2014年12月20日土曜日

せめてそっとしてあげて

深刻な病気や障害を抱えて何か大きなことを成し遂げた人がたまにいる。世間はそういう困難を克服して物事を成し遂げた人が大好きだ。もちろん、僕だってそういう人を尊敬するに吝かでは無い。ただ、世間は困難を努力で克服した人を讃えるだけでは飽き足らず、人はそのように在るべきだという価値観を押し付けたがるように見え、そこに僕は引っかかる。
 本人の努力で困難を克服すべきという価値観を誰に押し付けるのか。当然、ほとんど困難のない、幸せな日常を生きている人に「困難を克服せよ」と言うのはナンセンスだ。勢い、価値観を押し付ける先は困難を抱えている人たちになる。難病に罹患していたり、障害があったり、貧困の真っ只中に暮らしている人たちである。世間はこういう人たちに、「頑張れ」と言う。「努力せよ」とも言う。自分もかつては辛酸を舐めながら困難を克服したんだなどと、聞かれてもいないのに自分語りをし出す人さえいる。
 ちょっと待てよと言いたい。言われなくても頑張ってんだよ。難病を抱えている人も、障害のある人も、貧困を抱えている人も、苦しみの中でもがきながら、弥が上に頑張らざるを得ない状況に置かれているのだ。それ以上に、なぜ苦しませないといけないのだろう。本人の意思で頑張るならともかく、他人が苦労や努力を押し付けるような話ではなかろう。苦しんでいる人に必要なのはまず休息だ。そして、実行可能で成果に直結した具体的な援助や助言である。
 医者をしていると、患者に努力や我慢を求めざるを得ないことがよくある。慢性疾患で忘れずに毎日薬を飲むように指導したり、体重が増えすぎるとまずい場合に食事制限を求めたり、といったことだ。手術が必要な事例など、典型的だろう。努力や我慢を求めざるを得ないことがあることは確かなのだが、僕は患者に努力や我慢を求めることが嫌いである。そうせざるを得ないときにはとても辛くなる。何となれば、病院を受診するという時点ですでに何らかの苦しみを抱えているわけだ。それが風邪などの一過性のものであればまだしも、慢性疾患に罹患していたり障害を有していたりということになれば、たとえ口には出さなくとも色々な多くの苦しみを抱えていることは自明のことである。世の中の平均的な人がのほほんと生きている中で、すでに苦しみを味わっている人たちにさらに苦労を求めることは、本当に辛い。だから、せめて無駄な努力や我慢だけは求めたくない。
 苦しむ人達に必要なことは、その苦しみを軽減するための具体的な援助や助言だけである。本人の努力を求めることが許されるのは、その努力が高い確率で問題解決に資する場合だけだと思う。何も役に立たないことで頑張らせてはいけない。もしあなたが、困難を抱えた人たちに有効性の高い具体的な援助や手助けを提供できないのなら、せめてそっとしてあげて欲しい。

2014年12月10日水曜日

正しさが人を潰す時

年老いた母親はすっかり食べられる量が減っている。しかし、事前に適当な量の判断が難しいらしく、外食の時などおよそ食べられないだろうというメニューを、「多いよ」と忠告してもなお注文したりする。結局、途中で食べられなくなると、一緒に食べている僕に「食べなさい」と言う。断ると、遠慮しなくて良いという。助けて欲しいと訴えるならまだしも、相手のことを思っての善意の振る舞いにしてしまうことにこちらもイライラし、強い口調で断ると「お前はなんでそんなに冷たい物言いをするのだ」とぶちぶち文句を言いだす。
 このように説明すれば多少僕に同情してくれる人もいるかもしれない。しかし、年上の人間が若い者(といっても、四捨五入で60だが)に食事を分けようとすることは一般的には悪いことではない、と言うよりもむしろ称えられることかもしれない。また、食べ物を残さないようにするということはほとんどの人は正しい行いと考えるだろう。つまり、上記のような状況で母親が料理を提供しようとするのを断るとき、こちらとしてはどこか後ろめたさが伴うのである。なぜなら、一見したところ人の好意を無下に断っている状態にも見えるし、食べ物を粗末にする状況とみなされる気もするからである。この様に、表面的には善意に包まれた言動によってこちらが苦しい思いをする状態は、実に面白くない。
 なぜこのような話題を書いているのかというと、最近小中学校でクラス全員や学校全体で給食を残さずに食べることを目指す動きがあるということを知り、そこから連想したのである。具体例としてはここここなどで報道されている。このような動きがあるとは想像もしていなかった。クラス全体で完食を目指そうなどと言いだしたら、その陰で苦しむ子供が大勢いるのは火を見るよりも明らかである。好き嫌いの多い子供、小食な子供、肥満があるために食事制限を勧められている子供など、様々な個人的事情は倫理的には一見正しい「残さず食べる」という旗のもとに高まる同調圧力に踏みにじられることは想像に難くない。
 偏食を目の敵にする人は現在でも多い。しかし、大人であっても嫌いなものは一切ないという人はどの程度いるのだろうか。コリアンダーが食べられないとかブルーチーズには手をつけられないとか言う人は珍しくもないだろう。食糧事情の良好な現代社会で、多少の偏食があったところで健康を害する心配などない。少しでも楽しめる食物が増えればそれに越したことはないが、有無を言わせず強制的に食べざるを得ない状況に追い込まれた子供が、前向きに好き嫌いをなくし食事をより一層楽しめるようになるとはとても思えない。深刻な例としては、自閉症児の偏食ではかなりの苦痛を伴う場合があり、一般の人が生のミミズや電球を割ったガラスを食えと言われることに近い場合が多い。
 小食な子供が不必要な食事量を強いられることも当人にとっては苦痛以外の何物でもないし、ゆっくりとしか食べられない子供が限られた時間では食べきれない量に挑まされるのも苦痛だろう。食事というのは本来健康を支えるためのものであるし、文明社会においては大いなる楽しみでもある。なぜ食事するたびに苦痛を味合わさねばならないのか。しかも、それが一見善意や「正しい」理由に基づき、集団からの圧力としてもたらされるのだから、苦しむ子供がいることはきっと見逃されることが多いはずである。
 個人的な印象にしか過ぎないが、今の社会は何か「正しいこと」とされる旗印ができると、非常に声高に叫ぶ集団によって世の中がほぼ一色に塗られてしまうような気持ち悪さを感じることが多い。多様性を認める姿勢とは真反対である。給食の完食運動はこういった社会の趨勢が反映されているようで不気味である。

2014年11月24日月曜日

日本版Vineland-II適応行動尺度

 DSM-IVからDSM5への改定で、子供の臨床に関連したもっとも大きな変化は広汎性発達障害が廃止され、変わって自閉スペクトラム症が設定されたことである。しかし、個人的には自閉スペクトラム症以上に強く印象に残ったことは精神遅滞から知的能力障害への変化であった。何が印象的であったかというと、DSM5では知的能力障害の定義にIQを使うことを放棄していることである。誤解のないように付け加えると、DSM5は決して標準化された知能検査が無意味と主張しているのではない。解説の中では知能検査の意義や解釈についてかなり言及しているし、知的能力障害の診断の目安がIQ 65〜75以下であることも説明している。しかし、診断基準自体では、知的能力障害の定義そのもの、あるいは重症度の判定にIQの数字は用いられていない。
 DSM5では知的能力障害と診断するために、1)知的機能の欠陥がある、2)適応機能の欠陥がある、3)知的および適応の欠陥は発達期の間に発症する、という3つの条件を満たすことを要求している。1)を評価するための重要な情報として個別化、標準化された知能検査を取り上げているが、知的能力障害と判断するための具体的なIQは指定されていない。また、知能検査は臨床的評価と併せて考慮に入れることが求められている。つまり、知能検査結果は重要な情報であるが、あくまで参考情報の一つという扱いである。
 上記のように知的機能の欠陥と並ぶ診断条件として適応機能の欠陥がある。これ自体はDSM-IVでも求められていた条件である。しかし、DSM5で大きく変化したのは、知的能力障害の重症度判定である。DSMーIVでは精神遅滞の重症度はIQによって定められていた。ところがDSM5の知的能力障害重症度は適応機能の程度によって定められている。適応機能は日常生活の3つの領域ごとに評価する。すなわち、言語や学習などを含む「概念領域」、対人関係や社会的判断を含む「社会的領域」、セルフケア、金銭管理や仕事の課題の調整などを含む「実用的領域」である。
 DSM5に基づいて知的能力障害をきちんと診断し、その重症度を評価するためには、その子供の日常生活全体にわたる適応状態を詳細に評価する必要がある。知能検査の結果で機械的に結論を出すわけにはいかないのである。これはなるほど納得出来る。子供の知的障害の臨床に携わる、恐らくほとんどの人が気付いているのではないかと思うが、IQでは今ひとつ個人の生活状況をうまく予想できない。同じIQの子供でも、実際の生活がどの程度うまくいっているかどうかは個人個人で結構違う。「知能」がものを言いそうな学業での達成度でさえ、意外にIQでは予測できない。したがって、知能検査よりも現実の生活での具体的適応状況を評価した方が実態をよく把握できると言える。問題は、生活における適応状況をそれなりの客観性を持って評価することの難しさである。事細かに生活の状況を聞き取ることである程度適応状態を把握することはできるかもしれない。しかし、誰が評価しても、見落としなく全般的な評価をし、しかもその結果が年齢を考慮してどの程度の適応状況かを判断できることが望まれる。正にこういったニーズに打って付けのツールが、今年の10月に出版された。日本版Vineland-II適応行動尺度である。以下に、マニュアルを斜め読みして分かる範囲のことを紹介する。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は半構造化*1*された面接による適応度の評価法である。0歳0ヶ月から92歳11ヶ月までの対象者の評価が可能である。対象者の適応行動レベルを、コミュニケーション領域、日常生活スキル領域、社会性領域、運動スキル領域の4領域に分けて評価する。このうち、運動スキル領域は0歳~6歳及び50歳~92歳までの対象者のみで評価する。7歳~49歳の対象者では運動スキル領域以外の3領域を評価することになる。運動スキル領域以外の3領域は、上述の知的能力障害の重症度を決める適応機能の3つの領域それぞれに概ね対応している。これらの3または4領域の評価をした上で、適応行動総合点が算出される。
(*1* 2016/9/2訂正:「構造化」ではなく「半構造化」である)

 各領域は其々複数の下位領域から構成される。具体的に述べると、コミュニケーション領域は受容言語、表出言語、読み書きの3領域で構成される。日常生活スキル領域は身辺自立、家事、地域生活の3領域からなっている。社会性領域には3つの下位領域があり、対人関係、遊びと余暇、コーピングスキルである。運動スキル領域のみは下位領域が2つで、粗大運動と微細運動である。それぞれの下位領域ごとに20~54個の質問項目が用意されており、それぞれの領域ごとに年齢発達に応じた難易度の順に並べられており、適応行動のレベルを得点化できるようになっている。適応行動を評価するための総質問項目は385項目である。適応行動の評価とは別に、不適応行動領域の評価項目も用意されている。これは不適応行動指標と不適応行動重要事項の2つの下位領域から構成され、前者はさらに内在化問題と外在化問題の2種類の下位得点がある。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は1367人(米国の原版では3695人)のデータをもとに標準化されており、統計的な特性が厳密に検討されている。各下位領域得点は素点からv評価点が算出される。これは多くの心理検査の評価点と同様のものだが、平均点が15点で1標準偏差が3点に調整されている。知能検査などの評価点が平均10点であるのに、v評価点では平均が15点に設定されているのは、低い水準のパフォーマンスをより詳細に識別するためと説明されている。4種類の領域得点と適応行動総合点はWechsler知能検査などと同様に、平均が100、標準偏差が15に調整されている。不適応行動指標は下位尺度(内在化問題、外在化問題)と同様にv評価点が算出される。すべての得点は90%信頼区間(必要に応じて85%または95%も選択可能)を示すことが可能となっている。また、領域間、あるいは下位領域間の得点差の有意性も検討できる。
 日本版Vineland-II適応行動尺度の施行にはWechsler知能検査並みの時間を要する。さらに、評価者になるためには、かなりのトレーニングが必要と思われる。したがって、どこでも誰でも気楽に施行できるような評価法ではない。しかし、個人個人が生活に即して発揮できる力を多方面から評価できるため、種々の場面での援助や療育の計画に資するところは大きそうである。知的能力障害を診断するだけでは本人や家族へのメリットはあまりない。障害を持つ子供たち(子供に限らないが)の生活を支えるつもりがあるのなら、知能検査と並行して是非とも行うべき評価ではないかと思う。今後様々な臨床例での知見が積み重ねられ、データの解釈や応用の範囲が広がることを願う。
最後に、全く個人的な感想を追加しておく。上記の通り、日本版Vineland-II適応行動尺度には不適応行動を評価する項目も含まれているが、評価の主体は適応度である。つまり、「何ができるのか」ということを評価する尺度である。障害のある子供達を評価するとき、得てして異常や欠陥に注目しがちである。しかし、彼らを支援するときにできないことや弱み以上に把握すべきことは、何ができるか、何が強みかということである。日本版Vineland-II適応行動尺度が臨床の場に広がる中で、そういう視点も広がるのではないかという気がする。

2014年11月16日日曜日

「障がいは個性だ」問題

大学を卒業後すぐに、小児神経科と称する部門に所属した。小児神経科は、小児科の亜種の様なものだが、子供の神経系の問題を専門とする。具体的には脳性麻痺、知的障害、てんかん、筋肉疾患、末梢神経障害などが主な診療対象であり、最近では発達障害を有する子供達を診察することが多い。つまり、小児神経科医の仕事は、障害を持つ子供たちのための活動が占める割合が大きい。
 障害を持つ子供たちのための医療の特徴の一つは、医師あるいは医療だけで話が完結しないということである。障害種別によっても詳細は違ってくるが、子供たちを支えるためには他の職種の人々、特に福祉や教育に従事する人たちとの連携が必須になる。とりわけ、知的能力障害や、発達障害者支援法でいう所の発達障害を有する子供達にとっては、毎日の生活で接する人達の援助が何よりも重要となる。そういう状況もあって、僕は教師や保育士といった他職種の人々に強く期待してしまう。向こうからすれば勝手に期待してほしくないかもしれないが、教師や保育士が障害のある子供達を支える役割を持っていることは、社会的コンセンサスを得ていると考えてよいだろう。実際、教師や保育士の適切なサポートのおかげで障害を持っていても生き生きと毎日を暮らせている子供達は多いのである。本当に多くの教師・保育士は熱心に職務をこなしている
 大きく期待してしまうだけに、時にはがっかりしてしまうこともある。まあ、自分が失望を振り撒いている存在なのに何を偉そうに、と思われるかもしれない。しかし、ここは僕の考えを書きなぐるための場所なのであって、思っていることを書いてしまうのだ。障害を有する子供達を職業として日常的に支える立場にある人達、あるいはそういう職業を目指している学生達の言動で失望を通り越して怒りを覚えるものの一つが「障がいは個性だ」というセリフである。実によく聞くセリフである。念のために補足しておくが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じない。あくまで職業的に障害を持つ人たちを支えるべき立場の人たちが口にした時に限り、腹がたつのである。
 「障がいは個性だ」と言いたがる人達は、そのことによって何を主張したいのだろう。障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しているのだろうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをしており、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話だ。言葉の言い換えごときで救えるはずがない。障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきだ。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているに相違ない。
 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題がある。個性というのは本来、なんら住み辛さや生き辛さを表す言葉ではない。現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF)で定義されている。ICFの定義によれば、障害という言葉は心身の調子が悪い状態のみを意味するものではない。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での活動が制限されていることを含んでいる。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面への参加に制約があることも含んでいる。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできない「状態」を意味している。つまり、住み辛い、生き辛い「状態」なのである。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まる。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための援助が必要なのである。
 障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧する。職務の一環として障害を有する人たちを支えなければいけない人達は、無意味な言葉の言い換えに頭を使っている暇があれば、どうやって支えれば良いのかを考えねばならない。

2014年11月5日水曜日

ちょっとは疑えよ

新卒の医師を指導する時や、ゼミで学生を相手にしているとき、こちらの言っていることを余りにも素直に受け止めるので、不安になることがある。もちろん、僕にはだまくらかしてやろうという悪意はないので、それなりに正しいと思うことを説明している。しかし、自信の無いことや、自分で考えても疑わしいことも結構述べている。診療現場での判断や研究にまつわる考え方などはそもそも正解がないことも多く、僕の考えが間違っているとは言えなかったとしても別の考え方も常にあるはずである。何の批判もなく僕の説明を鵜呑みにし、指示通りに動く姿を見ると、「ちょっとは疑えよ」と言いたくなる。
 大学を卒業後、4年半余り大学病院で働いた。大学病院では、世間では皮肉を交えて語られる教授回診というものがある。教授が部下を引き連れて入院患者を診察して回る、儀式的な行事である。僕の親分は専門領域においては国際的にも名の知れた人で、回診を熱心に行う人でもあった。一人ひとりの患者の横で、主治医を相手にああでもないこうでもないと議論するのである。まあ、患者にとっては横でぐだぐだ議論されるのも迷惑だったと思うが、若い主治医達には勉強になる場でもあった。当然、初々しい新人であった僕もボスの質問にきちんと答えようと必死に頭をしぼったし、それに備えて勉強もした。
 ボスの議論の進め方には一つの特徴があり、こちらがAと主張すると、「Bではありませんか?」と揺さぶりをかけてくるのだ。僕がAと主張する根拠を縷々述べると、向こうは極めて余裕の表情でAと考えることの問題点を繰り出すのだ。何回かの議論の末にとうとうこちらがBであると認めると、なんと親分は「Aではないのですか?」と真逆の主張をし始めることがしばしばあった。最初の数年間は、こう思っていた。「親分は答えを知っている。知った上で、ああではないか、こうではないかと新米を相手に遊んでいるに違いない。なんて意地悪なんだ。」と。
 だが、数年程経つと必ずしもそうではないことに気がついてきた。確かに分かった上で新米を突っつくことも多少はあったのだろうと思うのだが、親分自身がAかBか迷っていることも結構あるらしいのであった。若い医者を突っつきながら自分の考えを整理していることが少なくなかったように思う。また、当初Aであると確信を持っていたものが、若い医師とのディスカッションの中で自分の考えの問題に気付き、結論を変えることもあったのではないかと思う。僕と同列に論じるのも気が引けるが、自他が認める偉い研究者であっても分からないことや間違うこと、あるいは迷いもあるのだなあと気がついた。
 当たり前といえば当たり前である。いかに偉大な人物であっても、一人の人間が自分の分かっている範囲だけで物事を考えていたら、大きな問題を解決したり革新的なアイデアを出したり出来る訳がない。今から思うと、親分は自分の迷っていることや分からないことを隠すことをしなかったのだなと思う。それを素直に出すのではなく、議論させることによって気付かせたのかもしれない。一見叶わないと思える指導者の言葉であっても、議論を通じて批判的に吟味すれば反論したり対案を出したりする余地があるものだと分からせることも、指導者のスキルかもしれない。そう考えると、冒頭に書いたような後輩や学生に関する愚痴を垂れている自分は、指導者としての力量が低いのだなあと思う。

2014年10月30日木曜日

井出草平 著「アスペルガー症候群の難題」

これは2つの意味において挑戦的な書籍である。第1に、アスペルガー症候群患者の犯罪をテーマとしており、しかもアスペルガー症候群では一般の人に比べて犯罪のリスクが上がるという文脈で書かれていること。第2に、徹底的に客観的な証拠にこだわっていること。論点となるデータはすべて専門家の手による学術論文か、ジャーナリストによる長期取材の記録である。特に多数例を対象とした数量的研究が存在するときは、できるだけそのデータを示している。一般の人を対象とした新書版ということを考えると、この2つの特徴を持っていることはかなりの冒険だったのではないかと思う。
 まず、上記の第2点目についてコメントしておく。科学的に確かな主張をする上で重要なことは根拠を明確にするということである。何かを主張するための論拠として、批判に耐えうる様々な観点からの客観的なデータが必要である。可能な限り、多数例から統計的に明確に主張できることを論拠にするべきである。また、論拠として引用したデータの限界も指摘しておくべきである。そうすることによって、その主張がどの程度「確からしいか」を推定することができる。科学的な研究に慣れている人であれば、そういうことに配慮した主張はすっきりして腑に落ちる。しかし、どうも一般の人はそうではない。七面倒臭い議論になじめない人が圧倒的に多いのではないかと思う。白か黒か、結論を明確に述べることを公的な議論でも求める人が多い。記憶に新しいところでは、福島の原子力発電所の事故でも、専門家の丁寧な説明よりも、危険か危険ではないかの二者択一の主張の方が人口に膾炙した。世の人々は面倒臭い議論が嫌いなのである。単純化した、明確な結論だけを提示することを好む一般の人向けの新書に、徹底的にデータを重視した記述をするということはかなり珍しい書籍ではないかと思う。以下の記述にも関係が深いことを再度強調しておくと、客観的データを重視するということは、不確かなことをどの程度不確かかということも添えて記述するということである。不確かなことだからと単純に否定するとか強固に肯定することは科学的な態度ではない。
 さて、第1点目のことに関して幾つか僕が考えたことを記しておく。その前に断っておくが、本書では「アスペルガー症候群」という言葉を、知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害の意味で用いている。したがって、ICD-10やDSM-IV、あるいはその他の研究者が定義したアスペルガー症候群とは微妙にニュアンスが異なっている。本書ではまず、アスペルガー症候群あるいは自閉症スペクトラムとはどのようなものであるかを説明し、アスペルガー症候群の患者が引き起こしたと考えられている幾つかの最近の事件を簡単に紹介している。次いで、アスペルガー症候群では平均的な人に比べて犯罪が多いのかどうかを検討している。
 アスペルガー症候群で犯罪のリスクが高いかどうかを明確にするためには、アスペルガー症候群患者を子供の頃から前方指摘に長期間追跡し、犯罪を犯すものがどの程度の割合で認められるか、つまり犯罪率を検討する必要がある。しかし、現状ではそのようなデータはない。そこで筆者は「犯罪親和性」として家庭裁判所に送致された人の中でアスペルガー症候群と診断される割合と、一般有病率との比を検討している。その結果、アスペルガー症候群は一般有病率に比べて家庭裁判所に送致されたものでの診断率が5〜30倍ほど高い。このことから、平均的な人々に比べてアスペルガー症候群患者では犯罪を犯す人の割合が高い可能性が考えられる。著者は非常に慎重に、この「犯罪親和性」のデータで確実なことが証明できたわけではなく、犯罪リスクが高い「かもしれない」ことを示しているにすぎないことをページを割いて説明している。また、仮にそうであってもアスペルガー症候群のうち犯罪を犯すものは数%から1割程度にしか過ぎず、アスペルガー症候群の一般人口における割合は0.5%程度であることを考慮すると社会的な影響が著しく高いわけではないことも説明している。
 続いて、アスペルガーの犯罪の特徴を整理している。犯罪種別としては傷害・性犯罪・放火・窃盗・ストーカーが起こりやすい。圧倒的に多いのは対人関心接近型と称されるもので、自分のとった行動が現実社会にどういう影響をもたらすのかを認識しないままに、アスペルガーに特異的な人との関わり方や距離の取り方の奇妙さの延長線上に生じる犯罪である。また、純粋な興味とこだわりに基づいて犯行にいたる実験型も比較的多い。アスペルガー症候群患者が犯罪を犯した場合、再犯率が高い可能性がある。小規模の調査であるが再犯率は75%にのぼるという指摘もあり、医療機関による再犯の防止は現状では期待できない。
 アスペルガー症候群では何が犯罪の危険因子や予測因子になるのだろう。一つのキーワードとして、暴力的な噴出を繰り返す児童に対して杉山登志郎さんが名付けた「暴力アスペ」についても度々言及している。杉山さんによれば「一人いれば学級崩壊になってしまうほど」の子供達であり、高機能児の5%程度とされている。ただ、この「暴力アスペ」が実際に犯罪に結びつく主体なのかどうかは明らかではない。虐待経験は重要な意味がありそうである。触法行為の発生は、ネグレクト経験があると6.34倍、身体的虐待があると3.73倍に増加することが示されている。ただ、虐待経験だけで全ての触法行為を説明できるわけではない。
 さて、以上のような話がかなりのページ数を割いて述べられているのである。これを読んだ人がどういう感想を持つのかということが心配になる。日常、自閉症やアスペルガー症候群と縁のない人であれば、アスペルガー症候群とは実に恐ろしい「病気」である、位のことを考えるかもしれない。一方、家族や自身がアスペルガー症候群の場合、この本がアスペルガー症候群と犯罪の強固な関係を主張しているように感じ、差別を助長するものだと怒りを覚えるかもしれない。実際、早速怒りをぶつけるブログも公開されている。この点は作者も十分に意識しており、データの持つ意味や解釈の限界を繰り返し説明しているし、アスペルガー症候群患者全体の中で実際に犯罪を犯すものは少数であることや、犯罪全体の中でのインパクトは決して大きくないことを繰り返し述べている。書籍のタイトルに「犯罪」という言葉を使わず、「難題」としたのも、興味本位の取られ方をしないための配慮ではないかと思う。それでも、物事を程度問題として理解することや反証も含めて複数の側面から検討することを苦手とする人々がこの本を中途半端に読んだとき、誤解に満ちた解釈をし、それを広める人たちがいるのではないかと僕も心配になる。これが本書が新書として出版されたことに対して「挑戦的」と感じた大きな理由である。
 ただ、著者の考えは大変納得できる。犯罪は大きな問題である。被害者はもちろん、加害者となった人にとっても不幸なことである。アスペルガー症候群が犯罪のリスクになる「可能性がある」のなら、それをより正確に検証すべきである。そして犯罪リスクが確認されたのであれば、合理的な対策を講じねばならない。検証することや対策には資金、人材、制度など様々な社会資源を投じねばならず、社会のコンセンサスを得る必要がある。しかし、明確ではないからといってベールに覆ったままにしておくとこの問題に関する社会的認知を得られない。結果的に、いつまでも大した対策がなされることもなく、将来の犠牲者(被害者だけではなく、犯罪に走る本人も)を救うことができない。情緒的で根拠のない言説を繰り返すのではなく、現時点で明確になっていることを最大限、明らかにしていくべきである。著者が新書版でこの問題を取り上げたのは、おおよそこういった考えがあってのことのようだ。ともすれば情緒に流されやすく、問題を単純化しやすい一般社会に対して、このような根拠に基づく客観的な情報提供がなされるようになったことは、進歩なのかもしれない。
 詳しく述べないが、この本ではアスペルガー症候群の犯罪リスクだけを指摘して終わっているわけではない。この難題に対して薬物療法をはじめとした現在すでになされている対応や、進展しているADHDと犯罪リスクの研究から考えられる将来へ向けての提案も記述している。また、対策だけではなく、医療観察法などの司法での取り扱い、厳罰化傾向への批判、特別支援教育の制度上の問題点、薬物療法にまつわる倫理的問題など、様々な観点からこの問題を論じており、著者の学識の広さを窺わせる。
 著者の井出草平さんのことは、1年以上前にたまたまSYNODOSの記事を読んで知った。その記事ではDSM-IVからDSM5への自閉症診断基準の変化とアスペルガー症候群の位置付けについて非常に精緻な解説をしておられた。専門が社会学とのことで、こういった分野が社会学者の主なテーマになるのか、井出さんが特殊な興味を持たれたのか、僕にはわからない。以後、twitterでも井出さんの発言を読むようにしているが、根拠や論理を明確にしたしっかりとした発言をされる方という印象を持っている。
 本論とは関係ないが、最後に個人的に引っかかったことを一つ述べておく。診断に関する考え方についてである。井出さんはかなり診断をカテゴリーとして厳密に捉え、アスペルガー症候群ないし自閉症スペクトラムと定型発達者は連続的につながっているという考え方に否定的である。診断が家族や本人に及ぼす心理的、社会的影響を考えると、過剰診断につながりかねない定型発達者まで含めた連続性を強調することに疑念を抱くことは理解できる。
 しかし、現実の臨床においてはこれはかなり難しい問題である。自閉的特性をなにがしか有する子供がいた時、とりあえず「障害」か否かを判断することはできたとしても、その判断は結構不安定である。自閉症スペクトラムではないと判断しても、いずれ生活の困難が明確になることはままある。一度「違う」と宣言してしまうと、本当に困った時の対応が後手に回りやすい。そのため、迷った時は自閉的な特性があることを家族に説明し、慎重に経過を見ていくことになる。どうしても診断するかどうかの線引きを曖昧にせざるを得ないのである。臨床家の多くはこのことで悩ましい思いをしているのだと思う。杉山登志郎さんは、適応障害に至っている状態が障害であり、特性はあるもののうまく適応できている状態は「発達凸凹」と名付けて経過を見ることを提唱しているが、これも自閉症スペクトラムと定型発達者の境界の曖昧さを凌ぐための工夫だろう。ただ、「発達凸凹」という概念を作ると、結局は定型発達と凸凹、凸凹と自閉症スペクトラムという2つの境界を判断する必要が出るし、発達凸凹と判断してもその意義を説明する際には自閉症スペクトラムであるリスクを説明せざるを得ない。
 カテゴリーにこだわることのもう一つの問題は、教育や保育の現場で働く人が診断の有無にこだわってしまうことである。自閉的特性のある子供を支援するときに、病院での診断名にこだわってもほとんど益はない。むしろ、個々の子供の中に自閉的特性を連続的なものとして確認できる方が合理的な援助が可能となると思う。こういった理由から、僕自身は自閉症スペクトラムという状態を定型発達者に繋がる連続的な概念として理解した方が良いと考えている。

追記)誤植を1つ見つけた。p41に「オーストラリア生まれのハンス・アスペルガー」と記載されているが、アスペルガーが生まれたのはオーストリアである。

2014年10月27日月曜日

匙加減

医師に批判的な人は多いが(その中には頷ける意見も少なくないが)、当然のことながら真面目に熱意を持って仕事に取り組む医師も多い。僕が直接交流のある医師に限れば、むしろ真剣に診療に取り組む人の方が圧倒的に多いと思っている。まあ、どんな職業領域でも外部の人間が考えるよりは当事者達は真面目に頑張っていることが多いのかもしれない。とはいえ、明らかに問題な医師が存在することも確かである。ろくに勉強しないとか、変な思い込みで判断するとか、色々な医師がいる。一般の人にとっては、私利私欲に走る医師と、患者の気持ちを蔑ろにし偉そうな医師が、問題のある医師として最も思い浮かべやすいイメージではなかろうか。
 僕が医師になって5年目に赴任した病院の先輩から「肺炎医者」という言葉を教えてもらった。全国的に通用するのか、その先輩が勝手に作った言葉なのか不明だが、意味は次の通りである。咳と発熱で受診した比較的元気な患者の胸部X線を撮り、何も所見がなくても「うーむ、これは肺炎ですね。入院しましょう。」と説明して入院費を稼ぐ医師のことである。実際、これに類することを日常的にしでかす医師は実在する。これなどは典型的な私利私欲に走る医師だろう。
 世界医師会(WMA)が作成した医の国際倫理綱領では「医師は、医療の提供に際して、患者の最善の利益のために行動すべきである。」と規定している。当然、上記の「肺炎医者」はとんでもない話である。しかし、患者の最善の利益を目指せば、物事は極めてシンプルであり、迷う余地などないかといえば、必ずしもそうではない。様々な医療的判断を下す時に、白か黒か決めがたいことが多い。患者の容態を改善すると確信を持って投与した薬の副作用で、却って状態を悪くすることがある。大概の治療法には僅かな確率であっても事態を悪化させる可能性を秘めている。確率的に判断できるような情報がある場合はまだましで、五里霧中の状態で判断を迫られる事態も多い。また、患者の希望に添って医学的には明らかに患者にとって不利な状況を選択することもある。エホバの証人の信者に対して輸血治療を控えることがその例である。
 これらのことはまあ仕方がないと、多くの人は納得できるのではないかと思う。しかし、倫理的にもっとグレーな問題がある。検査をすべきかどうか一概には結論を出せないとき、治療するかどうかどちらを選んでもそれなりに理由があるとき、医師は診療費が上がる方を選ぶ傾向がある、と思う。勿論様々な理由で例外は生じる。例えば、経済的に貧しい患者が相手であればとにかくお金がかからないことを第一の原則とすることがある。しかし、一般的な診療においては病院経営に有利になるような判断に傾きやすい。医師が営業努力をすると聞けば、眉をひそめる人は多いと思う。とにかく世の中金勘定を表に出すことを嫌う人が多い。私財を投げ打って患者に尽くす医師が名医のイメージである。しかし、これは本当だろうか。
 多くの人にとって医師や病院との付き合いは一時的なものである。しかし、医師側から見れば次々と新たな患者の診療をせねばならない。一人の患者の診療が終了しても、そこで医師の活動が終わるわけではない。次から次へと新たな患者の診療を続けなければいけない。もちろん患者個人にとっても慢性的な病気になれば長く医師と付き合う必要が生じる。つまり、医師や病院にとって「継続性」は極めて重要なキーワードとなる。責務と言って良い。継続性を確かなものとするためには、患者のことだけを考えていてはいけない。医師自身が、あるいは病院が組織として、継続可能な状態にあらねばならない。例えば、一人の医師は自身の心身の健康を維持し続けないといけない。一時の熱情に駆られて寝る間も惜しんで診療を続けると、早晩その医師は潰れるだろう。それでは医師の責任は果たせない。病院はといえば、大儲けをしなくても良いが職員の給料を払い、施設のメンテナンスをし、医療技術の進歩に見合った設備投資をし続けないといけない。潰れてはいけないのである。ここに医師が様々な判断をする際に経営を意識せざるを得ない状況が生まれてくる。患者のことだけを考えていれば経営が成り立つシステムが必要と主張したい人もいるかもしれないが、それは医師や病院の責任ではない。政治、行政、そして有権者の責任である。医師や病院は現状のシステムの中で、診療を継続し続けねばならないのである。明らかに患者に不利な判断はしない。しかし病院を潰してもいけない。非常にグレーな状況の中でバランスをとることになる。とりあえず現状の中で医療を継続させていくために、医師は処方以外にも匙加減に気を配り続けねばいけないのである。