2015年2月5日木曜日

「さっさと結論を言え!」、あるいは三森ゆりかさんの著書のこと

学生「ちょっといいですか?」
僕「どうぞ。」
学生「前回の障害児保育の授業ですが、」
僕「はい」
学生「前日から熱が出て、」
僕「はい。」
学生「その日の朝になっても熱が下がらなかったんです。」
僕「そうですか。」
学生「それで病院を受診して、講義に出ることができませんでした。」
僕「なるほど。」
学生「それで、出られなかった日の講義時間にプリントが配布されたと聞いたのですが、、、」
僕「配ったかもしれませんね。」
学生「えっと、僕は出席できなかったので、そのプリントをもらえなかったのです。」
僕「要するに、前回の講義で配布したプリントを下さいと言いに来たの?」
学生「はい。」
僕「最初から言えば、一言で済むじゃない。」
学生「・・・・・」

製薬会社の人「この薬の水薬について、お伺いしたいのですが。」
僕「はい。」
製薬「水薬は大分使っていただけましたか?」
僕「いいえ、一人か二人です。」
製薬「水薬を使われての印象は何かありますか?」
僕「印象と言われても、一人か二人にしか使ってませんから。」
製薬「カプセルと水薬で、効果の違いについての印象が何かありますか?」
僕「え、水薬とカプセルで効果が違うのですか?」
製薬「お使いいただいている先生方に色々伺うと、」
僕「効果が違うという客観的データがあるのですね」
製薬「いえ、客観的データはありません。」
僕「では、水薬とカプセルの効果の比較云々と言ってもしょうがないですね。」
製薬「水薬の方が体重に合わせて微調整が可能だということでして。」
僕「それはそうでしょうね。で、微調整をすることで有効率が上昇するのですか?」
製薬「いえ、有効率が上がるというデータはありません。」
僕「結局、何を仰りたいのですか?」
製薬「・・・・」

 日常的によく遭遇するエピソードのサンプルを書き出してみた。両者を通じて一番目につくのは僕の傲慢さや性格の意地悪さだが、それは横へ置いておく。いずれも相手が何を僕に伝えたいのかなかなか分からないのである。前者は一言で済む結論を先延ばしにして、前置きばかり述べるため、相手の意図を了解するのにえらく手間暇がかかる例である。後者に至っては、結局何を伝えたいのかよく分からなかった。ひょっとすると、水薬の方が有効性が高いという現場の医師の印象論を伝えたかったのかもしれないが、それならそれで「客観的データで証明されたわけではないが」と断った上で、そういう意見をここかしこで聞いていると述べればよい。
 「主張したい結論を明確に述べてくれ」ということだ。人に何かを語るとき、特にそれが事務的な要件であったり学術的・技術的な内容であったりする場合は、自分が何を伝えようとしているのかを予め明確にしないといけない。また、それをどうやったら相手に分かりやすく伝えられるかを考えなければいけない。そうでなければ相手の貴重な時間を無駄に潰すことになる。
 最近、相手によく伝わる表現を考えるときに大変参考になる本を見つけた。三森ゆりかさんの「大学生・社会人のための言語技術トレーニング」(大修館書店)である。「言語技術」と銘打っており、会話表現に限った話だけが書かれているわけではない。しかし、具体的なスキルの解説は「対話」から始まる。三森さんは、対話は下記のように一定の形式に則った主張や説明をする必要があると述べる。
   1)意見の主張
   2)根拠(意見の背景にある理由・そこに至った原因など)
   3)意見の再主張
つまり、結論を最初に述べるということである。自分が述べようとする意見の核心をまず述べた上で、その理由や背景、あるいは具体例などを述べるのである。最後に、改めて論旨を短くまとめる。
 最初に結論を述べなければいけないということについて、僕は全くもってその通りだと思う。特に、実務的な、あるいは技術的な議論をするときには必須である。と書けば、まるで僕がこのやり方を、ずっと昔から一貫して実践しているように読めるかもしれないが、そうではない。それどころか、本来はくどくどと前置きを並べることが僕の話し方の特徴といってもよかった。ところが、僕が医師になったときのボスは「結論をまず述べなさい。」ということに非常にこだわる人であった。僕がくどくどと回りくどい話し方を始めると、直ちにきつい指導が入るのであった。
 今でも油断すると前置きから話し始めることも多いが、それでも昔に比べると随分改善したのではないかと思う。口頭での説明だけではなく、文章の書き方についても件のボスや、多くの先輩に繰り返し書き直しをさせられることによって、多少はましになった。この経験から、物事の表現法は練習によって改善するという確信を持つようになった。逆に言えば、世の中に説明が下手な人が溢れているのは、小学校、中学校、あるいは高等学校でそういうトレーニングがなされていないのではないかと疑っている。実際、僕自身を振り返っても、学校で対話のトレーニングを受けた記憶はない。大人になってからであってもトレーニングされる機会に巡り会えたことは運が良かった。
 他にも三森さんは対話における留意点をあげている。曰く、主語を明確にする、5W1Hを明確に提示する、単語で話さない(きちんと文章にする)、「わからない・別に・ビミョー・なんとなく」といった用語は使わない。どれもこれも非常に重要である。さらには、対話から発展して、物語の構造、説明の仕方、報告や記録の書き方、クリカルリーディング、作文技術などについて順次丁寧かつ具体的に解説をしてくれている。そのカバーする範囲は決して技術的な分野だけではなく、文学や美術を目指す人にとっても参考になると思う。タイトルには「大学生・社会人のための」と書かれているが、この本の内容を小・中・高等学校でみっちり教えるようになれば、日本の言論環境も変わっていくのではないかなと思う。

2015年1月18日日曜日

診断を求める教師、求めない教師

自閉症スペクトラム障害や注意欠如・多動症など発達障害のある子供達の診療をしていると、直接的、間接的に子供達を指導している教師の考え方を知る機会が多い。ここでは教師が発達障害の診断を必要と考えるか否かについて、僕が日頃考えていることを述べてみる。
 単純に考えれば、この観点で教師を2つに分けることができる。「診断が必要と考える教師」と「診断は必要ではないと考える教師」である。後者であっても、特別支援学級に籍を移すなど行政的処置をする際には診断書が必要になるので、細かく言えば状況によって話が違う面もあるが、まあ、基本的スタンスとして、という話である。
 教師を別の観点で分けることも考えてみよう。それは「優秀な教師」と「出来の悪い教師」である。何を持って教師として優秀で、どのような教師であれば出来が悪いとするか、は結構難しい問題のはずである。ましてや、一介の医師が特定の教師を捕まえて優秀かどうかの判断をするというのも出過ぎた真似だろう。逆の立場で、教師に医師として優秀か否かなどという評価をされることを考えると、僕自身面白くない。しかし、ここは敢えて分けてしまう。発達障害児を診療する医師の立場で分かる情報を元に考えるのである。非常に大雑把な判断であるが、子供が張り切って登校し、学校で楽しめ、勉強にも取り組めているとき、その担任は出来が良いと考える。さらに、親が教師とうまくコミュニケーションを取れており、子供の学校での状況をよく把握していることも、教師の出来の良さの条件と考える。
 以上2つの要因で分類すると、理論的には4種類の教師が存在することになる。それは、「診断が必要と考える優秀な教師」、「診断が必要と考える出来の悪い教師」、「診断が必要ないと考える優秀な教師」、「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」の4種類である。そういった教師が存在するのか、順番に考えてみよう。客観的根拠などはない。あくまで僕の主観である。
 まず、「診断が必要と考える優秀な教師」は明らかに存在する。積極的に診断結果を親に尋ねたり、医療機関から情報を取得し、直ちに学校での対応に何らかの工夫を凝らしていくような人である。こういう人は、普段からこの問題について積極的に勉強している人が多いように感じられる。
 次に、「診断が必要と考える出来の悪い教師」であるが、これも明らかに存在するし、結構多いと思う。典型的な例を記すと、学校で何度か問題が生じて困ると、生徒の親に拝み倒してでも、あるいは脅しに近い要求で、病院を受診させる。とにかく診断してもらってくれと強く主張するのである。あっけにとられながらも親は子供を連れて病院を受診する。そこでなんらかの診断が下りたら問題解決かといえば、事態は一向に変わらず、問題は起こり続ける。教師が取った対策があるとすればせいぜい加配を要求するなどのなんらかの制度利用どまりであったりする。ちなみにこういう教師は、診断にこだわる割に「発達障害」、「広汎性発達障害」、「自閉症」、「ADHD」、「学習障害」といった用語を明確に区別していないように見える。
 「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も確かに存在するし、最も質が悪い。こういう人は高らかに宣言する。「私は子供にレッテルを張るようなことをしない。子供によって対応の仕方を変えたりはしない。」結果的に、子供が困っている事実や苦しんでいる現状を直視せず、どんどん追い詰めていくタイプである。
 問題は、「診断が必要ないと考える優秀な教師」である。果たしてこのような教師は存在するのか。僕は存在すると考えている。こういうケースが僕のような診療をする医師の眼に触れる機会は少ないはずだ。なぜなら、子供が学校生活を楽しめており、保護者も満足感を持っており、なおかつ教師が受診を勧めないのだから、わざわざ病院には来ない可能性が高い。ただ、僕の診察室を訪れる子供の中には、前の学年では非常に暮らし辛い状況に陥っていたのだが、担任が変わった途端に実に良好に学校生活に適応し出すということがしばしばある。そういう事例の中で、上手に指導してくれている(つまり優秀な)教師が診断には全く頓着していないということが稀にあるのだ。
 してみると、「診断が必要と考える優秀な教師」も「診断が必要と考える出来の悪い教師」も「診断が必要ないと考える優秀な教師」も「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も、全て存在するということになる。診断が必要と考えるか否かという要因と教師の優秀さという要因の間にはあまり相関がないという結論になりそうである。結局、教育にとって発達障害の診断などというものは意味がないのだろうか。
 結論を急ぐ前に、もう一度「診断が必要ないと考える優秀な教師」について考えてみたい。こういう教師はなぜ、発達障害児の指導に成功しているのだろうか。相手を選ばない万能の教育指導法を会得しているからだろうか。どんな能力、どんな学力、どんな行動特性あるいはどんな認知特性を持っている子供に対しても通用する万能指導法を駆使しているのだろうか。その様なことは俄かには信じがたい。集中力が極端に悪い子供に、人の意図を読むことが極端に劣る子供に、文脈や状況を考慮することが極めて不十分な子供に、文字の読み書きが著しく下手な子供に、ごくごく平均的な子供たちと同じ指導をして上手くいくはずがない。定型発達児と比較して色々極端にずれたところのある子供を上手く指導するためには、その子供の特徴を十分認識し、それを元に合理的に対応することが必須のはずである。恐らくこういう教師は診断を必要とは考えていなくても、個々の子供の特徴を評価するということが(意識的か否かはさておき)きちんとできているのではないだろうか。そして、それに基づいて個々の子供に合わせた指導の工夫が(意識的か否かはさておき)できているのではないか。
 「診断が必要と考える優秀な教師」についても考え直す必要がある。かれらは病院で下された診断名のみを頼りに発達障害児の指導に成功しているのだろうか。恐らくそうではないと思う。なぜなら、病院で下される診断はその子供の限られた側面を表しているに過ぎないからだ。同じ自閉症スペクトラム障害と診断された子供でも、子供ごとに行動特性、認知特性、あるいは知能など多岐に渡る。一つか二つのラベル的な診断名を知っただけでは子供を十分に理解することは不可能である。恐らくこういう教師も、病院に受診する前から個々の子供の特性を多面的に評価できているのではないかと思う。こういう教師は、自ら子供を評価分析する中で、診断名も評価の精度を上げるための一情報として取得しているのではないだろうか。
 このように考えると、「診断が必要ないと考える優秀な教師」は子供を評価するということにあまり自覚的ではなく、センスの良さに頼って指導をするタイプかもしれない。それに対して、「診断が必要と考える優秀な教師」は子供に関する情報を意識的に収集するタイプのように思える。教師としての力量は一概にどちらが上とも言えず、個人個人の差ということになるだろう。しかし、教師としてのスキルを同僚や後輩に伝達することができるのは、後者ではないかと思う。
 僕は発達障害の診断は、子どもの行動の評価尺度として役に立つと考えている。診断を行動の評価尺度として扱うということは、自閉症なのか違うのか、ADHDに該当するか否か、ということとは別の次元の考え方である。それぞれの病型の構成概念ごとに(ADHDであれば不注意の要素と多動性ー衝動性の要素)、どの程度対象となる子どもの行動の中に見られるか、ということを評価するのである。発達障害の診断概念をこのように利用することで、子供の行動を整理しやすくなる。だから、教師には診断を十分に利用して欲しいし、そのためには教師自身が診断できるようになることが良いと考えている(このことは既に書いた)。そういう意味で、教育において発達障害の診断は有用だと考えている。その一方で、病院で下される診断名にひどくこだわることに如何程の意義があるのか、少々懐疑的でもある。

2014年12月20日土曜日

せめてそっとしてあげて

深刻な病気や障害を抱えて何か大きなことを成し遂げた人がたまにいる。世間はそういう困難を克服して物事を成し遂げた人が大好きだ。もちろん、僕だってそういう人を尊敬するに吝かでは無い。ただ、世間は困難を努力で克服した人を讃えるだけでは飽き足らず、人はそのように在るべきだという価値観を押し付けたがるように見え、そこに僕は引っかかる。
 本人の努力で困難を克服すべきという価値観を誰に押し付けるのか。当然、ほとんど困難のない、幸せな日常を生きている人に「困難を克服せよ」と言うのはナンセンスだ。勢い、価値観を押し付ける先は困難を抱えている人たちになる。難病に罹患していたり、障害があったり、貧困の真っ只中に暮らしている人たちである。世間はこういう人たちに、「頑張れ」と言う。「努力せよ」とも言う。自分もかつては辛酸を舐めながら困難を克服したんだなどと、聞かれてもいないのに自分語りをし出す人さえいる。
 ちょっと待てよと言いたい。言われなくても頑張ってんだよ。難病を抱えている人も、障害のある人も、貧困を抱えている人も、苦しみの中でもがきながら、弥が上に頑張らざるを得ない状況に置かれているのだ。それ以上に、なぜ苦しませないといけないのだろう。本人の意思で頑張るならともかく、他人が苦労や努力を押し付けるような話ではなかろう。苦しんでいる人に必要なのはまず休息だ。そして、実行可能で成果に直結した具体的な援助や助言である。
 医者をしていると、患者に努力や我慢を求めざるを得ないことがよくある。慢性疾患で忘れずに毎日薬を飲むように指導したり、体重が増えすぎるとまずい場合に食事制限を求めたり、といったことだ。手術が必要な事例など、典型的だろう。努力や我慢を求めざるを得ないことがあることは確かなのだが、僕は患者に努力や我慢を求めることが嫌いである。そうせざるを得ないときにはとても辛くなる。何となれば、病院を受診するという時点ですでに何らかの苦しみを抱えているわけだ。それが風邪などの一過性のものであればまだしも、慢性疾患に罹患していたり障害を有していたりということになれば、たとえ口には出さなくとも色々な多くの苦しみを抱えていることは自明のことである。世の中の平均的な人がのほほんと生きている中で、すでに苦しみを味わっている人たちにさらに苦労を求めることは、本当に辛い。だから、せめて無駄な努力や我慢だけは求めたくない。
 苦しむ人達に必要なことは、その苦しみを軽減するための具体的な援助や助言だけである。本人の努力を求めることが許されるのは、その努力が高い確率で問題解決に資する場合だけだと思う。何も役に立たないことで頑張らせてはいけない。もしあなたが、困難を抱えた人たちに有効性の高い具体的な援助や手助けを提供できないのなら、せめてそっとしてあげて欲しい。

2014年12月10日水曜日

正しさが人を潰す時

年老いた母親はすっかり食べられる量が減っている。しかし、事前に適当な量の判断が難しいらしく、外食の時などおよそ食べられないだろうというメニューを、「多いよ」と忠告してもなお注文したりする。結局、途中で食べられなくなると、一緒に食べている僕に「食べなさい」と言う。断ると、遠慮しなくて良いという。助けて欲しいと訴えるならまだしも、相手のことを思っての善意の振る舞いにしてしまうことにこちらもイライラし、強い口調で断ると「お前はなんでそんなに冷たい物言いをするのだ」とぶちぶち文句を言いだす。
 このように説明すれば多少僕に同情してくれる人もいるかもしれない。しかし、年上の人間が若い者(といっても、四捨五入で60だが)に食事を分けようとすることは一般的には悪いことではない、と言うよりもむしろ称えられることかもしれない。また、食べ物を残さないようにするということはほとんどの人は正しい行いと考えるだろう。つまり、上記のような状況で母親が料理を提供しようとするのを断るとき、こちらとしてはどこか後ろめたさが伴うのである。なぜなら、一見したところ人の好意を無下に断っている状態にも見えるし、食べ物を粗末にする状況とみなされる気もするからである。この様に、表面的には善意に包まれた言動によってこちらが苦しい思いをする状態は、実に面白くない。
 なぜこのような話題を書いているのかというと、最近小中学校でクラス全員や学校全体で給食を残さずに食べることを目指す動きがあるということを知り、そこから連想したのである。具体例としてはここここなどで報道されている。このような動きがあるとは想像もしていなかった。クラス全体で完食を目指そうなどと言いだしたら、その陰で苦しむ子供が大勢いるのは火を見るよりも明らかである。好き嫌いの多い子供、小食な子供、肥満があるために食事制限を勧められている子供など、様々な個人的事情は倫理的には一見正しい「残さず食べる」という旗のもとに高まる同調圧力に踏みにじられることは想像に難くない。
 偏食を目の敵にする人は現在でも多い。しかし、大人であっても嫌いなものは一切ないという人はどの程度いるのだろうか。コリアンダーが食べられないとかブルーチーズには手をつけられないとか言う人は珍しくもないだろう。食糧事情の良好な現代社会で、多少の偏食があったところで健康を害する心配などない。少しでも楽しめる食物が増えればそれに越したことはないが、有無を言わせず強制的に食べざるを得ない状況に追い込まれた子供が、前向きに好き嫌いをなくし食事をより一層楽しめるようになるとはとても思えない。深刻な例としては、自閉症児の偏食ではかなりの苦痛を伴う場合があり、一般の人が生のミミズや電球を割ったガラスを食えと言われることに近い場合が多い。
 小食な子供が不必要な食事量を強いられることも当人にとっては苦痛以外の何物でもないし、ゆっくりとしか食べられない子供が限られた時間では食べきれない量に挑まされるのも苦痛だろう。食事というのは本来健康を支えるためのものであるし、文明社会においては大いなる楽しみでもある。なぜ食事するたびに苦痛を味合わさねばならないのか。しかも、それが一見善意や「正しい」理由に基づき、集団からの圧力としてもたらされるのだから、苦しむ子供がいることはきっと見逃されることが多いはずである。
 個人的な印象にしか過ぎないが、今の社会は何か「正しいこと」とされる旗印ができると、非常に声高に叫ぶ集団によって世の中がほぼ一色に塗られてしまうような気持ち悪さを感じることが多い。多様性を認める姿勢とは真反対である。給食の完食運動はこういった社会の趨勢が反映されているようで不気味である。

2014年11月24日月曜日

日本版Vineland-II適応行動尺度

 DSM-IVからDSM5への改定で、子供の臨床に関連したもっとも大きな変化は広汎性発達障害が廃止され、変わって自閉スペクトラム症が設定されたことである。しかし、個人的には自閉スペクトラム症以上に強く印象に残ったことは精神遅滞から知的能力障害への変化であった。何が印象的であったかというと、DSM5では知的能力障害の定義にIQを使うことを放棄していることである。誤解のないように付け加えると、DSM5は決して標準化された知能検査が無意味と主張しているのではない。解説の中では知能検査の意義や解釈についてかなり言及しているし、知的能力障害の診断の目安がIQ 65〜75以下であることも説明している。しかし、診断基準自体では、知的能力障害の定義そのもの、あるいは重症度の判定にIQの数字は用いられていない。
 DSM5では知的能力障害と診断するために、1)知的機能の欠陥がある、2)適応機能の欠陥がある、3)知的および適応の欠陥は発達期の間に発症する、という3つの条件を満たすことを要求している。1)を評価するための重要な情報として個別化、標準化された知能検査を取り上げているが、知的能力障害と判断するための具体的なIQは指定されていない。また、知能検査は臨床的評価と併せて考慮に入れることが求められている。つまり、知能検査結果は重要な情報であるが、あくまで参考情報の一つという扱いである。
 上記のように知的機能の欠陥と並ぶ診断条件として適応機能の欠陥がある。これ自体はDSM-IVでも求められていた条件である。しかし、DSM5で大きく変化したのは、知的能力障害の重症度判定である。DSMーIVでは精神遅滞の重症度はIQによって定められていた。ところがDSM5の知的能力障害重症度は適応機能の程度によって定められている。適応機能は日常生活の3つの領域ごとに評価する。すなわち、言語や学習などを含む「概念領域」、対人関係や社会的判断を含む「社会的領域」、セルフケア、金銭管理や仕事の課題の調整などを含む「実用的領域」である。
 DSM5に基づいて知的能力障害をきちんと診断し、その重症度を評価するためには、その子供の日常生活全体にわたる適応状態を詳細に評価する必要がある。知能検査の結果で機械的に結論を出すわけにはいかないのである。これはなるほど納得出来る。子供の知的障害の臨床に携わる、恐らくほとんどの人が気付いているのではないかと思うが、IQでは今ひとつ個人の生活状況をうまく予想できない。同じIQの子供でも、実際の生活がどの程度うまくいっているかどうかは個人個人で結構違う。「知能」がものを言いそうな学業での達成度でさえ、意外にIQでは予測できない。したがって、知能検査よりも現実の生活での具体的適応状況を評価した方が実態をよく把握できると言える。問題は、生活における適応状況をそれなりの客観性を持って評価することの難しさである。事細かに生活の状況を聞き取ることである程度適応状態を把握することはできるかもしれない。しかし、誰が評価しても、見落としなく全般的な評価をし、しかもその結果が年齢を考慮してどの程度の適応状況かを判断できることが望まれる。正にこういったニーズに打って付けのツールが、今年の10月に出版された。日本版Vineland-II適応行動尺度である。以下に、マニュアルを斜め読みして分かる範囲のことを紹介する。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は半構造化*1*された面接による適応度の評価法である。0歳0ヶ月から92歳11ヶ月までの対象者の評価が可能である。対象者の適応行動レベルを、コミュニケーション領域、日常生活スキル領域、社会性領域、運動スキル領域の4領域に分けて評価する。このうち、運動スキル領域は0歳~6歳及び50歳~92歳までの対象者のみで評価する。7歳~49歳の対象者では運動スキル領域以外の3領域を評価することになる。運動スキル領域以外の3領域は、上述の知的能力障害の重症度を決める適応機能の3つの領域それぞれに概ね対応している。これらの3または4領域の評価をした上で、適応行動総合点が算出される。
(*1* 2016/9/2訂正:「構造化」ではなく「半構造化」である)

 各領域は其々複数の下位領域から構成される。具体的に述べると、コミュニケーション領域は受容言語、表出言語、読み書きの3領域で構成される。日常生活スキル領域は身辺自立、家事、地域生活の3領域からなっている。社会性領域には3つの下位領域があり、対人関係、遊びと余暇、コーピングスキルである。運動スキル領域のみは下位領域が2つで、粗大運動と微細運動である。それぞれの下位領域ごとに20~54個の質問項目が用意されており、それぞれの領域ごとに年齢発達に応じた難易度の順に並べられており、適応行動のレベルを得点化できるようになっている。適応行動を評価するための総質問項目は385項目である。適応行動の評価とは別に、不適応行動領域の評価項目も用意されている。これは不適応行動指標と不適応行動重要事項の2つの下位領域から構成され、前者はさらに内在化問題と外在化問題の2種類の下位得点がある。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は1367人(米国の原版では3695人)のデータをもとに標準化されており、統計的な特性が厳密に検討されている。各下位領域得点は素点からv評価点が算出される。これは多くの心理検査の評価点と同様のものだが、平均点が15点で1標準偏差が3点に調整されている。知能検査などの評価点が平均10点であるのに、v評価点では平均が15点に設定されているのは、低い水準のパフォーマンスをより詳細に識別するためと説明されている。4種類の領域得点と適応行動総合点はWechsler知能検査などと同様に、平均が100、標準偏差が15に調整されている。不適応行動指標は下位尺度(内在化問題、外在化問題)と同様にv評価点が算出される。すべての得点は90%信頼区間(必要に応じて85%または95%も選択可能)を示すことが可能となっている。また、領域間、あるいは下位領域間の得点差の有意性も検討できる。
 日本版Vineland-II適応行動尺度の施行にはWechsler知能検査並みの時間を要する。さらに、評価者になるためには、かなりのトレーニングが必要と思われる。したがって、どこでも誰でも気楽に施行できるような評価法ではない。しかし、個人個人が生活に即して発揮できる力を多方面から評価できるため、種々の場面での援助や療育の計画に資するところは大きそうである。知的能力障害を診断するだけでは本人や家族へのメリットはあまりない。障害を持つ子供たち(子供に限らないが)の生活を支えるつもりがあるのなら、知能検査と並行して是非とも行うべき評価ではないかと思う。今後様々な臨床例での知見が積み重ねられ、データの解釈や応用の範囲が広がることを願う。
最後に、全く個人的な感想を追加しておく。上記の通り、日本版Vineland-II適応行動尺度には不適応行動を評価する項目も含まれているが、評価の主体は適応度である。つまり、「何ができるのか」ということを評価する尺度である。障害のある子供達を評価するとき、得てして異常や欠陥に注目しがちである。しかし、彼らを支援するときにできないことや弱み以上に把握すべきことは、何ができるか、何が強みかということである。日本版Vineland-II適応行動尺度が臨床の場に広がる中で、そういう視点も広がるのではないかという気がする。

2014年11月16日日曜日

「障がいは個性だ」問題

大学を卒業後すぐに、小児神経科と称する部門に所属した。小児神経科は、小児科の亜種の様なものだが、子供の神経系の問題を専門とする。具体的には脳性麻痺、知的障害、てんかん、筋肉疾患、末梢神経障害などが主な診療対象であり、最近では発達障害を有する子供達を診察することが多い。つまり、小児神経科医の仕事は、障害を持つ子供たちのための活動が占める割合が大きい。
 障害を持つ子供たちのための医療の特徴の一つは、医師あるいは医療だけで話が完結しないということである。障害種別によっても詳細は違ってくるが、子供たちを支えるためには他の職種の人々、特に福祉や教育に従事する人たちとの連携が必須になる。とりわけ、知的能力障害や、発達障害者支援法でいう所の発達障害を有する子供達にとっては、毎日の生活で接する人達の援助が何よりも重要となる。そういう状況もあって、僕は教師や保育士といった他職種の人々に強く期待してしまう。向こうからすれば勝手に期待してほしくないかもしれないが、教師や保育士が障害のある子供達を支える役割を持っていることは、社会的コンセンサスを得ていると考えてよいだろう。実際、教師や保育士の適切なサポートのおかげで障害を持っていても生き生きと毎日を暮らせている子供達は多いのである。本当に多くの教師・保育士は熱心に職務をこなしている
 大きく期待してしまうだけに、時にはがっかりしてしまうこともある。まあ、自分が失望を振り撒いている存在なのに何を偉そうに、と思われるかもしれない。しかし、ここは僕の考えを書きなぐるための場所なのであって、思っていることを書いてしまうのだ。障害を有する子供達を職業として日常的に支える立場にある人達、あるいはそういう職業を目指している学生達の言動で失望を通り越して怒りを覚えるものの一つが「障がいは個性だ」というセリフである。実によく聞くセリフである。念のために補足しておくが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じない。あくまで職業的に障害を持つ人たちを支えるべき立場の人たちが口にした時に限り、腹がたつのである。
 「障がいは個性だ」と言いたがる人達は、そのことによって何を主張したいのだろう。障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しているのだろうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをしており、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話だ。言葉の言い換えごときで救えるはずがない。障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきだ。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているに相違ない。
 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題がある。個性というのは本来、なんら住み辛さや生き辛さを表す言葉ではない。現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF)で定義されている。ICFの定義によれば、障害という言葉は心身の調子が悪い状態のみを意味するものではない。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での活動が制限されていることを含んでいる。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面への参加に制約があることも含んでいる。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできない「状態」を意味している。つまり、住み辛い、生き辛い「状態」なのである。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まる。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための援助が必要なのである。
 障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧する。職務の一環として障害を有する人たちを支えなければいけない人達は、無意味な言葉の言い換えに頭を使っている暇があれば、どうやって支えれば良いのかを考えねばならない。

2014年11月5日水曜日

ちょっとは疑えよ

新卒の医師を指導する時や、ゼミで学生を相手にしているとき、こちらの言っていることを余りにも素直に受け止めるので、不安になることがある。もちろん、僕にはだまくらかしてやろうという悪意はないので、それなりに正しいと思うことを説明している。しかし、自信の無いことや、自分で考えても疑わしいことも結構述べている。診療現場での判断や研究にまつわる考え方などはそもそも正解がないことも多く、僕の考えが間違っているとは言えなかったとしても別の考え方も常にあるはずである。何の批判もなく僕の説明を鵜呑みにし、指示通りに動く姿を見ると、「ちょっとは疑えよ」と言いたくなる。
 大学を卒業後、4年半余り大学病院で働いた。大学病院では、世間では皮肉を交えて語られる教授回診というものがある。教授が部下を引き連れて入院患者を診察して回る、儀式的な行事である。僕の親分は専門領域においては国際的にも名の知れた人で、回診を熱心に行う人でもあった。一人ひとりの患者の横で、主治医を相手にああでもないこうでもないと議論するのである。まあ、患者にとっては横でぐだぐだ議論されるのも迷惑だったと思うが、若い主治医達には勉強になる場でもあった。当然、初々しい新人であった僕もボスの質問にきちんと答えようと必死に頭をしぼったし、それに備えて勉強もした。
 ボスの議論の進め方には一つの特徴があり、こちらがAと主張すると、「Bではありませんか?」と揺さぶりをかけてくるのだ。僕がAと主張する根拠を縷々述べると、向こうは極めて余裕の表情でAと考えることの問題点を繰り出すのだ。何回かの議論の末にとうとうこちらがBであると認めると、なんと親分は「Aではないのですか?」と真逆の主張をし始めることがしばしばあった。最初の数年間は、こう思っていた。「親分は答えを知っている。知った上で、ああではないか、こうではないかと新米を相手に遊んでいるに違いない。なんて意地悪なんだ。」と。
 だが、数年程経つと必ずしもそうではないことに気がついてきた。確かに分かった上で新米を突っつくことも多少はあったのだろうと思うのだが、親分自身がAかBか迷っていることも結構あるらしいのであった。若い医者を突っつきながら自分の考えを整理していることが少なくなかったように思う。また、当初Aであると確信を持っていたものが、若い医師とのディスカッションの中で自分の考えの問題に気付き、結論を変えることもあったのではないかと思う。僕と同列に論じるのも気が引けるが、自他が認める偉い研究者であっても分からないことや間違うこと、あるいは迷いもあるのだなあと気がついた。
 当たり前といえば当たり前である。いかに偉大な人物であっても、一人の人間が自分の分かっている範囲だけで物事を考えていたら、大きな問題を解決したり革新的なアイデアを出したり出来る訳がない。今から思うと、親分は自分の迷っていることや分からないことを隠すことをしなかったのだなと思う。それを素直に出すのではなく、議論させることによって気付かせたのかもしれない。一見叶わないと思える指導者の言葉であっても、議論を通じて批判的に吟味すれば反論したり対案を出したりする余地があるものだと分からせることも、指導者のスキルかもしれない。そう考えると、冒頭に書いたような後輩や学生に関する愚痴を垂れている自分は、指導者としての力量が低いのだなあと思う。