新卒の医師を指導する時や、ゼミで学生を相手にしているとき、こちらの言っていることを余りにも素直に受け止めるので、不安になることがある。もちろん、僕にはだまくらかしてやろうという悪意はないので、それなりに正しいと思うことを説明している。しかし、自信の無いことや、自分で考えても疑わしいことも結構述べている。診療現場での判断や研究にまつわる考え方などはそもそも正解がないことも多く、僕の考えが間違っているとは言えなかったとしても別の考え方も常にあるはずである。何の批判もなく僕の説明を鵜呑みにし、指示通りに動く姿を見ると、「ちょっとは疑えよ」と言いたくなる。
大学を卒業後、4年半余り大学病院で働いた。大学病院では、世間では皮肉を交えて語られる教授回診というものがある。教授が部下を引き連れて入院患者を診察して回る、儀式的な行事である。僕の親分は専門領域においては国際的にも名の知れた人で、回診を熱心に行う人でもあった。一人ひとりの患者の横で、主治医を相手にああでもないこうでもないと議論するのである。まあ、患者にとっては横でぐだぐだ議論されるのも迷惑だったと思うが、若い主治医達には勉強になる場でもあった。当然、初々しい新人であった僕もボスの質問にきちんと答えようと必死に頭をしぼったし、それに備えて勉強もした。
ボスの議論の進め方には一つの特徴があり、こちらがAと主張すると、「Bではありませんか?」と揺さぶりをかけてくるのだ。僕がAと主張する根拠を縷々述べると、向こうは極めて余裕の表情でAと考えることの問題点を繰り出すのだ。何回かの議論の末にとうとうこちらがBであると認めると、なんと親分は「Aではないのですか?」と真逆の主張をし始めることがしばしばあった。最初の数年間は、こう思っていた。「親分は答えを知っている。知った上で、ああではないか、こうではないかと新米を相手に遊んでいるに違いない。なんて意地悪なんだ。」と。
だが、数年程経つと必ずしもそうではないことに気がついてきた。確かに分かった上で新米を突っつくことも多少はあったのだろうと思うのだが、親分自身がAかBか迷っていることも結構あるらしいのであった。若い医者を突っつきながら自分の考えを整理していることが少なくなかったように思う。また、当初Aであると確信を持っていたものが、若い医師とのディスカッションの中で自分の考えの問題に気付き、結論を変えることもあったのではないかと思う。僕と同列に論じるのも気が引けるが、自他が認める偉い研究者であっても分からないことや間違うこと、あるいは迷いもあるのだなあと気がついた。
当たり前といえば当たり前である。いかに偉大な人物であっても、一人の人間が自分の分かっている範囲だけで物事を考えていたら、大きな問題を解決したり革新的なアイデアを出したり出来る訳がない。今から思うと、親分は自分の迷っていることや分からないことを隠すことをしなかったのだなと思う。それを素直に出すのではなく、議論させることによって気付かせたのかもしれない。一見叶わないと思える指導者の言葉であっても、議論を通じて批判的に吟味すれば反論したり対案を出したりする余地があるものだと分からせることも、指導者のスキルかもしれない。そう考えると、冒頭に書いたような後輩や学生に関する愚痴を垂れている自分は、指導者としての力量が低いのだなあと思う。
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