2017年11月9日木曜日

偏食は悪か?

 隣の研究室の学生が、大学教員でもある栄養士になぜ偏食はいけないかというインタビューをした。結局のところ客観的な根拠を聞くことができず、倫理観が主体だったらしい。僕も最近、たまたま知り合った栄養士になぜ偏食がいけないかを聞くと、食材の生産者への感謝の気持ちなどを理由とし、客観的な根拠は聞くことができなかった。単なる素人に意見を聞いた結果がそうであればまだ分かるが、一応自然科学系に属する食の専門家に聞いても倫理あるいは価値観としての根拠のみで偏食はいけないという。これほど国中が口を揃えて「好き嫌いはいけない」とのたまっている根拠がこの程度である。
 当然、栄養失調になるほどの偏食は憂慮すべき事態であり、早急な対処が必要となるだろう。しかし、健康を害するほどの偏食などほとんどない。ぼくは倫理として偏食を良くないものとする考え方には抵抗がある。その理由はいくつかある。まず、大上段に構えた理由から述べるが、個人が食べるものを自己決定できないということが正当化されるのだろうか。個人の食事を摂る自由を強制的に制限する権利が誰にあるというのだろうか。
 次に、現実的な健康被害が生じる可能性があるということも大きな理由である。アレルギーがある子供が禁忌の食材を食べざるを得ない状況に追い詰められる危険性がある。ここまで明確なことではなくても、ひどく嫌なものを首根っこを抑えられて無理強いされて食べた結果、心理的な悪影響が生じる可能性は十分考えられる。特殊な場合として、自閉症児にはひどい偏食が伴っていることがよくある。多くの場合は、特定の料理や食材に根拠なく悪いイメージを持ち、食べないという状況に陥っている。この程度ならなんとかなることもあるが、自閉症児にとってかなり深刻な事態もある。彼らにとってはその食材が、平均的な人が生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を食べろと強いられたのに匹敵するほどの嫌悪感を引き起こしている場合もあるのだ。当然、生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を毎日無理やり食べさせられれば心身の健康を害する人は多いだろう(例え殺菌してあったとしても)。
 偏食がいけないという人たちの日常を見ていると、その主張に一貫性がないということも引っかかるところである。「好き嫌いがいけない」と声高に叫ぶ人たちの多くに好き嫌いがある。この世で人類が食しているものであれば一切好き嫌いをせずに食べている、と胸を張って宣言できる人はほとんどいないのではないだろうか。好き嫌いなく食べましょう攻撃の最前線を担っている教師でも、「パクチーはやめときます」とか「マトンはちょっと」などと言っている人は結構いそうだし、平均的な日本人ならイナゴの佃煮や油で揚げたバッタあるいは蟻の浮いたスープを大量に出されても「勘弁してくれ」という人が多いのではなかろうか。つまり、好き嫌いを無くせと主張している人達は、いかなる食物であっても美味しくいただきなさいと言っているのではなく、私達が食べているんだからあんたも食べるべきだという同調圧力をかけているに過ぎない。
 生きるためには食事は絶対必要である。毎日毎日、普通は3回の食事を食べ続けなければいけない。禅宗の僧侶でもない人、とりわけ子供にとって、毎日の食事が苦行である必要はないだろう。食事は生きる上での楽しみであって欲しい。本当は苦しみに満ちた世の中だからこそ、楽しみがたくさんあると認識させることはそれこそ「生きる力」となる。そういう意味で、食べられるものが増えることは悪くない。「これを食べることができる様になると、新しい楽しみが増えるよ」「もっと楽しくなるよ」と思わせること、そしてより楽しい世界を「自分の意思で選ぶことができるんだよ」と思わせることが偏食への基本的な対応だと考えた方が良い。併せて、自分が食べているものの成分がどの様に自分の体を支えているのかという科学的な理解を得るように促す工夫も必要だろう。日々食事を楽しみ、食べることの幸せを噛み締めながら暮らすことができれば、食材の生産者への感謝の念も育つというものだろう。偏食が「悪いこと」だから本人を苦しめても「直す」という発想では生きることの喜びには繋がらないだろうし、食材の生産者に感謝する気持ちも育たないだろう。人間、あらゆる要素に個人差がある。皆が同じになることを目指すのではなく、様々な人が共に暮らせる社会の方が暮らしやすい。肉が好きな子供も肉が食べられない子供も、ブロッコリーをモリモリ食べる子供もブロッコリーを口に入れられない子供も、共に幸せに生きていける社会が良いではないか。

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