2020年3月29日日曜日

料理が先か材料が先か

 特定の料理を作る、例えばペンネアラビアータでも良いし、ナスの煮浸でもよい。ある料理を作るとなると、それに必要な材料や調味料を揃えることになる。その料理を作るための一定以上の水準の食材が必要となる。材料が少し痛んでいるとか、調味料が足りない、という事態があるかもしれない。その時は何か工夫して、目標の料理に近い味にする。それはそれで悪くはないが、あくまで「次善」の料理である。そして、どうしても条件を満たさない材料があれば排除される。
 NHKに「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」という番組がある。料理研究家のきじまりゅうたさんが街行く人に声をかけ、その人の家に上がり込んでその場にある食材を見てちょっとした料理を作る。ここでは料理ではなく食材が主人公である。目の前にある食材に備わった特徴を生かすにはどう調理すれば良いか、という思考の結果として何らかの料理が完成する。
 現在の幼稚園、保育園、小中学校は、どのような料理を作るかが先に決まっている中で調理する場所に見える。生徒の多様性を認めるとか障害を伴う子供には合理的配慮をするとか言っても、どのような料理を作るか、つまり目指す目標が一律に決まっている。だから、何らかの意味で平均からずれたところがあるほど、子供達はずいぶん無理をして枠の中に押し込まれることになる。本当は、食材を見て料理を決める、すなわち子供の強みや弱みを見て目標を柔軟に変える学校であってほしいんだけどな。

2020年2月21日金曜日

発達障害を伴う⼦供を⽀援するために

 保育士や教師が発達障害支援に取り組む時に参考になればと思いながら書いた文章です。以下のURLからダウンロードできます。ここには前文のみを載せておきます。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

「発達障害を伴う子供を支援するために
—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」
20230313版

はじめに

 この文章は、保育者や教師として子供の健全な発達を支えるために日々奮闘されている方を念頭に書きました。私は子供の神経疾患の診療を専門とする医師ですが、20年くらい前からは特に発達障害を伴う子供達のための専門外来で診療してきました。その経験の中でつくづく感じることがあります。それは、発達障害を伴う子供達に対する支援の中で医療や医師にできることの少なさです。明らかに発達障害を伴い日常多くの困難さを抱えている子供が次第に暮らしやすくなっていくとき、多くの場合は家族、保育者、教師の関わり方の良さが、物事が改善する上での大きな力になっています。もちろん児童発達支援事業などの療育施設の職員が大きく貢献する場合も少なくないですし、中には薬物療法など医療抜きには実現できない対応が必要となることもあります。しかし、療育や医療の関わりが大きい事例であっても、家庭と学校園での対応が適切でなければなかなか事態は良くなりません。もちろん家族、多くは親の存在は非常に大きいです。しかし、発達障害を伴う子供達を職業的に支えるもっとも中心的な存在は、学校園で働く保育者や教師の方々だと考えています。

 2000年頃以降10年くらいかけて、日本国内の発達障害を含む何らかの障害のある子供への教育についての考え方が、それまでの特殊教育から特別支援教育へと大きく変わりました。その後さらに10年くらいが過ぎた今、全ての学校園で障害を伴う子供達の個別のニーズに対する合理的配慮をしなければいけないという意識が保育・教育現場で浸透してきたと思います。発達障害を伴う子供達への支援についても多くの教師・保育者の先生方は前向きに努力されていると感じています。しかし一方で、どのような配慮をしたら良いのか悩まれる方々も多いのが現状ではないでしょうか。医学、心理学、障害児保育・教育など関連する様々な分野をしっかり勉強しようと頑張っていらっしゃる方も多いと思います。しかし、今現在、支援を必要とする子供達が先生方の目の前にいる状況です。しっかり勉強してから支援しましょうなどとのんびり考えていられない現状があります。そのような状況で苦しんでいる先生方が、とりあえずまず知っておくと良いのではないかと思えることをこの文章では解説しています。

 発達障害に関して解説する本であれば、まず様々な病型についての説明から始まることが多いと思います。しかし、この文章では最初に具体的な接し方の配慮から始まります。難しい理論を理解せねばできないことや特殊な技術が必要なことは説明していません。ここで説明することは、どんな子供であっても配慮しておいて損はないことです。次に、発達障害を伴う子供の支援において医療をどの様に位置付ければ良いかを解説しています。さらに、今後発達障害について詳しい知識を身につけていくにあたり、発達障害全体に共通する考え方を説明します。最後に、国際機能分類(ICF)と合理的配慮について拙い解説をつけておきます。

 長い文章を読むことが苦手な方は、とりあえず第1章だけ読んでいただけるだけでもありがたいです。この文章では発達障害の各病型についての医学的な詳細は解説していませんし、関連する心理学や福祉領域のことも説明していません。この文章さえ読めば全てが解決するというものでは全くありません。また、学術的文章でもありませんので、記述する一つ一つのことの出典は書いていません。中には私の勘違いや不正確なことも書かれている可能性があります。お気づきのことがあれば、連絡していただけると幸いです。この文章はあくまで出発点です。これを取っ掛かりにして、さらに細かい専門的な事柄を勉強していただけると幸いです。

 なお、この文章では保育者と教師の両方を意味する言葉として「先生」と表記することが多いです。第1章第3節でも触れているのですが、「先生」という言葉には色々思うところがあり、保育者と教師を指す名称として用いることに若干の抵抗があります。しかし毎回「保育者と教師」と書いていると少しくどい感じがするため、あまりややこしく考えずに「先生」を多用しています。

 この文章は以下のURLからダウンロードすることができます。時間はかかると思いますが、気がついたことを改訂していく予定です。したがって、他の方に紹介していただく際はpdfを渡すのではなくURLを伝えてください。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

閲覧、ダウンロード等は自由にしていただけます。商業的な利用を除き、自由に利用していただいて結構です。お読みになって間違いなどに気づかれた方は、ご連絡いただけると幸いです。
2020年12月
福山市こども発達支援センター
荻野竜也(oginotatsuya@gmail.com)

履歴

Ver. 1:2020年2月20日
Ver. 2:2020年3月21日
・節ごとのまとめを作った
・その他細かい加筆、修正、削除
Ver. 3:2020年3月31日
・挿絵を付けた
Ver. 4:2020年6月15日
・第1章第2節のかんしゃくへの対応の解説に佐久間 徹(2013)による反応強度分化手続きを参考にした記述を追加した。合わせて佐久間 徹の著書を第4章で紹介した。
Ver. 5:2020年12月13日
・国際生活機能分類と合理的配慮の解説を加えた。 

Ver. 6202116

pdfを保存するURL表記の誤り、誤字の修正。

Ver. 72022313

・第1章第2節に知能の高い子供への対応を追加した。 

Ver. 8202265

・第1章第2節に文献情報を追加した。

Ver. 9202288

・本文章のpdfを保存するURLの短縮版を作成。

Ver. 102023313

・第1章第2節第8項「指示の出し方」を下記書籍の記載を参考に書き直した。

加茂登志子「15分で親子関係が変わる!育児が楽になる!PCITから学ぶ子育て」小学館(2020/6/2

 




2020年2月2日日曜日

人を無駄に追い詰めないために

 「困った人」への対応に悩んでいる人は、自分自身の中に潜む傲慢さや醜悪さに気づく必要があるという話。
 何らかの発達障害を伴う人々は、周囲の人を困らせることがよくある。困った周囲の人(主に家族、教師など)がどう対応したら良いのかと悩みを訴えるときに、大体僕が説明することは以下の通りである。

 この人には苦手なところがある。注意を集中させることであったり、人の気持ちを直感的に理解することであったり。そのような弱みをカバーできるような環境がないため、問題が発生してしまう。現状のままでは本人の力で自発的に問題を解決することは難しいので、支援が必要だ。

 そして、次のような趣旨のことを付け加える。

 まずは諦めて、現状を認めることが肝要である。適切に振る舞うことがこの人には無理なんだと諦めなさい。この人に上手く振る舞えと要求することは、乳児に自分で着替えることを求めることや、あなたや私の様に普通の人にオリンピックで金メダルを取ることを求めることと同じようなものである。とりあえず諦めた上で、今より少し事態が改善する無理のない工夫を考えていけば良い。

 こういう話を聞いてある程度納得する人は多いし、中には見事に本人への接し方を変えることができる人もいる。その一方で、呆れるほど頑固に態度を変えない人もいる。問題となっている人(子供、学生、部下)に対して、頑なまでにその人には難しいことをさせようと要求し続け、上手くできないことを非難し続けるのである。そして、自分自身も疲労困憊してしまう。概ねこういう人が口にする態度を変えない理由は2つある。一つはベキ論であり、もう一つは「困った人」の将来を心配してという主張である。前者は、「〇〇すること」が倫理的に正しいのだから〇〇すべきであるという主張だ。いくら倫理的に正しくても無理なものは無理である。後者は、「このままでは将来困るから」今の状態を認めるべきではないという理屈である。その人のことを心配しているという、相手を思いやった行動のように見える。しかし、日々非難され自信を失い続ける先に素晴らしい未来が切り開かれる可能性は少なかろう。
 こういう人達は、なぜ自分自身がしんどい思いをしながらも接し方を変えることができないのだろう。おそらく頭が固く、自分の持つ信念を切り替えることに困難があるのだろう。などと考えてみるのだが、どうもそれだけではない気がする。もちろん世の中には自分の考えや価値観をなかなか変えられない柔軟性に欠けた人はいる。それほどではない人でもなかなか物事が上手くいかないことによる焦燥感や怒りの中で視野が狭くなり、柔軟性が低下することもあるだろう。しかし、柔軟性の欠如以外の要因があるように思う。僕自身の過去の経験を振り返っても、上手に振る舞えない人を非難し続け無駄に追い詰めるという行動には柔軟性の欠如に加えて別の要因がある気がする。そう、長々書いてきてやっと白状するが、僕も人を非難し、追い詰めるタイプの人間なのである。指示したことを言われた通りにできない後輩をとことん追い詰めてしまうことがよくあった。自分で思うには最近ずいぶん減ったと思うのだが、油断すると片鱗が出てしまう。人から見れば、いまだにかなり危ないのかもしれない。
 我が身を省みて、相手に無理なことを強いて追い詰める要因の一つは、自分ができることは皆できるはずという発想を持ちやすいことだ。誰でもできるはずのことを出来ない人を見たら、この人には難しいのだなと素直に考えれば良い。ところが人は得てして「できない」のではなく「出来るのにしない」のだと感じてしまう。つまり、相手が指示された通りに行動しないことは悪意から来ているという解釈をしてしまい、それに対抗するために意地になってしまうのである。
 このことに加えて、さらに重要な観点があると思う。それは、本人にとっての無理難題を与え続け、出来ないことを責め続ける人と、出来ないことを要求され、出来ないことを責められる人との力の差である。誰にでも想像がつくと思うが、難題を与え責める側は強く、難題を与えられ責められる側は弱い。多くは社会的な立場としてその力の差が最初から規定されている関係である。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩といった関係である。一見、社会的な立場が逆転しているように見える場合もある。不正が発覚した上司とそれを非難する部下たち、気が弱く自信のない教師と一斉に反抗し始めた生徒達というような場合は、本来の立場としての力の強さから見れば逆転した状況である。そうであっても、実際には何らかの理由によって責める側が責められる側よりも明らかに強い立場に立っている。
 いつまでも成果が上がらないのに諦めることなく失敗を責め、出来ないことをせよと言い続ける状況の根底には、立場の強い人間の立場の弱い人に対する支配欲があるのだと思う。自分よりも弱く従属する立場のはずの相手が、自分の指示に従わず、取り様によっては自分に逆らっているように見える状況が許せないという心性が実り少ない行動へのこだわりにつながっているのではないか。これは種々のハラスメントやDVと同じ構造である。ともすれば「正しさ」を振り回したり、「相手の将来を考えて」という言い訳を口にしたりする様子もハラスメントやDVと共通している。
 発達障害を伴う人達に適切に接するためにもっとも重要なことは、大きな心を持ち相手を許すことではないのかもしれない。もっとも重要なことは、自分の心の中に他者に対する傲慢さや支配欲があることを認めた上で、相手を自分と同じ一人の人であると認識し、対等な立場に立てるように努めることではないかと思う。それができれば、人生の苦しみが少し減るのだろう。

2019年12月15日日曜日

意識できない感情

 今年は慌ただしかった。8月に父親が亡くなり、11月に母親が亡くなった。それぞれ享年が96歳と93歳なので、まあ大往生と言えば良いだろう。わずか3ヶ月後に一見父を追うように母が亡くなったので仲の良い夫婦ですねと言ってくれる人もいるのだが、実態はそうでもない。同じ老人ホームに暮らしながら、最後の1、2年間母はほとんど父に関心がなく、会おうともしなかった。
 息子である僕は僕で、それほど親と親密な関係ではなかった。ひどい仲違いをしているわけではないが、少なくとも高校生か大学生の頃からは親を鬱陶しく感じていた。学生時代に一人暮らしを始めてからは滅多に親元に寄り付かなかったし、たまに里帰りしてもそそくさと普段生活する家に戻ってしまうことが通常であった。歳を取るにつれ、若い頃は強面だった父親が柔和になってきたのだが、その反対に母親は些細なことで人を責める傾向が強まった。そのため僕は実家に帰り母と顔を合わせるたびに喧嘩をした。
 10年くらい前からであろうか、父親が次第に金銭管理や身辺管理が怪しくなり始めた。母は父に比べればしっかりしていたが、3、4年くらい前から生活の至る所できちんと暮らせているかどうか怪しくなってきた。誠心誠意面倒を見るつもりは毛頭なかったが、それでも親に自立して暮らす力がなくなるにつれ放っても置けず、僕が、妻の協力も得ながら、様々な生活のための手配を代行するようになった。やがて父親が、そして母親も、ほんの5分前のことも覚えていない状態になっていった。
 8月に父が死んだ時、少し寂しいなとは思うものの、ほとんど感慨はなかった。初めて自分の責任で行う葬儀や様々な後始末をそつなく片付けていくことに気を取られる数ヶ月間であった。
 父の死はかなり急で呆気なかったのだが、母は3ヶ月間の入院の末に死んだ。最後の1、2週間は刺激すれば辛うじて目を開け、こちらを見る程度の状態が続いた。本人の様子を見、検査データなども説明され、間も無く死ぬということは明確に認識していた。最後の瞬間には立ち会っていたのだが、心電図モニターを眺めながら「あ、止まったな」と冷静に考えていた。ここ20年ほど生き死にに関わることはなくなっていたが、僕も一応医者の端くれである。一般の人よりは死に向かっている状況を理解する力はあると思う。
 病院で患者が亡くなると、必ず行われる儀式がある。主治医(またはその代行)が脈と呼吸が止まり瞳孔の対光反射がないことを確認した上で、死亡したことと死亡時刻を宣告するのである。この死亡時刻というものは、厳密な意味での死亡した時刻ではない。死亡を「確認した」時刻である。母親が死んだ時は当直医が立ち会っていたが、間も無く主治医が来るので待ちましょうということになり、その当直医が死亡宣告をすることはなかった。しばらくしてから出勤したばかりの主治医が慌てて部屋にやってきた。そして、おもむろに聴診器を当て、手を取って脈を確かめ、目を覗き込んで対光反射を確認するやや儀式めいた様子を、僕は少し面白がりながら見ていた。主治医が「7時51分、ご臨終です」と述べた時に思いがけないことが起こった。強く涙が込み上げてきたのである。本当に涙を流すことはなかったのだが、主治医に礼の言葉をまともに述べられなくなっていた。僕は「何が起こったんだろう?」と人ごとのように驚いていた。実際、1分も経たないうちに収まり、その後自分の心の中を覗き込んでも取り立てて感情らしきものは見当たらなかったのである。
 告別式はほとんど家族のみで小ぢんまりと行なったのだが、母が暮らしていた老人ホームの職員が2人参列してくれた。式が終わり、その2人にお礼を述べようとしたら、またもや涙がこみ上げまともに言葉を発することができない状態になった。おそらく相手は悲しみに暮れる遺族という受け止め方をされただろうと思うのだが、当人の心の中には「おやおや、一体どうしたんだい」と半ば驚き半ば呆れた様な面持ちの僕自身がいるだけだった。この時も1分後には落ち着いており、悲しみや寂しさという感情は感じることが出来なかった。
 霊柩車に同乗し、父の時と同じ道を辿って斎場に向かった。この日も、3ヶ月前に父を見送った日と同じく晴れていた。ただ、父の時は濃い青空から強い夏の日差しが降り注ぎ、周囲の光景もコントラストが明確で鮮やかな色調だった。母の時は晴れてはいるものの雲の多い冬空で、周囲の光景もどこか曇った色調で街並みはくすんで見えた。僕は、ぼやけた街並みを眺めながら、先程の不思議な体験についてぼんやり考えた。
 その日、僕は涙が込み上げ言葉を発しにくくなるという明確な体験を2回経験した。してみると、僕には母親の死を悲しむという人並みの感情があったのだろうか。しかし、早朝に病院へ呼び出されてから日が暮れるまでの間、明確な悲しみを自覚することは全くなかった。涙がこみ上げるという強く明確な「情動反応」はベースとなる「情動」があるからだというのであれば、その時僕は悲しんでいたことになる。その「情動」は一体どこに隠れていたのだろうか。自閉症を伴う人たちは自分の気持ちを自覚することが難しいことが多いとよく言われるが、それと似たような状態なのだろうか。あるいは、「情動反応は」明確な「情動」がなくても、何らかの社会的な意味を伴った記号としての体験に対して反射的に引き起こされるものなのだろうか。目の前に突然虫が飛んできたときに、反射的に目を閉じたり手で振り払おうとしたりするのと同じようなレベルで「情動反応」が生じることもあるのだろうか。考えても解けないこの謎は、半月以上経った今でもなんとなく頭に引っかかっている。

2019年12月1日日曜日

意味には意味があり、価値には価値があるのか?

「学習すればロボットが感情を持つ時代が来るのかなあ?」
とユリさんが言った。ユリさんとは僕の妻である。その時、僕たちはロボットの話題を取り上げたNHKニュースを見ていたのだ。僕はしかめ面をしながら、しかしおそらくどこか得意げに、「AIも所詮コンピューターだからね、全ての制御や学習は数式で表されるものなんだよ。数式で意味や価値を表すことはできないからね。意味や価値がないところに感情もないと思うよ。本当の意味でロボットが感情を持つことは考えられないね。」と述べた。ユリさんはどこか納得していない感じを漂わせながら、「そうかなあ」と返事した。
 率直に言えば、僕の説明は受け売りである。新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』には、現状のAI技術は統計を基盤としており論理に基づく処理はあまりできないし、数学が基盤である以上意味は理解できない、というようなことが書いてある。これを読んだ時、すごく明快な説明だなと感じた。確かに相関であろうが重回帰式であろうが、もっと複雑な多変量解析の結果であっても、数式は複数の変数の関係性を示すだけなんだから、価値や意味を判断することはない。
 ユリさんに返事をした後、気になってきた。ではなぜ人間は意味を読み取り価値判断をするのであろうか。進化の過程で物事の意味を想定したり価値判断をしたりすることが適応的だったのだろう。それはそうなんだろう。しかし、意味や価値を認識するのは脳である。「違うよ、脳ではなくて心だよ。」と優しく諭してくれる人もいるかもしれない。そう言われても、僕は肉体以外のふわふわした概念を受け入れる気にはなれない。意味や価値を判断するのは脳であるという前提に立つ時、どの様な仕組みで脳は意味や価値を判断できるのであろうか。
 脳を形作る主要な要素は神経細胞だ。一つ一つの神経細胞から長く伸びた神経繊維が別の神経細胞につながり、回路を形成している。脳の機能は神経回路の働きそのものである。膨大な数の神経細胞からなる極めて複雑な回路が形成されているのであるが、神経細胞という部品を結線することで出来上がったと考えれば、脳はコンピューターの演算装置と似たようなものである。個々の神経細胞は半導体よりは複雑そうな気はするが、基本的な働きは興奮するか収まるかであり、単純なものである。興奮した時はその興奮が神経繊維を介して別の神経細胞(達)を興奮させる。一つの神経細胞から伸びた神経繊維が別の神経細胞に結合する部位をシナプスという。このシナプスの結合度は比較的単純な原理によって強くなったり(つまり興奮というシグナルが次の細胞に伝わりやすくなる)弱くなったりする。この仕組みによってどの細胞間でシグナルが伝達されるのか、回路の結線が変化するのである。要するに、脳全体の機能は個々の神経細胞が一定条件のもとに興奮しそのシグナルを外に発するということと、神経回路の結線が変化することに支えられている。
 このように考えると、一体どこに意味や価値が生じる余地があるのだろうか。神経細胞は一人の人間に比べるとはるかに単純なものであり、精神が宿るような代物ではない。シンプルな「素子」と回路の結合具合によって脳の動きが決まってくるのだと考えると、コンピューターとさして変わらないではないか。与えられたプログラムに沿って情報を処理しているのに過ぎないのではなかろうか。種々の科学的、物理的条件によって生じる偶然の揺らぎが意味や価値の成立に関与している可能性があるかもしれない。しかし、偶然の揺らぎによって一貫した価値観が成立するのかと考えれば疑わしい。もともと何らかの意味や価値を規定するようにプログラムされているとしか思えない。例えば特定の入力パターンに強く反応するような重み付けが与えられているといった仕組みがあるのではないだろうか。そして、様々な方向に情報処理の重み付けをされた脳がある中で、進化論的、適応的に淘汰される中で、比較的似通った意味や価値の判断をする人間が世の多数を占めるようになったのではなかろうか。
 一定パターンの情報の組み合わせに重みをつけるプログラムがもともとあることが意味や価値を判断することの本質であるなら、AIでも意味や価値という概念を持つことができそうである。これが正しいのなら、人間が意味や価値の判断をする時、それはあらかじめ規定されたプログラムをベースに学習された反応傾向に過ぎないと言えそうだ。本当に意味には意味があり、価値には価値があるのだろうか。これ以上考えを進めるだけの知識のない僕としては、薄ら寒い気持ち(これもプログラムに基づく反応かもしれない)をただ耐える以外にできることがない。

2019年4月26日金曜日

既に世界標準があります

 最近、パソコンのキーボードに関して、自分の生来の特徴か加齢のなせる技かは分からないのだが、実に間抜けな失敗を繰り返している。まず、自分のMacbook airを最近新しい機種に買い換えた。デスクトップでは英語版キーボードを使うことが多かったので英語キーボードのMacbook airを購入した。購入して1ヶ月以上経ってから自分が購入したMacbook airは日本語キーボードであることに気づいた。ノートPCではあるが英語版外部キーボードを接続していたので、間違った製品を注文していたことに長らくピンとこなかったのだ。なんとも間の抜けた話である。
 別の案件だが、職場で使っている電子カルテに付属するキーボードが非常にちゃちなもので、かねがね気になっていた。最近の僕の仕事なんてしゃべっているか診察結果を説明する文章を書いているかしかない。やはり仕事の道具は奮発すべきだと考え、27,000円もするリアルフォースの英語版キーボードを購入した。ところが、電子カルテに使われているパソコンでは英語版キーボードを認識できず、日本語キーボードとして認識することが判明したのである。いくつかのキーではトップに表示されているものとは違う文字が画面に現れるので、使いにくいったらありゃしない。しかし、27,000円である。意地でも使い続けてやると表示がデタラメなキーボードに慣れるべく頑張っている最中である。
 前置きが長くなったが、こういう状況に陥るくらいに僕は長年日本語キーボードと英語キーボードを取り混ぜて使用している。しかも、DOS/WindowsパソコンとMACいずれでも日本語と英語キーボードを使ってきた。その経験から自信を持って言えるが、英語キーボードを使っても何も困ることはない。日本語キーボードでできることは英語キーボードでも可能である。そうなると、なんで日本語キーボードという変なものをわざわざ作ったのだろうかという疑問が湧いてくる。どちらでも用が足りるなら英語キーボードの方がキーが少なくてシンプルだし、世界中のあらゆる製品を使えて良いではないか。
 日本は独自規格を作りたがる傾向が強いと思う。医療の世界でも、病気の診断基準を日本独自に作成することが昔からよくあった。もちろん、信頼性の高い診断基準がない疾患において日本の研究水準が高く、その結果として日本発の診断基準ができるのであればなんの文句もない。しかし、世界中でかなり広く使われている診断基準が存在する時に、わざわざ日本独自の基準を作る必要性はどこにあるのだろうか。
 少なくとも技術的な世界では普遍性が高い方が便利で生産的である。独自な企画を作ることには明確な理由が必要だと思う。疾患の診断基準であれば、世界標準の基準を使っている時にそれでは問題が生じることを確認できればそれを補えるような修正案を出せば良い。明確な根拠もなく独自基準を使ってもデータの比較が難しくなるだけである。キーボードも基本は世界標準仕様にしておき、それでどうしても問題がある時に修正すれば良い。なぜ初っ端から大した根拠もないだろうに日本独自キーボードを設定したのか不思議な気がする。
 話が飛躍するような気はするが、今の日本の停滞は「日本はオンリーワンなんだぜ!」「日本は他の国とはちょっと違う」と言いたがる心性が基盤にあるのではないかと睨んでいる。普遍的な価値観を精査する中から独自の気づきを得る努力をせずに、客観的な根拠もなく日本の独自性ばかりを追いたがる傾向が様々な場面でブレーキをかけているのではないかという気がしている。

2019年3月1日金曜日

親に伝えたい総論

 発達障害を伴う子供を対象にした診療をしていると、育てている親への助言が日々の活動の中で重要な位置を占める。通常こういった助言は生活の中の問題を具体的に取り上げ、具体的な対応を考える各論的助言の積み重ねが中心となる。総論を伝えたからといって具体的な問題が解決するわけではない。とはいえ、子供への接し方を工夫するときに一貫して念頭におくべき総論的な考え方もある。ここでは親に助言するときに伝えたい総論をまとめてみた。

1. 親の心構え

 まず、総論中の総論である。

1)親子で楽に暮らせることを目指す

 どういう未来を目指すのかというイメージを持つことは大切である。「良いこと」や「あるべき状態」を目指すと精神的に追い詰められやすい。少なくとも短期、中期的には親子で疲れず楽しく暮らせることを目指せば良いと思う。具体的にはしっかり眠れる、疲れたら休める、生活を楽しめることを目指すのである。

2)無駄な努力をしない、損得勘定で作戦を考える、情緒よりは技術

 子育てで煮詰まっている状態のかなりの部分は、何も成果がないにも関わらず同じ方向で頑張り続けていることが原因になっているのではないかと思う。成果が出れば多少の苦労も報われるが、何ら得るものがないままに頑張り続けてもエネルギーを消耗するだけである。世間には「無駄な苦労はない」などと無責任に言いたがる人が大勢いるが、耳を貸してはいけない。成果をあげるということは、言い換えれば損得勘定で作戦を練ることである。上記の「親子で楽に暮らせる」ことに少しでも近づければ「得」だし、遠のくなら「損」である。そして、得が損を上回るようにするために必要なものは合理的な技術である。決して子供への愛情と熱意などという情緒的なものではない。エンジニアになったつもりになって欲しい。

3)最初の仕事は諦めること

 さあ、子供にまつわる様々な問題を解決しよう!と動き始める時、最初の仕事は諦めることである。「この子はこういう子なんだ」、「この子にはまだ無理なんだ」と諦めることである。子供が計画的に親を追い詰めようとすることなどまずない。親の期待通りの状態にならないことには何か理由がある。その理由を何とかできなければ、親も子供自身も現状を変えることはできないのである。諦めることができるとまず、親が楽になる。「しゃあないなあ」と思えるだけで随分楽になる。さらに、何が「理由」なんだろうと落ち着いて子供や子供の周囲の状況を観察する余裕ができる。

4)人を頼る、人に助けを求める、人に迷惑をかける

 おそらく日本の社会の大きな特徴の一つではないかと睨んでいるのだが、自分の力で何事も解決すべきという呪いが蔓延している。しかし、冷静に考えればすぐに分かることであるが、人は誰も自分一人の力では生きていけない。「俺は自分の力で生きてきた」とほざくおっさんは多いが、その人達全てが日々多くの人に助けられながら生きているのである。お互いに、いかに上手く人に頼れるか、上手く人に助けられるか、ということが人間社会の土台の主要成分になっていると言っても良い。
 ところが困ったことに、日々の問題が大きくて疲労困憊している時ほど人に助けを求めにくくなる。平均的な子供を育てるだけでも結構大変なのだが、発達障害を伴う子供を育てる苦労は並大抵ではない。これを切り抜けるためには、一人でも多くの人から効果的な援助を受けることが必要だ。勇気を持って人を頼り、人に助けを求めないといけない。人に迷惑をかけることを心配している暇なんて親には無いのだ。なーに、心配はいらない。世の中の人は結構親切で優しい。意地悪く非難する人達の声は大きいので、世の中敵だらけに見えてしまうかもしれない。しかし、そういう人はむしろ少数派だ。声が大きいし、心を傷つけられがちなので非難の声だらけに思えるかもしれないけれど、結構世の中捨てたもんじゃないということを理解しておこう。ただし、人を頼るといっても以下に挙げたような特徴の強い人は避けておく方が良い。

・やたらとお説教をし、人の道を説きだす
・じっくりと話を聞いてくれない、自分ばかり喋ろうとする
・根拠もなく「大丈夫よ」とか「心配のしすぎ」とか言う
・暗いことばかり言う、すぐにイライラして脅し口調になる
・助言が抽象的なことばかりで、具体的にどう動けば良いのか分からない


5)「親の務め」ってなに?それ、食べられるの?

 僕が出会った例を振り返る限り、世の中の親は、特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合、真面目な人が圧倒的に多い。こういう人達は「親なら〜すべき」と親の務めや義務を生真面目に果たそうとしている。この姿勢が100%悪いとも言わないが、問題を生じやすい。それは、実現不可能な目標を立ててしまいがちなことである。上に書いたこととも関連するが、何らかの理由があって上手くいかないことや問題は生じている。その多くはすぐには解決できないことなのである。1歳未満の乳児に、上手に箸でご飯を食べさせようとしても出来るわけがない。これと同じようなことを大真面目に目標にしてしまうと、親子揃ってひどく苦しむことになる。「べき論」とは距離を置く方が良い。なお、上に「特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合」との但し書きを書いたのは、子育てをパートナーに全面的に任せてしまっている親もいるからである。そういう親は生真面目に頑張るというよりも、批評家的にパートナーにケチをつける人が多い気がする。

2. 子供に接する上での基本戦略

1)まず目指すことは、本人を変えることではなく環境を変えること

 自閉スペクトラム症であれ、注意欠如・多動症であれ、発達障害と呼ばれる状態の特徴は物の認識の仕方や振る舞い方の特徴である。暮らし辛さにつながっていくので症状と捉え診断に繋がるが、取り立てて暮らし辛さに繋がらなければ「性格」と称しても良い、その子供個人の基本的な特徴の一部である。自分の性格を変えたいと考える人はよくいるが、短期間で変えることなど不可能である。つまり、発達障害としての特徴を無くそうとすることは別の人間に変えようとしていることに等しい。無理なのである。したがって、発達障害を伴う子供を支援する上でまず考えないといけないことは環境を変えることである。発達障害の特徴を持ったそのままの状態を受け入れ、そのような特徴を持っていても困ることが減り出来ることが増えるように環境を変えることなのである。本人以外のものは全て環境であるが、とりわけ重要な環境は親や学校園の指導者など、子供に対して指導的立場にいる大人たちである。家や土地、風土を急に変えることは困難であるが、大人なら自ら子供への接し方を変えることは可能である。

2)出来ていることに注目、出来ていないことは無視

 発達障害と診断される子供は皆、何もできない子供では決してない。それどころか、出来ることの方が圧倒的に多い。夜寝て日中は起きているだろうし、毎日ご飯は食べているだろう。着替えも出来るようになっているかもしれないし、保育園には通っているかもしれない。このレベルから改めて生活を見直せば、出来ないことより出来ていることの方が圧倒的に多いことに気づくはずである。気が散りやすく課題に集中できないとしても断続的に取り組めていれば、その断続的に取り組んでいる状態が出来ていることだ。出来ていることを意識しこまめに褒めると、出来ていることはより一層増えるし完成度も高まる。その一方で、上手くいかないこと、失敗していることは余程の実害がなければ気づかぬふりで無視することが原則である。これを徹底すると、次第にできていることが一層増え、その一方で問題は減っていく。

3)本人の納得は大切

 大人が子供に何かをさせよう、あるいは何らかの行動を止めさせようとするとき、それが当然のことだからという意識を持っていることが多い。しかし子供の立場で考えると、突然に気が進まない行動を強制されたとか、不当に自分の活動を妨害されたという風に感じることになる。いくら世間一般から見て正しいことであっても、突然何かの振る舞いを強制されたり禁止されたりしたら大人でも俄かには納得できない。1回か2回なら黙って従うかもしれないが、こういう「無理強い」が繰り返されたら素直に従えなくなるだろうし、相手に敵意を持つことにもなるだろう。これは子供でも大人でも同じことである。余程の事情がない限り、子供が納得できることを尊重した接し方が必要である。

4)変わり者を認める

 発達障害を伴う子供達は平均的な人に比べると振る舞い方や物の考え方がちょっとずれている。つまり、「変わり者」なのである。隅から隅まで周りの子供達と同じように振舞わねばならないと考えると親も子供も苦しみが増える一方である。ちょっと変わったところがあっても実害がない限りは、変わり者で良いではないかと受け入れてしまうとだいぶ楽に過ごせるようになる。