小児科医になる人は子供が好きな人ばかりというイメージがあるかもしれない。しかし、そんなことはない。実際、僕は子供が好きではなかった。では何故小児科医(細かく拘ると小児神経科医)になったのかというと、子供相手ならあまり喋らなくて良さそうだという非社交的な理由が大きかった。大学生の頃、僕は親しくない人と話すことがめっぽう苦手だった。だから、なるべくならあまり話さなくても仕事ができそうな進路を選びたかった。特に女性と話すことが苦手で、産婦人科や膠原病(女性の患者が多い)を専門とする診療科には進みたくなかった。いかに暗い青春時代を送っていたのかがよく分かる、悲しい逸話ではないか。
さて、小児科医になってから自分の間抜けさ加減に気がついた。考えれば当たり前のことだが、小児科医はかなり喋らないといけない。幼い子供が一人で受診するはずはなく、必ず親か祖父母か、世話を焼いている大人が付いてくる。しかも、圧倒的に母親、つまり女性が多い。結果的に、多くの女性としゃべりまくりながら今日に至る。おかげで、今では仕事に関する話や事務的な話なら全く臆することなく女性と話すことができる。むしろ男性よりも女性の方が話しやすいかなと思っているくらいだ。ただし、相変わらずなんの目的もない雑談は苦手である。
いくら苦手意識があったとはいえ、大人相手の、しかも仕事の上での話なら小児科医になって間も無くからそれなりにできていた。何しろ患者の家族は医師の話を聞こうとしてくれるし、結構気も使って話を合わせてもくれるのである。こちらとしては、最低限礼儀を失しないことに気をつけておけば、まあそこそこ仕事が成立する程度の話はできていた。意外なことに問題は子供であった。特に苦労したのは乳児である。話さなくて良いから楽だろうなんてとんでもない話だった。奴らは泣くのである。遠慮のかけらもない。1mm足りとも気遣いを見せる素振りはないのである。
世間のイメージ通り、子供が大好きな小児科医もいる。そのような医師は何の躊躇もなく赤ちゃんに近づき、あろうことかいきなり抱き上げたりもする。子供が好きな医師からは赤ちゃんを安心させるオーラでも出ているのか、赤ちゃんも抱かれて平気な顔をしている。ところが僕の場合は赤ちゃんと顔をあわせるだけで相手の表情は固くなる。距離を縮めるともう半泣きで、赤ちゃんに手を伸ばせば7割、8割の赤ちゃんは泣いてしまう。乳児の診察で重要なスキルの一つは、いかに泣かさないかということである。学生実習の時に小児科の指導医が最初に教えることの一つに「口の中の診察は最後にしろ」というのがある。これも泣かさないための配慮である。泣かれると聴診器は役立たずで邪魔なだけの管に化してしまうし、目の動きも見られないし、手足の運動能力も確認できないし、口の中も十分見られないしで、もう仕事にならない。泣き喚く赤ちゃんを見ながら、よく考えずに小児科医の道を選択したことを後悔することもあった。
さすがに、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。四苦八苦するうちに、色々工夫の余地があることに気が付いた。まず発見したことは、親に抱かれて赤ちゃんが診察室に入ってきた時、目を合わせないようにすると泣きにくくなるということである。診察前の乳児の挙動から得られる情報も多いので全く見ないわけではないのだが、目を合わさないようにするだけで恐怖感が喚起されにくくなるようである。このことに気付いてからは、赤ちゃんが入室後しばらくは、まるで本人には関心がなく親と会話したいだけという振りをするようにした。今から思えば、赤ちゃんが診察室や医師に慣れてくる時間を稼ぐということに加え、会話しているうちに親がリラックスしだすことにも意味があるのではないかと思う。一般的に乳児は新規な場面に遭遇した時に親の様子に注目し、親が用心していると自分も怖がるし、親が安心していると自分も安心する。社会的参照と名付けられた現象である。
すぐに目を合わさないことの次に考え出したことは、赤ちゃんにおもちゃを渡すことである。親と会話をしている間に赤ちゃんが次第に落ち着いてくると、好奇心を表に出しキョロキョロあたりを見回すようになる。この様なタイミングで親と会話を続けながらおもちゃを渡す。おもちゃとして僕が愛用しているのは紙切れである。紙はどこでも必ず手に入るので使いやすい。そのままそっと差し出すこともあるが、赤ちゃんの前でビリビリと小さな短冊に切って見せたり、息を吹きかけて揺らしたり、丸めて小さな玉を作ったりして赤ちゃんが一層興味を持てるようにする。知らない人の前で激しく泣くので困るということは人見知りが始まっているわけで、おおよそ生後半年を超えている。この時期を過ぎるとかなり自由にものを手にとって遊べるようになる。従って、紙切れに興味を持てば積極的に手に取ろうとしだす。1歳の誕生日が近くなれば丸めた紙を指先でつまんだり、薄い紙を両手でそれぞれつまんで引っ張ったりもする。こうやって遊ばせることで赤ちゃんを安心させられるだけではなく、手先の器用さを中心に運動機能の評価を同時に行うことができる。
かなり落ち着いていた赤ちゃんでも、実際に触ったり聴診器をあてたりしだすとやおら泣き始めることがよくある。ここでなんとかできないかとひねり出したのが、診察直前に診察道具で遊ばせる方法である。特に使いやすいのは聴診器である。赤ちゃんの前でぶらぶらと振り子のように振り注目を引きつけた上で「はい、どうぞ」とベル(聴診器の先にある、体に当てる部分)を差し出すと、多くの乳児はベルを手に取ろうとする。しばらく触らせた上で「ちょうだい」と手を伸ばすと、1歳に近い赤ちゃんであれば返してくれることが多い。こうやって聴診器に慣れた後だと無事に聴診を開始できることが多い。ここまで来ればお腹を触ったり、手足を触ったり、打鍵器で膝や足首を叩いたりと、無事に診察が進められることが多いのである。
僕は方法を「考える」ことで、乳児との付き合い方が随分上手くなった。しかし、何も考えずにすっと赤ちゃんを抱き上げるタイプの人と比べると膨大な時間を費やしたことになるし、それでもなお赤ちゃんとの間に壁のない人のレベルには至っていない。例外的な反応を示す赤ちゃんがいれば咄嗟にうまい対応ができないことも多い。また、もっとうまい方法があるのかもしれないが、一度やり方を決めてしまうとなかなか新しいアプローチを取り入れることができない。ひょっとしたら上記の方法の何かがむしろ僕と赤ちゃんの距離を縮めることの障害になっていたとしても、そこに気付くことができない。癪に触ることには、躊躇うことなく赤ちゃんを抱き上げるタイプの人達は僕の苦労なんて気付きもしないのである。全くもって、赤ちゃんと良好な関係を築くことは赤子の手をひねるようにはいかないのである。このように書いていくと、似たような話があることに思い当たる。自閉症を伴う人達が社会に入り暮らしていく苦労というのはこういうことなのかもしれない。
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