2017年8月21日月曜日

技術屋としての専門性

 以前、教師には技術レベルの専門性がないのではないかという文章を書いたことがあった(「教師の専門性」)。しかし、我ながら漠然とした感情を吐露しただけの文章であった。さて、今日小学校の先生をしている卒業生が職場に遊びに来た。彼と話していて、技術屋としての専門性についての考えが少し進んだので、メモを残しておく。ここで取り上げたい専門性を持った技術屋は、コツコツと手先の技を鍛えた職人ではない。実技を繰り返すことで長年技を磨いてきた人は匠ではあるが、僕の考える専門的な技術屋ではない。もちろんどの様な領域の技術屋でも身体で覚える技術はあると思う。しかし、それだけで終わるなら(つまり、経験だけに裏打ちされた技術屋なら)、極めて狭い領域でしか成果を残せないと思う。それはそれで価値はあるが、社会の大きな問題を解決する技術屋にはなれないと思うのである。ここで「社会の大きな問題を解決する技術屋」とは何を意味するのかはっきりと定義できないのだが、具体的に言えば、建築家、土木屋、医師、ソーシャルワーカー、教師、保育士、といったものをイメージしている。
 今日、僕は技術屋としての専門性には2つの条件があるのではないかと考えついた。まず、技術、あるいは方法を裏付ける理屈ないし理論があるということである。これは、単に××を解決するためには○○が良いという組み合わせを知っているのでは無く、××の状態に○○が良い影響を及ぼす機序を理屈として把握しているということを意味している。仮に○○を実行しても予想に反して効果が認められない時、背景となる理屈を理解できていればなぜ効果がないか、どう変更すれば効果が見込めるか、ということの仮説が立てられる。「長年こうやって来たんでさあ」しか根拠がなければ、それが効果なしと判明した時に打つ手がない。いや、手を打たずにいればまだましで、この方法が良いに違いないと意地になれば傷口を広げるばかりである。
 2番目の条件は、自分が用いた技術・方法がどの程度成果を出せたか判断するための評価法を持っているかどうかである。技術というものは演繹的に考えるだけで磨くことができるものではない。常に進化させていくためには結果の良し悪しを判断し、それをフィードバックさせる必要がある。目指す成果が比較的単純な場面では、「評価法」などと大上段に構える必要はないかもしれない。しかし、「社会の大きな問題を解決する技術屋」と考えるなら、それほど単純には成果を評価できない。どの様に客観的に成果を評価するかという方法論が用意されているかどうかも技術屋としての専門性を規定する重要な要素ではないかと思う。
 まとめると、専門性を持った技術屋としての条件は、まず技術や方法の基盤となる理論を持っていることである。そして、技術や方法を用いた時の成果を評価する方法を確保していることである。僕は今まで自分を技術屋と考えていた。だからこそこういうことを考え、文章として残そうと考えたわけである。しかしなんだなあ、自分の首を絞めている様な気がしてきたぞ。

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