクトラムの人々が、平均的な人々とは性質が異なるものの様々な能力を発揮できる可能性を持った人々であることが次第に明らかになり、やがて自閉症スペクトラムの人々自らが声を上げ、自閉症スペクトラムを人間の多様性の一つとして考えてそれぞれのやり方で人生を楽しみ能力を発揮することができる世の中を作っていこうと主張し始めるまでの歴史を詳細に記述している。どんな人にとっても6つの"C"を伸ばしていくことを意識することはおそらく悪くないだろう。ただ、ハーシュ=パセックとゴリンコフの本には、世の中には様々な特徴を持った多様な人が存在しており、6つの"C"の成長可能性についても凸凹がある人が大勢いることが考慮されていない様に見える。彼女らのモデルをその多様性にどう当てはめていくのかという視点での記述がほとんどないということが、”Neurotribe”を読んだ後だけになお一層気になったのである。
もう一点、彼女らの記述で引っかかることがある。子育てで目指すべき方向性、すなわち何を成功と考えるかについては上述の様に「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と記している。あまり文句の付け所がない文言である。ぱっと聞けば、悪くないと誰しも思うだろう。なぜこの様な成功を目指すべきかと言えば、その根拠は現代社会のニーズである。著者らは、とりわけ現在成功している産業界から出されたニーズを盛んに記述している。ドラッカーが指摘し、現にAppleやGoogleで求められる人材とはどの様な人か、そこを目指すには、という論旨が随所に展開されるのである。いや、分かるんだけど、間違いだとは言わないけど、何か引っかかるんだよなあ。そりゃ、これからの時代をよりよく生きていくためには、時代の要請、社会が求めるもの、といったものが重要になるのは当たり前かもしれない。だけどなあ、引っかかるんだな。
一体僕は何に引っかかっているのだろう。どうして居心地が悪いのだろう。ひょんなことからこの問題の答を見つけてしまった。それはBuzzFeedに掲載された女優の東ちづるさんのインタビューの中にあった。東さんは障害を持った人々と一緒に演劇活動を行なっている。東さんはこの活動を通じて浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指しているという。東さんは「まぜこぜ社会」と表現している。障害者施設で大勢の障害者が殺された相模原事件に関連して述べられたあずまさんの言葉を、少し長くなるが引用する。
私、あの事件について社会はもっと熱をもって怒るかと思っていたんです。でも、もう風化してしまっている。「障害者は役に立たない、いなくなればいい」という加害者の供述が報道されましたよね。怒りが見えないのは、この言葉に「わからないでもないな」と思った人が多かったからじゃないかって考えています。僕の意識の根底にあったのは、まさに「人の役に立つ社会であれ」なのである。色々な考え方、様々な能力、それぞれに異なる嗜好を持つ多様な人々が互いに存在を認めあえる社会に僕は憧れているのである。社会のために存在することを人に求めるのではなく、多様な人がそれぞれに満足感を持って行きていける社会を目指すべきではないかと考えているのだ。それぞれの子供がより充実した人生を送るために6つの”C”を意識するというなら良いのだが、社会の要請に応じて6つの”C”をゴリゴリ伸ばそうという考え方には馴染めないのである。おそらく「なんて甘い考えだ」と舌打ちしながら言う人は多いのだろう。ジョン・レノンの「イマジン」並みに甘くてとろい考えだと指摘されそうだ。しかし、僕は「イマジン」の1節が結構好きである。
ある重度障害者のお母さんからも、事件の後に「私の子供も社会の役に立っていない。税金を使われる立場だから」って話を聞きました。言葉に追い詰められているんです。私は「じゃあ、お母さんは社会の役に立っているんですか?」と聞き返しました。みんな、社会の役に立つために生まれたわけじゃないですよねって。
話が逆になっているんですよ。みんなが社会の役に立てではなくて、「人の役に立つ社会であれ」でしょ。社会が私たちにとって役立つ存在であることが大事で、そういう社会を作るのは私たち。そのために税金を払っているわけですよね。
「障害者は税金を使っている。社会の役に立たない」と思う人たちは、一生、自分は税金を使われないで、強者として生きられると思っているのでしょうか?いつ、どんなことが起きてもおかしくないのに?これは無自覚な優生思想です。
まぜこぜ、まぜこぜって言ってきたのは、この社会には、明らかな分断があるからなんです。障害を持った子供、家族は社会との関わりが弱くなった人がいる。その一方で、無自覚な優生思想もある。結局、障害者が見えないことになっているんです。だから想像力が働かない言葉が広がる。そして、追い詰められる人もでてくる。
“You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one”
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