12年前、僕は年男だった。そしてその年に僕は私立大学文系学部の教員になった。我ながら柄にもないと思うのだが、「教育者」になった訳だ。厳密に言えばそれ以前も名目上は大学教員だったのだが、実態は大学付属病院の勤務医だったので教員という意識はほとんどなかった。そして12年経った今年、年男である僕は自分に不似合いな大学教員を辞し、医療職に戻ることになった。ここでは転職に伴って抱いた極めて私的な感情について述べようと思う。それは、転職に伴う罪悪感についてである。
大学病院勤務を実質的に教職ではないとみなせば、僕が教職を辞するのは今回が初めてである。しかし、医療職として勤務していた施設を辞めることは今までに何度もあった。この度も職を変わるに伴い非常勤医として通っていた病院をいくつか辞めることになった。病院を辞する時、僕はいつも少なからぬ罪悪感を感じる。これは非常勤の病院であっても同じである。何に対する罪悪感かと言えば、長く受診してくれる患者を継続して診られなくなることに対する罪悪感だ。大した力もない僕を、それでも頼ってくれていた患者との付き合いを続けられなくなることに、胸中痛みを感じるのである。
今年大学を去るにあたり、医療職を辞める時とは違うことに気づいた。あまり罪悪感を感じないのである。もちろん、碌な仕事をしていなかった僕でも辞めるとなれば、僕が担当していた講義の担当者を探すことを始めとする諸々の後始末を他の職員がすることになる。申し訳ないといえば申し訳ない。しかし、これは職務の範囲内である。僕の様な義理人情に薄い人間にとってはもともと大した話ではない。僕がおやっと思ったのは、学生に対しての罪悪感の乏しさである。医師にとっての患者は教員にとっての学生であるからして、辞めるとなれば学生に対する申し訳なさで胸が痛むかと言えばそうでもない。病院を辞めるときに患者に申し訳ないという気持ちが湧いてくるのに、学生に申し訳ないという気持ちは湧かないのである。ただ、唯一の例外がある。それは2年間の付き合いをする予定であったのにたった1年で放り出してしまうことになったゼミ生達である。彼らに対してだけは申し訳ないという思いが強く残った。まさにここがポイントである。本来なら今後も付き合い責任を負うはずであるという継続性があるかないかが罪悪感を覚えるかどうかの境界線なのだ。原則として、教員の仕事は連続性が乏しい。あるいは節目が明確であると言っても良い。基本的に年度ごとに一区切りになる。大学の教員であれば半期の講義ごとに一仕事が済んでしまう。もともと「切りがついた」という感覚を持ちやすいのではないだろうか。一方、臨床医は様々な患者を並行して診ているので、切れ目を感じにくい。特に僕は専門が子供の障害であるため、それぞれの患者との付き合いが何年にも渡ることは普通である。
ところで、以前から気になっていたのだが小中学校の教師は申し送りをしない。発達障害を伴うなど特別な支援が必要な子供に対して、多くの教師は熱心に対応する。その過程で、その子供についての沢山の気付きがあるだろうし、自ら支援の手立てを工夫することも多いだろう。せっかく積み重ねた貴重な経験を次の担任に伝えれば、子供本人にも次の担任にも大きな助けになるに違いない。しかし、僕の経験する限りでは、旧担任から新担任への引き継ぎが丁寧に行われていることは滅多にない。もちろん例外はあるが。今まで僕は、教師間の引き継ぎが充分にされないのは医師がカルテを書くことに匹敵する生徒個人個人の記録を残す習慣が無いことや、個々の子供ではなく子供集団として考えやすいことが関係しているのだろうかと想像していた。これらに加えて、この度の退職にまつわる個人的感慨から、ひょっとしたら教師は年度単位で考える習慣が身に付き継続性を考慮しにくいのかもしれないなあと気付いたのだ。もちろん僕の勝手な想像であり、不確実な話である。
さて、来週から新しい職場の生活が始まる。感傷に浸って根拠なく愚にもつかない想像を巡らすのはここまでにしておこう。
2018年3月28日水曜日
2018年2月14日水曜日
教育改革の火付け役(になればいいなあ)
久しぶりのブログ更新だが、前回に引き続いてリーディングスキルテスト(RST)に関連した話題である。つい先日、RSTを開発した新井紀子さんの「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済新報社、2018/2/2)が出版された。内容の骨子は新井さんが既に様々な媒体で主張されていることであり、興味を持って新井さんの発言を追いかけてきた僕としては、本書の大まかな主張は既に知っていた。それは、おおよそ以下のようなことである:
僕にとって最も収穫であったのは、RSTに関する具体的でまとまった説明を読めたことだ。RSTは「係り受け」、「照応」、「同義文判定」、「推論」、「イメージ同定」、「具体例同定(辞書)」、「具体例同定(数学)」という6つの分野の問題群から成り立っている。この中で「係り受け」と「照応」の問題はAIが比較的対応できるが、それ以外はAIにとって難しい。各分野ごとの学年別の成績が細かく解説されているが、中学卒業までには「係り受け」と「照応」の問題はかなりできるようになる。しかし、AIが苦手である領域は子供達の成績も悪く、特に「同義文判定」と「具体例同定」は高等学校2年生でも半数以上がほとんど理解できていないという結果である。
その他、RSTを応用して新たな指導方法を探り出し成果を挙げつつある自治体の話や、RSTの成績と家庭の経済状況には負の相関があること、新井さんの考える将来像など、興味深い話が色々書いてあり、面白かった。
ただ単に面白かっただけではなく、この本を読んでいると色々妄想が膨らんだ。その一つは、東ロボくんから発展したRSTとその調査結果は様々な領域の研究者を刺激するのではなかろうかということである。もともと東ロボくんプロジェクトは、数学者である新井さんをはじめ、言語学者やコンピューターサイエンスの研究者たちが関わっている極めて学際的な活動である。そして、RSTには様々な年齢の、しかも膨大な数の現実に生きている子供達のデータが既にあり、今現在さらに増えつつある。人間の言語活動を研究する、少なくとも科学的な手法で研究する人々には大変魅力的な材料に見えると思う。人間はどのように言語を理解するのか、書字言語と音声言語との関係、言語活動の基盤となる脳の活動とはどのようなものか、といった研究をしている人の多くはRSTに関心を持つのではないだろうか。社会学や福祉領域の人たちも結構興味を持つかもしれない。
僕の関係する領域に絞れば、小児期早期の文字習得レベルや発達性読み書き障害の有無と中高校のRST成績の関連は、現実的な意味を持つ検討課題である。典型的な発達性読み書き障害は文字の音声化に拙劣さがある。発達性読み書き障害のある人は読字の流暢性に劣るため、読字に過剰な認知資源が投入され、当然読解力も低下すると考えられている。本書でも「係り受け」や「照応」の問題で躓く生徒には読み障害が含まれている可能性があると述べられている。新井さんは中学1年生でのRST受験が読み障害の早期診断と早期支援ににつながらないかと述べているが、中学1年生では早期とは言えない。小学校低学年までに発達性読み書き障害の診断はほぼ可能なのである。実際に発達性読み書き障害の子供が中学生になった時のRST成績の特徴はどのようなものか、早期の読字訓練が将来のRST結果を改善するか、読字訓練以外にRST結果が改善する要因はあるのか、といったテーマでの縦断的な研究は極めて有意義ではないだろうか。
読字能力以外にRSTに影響を与える医学的な要因として、注意障害の関与も気になるところである。本書に記載された実際のRSTの問題と誤答の例を見ていると、「理解できない」ことによる誤答に加えて「きちんと読んでいない」誤答が多いのではないかという気がする。注意障害のある子供では読み飛ばしが非常に多い。さらに、こういった子供たちは考えること自体を面倒臭がることが多い。注意障害によって読解力が落ちている可能性が高い子供たちに対しては薬物療法による改善も期待できる。注意障害とRST成績との関連も僕にとっては非常に興味深い課題である。
この本を読んで浮かんだ妄想をもう一つ付け加える。幸いなことに、新井さんたちの努力の結果であるが、RSTは非常に世間の注目を浴びている。メディアの取材記事も多いし、この書籍も出版されて1カ月も立っていないのにかなり売れているようだ。正確には3日で重版出来とのことである。RSTのことや中高校生の読解力の問題に人々が注目するようになれば、日本の教育行政が科学的な根拠に基づいたものに変わって行く可能性があるのではないだろうか。日本の教育はあまりにも情緒的な思い込みや、客観的な根拠のない主張に基づき過ぎているのではないかと僕は疑っている。ICTや早期の英語教育の導入あるいは限られた予算しかない中での幼児教育無償化など、有効性を示す客観的根拠や施策の重要性に基づく優先順位への考慮に欠けた政策が次々と打ち出される。また、せっかくゆとり教育という壮大な実験をしたのに、科学的な検証を十分にしないままに路線変更をしている。こういった現状にRSTが楔を打ち込み、より客観的な根拠に基づき問題解決志向の強い教育行政に変化していかないだろうかと、かすかに、ほんのかすかに、期待しているのである。
・現状のAI技術は統計を基盤としており論理に基づく処理はあまりできないし意味は理解できない。読む前からある程度内容を把握していたとはいえ、一冊の書籍としてまとめてあると、インターネット上にある短い記事をランダムに読んでいたのでは認識できなかったことが理解できる様になる。例えば、コンピューターの限界は数学で規定されることは分かっていたが、その数学でできることは論理と確率・統計だけしかないということは意識して考えたことはなかった。また、ディープラーニングが流行り言葉として飛びかうようになったが、ビッグデータを放り込んでおけばAIが勝手に色々勉強してくれるのかと言えばさにあらず、どのような教師データを用意するかということでAIが認識できるものは全く異なるということも目から鱗であった。そのため、AIに何を認識させるかという枠組みを明確にした上で、目的に沿った良質な教師データを作成する作業に膨大な人手や資金が必要になる。言われてみればそりゃそうだろうなあという話なんだけど、きちんと説明されないと凡人の思考は広がらないものである。
・AI技術は数学で記述できることしか処理できないため現状では完全に人の知性と同等のことができる様にはならない。したがってシンギュラリティはこない。
・AIに大学入試センターや模試を受験させる東ロボくんプロジェクトの結果、AIは東大に合格できないものの多くの高校生よりは成績が良い。
・東ロボくんプロジェクトを基盤として開発したRSTを使った調査では中学生の2、3割は係り受けや照応などの表面的な文章理解ができない。表面的な文章理解ができる生徒でも同義文判定や推論など、より深い文章理解ができない生徒が多い。つまり、教科書を理解できない中学生が驚くほど多い。
僕にとって最も収穫であったのは、RSTに関する具体的でまとまった説明を読めたことだ。RSTは「係り受け」、「照応」、「同義文判定」、「推論」、「イメージ同定」、「具体例同定(辞書)」、「具体例同定(数学)」という6つの分野の問題群から成り立っている。この中で「係り受け」と「照応」の問題はAIが比較的対応できるが、それ以外はAIにとって難しい。各分野ごとの学年別の成績が細かく解説されているが、中学卒業までには「係り受け」と「照応」の問題はかなりできるようになる。しかし、AIが苦手である領域は子供達の成績も悪く、特に「同義文判定」と「具体例同定」は高等学校2年生でも半数以上がほとんど理解できていないという結果である。
その他、RSTを応用して新たな指導方法を探り出し成果を挙げつつある自治体の話や、RSTの成績と家庭の経済状況には負の相関があること、新井さんの考える将来像など、興味深い話が色々書いてあり、面白かった。
ただ単に面白かっただけではなく、この本を読んでいると色々妄想が膨らんだ。その一つは、東ロボくんから発展したRSTとその調査結果は様々な領域の研究者を刺激するのではなかろうかということである。もともと東ロボくんプロジェクトは、数学者である新井さんをはじめ、言語学者やコンピューターサイエンスの研究者たちが関わっている極めて学際的な活動である。そして、RSTには様々な年齢の、しかも膨大な数の現実に生きている子供達のデータが既にあり、今現在さらに増えつつある。人間の言語活動を研究する、少なくとも科学的な手法で研究する人々には大変魅力的な材料に見えると思う。人間はどのように言語を理解するのか、書字言語と音声言語との関係、言語活動の基盤となる脳の活動とはどのようなものか、といった研究をしている人の多くはRSTに関心を持つのではないだろうか。社会学や福祉領域の人たちも結構興味を持つかもしれない。
僕の関係する領域に絞れば、小児期早期の文字習得レベルや発達性読み書き障害の有無と中高校のRST成績の関連は、現実的な意味を持つ検討課題である。典型的な発達性読み書き障害は文字の音声化に拙劣さがある。発達性読み書き障害のある人は読字の流暢性に劣るため、読字に過剰な認知資源が投入され、当然読解力も低下すると考えられている。本書でも「係り受け」や「照応」の問題で躓く生徒には読み障害が含まれている可能性があると述べられている。新井さんは中学1年生でのRST受験が読み障害の早期診断と早期支援ににつながらないかと述べているが、中学1年生では早期とは言えない。小学校低学年までに発達性読み書き障害の診断はほぼ可能なのである。実際に発達性読み書き障害の子供が中学生になった時のRST成績の特徴はどのようなものか、早期の読字訓練が将来のRST結果を改善するか、読字訓練以外にRST結果が改善する要因はあるのか、といったテーマでの縦断的な研究は極めて有意義ではないだろうか。
読字能力以外にRSTに影響を与える医学的な要因として、注意障害の関与も気になるところである。本書に記載された実際のRSTの問題と誤答の例を見ていると、「理解できない」ことによる誤答に加えて「きちんと読んでいない」誤答が多いのではないかという気がする。注意障害のある子供では読み飛ばしが非常に多い。さらに、こういった子供たちは考えること自体を面倒臭がることが多い。注意障害によって読解力が落ちている可能性が高い子供たちに対しては薬物療法による改善も期待できる。注意障害とRST成績との関連も僕にとっては非常に興味深い課題である。
この本を読んで浮かんだ妄想をもう一つ付け加える。幸いなことに、新井さんたちの努力の結果であるが、RSTは非常に世間の注目を浴びている。メディアの取材記事も多いし、この書籍も出版されて1カ月も立っていないのにかなり売れているようだ。正確には3日で重版出来とのことである。RSTのことや中高校生の読解力の問題に人々が注目するようになれば、日本の教育行政が科学的な根拠に基づいたものに変わって行く可能性があるのではないだろうか。日本の教育はあまりにも情緒的な思い込みや、客観的な根拠のない主張に基づき過ぎているのではないかと僕は疑っている。ICTや早期の英語教育の導入あるいは限られた予算しかない中での幼児教育無償化など、有効性を示す客観的根拠や施策の重要性に基づく優先順位への考慮に欠けた政策が次々と打ち出される。また、せっかくゆとり教育という壮大な実験をしたのに、科学的な検証を十分にしないままに路線変更をしている。こういった現状にRSTが楔を打ち込み、より客観的な根拠に基づき問題解決志向の強い教育行政に変化していかないだろうかと、かすかに、ほんのかすかに、期待しているのである。
2017年12月7日木曜日
リーディング・スキル・テスト
先日、同僚の国語教育学者と雑談した折に、新井紀子さんが開発したリーディング・スキル・テスト[1]のことを話題にした。新井さんは、AIである東ロボくんに東大の受験問題を解かせるプロジェクトを進める中でAIの学習能力には限界があるという結論を得た。AIは「『意味は考えていなくて、正しさは保証しないけど、結構正しい』判断をする」のだが「過去に学習していない問題やパターンに突き当たると、解答できないのだ[2]」。しかし、東大に合格こそできないものの、東ロボくんの偏差値よりも成績の悪い高校生は多い。限界のあるAIにも叶わない高校生も多くいるということに疑問を感じた新井さんは、現実の子供達の学力に興味を持ちリーディング・スキル・テストを開発し、日本の子供達の読解力の現状を解析したのである。このテストでは、初めて見た文章の意味を素早く理解する力を調べることが目的[3]であり、主語や目的語を判別できるか、指示語を正しく理解できるかなどの短文レベルでの文章理解力の評価を行なっている(具体的な問題例は[4]を、リーディング・スキル・テストが測定する読解力に関しては[5]を参照のこと)。
最近、基礎学力の低い大学生の存在が問題になり、本来高等学校までに習得するはずの教科内容を学生に解説する努力をしている大学も多い。しかし、基本的な読解力がなければ基礎学力云々以前の問題になる。僕は、件の国語教育学者に新井さんのリーディング・スキル・テストの話をし、大学生の基礎学力を問題視する前にリーディング・スキル・テストで評価した方が良いのではなかろうかと持ちかけたのである。ところが彼はどこか冷めた雰囲気で「読解力といっても、難しいところがあるんですよ。まず教育学者の間でも学力観をどう捉えるかということが結構違っていて、」という返答が返ってきた。いやいや、学力観って言われても僕もよく知らないが、かなり抽象的レベルの概念だということは分かる。学力を読み書き計算技能をひたすら身に付けることと考えるか、問題解決能力を身につけることとするか、関心・意欲・態度を重視するのか、生きる力とみなすのか、人によって主張するところは違うのだろうし、そのあたりの議論に関心はない。しかし、学力をどう定義しようが、現代社会において身につけるべき学力に識字能力が不必要なはずはない。短文レベルの読解ができなくては話にならないだろうし、学力観以前の問題だと思うのだが、どうも噛み合わない。
いったい彼と僕の齟齬はどこから来たのか。思い当たることは、彼と僕の出自である。僕は技術屋さんとして育っている。もちろん営業面(臨床)での経験もいくらかは積んでいるが、物事の考え方、分析の仕方はあくまで技術屋のそれである。技術屋的な発想と真っ当な教育学の徒の発想の差があるのかもしれない。技術屋さんは見て聞いて触って確認した現に存在する具体的問題を取り上げ解決しようとする。もちろん遠い将来に達成しようとする目標を立てることはあるが、出発点は常に現実にそこにある問題の解決である。一方、教育業界の人はともすれば理念が先行するように見える(個人の感想です)。目指すものが抽象的な言葉になりやすい(個人の思い込みです)。だから学習の基本のキである短い文章の意味を正確に読み取れないという足下に迫った問題を語っている時に、「学力観」という抽象的な問題に話が広がってしまうのかしら。いや、あくまで個人の感想ですけどね。
[1] 湯浅誠「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20161114-00064079/
[2] ReseMom「【NEE2017】シンギュラリティは来ない…東ロボくんの母・NIIセンター長 新井紀子教授」https://resemom.jp/article/2017/06/02/38461.html
[3] 毎日新聞「読解力:「子供は読めているのか」診断テストを開発」https://mainichi.jp/articles/20170923/k00/00m/040/106000c
[4]国立情報学研究所「リーディングスキルテストの実例と結果(平成27年度実施予備調査)」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-2.pdf
[5]新井紀子「リーディングスキルテストで測る読解力とは」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-1.pdf
最近、基礎学力の低い大学生の存在が問題になり、本来高等学校までに習得するはずの教科内容を学生に解説する努力をしている大学も多い。しかし、基本的な読解力がなければ基礎学力云々以前の問題になる。僕は、件の国語教育学者に新井さんのリーディング・スキル・テストの話をし、大学生の基礎学力を問題視する前にリーディング・スキル・テストで評価した方が良いのではなかろうかと持ちかけたのである。ところが彼はどこか冷めた雰囲気で「読解力といっても、難しいところがあるんですよ。まず教育学者の間でも学力観をどう捉えるかということが結構違っていて、」という返答が返ってきた。いやいや、学力観って言われても僕もよく知らないが、かなり抽象的レベルの概念だということは分かる。学力を読み書き計算技能をひたすら身に付けることと考えるか、問題解決能力を身につけることとするか、関心・意欲・態度を重視するのか、生きる力とみなすのか、人によって主張するところは違うのだろうし、そのあたりの議論に関心はない。しかし、学力をどう定義しようが、現代社会において身につけるべき学力に識字能力が不必要なはずはない。短文レベルの読解ができなくては話にならないだろうし、学力観以前の問題だと思うのだが、どうも噛み合わない。
いったい彼と僕の齟齬はどこから来たのか。思い当たることは、彼と僕の出自である。僕は技術屋さんとして育っている。もちろん営業面(臨床)での経験もいくらかは積んでいるが、物事の考え方、分析の仕方はあくまで技術屋のそれである。技術屋的な発想と真っ当な教育学の徒の発想の差があるのかもしれない。技術屋さんは見て聞いて触って確認した現に存在する具体的問題を取り上げ解決しようとする。もちろん遠い将来に達成しようとする目標を立てることはあるが、出発点は常に現実にそこにある問題の解決である。一方、教育業界の人はともすれば理念が先行するように見える(個人の感想です)。目指すものが抽象的な言葉になりやすい(個人の思い込みです)。だから学習の基本のキである短い文章の意味を正確に読み取れないという足下に迫った問題を語っている時に、「学力観」という抽象的な問題に話が広がってしまうのかしら。いや、あくまで個人の感想ですけどね。
[1] 湯浅誠「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20161114-00064079/
[2] ReseMom「【NEE2017】シンギュラリティは来ない…東ロボくんの母・NIIセンター長 新井紀子教授」https://resemom.jp/article/2017/06/02/38461.html
[3] 毎日新聞「読解力:「子供は読めているのか」診断テストを開発」https://mainichi.jp/articles/20170923/k00/00m/040/106000c
[4]国立情報学研究所「リーディングスキルテストの実例と結果(平成27年度実施予備調査)」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-2.pdf
[5]新井紀子「リーディングスキルテストで測る読解力とは」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-1.pdf
2017年11月16日木曜日
子育ては誰のため?
ここ5年か10年、僕は「科学」と「子育て」が結びつくと胡散臭いものを感じてしまう。ましてや「子育て」に「成功」が引っ付くと一層胡散臭い。胡散臭さの塊のような題名の本が出版された。
著者らは、この21世紀における成功を「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と定義している。そして、成功を目指す時に子供が身につけるべきスキルが6つの”C”(6Cs)、すなわち、Collaboration(協働、協調の意味もある)、Communication(意思の疎通、コミュニケーションの方が通じやすいかな)、Content(内容、後で説明する)、Critical Thinking(批判的思考)、Creative Innovation(創造的革新、創造的刷新)、そしてConfidence(自信)だというのである。この中でContentが何を意味するのかが分かりにくいので説明しておく。Contentは計算や読み書きなど、現時点での学校教育で最も重視されているスキルのことである。通常、教育という言葉から人が思い浮かべるものはまさにContentである。しかし、Contentだけでは成功するためには全く不十分だということが著者らの主張である。詳しい内容の紹介は山本尚毅さんのレビューに譲り、ここでは読んでいる最中に僕が感じた妙な居心地の悪さについて書き留めておく。
初めに断っておくが、この本の内容が悪いとか間違っているというつもりはない。「学習科学と発達心理学の第一人者」の著書であれば主張の根拠となった様々な研究が紹介されるのではないかと期待したが全くそういう内容ではなかった。しかし、このことは一般の人向けに分かりやすく主張を記述するという本書の性格上仕方のないことだろう。上記の6つの"C"がそれぞれ重要であることについては全く異論はない。
では何故僕はこの本に居心地の悪さを感じたのだろうか。著者らは6つの"C"それぞれについて4段階のレベルを設定し、それぞれが最も高いレベルになることを目指して子供を育てる必要性を述べている。最初に僕が引っかかったのは、CollaborationとCommunicationである。仕事で自閉スペクトラム症の子供達などCollaborationとCommunicationが苦手な人によく接するため、こういうことを声高に要求され出すと追い詰められる人がたくさんいるだろうなと気になったのである。
読んでいるうちに、多少考え直した。CollaborationやCommunicationが苦手な人であっても、その子なりにその領域を伸ばしていくのが良い、という風に理解すればまんざら悪いことではない。著者らも、すべての子供が6つの"C"それぞれで一定レベルを達成しなくてはいけない、とは明言していない。子供の何を伸ばしていくかと考えるときに、6つの"C"という観点を意識しましょう、その子その子に応じて6つの領域それぞれを伸ばしていくことを考えましょう、ということであれば悪いことではない。ただ、読んでいるとどうしても皆が一斉に同じ方向を向かねばならない様な気にさせられる。6つの"C"それぞれにおいてレベル4を目指しましょうと述べている様に感じられる。教育者の物言いは洋の東西を問わず「これが正しい道ですよ。皆さんこっちを向きましょうね。」という圧力を内包しているなあ、と感じた次第だ。
僕がこういう感想を抱いてしまったのは、僕の中に教育者に対する偏見があるからかもしれない。しかし、もう一つ理由がある。この本を読み始める直前に読んでいた本がSteve Silbermanの”Neuro Tribes”だったということだ。”Neuro Tribes”では、「劣った人」とのみ認識されることが普通だった自閉症スペクトラムの人々が、平均的な人々とは性質が異なるものの様々な能力を発揮できる可能性を持った人々であることが次第に明らかになり、やがて自閉症スペクトラムの人々自らが声を上げ、自閉症スペクトラムを人間の多様性の一つとして考えてそれぞれのやり方で人生を楽しみ能力を発揮することができる世の中を作っていこうと主張し始めるまでの歴史を詳細に記述している。どんな人にとっても6つの"C"を伸ばしていくことを意識することはおそらく悪くないだろう。ただ、ハーシュ=パセックとゴリンコフの本には、世の中には様々な特徴を持った多様な人が存在しており、6つの"C"の成長可能性についても凸凹がある人が大勢いることが考慮されていない様に見える。彼女らのモデルをその多様性にどう当てはめていくのかという視点での記述がほとんどないということが、”Neurotribe”を読んだ後だけになお一層気になったのである。
もう一点、彼女らの記述で引っかかることがある。子育てで目指すべき方向性、すなわち何を成功と考えるかについては上述の様に「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と記している。あまり文句の付け所がない文言である。ぱっと聞けば、悪くないと誰しも思うだろう。なぜこの様な成功を目指すべきかと言えば、その根拠は現代社会のニーズである。著者らは、とりわけ現在成功している産業界から出されたニーズを盛んに記述している。ドラッカーが指摘し、現にAppleやGoogleで求められる人材とはどの様な人か、そこを目指すには、という論旨が随所に展開されるのである。いや、分かるんだけど、間違いだとは言わないけど、何か引っかかるんだよなあ。そりゃ、これからの時代をよりよく生きていくためには、時代の要請、社会が求めるもの、といったものが重要になるのは当たり前かもしれない。だけどなあ、引っかかるんだな。
一体僕は何に引っかかっているのだろう。どうして居心地が悪いのだろう。ひょんなことからこの問題の答を見つけてしまった。それはBuzzFeedに掲載された女優の東ちづるさんのインタビューの中にあった。東さんは障害を持った人々と一緒に演劇活動を行なっている。東さんはこの活動を通じて浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指しているという。東さんは「まぜこぜ社会」と表現している。障害者施設で大勢の障害者が殺された相模原事件に関連して述べられたあずまさんの言葉を、少し長くなるが引用する。
キャシー・ハーシュ=パセック、ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ(2017)「科学が教える、子育て成功への道」扶桑社ぱっと見の怪しさとは裏腹に著者は学習科学と発達心理学の第一人者であり、学習科学の実験研究をもとに提示したモデルが記述されているとHONZレビューで山本尚毅さんが述べていることに興味を惹かれ読んでみた。
著者らは、この21世紀における成功を「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と定義している。そして、成功を目指す時に子供が身につけるべきスキルが6つの”C”(6Cs)、すなわち、Collaboration(協働、協調の意味もある)、Communication(意思の疎通、コミュニケーションの方が通じやすいかな)、Content(内容、後で説明する)、Critical Thinking(批判的思考)、Creative Innovation(創造的革新、創造的刷新)、そしてConfidence(自信)だというのである。この中でContentが何を意味するのかが分かりにくいので説明しておく。Contentは計算や読み書きなど、現時点での学校教育で最も重視されているスキルのことである。通常、教育という言葉から人が思い浮かべるものはまさにContentである。しかし、Contentだけでは成功するためには全く不十分だということが著者らの主張である。詳しい内容の紹介は山本尚毅さんのレビューに譲り、ここでは読んでいる最中に僕が感じた妙な居心地の悪さについて書き留めておく。
初めに断っておくが、この本の内容が悪いとか間違っているというつもりはない。「学習科学と発達心理学の第一人者」の著書であれば主張の根拠となった様々な研究が紹介されるのではないかと期待したが全くそういう内容ではなかった。しかし、このことは一般の人向けに分かりやすく主張を記述するという本書の性格上仕方のないことだろう。上記の6つの"C"がそれぞれ重要であることについては全く異論はない。
では何故僕はこの本に居心地の悪さを感じたのだろうか。著者らは6つの"C"それぞれについて4段階のレベルを設定し、それぞれが最も高いレベルになることを目指して子供を育てる必要性を述べている。最初に僕が引っかかったのは、CollaborationとCommunicationである。仕事で自閉スペクトラム症の子供達などCollaborationとCommunicationが苦手な人によく接するため、こういうことを声高に要求され出すと追い詰められる人がたくさんいるだろうなと気になったのである。
読んでいるうちに、多少考え直した。CollaborationやCommunicationが苦手な人であっても、その子なりにその領域を伸ばしていくのが良い、という風に理解すればまんざら悪いことではない。著者らも、すべての子供が6つの"C"それぞれで一定レベルを達成しなくてはいけない、とは明言していない。子供の何を伸ばしていくかと考えるときに、6つの"C"という観点を意識しましょう、その子その子に応じて6つの領域それぞれを伸ばしていくことを考えましょう、ということであれば悪いことではない。ただ、読んでいるとどうしても皆が一斉に同じ方向を向かねばならない様な気にさせられる。6つの"C"それぞれにおいてレベル4を目指しましょうと述べている様に感じられる。教育者の物言いは洋の東西を問わず「これが正しい道ですよ。皆さんこっちを向きましょうね。」という圧力を内包しているなあ、と感じた次第だ。
僕がこういう感想を抱いてしまったのは、僕の中に教育者に対する偏見があるからかもしれない。しかし、もう一つ理由がある。この本を読み始める直前に読んでいた本がSteve Silbermanの”Neuro Tribes”だったということだ。”Neuro Tribes”では、「劣った人」とのみ認識されることが普通だった自閉症スペクトラムの人々が、平均的な人々とは性質が異なるものの様々な能力を発揮できる可能性を持った人々であることが次第に明らかになり、やがて自閉症スペクトラムの人々自らが声を上げ、自閉症スペクトラムを人間の多様性の一つとして考えてそれぞれのやり方で人生を楽しみ能力を発揮することができる世の中を作っていこうと主張し始めるまでの歴史を詳細に記述している。どんな人にとっても6つの"C"を伸ばしていくことを意識することはおそらく悪くないだろう。ただ、ハーシュ=パセックとゴリンコフの本には、世の中には様々な特徴を持った多様な人が存在しており、6つの"C"の成長可能性についても凸凹がある人が大勢いることが考慮されていない様に見える。彼女らのモデルをその多様性にどう当てはめていくのかという視点での記述がほとんどないということが、”Neurotribe”を読んだ後だけになお一層気になったのである。
もう一点、彼女らの記述で引っかかることがある。子育てで目指すべき方向性、すなわち何を成功と考えるかについては上述の様に「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と記している。あまり文句の付け所がない文言である。ぱっと聞けば、悪くないと誰しも思うだろう。なぜこの様な成功を目指すべきかと言えば、その根拠は現代社会のニーズである。著者らは、とりわけ現在成功している産業界から出されたニーズを盛んに記述している。ドラッカーが指摘し、現にAppleやGoogleで求められる人材とはどの様な人か、そこを目指すには、という論旨が随所に展開されるのである。いや、分かるんだけど、間違いだとは言わないけど、何か引っかかるんだよなあ。そりゃ、これからの時代をよりよく生きていくためには、時代の要請、社会が求めるもの、といったものが重要になるのは当たり前かもしれない。だけどなあ、引っかかるんだな。
一体僕は何に引っかかっているのだろう。どうして居心地が悪いのだろう。ひょんなことからこの問題の答を見つけてしまった。それはBuzzFeedに掲載された女優の東ちづるさんのインタビューの中にあった。東さんは障害を持った人々と一緒に演劇活動を行なっている。東さんはこの活動を通じて浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指しているという。東さんは「まぜこぜ社会」と表現している。障害者施設で大勢の障害者が殺された相模原事件に関連して述べられたあずまさんの言葉を、少し長くなるが引用する。
私、あの事件について社会はもっと熱をもって怒るかと思っていたんです。でも、もう風化してしまっている。「障害者は役に立たない、いなくなればいい」という加害者の供述が報道されましたよね。怒りが見えないのは、この言葉に「わからないでもないな」と思った人が多かったからじゃないかって考えています。僕の意識の根底にあったのは、まさに「人の役に立つ社会であれ」なのである。色々な考え方、様々な能力、それぞれに異なる嗜好を持つ多様な人々が互いに存在を認めあえる社会に僕は憧れているのである。社会のために存在することを人に求めるのではなく、多様な人がそれぞれに満足感を持って行きていける社会を目指すべきではないかと考えているのだ。それぞれの子供がより充実した人生を送るために6つの”C”を意識するというなら良いのだが、社会の要請に応じて6つの”C”をゴリゴリ伸ばそうという考え方には馴染めないのである。おそらく「なんて甘い考えだ」と舌打ちしながら言う人は多いのだろう。ジョン・レノンの「イマジン」並みに甘くてとろい考えだと指摘されそうだ。しかし、僕は「イマジン」の1節が結構好きである。
ある重度障害者のお母さんからも、事件の後に「私の子供も社会の役に立っていない。税金を使われる立場だから」って話を聞きました。言葉に追い詰められているんです。私は「じゃあ、お母さんは社会の役に立っているんですか?」と聞き返しました。みんな、社会の役に立つために生まれたわけじゃないですよねって。
話が逆になっているんですよ。みんなが社会の役に立てではなくて、「人の役に立つ社会であれ」でしょ。社会が私たちにとって役立つ存在であることが大事で、そういう社会を作るのは私たち。そのために税金を払っているわけですよね。
「障害者は税金を使っている。社会の役に立たない」と思う人たちは、一生、自分は税金を使われないで、強者として生きられると思っているのでしょうか?いつ、どんなことが起きてもおかしくないのに?これは無自覚な優生思想です。
まぜこぜ、まぜこぜって言ってきたのは、この社会には、明らかな分断があるからなんです。障害を持った子供、家族は社会との関わりが弱くなった人がいる。その一方で、無自覚な優生思想もある。結局、障害者が見えないことになっているんです。だから想像力が働かない言葉が広がる。そして、追い詰められる人もでてくる。
“You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one”
2017年11月9日木曜日
偏食は悪か?
隣の研究室の学生が、大学教員でもある栄養士になぜ偏食はいけないかというインタビューをした。結局のところ客観的な根拠を聞くことができず、倫理観が主体だったらしい。僕も最近、たまたま知り合った栄養士になぜ偏食がいけないかを聞くと、食材の生産者への感謝の気持ちなどを理由とし、客観的な根拠は聞くことができなかった。単なる素人に意見を聞いた結果がそうであればまだ分かるが、一応自然科学系に属する食の専門家に聞いても倫理あるいは価値観としての根拠のみで偏食はいけないという。これほど国中が口を揃えて「好き嫌いはいけない」とのたまっている根拠がこの程度である。
当然、栄養失調になるほどの偏食は憂慮すべき事態であり、早急な対処が必要となるだろう。しかし、健康を害するほどの偏食などほとんどない。ぼくは倫理として偏食を良くないものとする考え方には抵抗がある。その理由はいくつかある。まず、大上段に構えた理由から述べるが、個人が食べるものを自己決定できないということが正当化されるのだろうか。個人の食事を摂る自由を強制的に制限する権利が誰にあるというのだろうか。
次に、現実的な健康被害が生じる可能性があるということも大きな理由である。アレルギーがある子供が禁忌の食材を食べざるを得ない状況に追い詰められる危険性がある。ここまで明確なことではなくても、ひどく嫌なものを首根っこを抑えられて無理強いされて食べた結果、心理的な悪影響が生じる可能性は十分考えられる。特殊な場合として、自閉症児にはひどい偏食が伴っていることがよくある。多くの場合は、特定の料理や食材に根拠なく悪いイメージを持ち、食べないという状況に陥っている。この程度ならなんとかなることもあるが、自閉症児にとってかなり深刻な事態もある。彼らにとってはその食材が、平均的な人が生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を食べろと強いられたのに匹敵するほどの嫌悪感を引き起こしている場合もあるのだ。当然、生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を毎日無理やり食べさせられれば心身の健康を害する人は多いだろう(例え殺菌してあったとしても)。
偏食がいけないという人たちの日常を見ていると、その主張に一貫性がないということも引っかかるところである。「好き嫌いがいけない」と声高に叫ぶ人たちの多くに好き嫌いがある。この世で人類が食しているものであれば一切好き嫌いをせずに食べている、と胸を張って宣言できる人はほとんどいないのではないだろうか。好き嫌いなく食べましょう攻撃の最前線を担っている教師でも、「パクチーはやめときます」とか「マトンはちょっと」などと言っている人は結構いそうだし、平均的な日本人ならイナゴの佃煮や油で揚げたバッタあるいは蟻の浮いたスープを大量に出されても「勘弁してくれ」という人が多いのではなかろうか。つまり、好き嫌いを無くせと主張している人達は、いかなる食物であっても美味しくいただきなさいと言っているのではなく、私達が食べているんだからあんたも食べるべきだという同調圧力をかけているに過ぎない。
生きるためには食事は絶対必要である。毎日毎日、普通は3回の食事を食べ続けなければいけない。禅宗の僧侶でもない人、とりわけ子供にとって、毎日の食事が苦行である必要はないだろう。食事は生きる上での楽しみであって欲しい。本当は苦しみに満ちた世の中だからこそ、楽しみがたくさんあると認識させることはそれこそ「生きる力」となる。そういう意味で、食べられるものが増えることは悪くない。「これを食べることができる様になると、新しい楽しみが増えるよ」「もっと楽しくなるよ」と思わせること、そしてより楽しい世界を「自分の意思で選ぶことができるんだよ」と思わせることが偏食への基本的な対応だと考えた方が良い。併せて、自分が食べているものの成分がどの様に自分の体を支えているのかという科学的な理解を得るように促す工夫も必要だろう。日々食事を楽しみ、食べることの幸せを噛み締めながら暮らすことができれば、食材の生産者への感謝の念も育つというものだろう。偏食が「悪いこと」だから本人を苦しめても「直す」という発想では生きることの喜びには繋がらないだろうし、食材の生産者に感謝する気持ちも育たないだろう。人間、あらゆる要素に個人差がある。皆が同じになることを目指すのではなく、様々な人が共に暮らせる社会の方が暮らしやすい。肉が好きな子供も肉が食べられない子供も、ブロッコリーをモリモリ食べる子供もブロッコリーを口に入れられない子供も、共に幸せに生きていける社会が良いではないか。
当然、栄養失調になるほどの偏食は憂慮すべき事態であり、早急な対処が必要となるだろう。しかし、健康を害するほどの偏食などほとんどない。ぼくは倫理として偏食を良くないものとする考え方には抵抗がある。その理由はいくつかある。まず、大上段に構えた理由から述べるが、個人が食べるものを自己決定できないということが正当化されるのだろうか。個人の食事を摂る自由を強制的に制限する権利が誰にあるというのだろうか。
次に、現実的な健康被害が生じる可能性があるということも大きな理由である。アレルギーがある子供が禁忌の食材を食べざるを得ない状況に追い詰められる危険性がある。ここまで明確なことではなくても、ひどく嫌なものを首根っこを抑えられて無理強いされて食べた結果、心理的な悪影響が生じる可能性は十分考えられる。特殊な場合として、自閉症児にはひどい偏食が伴っていることがよくある。多くの場合は、特定の料理や食材に根拠なく悪いイメージを持ち、食べないという状況に陥っている。この程度ならなんとかなることもあるが、自閉症児にとってかなり深刻な事態もある。彼らにとってはその食材が、平均的な人が生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を食べろと強いられたのに匹敵するほどの嫌悪感を引き起こしている場合もあるのだ。当然、生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を毎日無理やり食べさせられれば心身の健康を害する人は多いだろう(例え殺菌してあったとしても)。
偏食がいけないという人たちの日常を見ていると、その主張に一貫性がないということも引っかかるところである。「好き嫌いがいけない」と声高に叫ぶ人たちの多くに好き嫌いがある。この世で人類が食しているものであれば一切好き嫌いをせずに食べている、と胸を張って宣言できる人はほとんどいないのではないだろうか。好き嫌いなく食べましょう攻撃の最前線を担っている教師でも、「パクチーはやめときます」とか「マトンはちょっと」などと言っている人は結構いそうだし、平均的な日本人ならイナゴの佃煮や油で揚げたバッタあるいは蟻の浮いたスープを大量に出されても「勘弁してくれ」という人が多いのではなかろうか。つまり、好き嫌いを無くせと主張している人達は、いかなる食物であっても美味しくいただきなさいと言っているのではなく、私達が食べているんだからあんたも食べるべきだという同調圧力をかけているに過ぎない。
生きるためには食事は絶対必要である。毎日毎日、普通は3回の食事を食べ続けなければいけない。禅宗の僧侶でもない人、とりわけ子供にとって、毎日の食事が苦行である必要はないだろう。食事は生きる上での楽しみであって欲しい。本当は苦しみに満ちた世の中だからこそ、楽しみがたくさんあると認識させることはそれこそ「生きる力」となる。そういう意味で、食べられるものが増えることは悪くない。「これを食べることができる様になると、新しい楽しみが増えるよ」「もっと楽しくなるよ」と思わせること、そしてより楽しい世界を「自分の意思で選ぶことができるんだよ」と思わせることが偏食への基本的な対応だと考えた方が良い。併せて、自分が食べているものの成分がどの様に自分の体を支えているのかという科学的な理解を得るように促す工夫も必要だろう。日々食事を楽しみ、食べることの幸せを噛み締めながら暮らすことができれば、食材の生産者への感謝の念も育つというものだろう。偏食が「悪いこと」だから本人を苦しめても「直す」という発想では生きることの喜びには繋がらないだろうし、食材の生産者に感謝する気持ちも育たないだろう。人間、あらゆる要素に個人差がある。皆が同じになることを目指すのではなく、様々な人が共に暮らせる社会の方が暮らしやすい。肉が好きな子供も肉が食べられない子供も、ブロッコリーをモリモリ食べる子供もブロッコリーを口に入れられない子供も、共に幸せに生きていける社会が良いではないか。
2017年9月29日金曜日
言霊の国
何かに対する不平不満を垂れ流している文章はみっともないものである。誰かの落ち度や欠点をあげつらうような文章は、本人は「俺は分かってるんだ、俺は意識が高いんだ」と息巻いているのだが、人が読んでも得るものは少ないし面白くもない文章になりがちである。もちろん、手間暇をかけて客観的なデータをつぶさに集め、論理的な思考で丹念に問題を批判する文章には高い価値がある。しかし、さして深い知識があるわけでもないのに自分の感じたことだけを根拠に文句を垂れ流すような文章はロクデモナイものである。何が言いたいかというと、以下の文章はそのロクデモナイものですよという親切な警告なのである。
かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。
かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。
2017年9月16日土曜日
不謹慎な話
僕はともすれば不謹慎な言動を取りそうになる人間だ。しかし、実際に実行することは少ない。むしろ不謹慎な言動を注意深く慎む傾向が強い。基本的におっちょこちょいな僕としては驚くべきことである。ひょっとすると、子供の頃にうんと叱られて、何年もかかって学習したのかもしれない。人の不謹慎な言動に対してはどうかといえば、割と「あんなこと言ってる。良くないよな」などと考えながら眉をひそめることが多い。しかし、その場にいる誰かが明らかに傷付きそうな状況でもなければ、口に出して非難することはない。面倒を避けたいという気持ちもあるのだが、もっと大きな理由がある。僕は、たとえ現実の具体的経験では眉をひそめることが多いとしても、抽象的な概念としては不謹慎が悪いとは思っていない。いや、むしろ不謹慎であることは良いことだと思っている。正確にいえば、不謹慎な言動が許容される社会が望ましいと思っている。
ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。
ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。
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