2014年10月27日月曜日

匙加減

医師に批判的な人は多いが(その中には頷ける意見も少なくないが)、当然のことながら真面目に熱意を持って仕事に取り組む医師も多い。僕が直接交流のある医師に限れば、むしろ真剣に診療に取り組む人の方が圧倒的に多いと思っている。まあ、どんな職業領域でも外部の人間が考えるよりは当事者達は真面目に頑張っていることが多いのかもしれない。とはいえ、明らかに問題な医師が存在することも確かである。ろくに勉強しないとか、変な思い込みで判断するとか、色々な医師がいる。一般の人にとっては、私利私欲に走る医師と、患者の気持ちを蔑ろにし偉そうな医師が、問題のある医師として最も思い浮かべやすいイメージではなかろうか。
 僕が医師になって5年目に赴任した病院の先輩から「肺炎医者」という言葉を教えてもらった。全国的に通用するのか、その先輩が勝手に作った言葉なのか不明だが、意味は次の通りである。咳と発熱で受診した比較的元気な患者の胸部X線を撮り、何も所見がなくても「うーむ、これは肺炎ですね。入院しましょう。」と説明して入院費を稼ぐ医師のことである。実際、これに類することを日常的にしでかす医師は実在する。これなどは典型的な私利私欲に走る医師だろう。
 世界医師会(WMA)が作成した医の国際倫理綱領では「医師は、医療の提供に際して、患者の最善の利益のために行動すべきである。」と規定している。当然、上記の「肺炎医者」はとんでもない話である。しかし、患者の最善の利益を目指せば、物事は極めてシンプルであり、迷う余地などないかといえば、必ずしもそうではない。様々な医療的判断を下す時に、白か黒か決めがたいことが多い。患者の容態を改善すると確信を持って投与した薬の副作用で、却って状態を悪くすることがある。大概の治療法には僅かな確率であっても事態を悪化させる可能性を秘めている。確率的に判断できるような情報がある場合はまだましで、五里霧中の状態で判断を迫られる事態も多い。また、患者の希望に添って医学的には明らかに患者にとって不利な状況を選択することもある。エホバの証人の信者に対して輸血治療を控えることがその例である。
 これらのことはまあ仕方がないと、多くの人は納得できるのではないかと思う。しかし、倫理的にもっとグレーな問題がある。検査をすべきかどうか一概には結論を出せないとき、治療するかどうかどちらを選んでもそれなりに理由があるとき、医師は診療費が上がる方を選ぶ傾向がある、と思う。勿論様々な理由で例外は生じる。例えば、経済的に貧しい患者が相手であればとにかくお金がかからないことを第一の原則とすることがある。しかし、一般的な診療においては病院経営に有利になるような判断に傾きやすい。医師が営業努力をすると聞けば、眉をひそめる人は多いと思う。とにかく世の中金勘定を表に出すことを嫌う人が多い。私財を投げ打って患者に尽くす医師が名医のイメージである。しかし、これは本当だろうか。
 多くの人にとって医師や病院との付き合いは一時的なものである。しかし、医師側から見れば次々と新たな患者の診療をせねばならない。一人の患者の診療が終了しても、そこで医師の活動が終わるわけではない。次から次へと新たな患者の診療を続けなければいけない。もちろん患者個人にとっても慢性的な病気になれば長く医師と付き合う必要が生じる。つまり、医師や病院にとって「継続性」は極めて重要なキーワードとなる。責務と言って良い。継続性を確かなものとするためには、患者のことだけを考えていてはいけない。医師自身が、あるいは病院が組織として、継続可能な状態にあらねばならない。例えば、一人の医師は自身の心身の健康を維持し続けないといけない。一時の熱情に駆られて寝る間も惜しんで診療を続けると、早晩その医師は潰れるだろう。それでは医師の責任は果たせない。病院はといえば、大儲けをしなくても良いが職員の給料を払い、施設のメンテナンスをし、医療技術の進歩に見合った設備投資をし続けないといけない。潰れてはいけないのである。ここに医師が様々な判断をする際に経営を意識せざるを得ない状況が生まれてくる。患者のことだけを考えていれば経営が成り立つシステムが必要と主張したい人もいるかもしれないが、それは医師や病院の責任ではない。政治、行政、そして有権者の責任である。医師や病院は現状のシステムの中で、診療を継続し続けねばならないのである。明らかに患者に不利な判断はしない。しかし病院を潰してもいけない。非常にグレーな状況の中でバランスをとることになる。とりあえず現状の中で医療を継続させていくために、医師は処方以外にも匙加減に気を配り続けねばいけないのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿