何かに対する不平不満を垂れ流している文章はみっともないものである。誰かの落ち度や欠点をあげつらうような文章は、本人は「俺は分かってるんだ、俺は意識が高いんだ」と息巻いているのだが、人が読んでも得るものは少ないし面白くもない文章になりがちである。もちろん、手間暇をかけて客観的なデータをつぶさに集め、論理的な思考で丹念に問題を批判する文章には高い価値がある。しかし、さして深い知識があるわけでもないのに自分の感じたことだけを根拠に文句を垂れ流すような文章はロクデモナイものである。何が言いたいかというと、以下の文章はそのロクデモナイものですよという親切な警告なのである。
かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。
2017年9月29日金曜日
2017年9月16日土曜日
不謹慎な話
僕はともすれば不謹慎な言動を取りそうになる人間だ。しかし、実際に実行することは少ない。むしろ不謹慎な言動を注意深く慎む傾向が強い。基本的におっちょこちょいな僕としては驚くべきことである。ひょっとすると、子供の頃にうんと叱られて、何年もかかって学習したのかもしれない。人の不謹慎な言動に対してはどうかといえば、割と「あんなこと言ってる。良くないよな」などと考えながら眉をひそめることが多い。しかし、その場にいる誰かが明らかに傷付きそうな状況でもなければ、口に出して非難することはない。面倒を避けたいという気持ちもあるのだが、もっと大きな理由がある。僕は、たとえ現実の具体的経験では眉をひそめることが多いとしても、抽象的な概念としては不謹慎が悪いとは思っていない。いや、むしろ不謹慎であることは良いことだと思っている。正確にいえば、不謹慎な言動が許容される社会が望ましいと思っている。
ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。
ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。
2017年8月21日月曜日
技術屋としての専門性
以前、教師には技術レベルの専門性がないのではないかという文章を書いたことがあった(「教師の専門性」)。しかし、我ながら漠然とした感情を吐露しただけの文章であった。さて、今日小学校の先生をしている卒業生が職場に遊びに来た。彼と話していて、技術屋としての専門性についての考えが少し進んだので、メモを残しておく。ここで取り上げたい専門性を持った技術屋は、コツコツと手先の技を鍛えた職人ではない。実技を繰り返すことで長年技を磨いてきた人は匠ではあるが、僕の考える専門的な技術屋ではない。もちろんどの様な領域の技術屋でも身体で覚える技術はあると思う。しかし、それだけで終わるなら(つまり、経験だけに裏打ちされた技術屋なら)、極めて狭い領域でしか成果を残せないと思う。それはそれで価値はあるが、社会の大きな問題を解決する技術屋にはなれないと思うのである。ここで「社会の大きな問題を解決する技術屋」とは何を意味するのかはっきりと定義できないのだが、具体的に言えば、建築家、土木屋、医師、ソーシャルワーカー、教師、保育士、といったものをイメージしている。
今日、僕は技術屋としての専門性には2つの条件があるのではないかと考えついた。まず、技術、あるいは方法を裏付ける理屈ないし理論があるということである。これは、単に××を解決するためには○○が良いという組み合わせを知っているのでは無く、××の状態に○○が良い影響を及ぼす機序を理屈として把握しているということを意味している。仮に○○を実行しても予想に反して効果が認められない時、背景となる理屈を理解できていればなぜ効果がないか、どう変更すれば効果が見込めるか、ということの仮説が立てられる。「長年こうやって来たんでさあ」しか根拠がなければ、それが効果なしと判明した時に打つ手がない。いや、手を打たずにいればまだましで、この方法が良いに違いないと意地になれば傷口を広げるばかりである。
2番目の条件は、自分が用いた技術・方法がどの程度成果を出せたか判断するための評価法を持っているかどうかである。技術というものは演繹的に考えるだけで磨くことができるものではない。常に進化させていくためには結果の良し悪しを判断し、それをフィードバックさせる必要がある。目指す成果が比較的単純な場面では、「評価法」などと大上段に構える必要はないかもしれない。しかし、「社会の大きな問題を解決する技術屋」と考えるなら、それほど単純には成果を評価できない。どの様に客観的に成果を評価するかという方法論が用意されているかどうかも技術屋としての専門性を規定する重要な要素ではないかと思う。
まとめると、専門性を持った技術屋としての条件は、まず技術や方法の基盤となる理論を持っていることである。そして、技術や方法を用いた時の成果を評価する方法を確保していることである。僕は今まで自分を技術屋と考えていた。だからこそこういうことを考え、文章として残そうと考えたわけである。しかしなんだなあ、自分の首を絞めている様な気がしてきたぞ。
今日、僕は技術屋としての専門性には2つの条件があるのではないかと考えついた。まず、技術、あるいは方法を裏付ける理屈ないし理論があるということである。これは、単に××を解決するためには○○が良いという組み合わせを知っているのでは無く、××の状態に○○が良い影響を及ぼす機序を理屈として把握しているということを意味している。仮に○○を実行しても予想に反して効果が認められない時、背景となる理屈を理解できていればなぜ効果がないか、どう変更すれば効果が見込めるか、ということの仮説が立てられる。「長年こうやって来たんでさあ」しか根拠がなければ、それが効果なしと判明した時に打つ手がない。いや、手を打たずにいればまだましで、この方法が良いに違いないと意地になれば傷口を広げるばかりである。
2番目の条件は、自分が用いた技術・方法がどの程度成果を出せたか判断するための評価法を持っているかどうかである。技術というものは演繹的に考えるだけで磨くことができるものではない。常に進化させていくためには結果の良し悪しを判断し、それをフィードバックさせる必要がある。目指す成果が比較的単純な場面では、「評価法」などと大上段に構える必要はないかもしれない。しかし、「社会の大きな問題を解決する技術屋」と考えるなら、それほど単純には成果を評価できない。どの様に客観的に成果を評価するかという方法論が用意されているかどうかも技術屋としての専門性を規定する重要な要素ではないかと思う。
まとめると、専門性を持った技術屋としての条件は、まず技術や方法の基盤となる理論を持っていることである。そして、技術や方法を用いた時の成果を評価する方法を確保していることである。僕は今まで自分を技術屋と考えていた。だからこそこういうことを考え、文章として残そうと考えたわけである。しかしなんだなあ、自分の首を絞めている様な気がしてきたぞ。
2017年8月8日火曜日
緊急事態には穏やかに指示を出せ
自分が医師だと、医療ドラマを見る時に興醒めすることが多くなる。医学的に明らかな間違いがある時は典型的な例である。しかし、最近のドラマは結構取材して作られることが増えているようだし、自分が医師として下り坂を転げ落ちていることもあって、明らかな間違いにテレビの前でツッコミを入れることは減ってきたと思う。相変わらず多いなあと感じる問題は、めったやたらと腕の良い、なんでも助けてしまうゴットハンド・ドクターが出て来る問題である。現実の医療はそんなに輝かしい功績を毎日積み上げているわけではない。昔に比べて解決できる問題が増えてきたとはいえ、十分に治療成果を上げられない、いやいや全く手の付けようの無い状態でさえ多いのが医療の現状である。不自然なほど腕の良い医師が活躍するドラマを観ると「ケッ、」と言いたくなる。とか言いながら、僕は医療ドラマを結構よく見ている。今季は10年ぶりに始まったコードブルーである。山Pは相変わらず優秀すぎるだろうと思うものの、第1シーズンから上手くいかないことに悩む医師に焦点を当てることが多かったし、今回は新人の育成ということもテーマになっているし、まあ、ましな方ではないかとも思うのである。で、コードブルーを見ていて急に思い出したことがある。そのことを書き留めておこうと思う。ここまでの前置きとは全く関係のない、リーダー論である。ベストセラーのビジネス書を遥かに凌ぐ内容になる予定は全くないのだが、お付き合い願えれば幸いである。
僕は医師になって直ぐに大学病院の小児神経学を専門にする部署に所属した。小児神経学とは、てんかんや脳性麻痺など子供の脳神経疾患を扱う分野である。小児科の一領域と言っても良いが、一領域を専門とする部署なので非常に狭い領域のみに専念する医師になったわけである。総合診療医とは全く逆の方向性と言って良い。医師になって5年目が終わろうとする頃、地方都市にある中核病院の小児科に赴任した。そこはかなり大きな病院であった。日々多岐に渡る患者が受診するため、その病院の医師達は鍛えられていた。若い研修医といえどもかなり高度な治療手技を自分のものにしていた。ところで、僕は形式的には神経疾患の責任者として赴任しており、どちらかと言えば指導的立場に属していた。しかし、長年大学病院という特殊な場所の、しかも小児神経学に特化した一層特殊な部署に所属していたので、第一線の小児科医が身につけている多くの手技が習得できていなかった。とりわけ、心肺蘇生に関連した技術は極めて乏しかった。
ある日、一人の患者の血圧が低下し、呼吸もままならない状況が発生した。病棟には僕と、僕より若い何人かの研修医達がおり、その事態に対応することになった。上述のように、僕は心肺蘇生に全く不慣れであり、その一方で研修医達は信頼できる優秀なメンバーが揃っていた。一応その場にはいたものの、僕としてはかなり見物人的な意識が強い状態であった。道具を用意したり、記録をとったり、邪魔にならないように周辺部の雑用係を引き受けていたのである。すると、研修医の中ではリーダー格の医師が僕に向かって「先生、指示を出してください。こういう修羅場には司令塔が必要です」と言ったのである。確かに、その時は患者に複数の医師が群がっているのだが、どことなく騒然として、スムーズに処置が進まない状態になっていた。そこで僕がそれぞれの医師を指定しながら次に何をするかの指示を出し、分からないことがあれば率直に質問して教えてもらいながら次の一手は僕が判断するというふうにした。すると頼りない司令塔であっても、個々がそれぞれ勝手に動いていた時よりもずっと効率的に物事が進み出したのである。この時僕は、混乱した状況では誰かが声を出して指示をする役割を引き受ける必要があることを学んだ。
それから何年か後の話である。外来で診察しているときのことだが、隣の診察室では後輩医師がアレルギー患者の負荷試験をしていた。アレルギーの原因と思われる食物を少量食べさせて、症状が悪化しないか確認する検査である。と、突然その医師が金切り声を上げだした。看護師に呼吸をサポートするバッグを持ってくるように指示を与えている様子である。何事かと覗きに行くと、患者が強いアレルギー反応(アナフィラキシー)を起こしていた。傍目八目の強みでこちらは結構冷静である。見れば患者はさほど重篤では無さそうだ。まずは血圧の確認だなと考え、看護師に「血圧測って〜」と呑気な声で指示を出した。すると後輩医師は急速に落ち着きを取り戻し、テキパキと動き始めた。後輩とはいえ彼女は有能な医師で、僕より緊急対応のスキルは遥かに高いのである。それ以降は僕の出る幕はなかった。たまたま患者の経過が落ち着いていたので油断していたところに、予想外の強い症状が出たため狼狽えてしまったらしい。後でその医師から僕の声を聞いて冷静になれたと礼を言われた。一声発するだけで他に何もしなくても礼を言ってもらえるのだからお得な経験である。
このエピソードで、緊迫した状況では、その場にいる人の過剰な緊張を取ることができることも様々な現場を管理する上で重要な要素だと気がついた。この時の僕の振る舞いは偶然の産物だが、後に出会った救命救急医はこの考えの正しさを裏付けてくれた。その救急医は常にのんびりと穏やかに明るく振る舞うのである。急患の処置で騒然としているERに、「どんな〜?」と言いながら、いつも飄々とした様子で入ってくる。もちろん、必要な指示や処置は的確に進めていくのである。その医師が部屋に入ってくると、場のスタッフ達にはどことなくホッとした雰囲気が漂う。その医師が醸し出す穏やかな雰囲気は、おそらくスタッフそれぞれが本来持っている力を十分に発揮できる下地になっていたと思う。
テレビの医療ドラマは妙にギスギスした場面が多い。特に救命救急が舞台になっているものでは、登場人物がやたらと厳しいことを言い、怒鳴りあっているような演出が目につく。僕にとっての優秀な救命救急医は上記の医師のイメージである。そのため、やたら医師が喚いているドラマを観るとむしろ現実味がない気がしてしまう。
話が逸れてしまうが、高校野球を始めとして日本のスポーツ界にはやたらと檄を飛ばしたがる監督やコーチが多い。檄を飛ばすどころか罵りと言った方が良いくらいの言動を取る人も少なくない気がする。人ごとのように言っているが、本来僕もこの種の人間である。たまたまスポーツが苦手だったので監督になることもなかったが、万が一監督になっていたら怒鳴り回していた可能性が高い。しかし、厳しく怒鳴り続けることで人が実力を発揮するかということに今の僕はかなり懐疑的である。
とりとめのない話になりそうなので、まとめに入ろう。予期せぬトラブルや緊迫した事態が繰り返し生じる現場で、複数の人員で対処する際のマネージメントには重要なポイントが2つあると思う。まず、誰かがリーダーにならねばならない。つまり、その場の責任を背負って明確な指示を出す役割である。それは日常の役職の上下や知識やスキルを習得しているかどうかは必ずしも関係ない。非常事態が生じた時に、責任を背負う人が名乗りを上げなければ、混乱し続けるリスクがある。もう一点は、場の雰囲気を過剰に緊張させてはいけない。「緊張感を持って対処する」ことが好きな人は多い。特に、いわゆるお偉方にはこのセリフを好んで使いたがる人が多い気がする。ついでに言えば、教育関係者もこういう発想が好きな人が多いのではないかと思う。しかし、その場にいるメンバーが持てる力を余すところなく発揮するためには、リラックスさせる必要があるのではなかろうか。緊急事態や突発事態が繰り返し起こる現場や、社会の枠組みが大きく変わり今まで通りの対応では事態が改善しないような状況では、人に指示を出す役を引き受け、しかもあくまで穏やかにのんびり振舞える人は、そのような状態におけるリーダーに最もふさわしいのではないかと思う。穏やかに「緊急事態が発生しました」と言える人である。
僕は医師になって直ぐに大学病院の小児神経学を専門にする部署に所属した。小児神経学とは、てんかんや脳性麻痺など子供の脳神経疾患を扱う分野である。小児科の一領域と言っても良いが、一領域を専門とする部署なので非常に狭い領域のみに専念する医師になったわけである。総合診療医とは全く逆の方向性と言って良い。医師になって5年目が終わろうとする頃、地方都市にある中核病院の小児科に赴任した。そこはかなり大きな病院であった。日々多岐に渡る患者が受診するため、その病院の医師達は鍛えられていた。若い研修医といえどもかなり高度な治療手技を自分のものにしていた。ところで、僕は形式的には神経疾患の責任者として赴任しており、どちらかと言えば指導的立場に属していた。しかし、長年大学病院という特殊な場所の、しかも小児神経学に特化した一層特殊な部署に所属していたので、第一線の小児科医が身につけている多くの手技が習得できていなかった。とりわけ、心肺蘇生に関連した技術は極めて乏しかった。
ある日、一人の患者の血圧が低下し、呼吸もままならない状況が発生した。病棟には僕と、僕より若い何人かの研修医達がおり、その事態に対応することになった。上述のように、僕は心肺蘇生に全く不慣れであり、その一方で研修医達は信頼できる優秀なメンバーが揃っていた。一応その場にはいたものの、僕としてはかなり見物人的な意識が強い状態であった。道具を用意したり、記録をとったり、邪魔にならないように周辺部の雑用係を引き受けていたのである。すると、研修医の中ではリーダー格の医師が僕に向かって「先生、指示を出してください。こういう修羅場には司令塔が必要です」と言ったのである。確かに、その時は患者に複数の医師が群がっているのだが、どことなく騒然として、スムーズに処置が進まない状態になっていた。そこで僕がそれぞれの医師を指定しながら次に何をするかの指示を出し、分からないことがあれば率直に質問して教えてもらいながら次の一手は僕が判断するというふうにした。すると頼りない司令塔であっても、個々がそれぞれ勝手に動いていた時よりもずっと効率的に物事が進み出したのである。この時僕は、混乱した状況では誰かが声を出して指示をする役割を引き受ける必要があることを学んだ。
それから何年か後の話である。外来で診察しているときのことだが、隣の診察室では後輩医師がアレルギー患者の負荷試験をしていた。アレルギーの原因と思われる食物を少量食べさせて、症状が悪化しないか確認する検査である。と、突然その医師が金切り声を上げだした。看護師に呼吸をサポートするバッグを持ってくるように指示を与えている様子である。何事かと覗きに行くと、患者が強いアレルギー反応(アナフィラキシー)を起こしていた。傍目八目の強みでこちらは結構冷静である。見れば患者はさほど重篤では無さそうだ。まずは血圧の確認だなと考え、看護師に「血圧測って〜」と呑気な声で指示を出した。すると後輩医師は急速に落ち着きを取り戻し、テキパキと動き始めた。後輩とはいえ彼女は有能な医師で、僕より緊急対応のスキルは遥かに高いのである。それ以降は僕の出る幕はなかった。たまたま患者の経過が落ち着いていたので油断していたところに、予想外の強い症状が出たため狼狽えてしまったらしい。後でその医師から僕の声を聞いて冷静になれたと礼を言われた。一声発するだけで他に何もしなくても礼を言ってもらえるのだからお得な経験である。
このエピソードで、緊迫した状況では、その場にいる人の過剰な緊張を取ることができることも様々な現場を管理する上で重要な要素だと気がついた。この時の僕の振る舞いは偶然の産物だが、後に出会った救命救急医はこの考えの正しさを裏付けてくれた。その救急医は常にのんびりと穏やかに明るく振る舞うのである。急患の処置で騒然としているERに、「どんな〜?」と言いながら、いつも飄々とした様子で入ってくる。もちろん、必要な指示や処置は的確に進めていくのである。その医師が部屋に入ってくると、場のスタッフ達にはどことなくホッとした雰囲気が漂う。その医師が醸し出す穏やかな雰囲気は、おそらくスタッフそれぞれが本来持っている力を十分に発揮できる下地になっていたと思う。
テレビの医療ドラマは妙にギスギスした場面が多い。特に救命救急が舞台になっているものでは、登場人物がやたらと厳しいことを言い、怒鳴りあっているような演出が目につく。僕にとっての優秀な救命救急医は上記の医師のイメージである。そのため、やたら医師が喚いているドラマを観るとむしろ現実味がない気がしてしまう。
話が逸れてしまうが、高校野球を始めとして日本のスポーツ界にはやたらと檄を飛ばしたがる監督やコーチが多い。檄を飛ばすどころか罵りと言った方が良いくらいの言動を取る人も少なくない気がする。人ごとのように言っているが、本来僕もこの種の人間である。たまたまスポーツが苦手だったので監督になることもなかったが、万が一監督になっていたら怒鳴り回していた可能性が高い。しかし、厳しく怒鳴り続けることで人が実力を発揮するかということに今の僕はかなり懐疑的である。
とりとめのない話になりそうなので、まとめに入ろう。予期せぬトラブルや緊迫した事態が繰り返し生じる現場で、複数の人員で対処する際のマネージメントには重要なポイントが2つあると思う。まず、誰かがリーダーにならねばならない。つまり、その場の責任を背負って明確な指示を出す役割である。それは日常の役職の上下や知識やスキルを習得しているかどうかは必ずしも関係ない。非常事態が生じた時に、責任を背負う人が名乗りを上げなければ、混乱し続けるリスクがある。もう一点は、場の雰囲気を過剰に緊張させてはいけない。「緊張感を持って対処する」ことが好きな人は多い。特に、いわゆるお偉方にはこのセリフを好んで使いたがる人が多い気がする。ついでに言えば、教育関係者もこういう発想が好きな人が多いのではないかと思う。しかし、その場にいるメンバーが持てる力を余すところなく発揮するためには、リラックスさせる必要があるのではなかろうか。緊急事態や突発事態が繰り返し起こる現場や、社会の枠組みが大きく変わり今まで通りの対応では事態が改善しないような状況では、人に指示を出す役を引き受け、しかもあくまで穏やかにのんびり振舞える人は、そのような状態におけるリーダーに最もふさわしいのではないかと思う。穏やかに「緊急事態が発生しました」と言える人である。
2017年7月2日日曜日
意識的な社会的技術
小児科医になる人は子供が好きな人ばかりというイメージがあるかもしれない。しかし、そんなことはない。実際、僕は子供が好きではなかった。では何故小児科医(細かく拘ると小児神経科医)になったのかというと、子供相手ならあまり喋らなくて良さそうだという非社交的な理由が大きかった。大学生の頃、僕は親しくない人と話すことがめっぽう苦手だった。だから、なるべくならあまり話さなくても仕事ができそうな進路を選びたかった。特に女性と話すことが苦手で、産婦人科や膠原病(女性の患者が多い)を専門とする診療科には進みたくなかった。いかに暗い青春時代を送っていたのかがよく分かる、悲しい逸話ではないか。
さて、小児科医になってから自分の間抜けさ加減に気がついた。考えれば当たり前のことだが、小児科医はかなり喋らないといけない。幼い子供が一人で受診するはずはなく、必ず親か祖父母か、世話を焼いている大人が付いてくる。しかも、圧倒的に母親、つまり女性が多い。結果的に、多くの女性としゃべりまくりながら今日に至る。おかげで、今では仕事に関する話や事務的な話なら全く臆することなく女性と話すことができる。むしろ男性よりも女性の方が話しやすいかなと思っているくらいだ。ただし、相変わらずなんの目的もない雑談は苦手である。
いくら苦手意識があったとはいえ、大人相手の、しかも仕事の上での話なら小児科医になって間も無くからそれなりにできていた。何しろ患者の家族は医師の話を聞こうとしてくれるし、結構気も使って話を合わせてもくれるのである。こちらとしては、最低限礼儀を失しないことに気をつけておけば、まあそこそこ仕事が成立する程度の話はできていた。意外なことに問題は子供であった。特に苦労したのは乳児である。話さなくて良いから楽だろうなんてとんでもない話だった。奴らは泣くのである。遠慮のかけらもない。1mm足りとも気遣いを見せる素振りはないのである。
世間のイメージ通り、子供が大好きな小児科医もいる。そのような医師は何の躊躇もなく赤ちゃんに近づき、あろうことかいきなり抱き上げたりもする。子供が好きな医師からは赤ちゃんを安心させるオーラでも出ているのか、赤ちゃんも抱かれて平気な顔をしている。ところが僕の場合は赤ちゃんと顔をあわせるだけで相手の表情は固くなる。距離を縮めるともう半泣きで、赤ちゃんに手を伸ばせば7割、8割の赤ちゃんは泣いてしまう。乳児の診察で重要なスキルの一つは、いかに泣かさないかということである。学生実習の時に小児科の指導医が最初に教えることの一つに「口の中の診察は最後にしろ」というのがある。これも泣かさないための配慮である。泣かれると聴診器は役立たずで邪魔なだけの管に化してしまうし、目の動きも見られないし、手足の運動能力も確認できないし、口の中も十分見られないしで、もう仕事にならない。泣き喚く赤ちゃんを見ながら、よく考えずに小児科医の道を選択したことを後悔することもあった。
さすがに、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。四苦八苦するうちに、色々工夫の余地があることに気が付いた。まず発見したことは、親に抱かれて赤ちゃんが診察室に入ってきた時、目を合わせないようにすると泣きにくくなるということである。診察前の乳児の挙動から得られる情報も多いので全く見ないわけではないのだが、目を合わさないようにするだけで恐怖感が喚起されにくくなるようである。このことに気付いてからは、赤ちゃんが入室後しばらくは、まるで本人には関心がなく親と会話したいだけという振りをするようにした。今から思えば、赤ちゃんが診察室や医師に慣れてくる時間を稼ぐということに加え、会話しているうちに親がリラックスしだすことにも意味があるのではないかと思う。一般的に乳児は新規な場面に遭遇した時に親の様子に注目し、親が用心していると自分も怖がるし、親が安心していると自分も安心する。社会的参照と名付けられた現象である。
すぐに目を合わさないことの次に考え出したことは、赤ちゃんにおもちゃを渡すことである。親と会話をしている間に赤ちゃんが次第に落ち着いてくると、好奇心を表に出しキョロキョロあたりを見回すようになる。この様なタイミングで親と会話を続けながらおもちゃを渡す。おもちゃとして僕が愛用しているのは紙切れである。紙はどこでも必ず手に入るので使いやすい。そのままそっと差し出すこともあるが、赤ちゃんの前でビリビリと小さな短冊に切って見せたり、息を吹きかけて揺らしたり、丸めて小さな玉を作ったりして赤ちゃんが一層興味を持てるようにする。知らない人の前で激しく泣くので困るということは人見知りが始まっているわけで、おおよそ生後半年を超えている。この時期を過ぎるとかなり自由にものを手にとって遊べるようになる。従って、紙切れに興味を持てば積極的に手に取ろうとしだす。1歳の誕生日が近くなれば丸めた紙を指先でつまんだり、薄い紙を両手でそれぞれつまんで引っ張ったりもする。こうやって遊ばせることで赤ちゃんを安心させられるだけではなく、手先の器用さを中心に運動機能の評価を同時に行うことができる。
かなり落ち着いていた赤ちゃんでも、実際に触ったり聴診器をあてたりしだすとやおら泣き始めることがよくある。ここでなんとかできないかとひねり出したのが、診察直前に診察道具で遊ばせる方法である。特に使いやすいのは聴診器である。赤ちゃんの前でぶらぶらと振り子のように振り注目を引きつけた上で「はい、どうぞ」とベル(聴診器の先にある、体に当てる部分)を差し出すと、多くの乳児はベルを手に取ろうとする。しばらく触らせた上で「ちょうだい」と手を伸ばすと、1歳に近い赤ちゃんであれば返してくれることが多い。こうやって聴診器に慣れた後だと無事に聴診を開始できることが多い。ここまで来ればお腹を触ったり、手足を触ったり、打鍵器で膝や足首を叩いたりと、無事に診察が進められることが多いのである。
僕は方法を「考える」ことで、乳児との付き合い方が随分上手くなった。しかし、何も考えずにすっと赤ちゃんを抱き上げるタイプの人と比べると膨大な時間を費やしたことになるし、それでもなお赤ちゃんとの間に壁のない人のレベルには至っていない。例外的な反応を示す赤ちゃんがいれば咄嗟にうまい対応ができないことも多い。また、もっとうまい方法があるのかもしれないが、一度やり方を決めてしまうとなかなか新しいアプローチを取り入れることができない。ひょっとしたら上記の方法の何かがむしろ僕と赤ちゃんの距離を縮めることの障害になっていたとしても、そこに気付くことができない。癪に触ることには、躊躇うことなく赤ちゃんを抱き上げるタイプの人達は僕の苦労なんて気付きもしないのである。全くもって、赤ちゃんと良好な関係を築くことは赤子の手をひねるようにはいかないのである。このように書いていくと、似たような話があることに思い当たる。自閉症を伴う人達が社会に入り暮らしていく苦労というのはこういうことなのかもしれない。
さて、小児科医になってから自分の間抜けさ加減に気がついた。考えれば当たり前のことだが、小児科医はかなり喋らないといけない。幼い子供が一人で受診するはずはなく、必ず親か祖父母か、世話を焼いている大人が付いてくる。しかも、圧倒的に母親、つまり女性が多い。結果的に、多くの女性としゃべりまくりながら今日に至る。おかげで、今では仕事に関する話や事務的な話なら全く臆することなく女性と話すことができる。むしろ男性よりも女性の方が話しやすいかなと思っているくらいだ。ただし、相変わらずなんの目的もない雑談は苦手である。
いくら苦手意識があったとはいえ、大人相手の、しかも仕事の上での話なら小児科医になって間も無くからそれなりにできていた。何しろ患者の家族は医師の話を聞こうとしてくれるし、結構気も使って話を合わせてもくれるのである。こちらとしては、最低限礼儀を失しないことに気をつけておけば、まあそこそこ仕事が成立する程度の話はできていた。意外なことに問題は子供であった。特に苦労したのは乳児である。話さなくて良いから楽だろうなんてとんでもない話だった。奴らは泣くのである。遠慮のかけらもない。1mm足りとも気遣いを見せる素振りはないのである。
世間のイメージ通り、子供が大好きな小児科医もいる。そのような医師は何の躊躇もなく赤ちゃんに近づき、あろうことかいきなり抱き上げたりもする。子供が好きな医師からは赤ちゃんを安心させるオーラでも出ているのか、赤ちゃんも抱かれて平気な顔をしている。ところが僕の場合は赤ちゃんと顔をあわせるだけで相手の表情は固くなる。距離を縮めるともう半泣きで、赤ちゃんに手を伸ばせば7割、8割の赤ちゃんは泣いてしまう。乳児の診察で重要なスキルの一つは、いかに泣かさないかということである。学生実習の時に小児科の指導医が最初に教えることの一つに「口の中の診察は最後にしろ」というのがある。これも泣かさないための配慮である。泣かれると聴診器は役立たずで邪魔なだけの管に化してしまうし、目の動きも見られないし、手足の運動能力も確認できないし、口の中も十分見られないしで、もう仕事にならない。泣き喚く赤ちゃんを見ながら、よく考えずに小児科医の道を選択したことを後悔することもあった。
さすがに、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。四苦八苦するうちに、色々工夫の余地があることに気が付いた。まず発見したことは、親に抱かれて赤ちゃんが診察室に入ってきた時、目を合わせないようにすると泣きにくくなるということである。診察前の乳児の挙動から得られる情報も多いので全く見ないわけではないのだが、目を合わさないようにするだけで恐怖感が喚起されにくくなるようである。このことに気付いてからは、赤ちゃんが入室後しばらくは、まるで本人には関心がなく親と会話したいだけという振りをするようにした。今から思えば、赤ちゃんが診察室や医師に慣れてくる時間を稼ぐということに加え、会話しているうちに親がリラックスしだすことにも意味があるのではないかと思う。一般的に乳児は新規な場面に遭遇した時に親の様子に注目し、親が用心していると自分も怖がるし、親が安心していると自分も安心する。社会的参照と名付けられた現象である。
すぐに目を合わさないことの次に考え出したことは、赤ちゃんにおもちゃを渡すことである。親と会話をしている間に赤ちゃんが次第に落ち着いてくると、好奇心を表に出しキョロキョロあたりを見回すようになる。この様なタイミングで親と会話を続けながらおもちゃを渡す。おもちゃとして僕が愛用しているのは紙切れである。紙はどこでも必ず手に入るので使いやすい。そのままそっと差し出すこともあるが、赤ちゃんの前でビリビリと小さな短冊に切って見せたり、息を吹きかけて揺らしたり、丸めて小さな玉を作ったりして赤ちゃんが一層興味を持てるようにする。知らない人の前で激しく泣くので困るということは人見知りが始まっているわけで、おおよそ生後半年を超えている。この時期を過ぎるとかなり自由にものを手にとって遊べるようになる。従って、紙切れに興味を持てば積極的に手に取ろうとしだす。1歳の誕生日が近くなれば丸めた紙を指先でつまんだり、薄い紙を両手でそれぞれつまんで引っ張ったりもする。こうやって遊ばせることで赤ちゃんを安心させられるだけではなく、手先の器用さを中心に運動機能の評価を同時に行うことができる。
かなり落ち着いていた赤ちゃんでも、実際に触ったり聴診器をあてたりしだすとやおら泣き始めることがよくある。ここでなんとかできないかとひねり出したのが、診察直前に診察道具で遊ばせる方法である。特に使いやすいのは聴診器である。赤ちゃんの前でぶらぶらと振り子のように振り注目を引きつけた上で「はい、どうぞ」とベル(聴診器の先にある、体に当てる部分)を差し出すと、多くの乳児はベルを手に取ろうとする。しばらく触らせた上で「ちょうだい」と手を伸ばすと、1歳に近い赤ちゃんであれば返してくれることが多い。こうやって聴診器に慣れた後だと無事に聴診を開始できることが多い。ここまで来ればお腹を触ったり、手足を触ったり、打鍵器で膝や足首を叩いたりと、無事に診察が進められることが多いのである。
僕は方法を「考える」ことで、乳児との付き合い方が随分上手くなった。しかし、何も考えずにすっと赤ちゃんを抱き上げるタイプの人と比べると膨大な時間を費やしたことになるし、それでもなお赤ちゃんとの間に壁のない人のレベルには至っていない。例外的な反応を示す赤ちゃんがいれば咄嗟にうまい対応ができないことも多い。また、もっとうまい方法があるのかもしれないが、一度やり方を決めてしまうとなかなか新しいアプローチを取り入れることができない。ひょっとしたら上記の方法の何かがむしろ僕と赤ちゃんの距離を縮めることの障害になっていたとしても、そこに気付くことができない。癪に触ることには、躊躇うことなく赤ちゃんを抱き上げるタイプの人達は僕の苦労なんて気付きもしないのである。全くもって、赤ちゃんと良好な関係を築くことは赤子の手をひねるようにはいかないのである。このように書いていくと、似たような話があることに思い当たる。自閉症を伴う人達が社会に入り暮らしていく苦労というのはこういうことなのかもしれない。
2017年5月23日火曜日
ADHDの病態は明らかにできるのか
最近出た注意欠如・多動症(ADHD)の総説が目に入り、なんとなく気になって読んでみた。ADHDの脳科学、認知科学的な問題を取り上げている。最新の研究成果を詳しく解説しているものではなく、といって臨床的に有用なことなどほとんど書かれていない論文で、あまり面白い内容ではなかった。が、まとまりのない、それこそ役にも立たない考えがふわふわ浮かんできたので、これも何かの縁と考え書き留めておく。
確かに、この領域の研究が進むことでADHDを臨床的に意味のある下位病型に分類できたり、より有効性の高い治療的取り組みを開発できる可能性はあると、僕も思う。ただ、あまり大きく期待できないだろうなあとも思う。第一に、こういう患者本人の脳機能のみに注目した研究が進んでも、環境との相互作用の中で臨床像が決定されるというADHDを始めとした発達障害の大きな特徴を掴みきれないだろう。同じ認知・行動特性を持っていても、環境の条件や生活の場の許容力によって問題が生じるかどうか、問題が生じるにしてもどういう領域が特に問題になるのかが変わってくる。問題を本人固有のものとした見方をする限り、ADHDの全容を理解することは難しいのではないかと思うのである。
障害を想定している認知機能それぞれの概念が、本当に存在すると仮定して良いのだろうかということについても多少不安を感じる。少なくとも現時点では想像に想像を重ねた様な極めて不確かな概念である。例えば、選択的注意という概念を想定することで色々なことを説明できる様になるので大きな意味はある。しかし、何を選択的注意というのか、選択的注意は一つの機能なのか下位カテゴリーがあるのか、選択的注意は独立した機能なのか、といったことについては結構不確かである。今後脳科学の研究が進み、選択的注意がより具体性を増す可能性もある。しかし、素人ながらに最近の脳科学の動向を見ていると、あらゆる認知機能は脳全体のネットワークとしてのみ理解されるようになる可能性もある。そうなると、個別の機能に分解して論じることがナンセンスと言われだす可能性さえある(素人の直感、鵜呑みにしないでね)。
研究者は、脳科学の手法を駆使してADHD患者固有の障害を明らかにしようと張り切っていることが多い気がする。一般の人も、障害といえば個々の患者の中に原因があると考えやすい。研究者も一般の人も最新の科学を駆使した知見が大好きである。何かはっきり説明できることがしっくり来るのだろう。しかし、ADHDやその他の発達障害を伴う子供達の臨床に携わっていると、事はそんなに単純なのだろうかと懐疑的になる。少数の原因が問題を生成するのではなく、数え切れないくらいの多くの要因が互いに複雑に作用しあった結果が現状ではないのだろうかと思うのだが、もちろん根拠のない僕の勝手な思いである。
Mueller A, et al. Linking ADHD to the Neural Circuitry of AttentionTrends in Cognitive Sciences 21:474–488, 2017ざっくり説明すると、ADHDの基盤となる認知機能障害を明確にすることによって、より診断を精緻化し、合理的な治療を開発できるようになるだろうと主張している。ADHDに関連する認知機能としては、選択的注意、持続的注意、反応の正確性、認知的柔軟性、作業記憶、時間情報処理、反応抑制、そして報酬系を取り上げている。そりゃ一体なんだ?と疑問に思った人はこだわらないでいただきたい。集中力とか、我慢する力とか、損得勘定を正しく評価する力とか、まあそんなものと思ってもらえれば良い。これらの機能がADHDでは障害されているらしいことが、人間やモデル動物を使った研究結果から推測されている。どの機能が特に障害されているのかを個々の患者で明らかにできるようになれば、より臨床像と明確な対応を示す緻密な診断ができるようになるだろう。そしてそれぞれの認知機能の基盤となる神経機構を解明することで、患者の特性に合わせた治療法を開発できるのではないかというのが、この論文の論旨である。
確かに、この領域の研究が進むことでADHDを臨床的に意味のある下位病型に分類できたり、より有効性の高い治療的取り組みを開発できる可能性はあると、僕も思う。ただ、あまり大きく期待できないだろうなあとも思う。第一に、こういう患者本人の脳機能のみに注目した研究が進んでも、環境との相互作用の中で臨床像が決定されるというADHDを始めとした発達障害の大きな特徴を掴みきれないだろう。同じ認知・行動特性を持っていても、環境の条件や生活の場の許容力によって問題が生じるかどうか、問題が生じるにしてもどういう領域が特に問題になるのかが変わってくる。問題を本人固有のものとした見方をする限り、ADHDの全容を理解することは難しいのではないかと思うのである。
障害を想定している認知機能それぞれの概念が、本当に存在すると仮定して良いのだろうかということについても多少不安を感じる。少なくとも現時点では想像に想像を重ねた様な極めて不確かな概念である。例えば、選択的注意という概念を想定することで色々なことを説明できる様になるので大きな意味はある。しかし、何を選択的注意というのか、選択的注意は一つの機能なのか下位カテゴリーがあるのか、選択的注意は独立した機能なのか、といったことについては結構不確かである。今後脳科学の研究が進み、選択的注意がより具体性を増す可能性もある。しかし、素人ながらに最近の脳科学の動向を見ていると、あらゆる認知機能は脳全体のネットワークとしてのみ理解されるようになる可能性もある。そうなると、個別の機能に分解して論じることがナンセンスと言われだす可能性さえある(素人の直感、鵜呑みにしないでね)。
研究者は、脳科学の手法を駆使してADHD患者固有の障害を明らかにしようと張り切っていることが多い気がする。一般の人も、障害といえば個々の患者の中に原因があると考えやすい。研究者も一般の人も最新の科学を駆使した知見が大好きである。何かはっきり説明できることがしっくり来るのだろう。しかし、ADHDやその他の発達障害を伴う子供達の臨床に携わっていると、事はそんなに単純なのだろうかと懐疑的になる。少数の原因が問題を生成するのではなく、数え切れないくらいの多くの要因が互いに複雑に作用しあった結果が現状ではないのだろうかと思うのだが、もちろん根拠のない僕の勝手な思いである。
2017年5月3日水曜日
学ぶことが面白いと感じることもある
大学でも職場でもどこでも良いが、何かがきっかけで猛烈に勉強しだす人がいる。僕の知っているある若者は、中学校で習うようなことさえ碌に身についていないにもかかわらず、ちょっと解説本を読めと紹介するだけで1年も経たない内に統計ソフトをほとんど独習で扱えるようになり、標準偏差やp値の概念を理解し、分散分析も実行し、その意味もかなり理解している状態になった。それでも英語の力は如何ともし難いなあと半分あきらめていたが、かなり強引に英語論文もなんとかかんとか読み出した。こういう人は何に火をつけられたのだろうか。必要に迫られたことももちろんありそうだが、何かを面白いと認識してしまうことが大きいのではないかと思う。僕自身を振り返っても、仕事を始めてから学校の試験勉強や受験勉強などよりもはるかに真剣に勉強した時期がある。必要に迫られた時にも努力はするが、面白みを感じている時には自分でも意外な力を発揮することがあった。学問に取り組むことはとっつきが悪く、なかなか辛いものである。しかし、必死で取り組むと必ず面白さがあり、それに気づくことができると自分の能力にはレベルが高すぎる論文をかき集め、いまいち理解できないにもかかわらず必死に読んだりしだす。別に誰もが学問に面白さを感じる必要はない。しかし、誰でもそういう経験ができるチャンスを持てるような社会であった方が良いのではないか。
「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。
「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。
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