2017年9月16日土曜日

不謹慎な話

 僕はともすれば不謹慎な言動を取りそうになる人間だ。しかし、実際に実行することは少ない。むしろ不謹慎な言動を注意深く慎む傾向が強い。基本的におっちょこちょいな僕としては驚くべきことである。ひょっとすると、子供の頃にうんと叱られて、何年もかかって学習したのかもしれない。人の不謹慎な言動に対してはどうかといえば、割と「あんなこと言ってる。良くないよな」などと考えながら眉をひそめることが多い。しかし、その場にいる誰かが明らかに傷付きそうな状況でもなければ、口に出して非難することはない。面倒を避けたいという気持ちもあるのだが、もっと大きな理由がある。僕は、たとえ現実の具体的経験では眉をひそめることが多いとしても、抽象的な概念としては不謹慎が悪いとは思っていない。いや、むしろ不謹慎であることは良いことだと思っている。正確にいえば、不謹慎な言動が許容される社会が望ましいと思っている。
 ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
 基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。

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