2019年12月15日日曜日

意識できない感情

 今年は慌ただしかった。8月に父親が亡くなり、11月に母親が亡くなった。それぞれ享年が96歳と93歳なので、まあ大往生と言えば良いだろう。わずか3ヶ月後に一見父を追うように母が亡くなったので仲の良い夫婦ですねと言ってくれる人もいるのだが、実態はそうでもない。同じ老人ホームに暮らしながら、最後の1、2年間母はほとんど父に関心がなく、会おうともしなかった。
 息子である僕は僕で、それほど親と親密な関係ではなかった。ひどい仲違いをしているわけではないが、少なくとも高校生か大学生の頃からは親を鬱陶しく感じていた。学生時代に一人暮らしを始めてからは滅多に親元に寄り付かなかったし、たまに里帰りしてもそそくさと普段生活する家に戻ってしまうことが通常であった。歳を取るにつれ、若い頃は強面だった父親が柔和になってきたのだが、その反対に母親は些細なことで人を責める傾向が強まった。そのため僕は実家に帰り母と顔を合わせるたびに喧嘩をした。
 10年くらい前からであろうか、父親が次第に金銭管理や身辺管理が怪しくなり始めた。母は父に比べればしっかりしていたが、3、4年くらい前から生活の至る所できちんと暮らせているかどうか怪しくなってきた。誠心誠意面倒を見るつもりは毛頭なかったが、それでも親に自立して暮らす力がなくなるにつれ放っても置けず、僕が、妻の協力も得ながら、様々な生活のための手配を代行するようになった。やがて父親が、そして母親も、ほんの5分前のことも覚えていない状態になっていった。
 8月に父が死んだ時、少し寂しいなとは思うものの、ほとんど感慨はなかった。初めて自分の責任で行う葬儀や様々な後始末をそつなく片付けていくことに気を取られる数ヶ月間であった。
 父の死はかなり急で呆気なかったのだが、母は3ヶ月間の入院の末に死んだ。最後の1、2週間は刺激すれば辛うじて目を開け、こちらを見る程度の状態が続いた。本人の様子を見、検査データなども説明され、間も無く死ぬということは明確に認識していた。最後の瞬間には立ち会っていたのだが、心電図モニターを眺めながら「あ、止まったな」と冷静に考えていた。ここ20年ほど生き死にに関わることはなくなっていたが、僕も一応医者の端くれである。一般の人よりは死に向かっている状況を理解する力はあると思う。
 病院で患者が亡くなると、必ず行われる儀式がある。主治医(またはその代行)が脈と呼吸が止まり瞳孔の対光反射がないことを確認した上で、死亡したことと死亡時刻を宣告するのである。この死亡時刻というものは、厳密な意味での死亡した時刻ではない。死亡を「確認した」時刻である。母親が死んだ時は当直医が立ち会っていたが、間も無く主治医が来るので待ちましょうということになり、その当直医が死亡宣告をすることはなかった。しばらくしてから出勤したばかりの主治医が慌てて部屋にやってきた。そして、おもむろに聴診器を当て、手を取って脈を確かめ、目を覗き込んで対光反射を確認するやや儀式めいた様子を、僕は少し面白がりながら見ていた。主治医が「7時51分、ご臨終です」と述べた時に思いがけないことが起こった。強く涙が込み上げてきたのである。本当に涙を流すことはなかったのだが、主治医に礼の言葉をまともに述べられなくなっていた。僕は「何が起こったんだろう?」と人ごとのように驚いていた。実際、1分も経たないうちに収まり、その後自分の心の中を覗き込んでも取り立てて感情らしきものは見当たらなかったのである。
 告別式はほとんど家族のみで小ぢんまりと行なったのだが、母が暮らしていた老人ホームの職員が2人参列してくれた。式が終わり、その2人にお礼を述べようとしたら、またもや涙がこみ上げまともに言葉を発することができない状態になった。おそらく相手は悲しみに暮れる遺族という受け止め方をされただろうと思うのだが、当人の心の中には「おやおや、一体どうしたんだい」と半ば驚き半ば呆れた様な面持ちの僕自身がいるだけだった。この時も1分後には落ち着いており、悲しみや寂しさという感情は感じることが出来なかった。
 霊柩車に同乗し、父の時と同じ道を辿って斎場に向かった。この日も、3ヶ月前に父を見送った日と同じく晴れていた。ただ、父の時は濃い青空から強い夏の日差しが降り注ぎ、周囲の光景もコントラストが明確で鮮やかな色調だった。母の時は晴れてはいるものの雲の多い冬空で、周囲の光景もどこか曇った色調で街並みはくすんで見えた。僕は、ぼやけた街並みを眺めながら、先程の不思議な体験についてぼんやり考えた。
 その日、僕は涙が込み上げ言葉を発しにくくなるという明確な体験を2回経験した。してみると、僕には母親の死を悲しむという人並みの感情があったのだろうか。しかし、早朝に病院へ呼び出されてから日が暮れるまでの間、明確な悲しみを自覚することは全くなかった。涙がこみ上げるという強く明確な「情動反応」はベースとなる「情動」があるからだというのであれば、その時僕は悲しんでいたことになる。その「情動」は一体どこに隠れていたのだろうか。自閉症を伴う人たちは自分の気持ちを自覚することが難しいことが多いとよく言われるが、それと似たような状態なのだろうか。あるいは、「情動反応は」明確な「情動」がなくても、何らかの社会的な意味を伴った記号としての体験に対して反射的に引き起こされるものなのだろうか。目の前に突然虫が飛んできたときに、反射的に目を閉じたり手で振り払おうとしたりするのと同じようなレベルで「情動反応」が生じることもあるのだろうか。考えても解けないこの謎は、半月以上経った今でもなんとなく頭に引っかかっている。

2 件のコメント:

  1. なんとなく、これは分かる気がします。私も自分では普段なんとも思ってないことを、人に話そうとすると泣きそうになり、うまく話せなかったり。それは、やはり身内の話だったりの時で。その時、自分の中では、同じように、あれ?どうしたんだろ?なんで、こんなになるんだろ??と思ってしまいます。私自身の分析の中では、2つ見解があります。難しい言葉は、分からないので、使えませんが、1つは、話す内容が苦手だとか、早く終わらせたいと思うことから。2つめは、他人から見た自分をどこかで意識しているからなのかなと思っています。
    ご臨終ですとゆう言葉を聞いた時に、涙を流さなかった家族を見たら、自分だと、どう思うのか、やはり流した方がいいとゆう判断が、きっと自分の中にあるのではないでしょうか。
    きっと、そこには、脳のなんらかの仕組みが働いてるのだとは思いますが。

    とても面白く興味深い内容のブログをありがとうございました。読むごとに勉強になります。

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    1. せっかく興味深いコメントをいただいたのに、お返事を送れていなかったらしいことに今気がつきました。申し訳ありません。
      みーそうままさんの仰るメカニズムは、確かにあり得るなあと思います。ただ、具体的な仮説を念頭に内省しても、相変わらず何の感情や思惑の痕跡も残っていないため、結局正解は謎のままです。

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