大学を卒業後すぐに、小児神経科と称する部門に所属した。小児神経科は、小児科の亜種の様なものだが、子供の神経系の問題を専門とする。具体的には脳性麻痺、知的障害、てんかん、筋肉疾患、末梢神経障害などが主な診療対象であり、最近では発達障害を有する子供達を診察することが多い。つまり、小児神経科医の仕事は、障害を持つ子供たちのための活動が占める割合が大きい。
障害を持つ子供たちのための医療の特徴の一つは、医師あるいは医療だけで話が完結しないということである。障害種別によっても詳細は違ってくるが、子供たちを支えるためには他の職種の人々、特に福祉や教育に従事する人たちとの連携が必須になる。とりわけ、知的能力障害や、発達障害者支援法でいう所の発達障害を有する子供達にとっては、毎日の生活で接する人達の援助が何よりも重要となる。そういう状況もあって、僕は教師や保育士といった他職種の人々に強く期待してしまう。向こうからすれば勝手に期待してほしくないかもしれないが、教師や保育士が障害のある子供達を支える役割を持っていることは、社会的コンセンサスを得ていると考えてよいだろう。実際、教師や保育士の適切なサポートのおかげで障害を持っていても生き生きと毎日を暮らせている子供達は多いのである。本当に多くの教師・保育士は熱心に職務をこなしている
大きく期待してしまうだけに、時にはがっかりしてしまうこともある。まあ、自分が失望を振り撒いている存在なのに何を偉そうに、と思われるかもしれない。しかし、ここは僕の考えを書きなぐるための場所なのであって、思っていることを書いてしまうのだ。障害を有する子供達を職業として日常的に支える立場にある人達、あるいはそういう職業を目指している学生達の言動で失望を通り越して怒りを覚えるものの一つが「障がいは個性だ」というセリフである。実によく聞くセリフである。念のために補足しておくが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じない。あくまで職業的に障害を持つ人たちを支えるべき立場の人たちが口にした時に限り、腹がたつのである。
「障がいは個性だ」と言いたがる人達は、そのことによって何を主張したいのだろう。障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しているのだろうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをしており、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話だ。言葉の言い換えごときで救えるはずがない。障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきだ。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているに相違ない。
そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題がある。個性というのは本来、なんら住み辛さや生き辛さを表す言葉ではない。現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF)で定義されている。ICFの定義によれば、障害という言葉は心身の調子が悪い状態のみを意味するものではない。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での活動が制限されていることを含んでいる。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面への参加に制約があることも含んでいる。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできない「状態」を意味している。つまり、住み辛い、生き辛い「状態」なのである。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まる。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための援助が必要なのである。
障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧する。職務の一環として障害を有する人たちを支えなければいけない人達は、無意味な言葉の言い換えに頭を使っている暇があれば、どうやって支えれば良いのかを考えねばならない。
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