年老いた母親はすっかり食べられる量が減っている。しかし、事前に適当な量の判断が難しいらしく、外食の時などおよそ食べられないだろうというメニューを、「多いよ」と忠告してもなお注文したりする。結局、途中で食べられなくなると、一緒に食べている僕に「食べなさい」と言う。断ると、遠慮しなくて良いという。助けて欲しいと訴えるならまだしも、相手のことを思っての善意の振る舞いにしてしまうことにこちらもイライラし、強い口調で断ると「お前はなんでそんなに冷たい物言いをするのだ」とぶちぶち文句を言いだす。
このように説明すれば多少僕に同情してくれる人もいるかもしれない。しかし、年上の人間が若い者(といっても、四捨五入で60だが)に食事を分けようとすることは一般的には悪いことではない、と言うよりもむしろ称えられることかもしれない。また、食べ物を残さないようにするということはほとんどの人は正しい行いと考えるだろう。つまり、上記のような状況で母親が料理を提供しようとするのを断るとき、こちらとしてはどこか後ろめたさが伴うのである。なぜなら、一見したところ人の好意を無下に断っている状態にも見えるし、食べ物を粗末にする状況とみなされる気もするからである。この様に、表面的には善意に包まれた言動によってこちらが苦しい思いをする状態は、実に面白くない。
なぜこのような話題を書いているのかというと、最近小中学校でクラス全員や学校全体で給食を残さずに食べることを目指す動きがあるということを知り、そこから連想したのである。具体例としてはここやここなどで報道されている。このような動きがあるとは想像もしていなかった。クラス全体で完食を目指そうなどと言いだしたら、その陰で苦しむ子供が大勢いるのは火を見るよりも明らかである。好き嫌いの多い子供、小食な子供、肥満があるために食事制限を勧められている子供など、様々な個人的事情は倫理的には一見正しい「残さず食べる」という旗のもとに高まる同調圧力に踏みにじられることは想像に難くない。
偏食を目の敵にする人は現在でも多い。しかし、大人であっても嫌いなものは一切ないという人はどの程度いるのだろうか。コリアンダーが食べられないとかブルーチーズには手をつけられないとか言う人は珍しくもないだろう。食糧事情の良好な現代社会で、多少の偏食があったところで健康を害する心配などない。少しでも楽しめる食物が増えればそれに越したことはないが、有無を言わせず強制的に食べざるを得ない状況に追い込まれた子供が、前向きに好き嫌いをなくし食事をより一層楽しめるようになるとはとても思えない。深刻な例としては、自閉症児の偏食ではかなりの苦痛を伴う場合があり、一般の人が生のミミズや電球を割ったガラスを食えと言われることに近い場合が多い。
小食な子供が不必要な食事量を強いられることも当人にとっては苦痛以外の何物でもないし、ゆっくりとしか食べられない子供が限られた時間では食べきれない量に挑まされるのも苦痛だろう。食事というのは本来健康を支えるためのものであるし、文明社会においては大いなる楽しみでもある。なぜ食事するたびに苦痛を味合わさねばならないのか。しかも、それが一見善意や「正しい」理由に基づき、集団からの圧力としてもたらされるのだから、苦しむ子供がいることはきっと見逃されることが多いはずである。
個人的な印象にしか過ぎないが、今の社会は何か「正しいこと」とされる旗印ができると、非常に声高に叫ぶ集団によって世の中がほぼ一色に塗られてしまうような気持ち悪さを感じることが多い。多様性を認める姿勢とは真反対である。給食の完食運動はこういった社会の趨勢が反映されているようで不気味である。
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