2017年9月29日金曜日

言霊の国

 何かに対する不平不満を垂れ流している文章はみっともないものである。誰かの落ち度や欠点をあげつらうような文章は、本人は「俺は分かってるんだ、俺は意識が高いんだ」と息巻いているのだが、人が読んでも得るものは少ないし面白くもない文章になりがちである。もちろん、手間暇をかけて客観的なデータをつぶさに集め、論理的な思考で丹念に問題を批判する文章には高い価値がある。しかし、さして深い知識があるわけでもないのに自分の感じたことだけを根拠に文句を垂れ流すような文章はロクデモナイものである。何が言いたいかというと、以下の文章はそのロクデモナイものですよという親切な警告なのである。
 かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
 今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
 自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
 さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
 なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
 さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
 僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。

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