2014年10月30日木曜日

井出草平 著「アスペルガー症候群の難題」

これは2つの意味において挑戦的な書籍である。第1に、アスペルガー症候群患者の犯罪をテーマとしており、しかもアスペルガー症候群では一般の人に比べて犯罪のリスクが上がるという文脈で書かれていること。第2に、徹底的に客観的な証拠にこだわっていること。論点となるデータはすべて専門家の手による学術論文か、ジャーナリストによる長期取材の記録である。特に多数例を対象とした数量的研究が存在するときは、できるだけそのデータを示している。一般の人を対象とした新書版ということを考えると、この2つの特徴を持っていることはかなりの冒険だったのではないかと思う。
 まず、上記の第2点目についてコメントしておく。科学的に確かな主張をする上で重要なことは根拠を明確にするということである。何かを主張するための論拠として、批判に耐えうる様々な観点からの客観的なデータが必要である。可能な限り、多数例から統計的に明確に主張できることを論拠にするべきである。また、論拠として引用したデータの限界も指摘しておくべきである。そうすることによって、その主張がどの程度「確からしいか」を推定することができる。科学的な研究に慣れている人であれば、そういうことに配慮した主張はすっきりして腑に落ちる。しかし、どうも一般の人はそうではない。七面倒臭い議論になじめない人が圧倒的に多いのではないかと思う。白か黒か、結論を明確に述べることを公的な議論でも求める人が多い。記憶に新しいところでは、福島の原子力発電所の事故でも、専門家の丁寧な説明よりも、危険か危険ではないかの二者択一の主張の方が人口に膾炙した。世の人々は面倒臭い議論が嫌いなのである。単純化した、明確な結論だけを提示することを好む一般の人向けの新書に、徹底的にデータを重視した記述をするということはかなり珍しい書籍ではないかと思う。以下の記述にも関係が深いことを再度強調しておくと、客観的データを重視するということは、不確かなことをどの程度不確かかということも添えて記述するということである。不確かなことだからと単純に否定するとか強固に肯定することは科学的な態度ではない。
 さて、第1点目のことに関して幾つか僕が考えたことを記しておく。その前に断っておくが、本書では「アスペルガー症候群」という言葉を、知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害の意味で用いている。したがって、ICD-10やDSM-IV、あるいはその他の研究者が定義したアスペルガー症候群とは微妙にニュアンスが異なっている。本書ではまず、アスペルガー症候群あるいは自閉症スペクトラムとはどのようなものであるかを説明し、アスペルガー症候群の患者が引き起こしたと考えられている幾つかの最近の事件を簡単に紹介している。次いで、アスペルガー症候群では平均的な人に比べて犯罪が多いのかどうかを検討している。
 アスペルガー症候群で犯罪のリスクが高いかどうかを明確にするためには、アスペルガー症候群患者を子供の頃から前方指摘に長期間追跡し、犯罪を犯すものがどの程度の割合で認められるか、つまり犯罪率を検討する必要がある。しかし、現状ではそのようなデータはない。そこで筆者は「犯罪親和性」として家庭裁判所に送致された人の中でアスペルガー症候群と診断される割合と、一般有病率との比を検討している。その結果、アスペルガー症候群は一般有病率に比べて家庭裁判所に送致されたものでの診断率が5〜30倍ほど高い。このことから、平均的な人々に比べてアスペルガー症候群患者では犯罪を犯す人の割合が高い可能性が考えられる。著者は非常に慎重に、この「犯罪親和性」のデータで確実なことが証明できたわけではなく、犯罪リスクが高い「かもしれない」ことを示しているにすぎないことをページを割いて説明している。また、仮にそうであってもアスペルガー症候群のうち犯罪を犯すものは数%から1割程度にしか過ぎず、アスペルガー症候群の一般人口における割合は0.5%程度であることを考慮すると社会的な影響が著しく高いわけではないことも説明している。
 続いて、アスペルガーの犯罪の特徴を整理している。犯罪種別としては傷害・性犯罪・放火・窃盗・ストーカーが起こりやすい。圧倒的に多いのは対人関心接近型と称されるもので、自分のとった行動が現実社会にどういう影響をもたらすのかを認識しないままに、アスペルガーに特異的な人との関わり方や距離の取り方の奇妙さの延長線上に生じる犯罪である。また、純粋な興味とこだわりに基づいて犯行にいたる実験型も比較的多い。アスペルガー症候群患者が犯罪を犯した場合、再犯率が高い可能性がある。小規模の調査であるが再犯率は75%にのぼるという指摘もあり、医療機関による再犯の防止は現状では期待できない。
 アスペルガー症候群では何が犯罪の危険因子や予測因子になるのだろう。一つのキーワードとして、暴力的な噴出を繰り返す児童に対して杉山登志郎さんが名付けた「暴力アスペ」についても度々言及している。杉山さんによれば「一人いれば学級崩壊になってしまうほど」の子供達であり、高機能児の5%程度とされている。ただ、この「暴力アスペ」が実際に犯罪に結びつく主体なのかどうかは明らかではない。虐待経験は重要な意味がありそうである。触法行為の発生は、ネグレクト経験があると6.34倍、身体的虐待があると3.73倍に増加することが示されている。ただ、虐待経験だけで全ての触法行為を説明できるわけではない。
 さて、以上のような話がかなりのページ数を割いて述べられているのである。これを読んだ人がどういう感想を持つのかということが心配になる。日常、自閉症やアスペルガー症候群と縁のない人であれば、アスペルガー症候群とは実に恐ろしい「病気」である、位のことを考えるかもしれない。一方、家族や自身がアスペルガー症候群の場合、この本がアスペルガー症候群と犯罪の強固な関係を主張しているように感じ、差別を助長するものだと怒りを覚えるかもしれない。実際、早速怒りをぶつけるブログも公開されている。この点は作者も十分に意識しており、データの持つ意味や解釈の限界を繰り返し説明しているし、アスペルガー症候群患者全体の中で実際に犯罪を犯すものは少数であることや、犯罪全体の中でのインパクトは決して大きくないことを繰り返し述べている。書籍のタイトルに「犯罪」という言葉を使わず、「難題」としたのも、興味本位の取られ方をしないための配慮ではないかと思う。それでも、物事を程度問題として理解することや反証も含めて複数の側面から検討することを苦手とする人々がこの本を中途半端に読んだとき、誤解に満ちた解釈をし、それを広める人たちがいるのではないかと僕も心配になる。これが本書が新書として出版されたことに対して「挑戦的」と感じた大きな理由である。
 ただ、著者の考えは大変納得できる。犯罪は大きな問題である。被害者はもちろん、加害者となった人にとっても不幸なことである。アスペルガー症候群が犯罪のリスクになる「可能性がある」のなら、それをより正確に検証すべきである。そして犯罪リスクが確認されたのであれば、合理的な対策を講じねばならない。検証することや対策には資金、人材、制度など様々な社会資源を投じねばならず、社会のコンセンサスを得る必要がある。しかし、明確ではないからといってベールに覆ったままにしておくとこの問題に関する社会的認知を得られない。結果的に、いつまでも大した対策がなされることもなく、将来の犠牲者(被害者だけではなく、犯罪に走る本人も)を救うことができない。情緒的で根拠のない言説を繰り返すのではなく、現時点で明確になっていることを最大限、明らかにしていくべきである。著者が新書版でこの問題を取り上げたのは、おおよそこういった考えがあってのことのようだ。ともすれば情緒に流されやすく、問題を単純化しやすい一般社会に対して、このような根拠に基づく客観的な情報提供がなされるようになったことは、進歩なのかもしれない。
 詳しく述べないが、この本ではアスペルガー症候群の犯罪リスクだけを指摘して終わっているわけではない。この難題に対して薬物療法をはじめとした現在すでになされている対応や、進展しているADHDと犯罪リスクの研究から考えられる将来へ向けての提案も記述している。また、対策だけではなく、医療観察法などの司法での取り扱い、厳罰化傾向への批判、特別支援教育の制度上の問題点、薬物療法にまつわる倫理的問題など、様々な観点からこの問題を論じており、著者の学識の広さを窺わせる。
 著者の井出草平さんのことは、1年以上前にたまたまSYNODOSの記事を読んで知った。その記事ではDSM-IVからDSM5への自閉症診断基準の変化とアスペルガー症候群の位置付けについて非常に精緻な解説をしておられた。専門が社会学とのことで、こういった分野が社会学者の主なテーマになるのか、井出さんが特殊な興味を持たれたのか、僕にはわからない。以後、twitterでも井出さんの発言を読むようにしているが、根拠や論理を明確にしたしっかりとした発言をされる方という印象を持っている。
 本論とは関係ないが、最後に個人的に引っかかったことを一つ述べておく。診断に関する考え方についてである。井出さんはかなり診断をカテゴリーとして厳密に捉え、アスペルガー症候群ないし自閉症スペクトラムと定型発達者は連続的につながっているという考え方に否定的である。診断が家族や本人に及ぼす心理的、社会的影響を考えると、過剰診断につながりかねない定型発達者まで含めた連続性を強調することに疑念を抱くことは理解できる。
 しかし、現実の臨床においてはこれはかなり難しい問題である。自閉的特性をなにがしか有する子供がいた時、とりあえず「障害」か否かを判断することはできたとしても、その判断は結構不安定である。自閉症スペクトラムではないと判断しても、いずれ生活の困難が明確になることはままある。一度「違う」と宣言してしまうと、本当に困った時の対応が後手に回りやすい。そのため、迷った時は自閉的な特性があることを家族に説明し、慎重に経過を見ていくことになる。どうしても診断するかどうかの線引きを曖昧にせざるを得ないのである。臨床家の多くはこのことで悩ましい思いをしているのだと思う。杉山登志郎さんは、適応障害に至っている状態が障害であり、特性はあるもののうまく適応できている状態は「発達凸凹」と名付けて経過を見ることを提唱しているが、これも自閉症スペクトラムと定型発達者の境界の曖昧さを凌ぐための工夫だろう。ただ、「発達凸凹」という概念を作ると、結局は定型発達と凸凹、凸凹と自閉症スペクトラムという2つの境界を判断する必要が出るし、発達凸凹と判断してもその意義を説明する際には自閉症スペクトラムであるリスクを説明せざるを得ない。
 カテゴリーにこだわることのもう一つの問題は、教育や保育の現場で働く人が診断の有無にこだわってしまうことである。自閉的特性のある子供を支援するときに、病院での診断名にこだわってもほとんど益はない。むしろ、個々の子供の中に自閉的特性を連続的なものとして確認できる方が合理的な援助が可能となると思う。こういった理由から、僕自身は自閉症スペクトラムという状態を定型発達者に繋がる連続的な概念として理解した方が良いと考えている。

追記)誤植を1つ見つけた。p41に「オーストラリア生まれのハンス・アスペルガー」と記載されているが、アスペルガーが生まれたのはオーストリアである。

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