2020年2月2日日曜日

人を無駄に追い詰めないために

 「困った人」への対応に悩んでいる人は、自分自身の中に潜む傲慢さや醜悪さに気づく必要があるという話。
 何らかの発達障害を伴う人々は、周囲の人を困らせることがよくある。困った周囲の人(主に家族、教師など)がどう対応したら良いのかと悩みを訴えるときに、大体僕が説明することは以下の通りである。

 この人には苦手なところがある。注意を集中させることであったり、人の気持ちを直感的に理解することであったり。そのような弱みをカバーできるような環境がないため、問題が発生してしまう。現状のままでは本人の力で自発的に問題を解決することは難しいので、支援が必要だ。

 そして、次のような趣旨のことを付け加える。

 まずは諦めて、現状を認めることが肝要である。適切に振る舞うことがこの人には無理なんだと諦めなさい。この人に上手く振る舞えと要求することは、乳児に自分で着替えることを求めることや、あなたや私の様に普通の人にオリンピックで金メダルを取ることを求めることと同じようなものである。とりあえず諦めた上で、今より少し事態が改善する無理のない工夫を考えていけば良い。

 こういう話を聞いてある程度納得する人は多いし、中には見事に本人への接し方を変えることができる人もいる。その一方で、呆れるほど頑固に態度を変えない人もいる。問題となっている人(子供、学生、部下)に対して、頑なまでにその人には難しいことをさせようと要求し続け、上手くできないことを非難し続けるのである。そして、自分自身も疲労困憊してしまう。概ねこういう人が口にする態度を変えない理由は2つある。一つはベキ論であり、もう一つは「困った人」の将来を心配してという主張である。前者は、「〇〇すること」が倫理的に正しいのだから〇〇すべきであるという主張だ。いくら倫理的に正しくても無理なものは無理である。後者は、「このままでは将来困るから」今の状態を認めるべきではないという理屈である。その人のことを心配しているという、相手を思いやった行動のように見える。しかし、日々非難され自信を失い続ける先に素晴らしい未来が切り開かれる可能性は少なかろう。
 こういう人達は、なぜ自分自身がしんどい思いをしながらも接し方を変えることができないのだろう。おそらく頭が固く、自分の持つ信念を切り替えることに困難があるのだろう。などと考えてみるのだが、どうもそれだけではない気がする。もちろん世の中には自分の考えや価値観をなかなか変えられない柔軟性に欠けた人はいる。それほどではない人でもなかなか物事が上手くいかないことによる焦燥感や怒りの中で視野が狭くなり、柔軟性が低下することもあるだろう。しかし、柔軟性の欠如以外の要因があるように思う。僕自身の過去の経験を振り返っても、上手に振る舞えない人を非難し続け無駄に追い詰めるという行動には柔軟性の欠如に加えて別の要因がある気がする。そう、長々書いてきてやっと白状するが、僕も人を非難し、追い詰めるタイプの人間なのである。指示したことを言われた通りにできない後輩をとことん追い詰めてしまうことがよくあった。自分で思うには最近ずいぶん減ったと思うのだが、油断すると片鱗が出てしまう。人から見れば、いまだにかなり危ないのかもしれない。
 我が身を省みて、相手に無理なことを強いて追い詰める要因の一つは、自分ができることは皆できるはずという発想を持ちやすいことだ。誰でもできるはずのことを出来ない人を見たら、この人には難しいのだなと素直に考えれば良い。ところが人は得てして「できない」のではなく「出来るのにしない」のだと感じてしまう。つまり、相手が指示された通りに行動しないことは悪意から来ているという解釈をしてしまい、それに対抗するために意地になってしまうのである。
 このことに加えて、さらに重要な観点があると思う。それは、本人にとっての無理難題を与え続け、出来ないことを責め続ける人と、出来ないことを要求され、出来ないことを責められる人との力の差である。誰にでも想像がつくと思うが、難題を与え責める側は強く、難題を与えられ責められる側は弱い。多くは社会的な立場としてその力の差が最初から規定されている関係である。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩といった関係である。一見、社会的な立場が逆転しているように見える場合もある。不正が発覚した上司とそれを非難する部下たち、気が弱く自信のない教師と一斉に反抗し始めた生徒達というような場合は、本来の立場としての力の強さから見れば逆転した状況である。そうであっても、実際には何らかの理由によって責める側が責められる側よりも明らかに強い立場に立っている。
 いつまでも成果が上がらないのに諦めることなく失敗を責め、出来ないことをせよと言い続ける状況の根底には、立場の強い人間の立場の弱い人に対する支配欲があるのだと思う。自分よりも弱く従属する立場のはずの相手が、自分の指示に従わず、取り様によっては自分に逆らっているように見える状況が許せないという心性が実り少ない行動へのこだわりにつながっているのではないか。これは種々のハラスメントやDVと同じ構造である。ともすれば「正しさ」を振り回したり、「相手の将来を考えて」という言い訳を口にしたりする様子もハラスメントやDVと共通している。
 発達障害を伴う人達に適切に接するためにもっとも重要なことは、大きな心を持ち相手を許すことではないのかもしれない。もっとも重要なことは、自分の心の中に他者に対する傲慢さや支配欲があることを認めた上で、相手を自分と同じ一人の人であると認識し、対等な立場に立てるように努めることではないかと思う。それができれば、人生の苦しみが少し減るのだろう。

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