「学習すればロボットが感情を持つ時代が来るのかなあ?」
とユリさんが言った。ユリさんとは僕の妻である。その時、僕たちはロボットの話題を取り上げたNHKニュースを見ていたのだ。僕はしかめ面をしながら、しかしおそらくどこか得意げに、「AIも所詮コンピューターだからね、全ての制御や学習は数式で表されるものなんだよ。数式で意味や価値を表すことはできないからね。意味や価値がないところに感情もないと思うよ。本当の意味でロボットが感情を持つことは考えられないね。」と述べた。ユリさんはどこか納得していない感じを漂わせながら、「そうかなあ」と返事した。
率直に言えば、僕の説明は受け売りである。新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』には、現状のAI技術は統計を基盤としており論理に基づく処理はあまりできないし、数学が基盤である以上意味は理解できない、というようなことが書いてある。これを読んだ時、すごく明快な説明だなと感じた。確かに相関であろうが重回帰式であろうが、もっと複雑な多変量解析の結果であっても、数式は複数の変数の関係性を示すだけなんだから、価値や意味を判断することはない。
ユリさんに返事をした後、気になってきた。ではなぜ人間は意味を読み取り価値判断をするのであろうか。進化の過程で物事の意味を想定したり価値判断をしたりすることが適応的だったのだろう。それはそうなんだろう。しかし、意味や価値を認識するのは脳である。「違うよ、脳ではなくて心だよ。」と優しく諭してくれる人もいるかもしれない。そう言われても、僕は肉体以外のふわふわした概念を受け入れる気にはなれない。意味や価値を判断するのは脳であるという前提に立つ時、どの様な仕組みで脳は意味や価値を判断できるのであろうか。
脳を形作る主要な要素は神経細胞だ。一つ一つの神経細胞から長く伸びた神経繊維が別の神経細胞につながり、回路を形成している。脳の機能は神経回路の働きそのものである。膨大な数の神経細胞からなる極めて複雑な回路が形成されているのであるが、神経細胞という部品を結線することで出来上がったと考えれば、脳はコンピューターの演算装置と似たようなものである。個々の神経細胞は半導体よりは複雑そうな気はするが、基本的な働きは興奮するか収まるかであり、単純なものである。興奮した時はその興奮が神経繊維を介して別の神経細胞(達)を興奮させる。一つの神経細胞から伸びた神経繊維が別の神経細胞に結合する部位をシナプスという。このシナプスの結合度は比較的単純な原理によって強くなったり(つまり興奮というシグナルが次の細胞に伝わりやすくなる)弱くなったりする。この仕組みによってどの細胞間でシグナルが伝達されるのか、回路の結線が変化するのである。要するに、脳全体の機能は個々の神経細胞が一定条件のもとに興奮しそのシグナルを外に発するということと、神経回路の結線が変化することに支えられている。
このように考えると、一体どこに意味や価値が生じる余地があるのだろうか。神経細胞は一人の人間に比べるとはるかに単純なものであり、精神が宿るような代物ではない。シンプルな「素子」と回路の結合具合によって脳の動きが決まってくるのだと考えると、コンピューターとさして変わらないではないか。与えられたプログラムに沿って情報を処理しているのに過ぎないのではなかろうか。種々の科学的、物理的条件によって生じる偶然の揺らぎが意味や価値の成立に関与している可能性があるかもしれない。しかし、偶然の揺らぎによって一貫した価値観が成立するのかと考えれば疑わしい。もともと何らかの意味や価値を規定するようにプログラムされているとしか思えない。例えば特定の入力パターンに強く反応するような重み付けが与えられているといった仕組みがあるのではないだろうか。そして、様々な方向に情報処理の重み付けをされた脳がある中で、進化論的、適応的に淘汰される中で、比較的似通った意味や価値の判断をする人間が世の多数を占めるようになったのではなかろうか。
一定パターンの情報の組み合わせに重みをつけるプログラムがもともとあることが意味や価値を判断することの本質であるなら、AIでも意味や価値という概念を持つことができそうである。これが正しいのなら、人間が意味や価値の判断をする時、それはあらかじめ規定されたプログラムをベースに学習された反応傾向に過ぎないと言えそうだ。本当に意味には意味があり、価値には価値があるのだろうか。これ以上考えを進めるだけの知識のない僕としては、薄ら寒い気持ち(これもプログラムに基づく反応かもしれない)をただ耐える以外にできることがない。
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