大学でも職場でもどこでも良いが、何かがきっかけで猛烈に勉強しだす人がいる。僕の知っているある若者は、中学校で習うようなことさえ碌に身についていないにもかかわらず、ちょっと解説本を読めと紹介するだけで1年も経たない内に統計ソフトをほとんど独習で扱えるようになり、標準偏差やp値の概念を理解し、分散分析も実行し、その意味もかなり理解している状態になった。それでも英語の力は如何ともし難いなあと半分あきらめていたが、かなり強引に英語論文もなんとかかんとか読み出した。こういう人は何に火をつけられたのだろうか。必要に迫られたことももちろんありそうだが、何かを面白いと認識してしまうことが大きいのではないかと思う。僕自身を振り返っても、仕事を始めてから学校の試験勉強や受験勉強などよりもはるかに真剣に勉強した時期がある。必要に迫られた時にも努力はするが、面白みを感じている時には自分でも意外な力を発揮することがあった。学問に取り組むことはとっつきが悪く、なかなか辛いものである。しかし、必死で取り組むと必ず面白さがあり、それに気づくことができると自分の能力にはレベルが高すぎる論文をかき集め、いまいち理解できないにもかかわらず必死に読んだりしだす。別に誰もが学問に面白さを感じる必要はない。しかし、誰でもそういう経験ができるチャンスを持てるような社会であった方が良いのではないか。
「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。
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