2026年7月23日木曜日

せっかくできるようになったのにすぐに忘れてしまう

  算数の苦手な子供の先生や保護者が「せっかくできるようになってもすぐに忘れてしまう」という表現をされることがよくあります。以前、このような発言を聞くと奇妙な印象を受けていました。私が算数に抱いているイメージが、「忘れる」という言葉とそぐわなかったからです。私は、算数というものは覚えるかどうかではなく、理解するかどうかだと考えていたのです。しかし、いくつか算数学習に関する書籍を読むうちに、これは正しくないなと理解するようになりました。たしかに、算数の理解は記憶に支えられている面は多いと言えます。数詞と数字と具体物の対応を把握するにも、「1、2、3…」と唱えられることが必要ですが、これには記憶が必要です。繰り上がり、繰り下がりのある足し算や引き算、あるいは数の分解合成も、素早く計算するためには記憶しておく必要があります。計算式を筆算にして解くにも手順を覚える必要があります。九九なんて、落語の寿限無のようなものです。

 このように考えていくと、一見解けるようになっても短期間で解けなくなる現象を「忘れる」と称しても良いのかもしれません。しかし、私としては「忘れる」と表現することに、未だになにがしかの抵抗を感じてしまいます。本当に忘れているだけなのだろうかと。私がこのような考えに至るには伏線があります。もう、3、40年くらい前の話です。その頃の私はてんかん、脳性麻痺、代謝異常症など、いわゆる発達障害よりもハードな神経疾患を対象とした診療をしていました。脳の器質的な異常が基盤となる神経疾患を来る日も来る日も診療していたのです。当時は自閉スペクトラム症や注意欠如多動症などをきちんと診断することはありませんでした。しかし、脳になんらかの問題がある子供達です。たとえ主たる治療対象がてんかんであったとしても、知的障害や境界レベルの知能が併存することは稀ではありませんし、集中力の弱い子供達を診療対象とすることも多かったのです。今から思えば限局性学習症の子供達もたくさんいたのだろうと思います。とにかく勉強が苦手な子供はその当時から多く見ていました。そして、かなり早くから算数が苦手な子供たちにとって九九は鬼門だなという認識がありました。算数が苦手な子供が九九を習いだすと張り切って覚え、その後再び大きく挫折する姿を繰り返し見てきたからです。

 九九は落語の寿限無のようなものです(寿限無を誦じている子供がよくいると思いませんか?)。言葉の一つ一つの意味など理解していなくても、ひたすら唱えていれば覚えられます。しかし、寿限無の中の一つ一つの言葉の意味がわかっていないと我が子にそのような名前を付けた親の気持ちは理解できません。それと同じく、九九を覚えたからと言って掛け算が理解できるわけではないのです。九九は掛け算を効率よく応用するための方便にしか過ぎないのですから、そもそも掛け算が理解できていなければ九九を覚えることに意味はないのです。

 掛け算とは何を表しているのでしょうか。もっとも基本的な説明は足し算の繰り返しです。2×3は2+2+2のことです。また、3×2は3+3のことです。当然、足し算の意味がわかっていないといけませんし、それ以前に数量概念(序数性と基数性)を身につけておく必要があります。なんと、2×3と3×2は等しくなります。なぜ等しくなるかをどうやって理解すれば良いのでしょうか。縦に2個、横に3個になるように、おはじきを長方形に並べてみるのが簡単かもしれません。おはじきが2個含まれる列のまとまりが3個あると考えることができますし、同じおはじきの配列を3個含まれる行のまとまりが2個あると見なすこともできます。九九表を作ってじっくりと中身を眺めていると色々なことがわかります。掛けられる数と掛ける数を入れ替えても答えは同じです。そもそも左端の縦の列と一番上の横の行のどちらを掛けられる数にし、どちらを掛ける数にするかも自由自在です。各行、各列の並びを見ていくと、隣の枡に進むにつれて同じ数ずつ増えていきます。例えば2の段なら、かける数が1増えるごとに答えは2ずつ増えていきます。九九表の対角線で折ると、同じ数同士が重なり合います。

 このようなことを理解した上で九九を覚えると、九九と掛け算の前提となる数量概念や計算の意味理解との複雑な関連付けができます。また、九九表から導き出される様々な意味との関連付けができます。ここまで来ると九九が身についたと言えるのではないでしょうか。もちろん、九九をよりしっかりと覚えられるかもしれません。それどころか、九九を完璧に覚える必要さえなくなります。「くさん(九三)」の答えがすぐに出てこなくても「くに(九二)18」に9を足せば良いし、「さんく(三九)27」が分かればそれでも良いのです。実際、僕はいまだに九九のうち大きい数・小さい数の並びが苦手です。「しちさん(七三)」がすぐに出てこないので「さんしち(三七)」に直して計算しています。このように考えを巡らせると、記憶は算数の力を支えていることは確かだと思いますが、同時に理解や関連付けが記憶を支えているともいえるのではないでしょうか。そして、記憶に頼る割合が大きいほど、「忘れる」リスクが大きくなりそうです。

 「できていたことをすぐに忘れる」現象の裏には、様々な算数的概念や論理の多面的理解が欠けていることがあるのではないかという気がします。もしこの考えが正しいのなら、「すぐに忘れる」子供に同じことを繰り返し教えても効果は少ないかもしれません。解き方を「忘れ」てしまう課題の基礎となる領域の理解が完全かどうかを確かめ、曖昧にしかわかっていないことがあればまずそこをしっかり復習したり、解き方を「忘れ」てしまう課題と関連した様々な法則に考えを巡らせることを促したりする必要がありそうです。