2017年5月23日火曜日

ADHDの病態は明らかにできるのか

 最近出た注意欠如・多動症(ADHD)の総説が目に入り、なんとなく気になって読んでみた。ADHDの脳科学、認知科学的な問題を取り上げている。最新の研究成果を詳しく解説しているものではなく、といって臨床的に有用なことなどほとんど書かれていない論文で、あまり面白い内容ではなかった。が、まとまりのない、それこそ役にも立たない考えがふわふわ浮かんできたので、これも何かの縁と考え書き留めておく。
Mueller A, et al. Linking ADHD to the Neural Circuitry of AttentionTrends in Cognitive Sciences 21:474–488, 2017
ざっくり説明すると、ADHDの基盤となる認知機能障害を明確にすることによって、より診断を精緻化し、合理的な治療を開発できるようになるだろうと主張している。ADHDに関連する認知機能としては、選択的注意、持続的注意、反応の正確性、認知的柔軟性、作業記憶、時間情報処理、反応抑制、そして報酬系を取り上げている。そりゃ一体なんだ?と疑問に思った人はこだわらないでいただきたい。集中力とか、我慢する力とか、損得勘定を正しく評価する力とか、まあそんなものと思ってもらえれば良い。これらの機能がADHDでは障害されているらしいことが、人間やモデル動物を使った研究結果から推測されている。どの機能が特に障害されているのかを個々の患者で明らかにできるようになれば、より臨床像と明確な対応を示す緻密な診断ができるようになるだろう。そしてそれぞれの認知機能の基盤となる神経機構を解明することで、患者の特性に合わせた治療法を開発できるのではないかというのが、この論文の論旨である。
 確かに、この領域の研究が進むことでADHDを臨床的に意味のある下位病型に分類できたり、より有効性の高い治療的取り組みを開発できる可能性はあると、僕も思う。ただ、あまり大きく期待できないだろうなあとも思う。第一に、こういう患者本人の脳機能のみに注目した研究が進んでも、環境との相互作用の中で臨床像が決定されるというADHDを始めとした発達障害の大きな特徴を掴みきれないだろう。同じ認知・行動特性を持っていても、環境の条件や生活の場の許容力によって問題が生じるかどうか、問題が生じるにしてもどういう領域が特に問題になるのかが変わってくる。問題を本人固有のものとした見方をする限り、ADHDの全容を理解することは難しいのではないかと思うのである。
 障害を想定している認知機能それぞれの概念が、本当に存在すると仮定して良いのだろうかということについても多少不安を感じる。少なくとも現時点では想像に想像を重ねた様な極めて不確かな概念である。例えば、選択的注意という概念を想定することで色々なことを説明できる様になるので大きな意味はある。しかし、何を選択的注意というのか、選択的注意は一つの機能なのか下位カテゴリーがあるのか、選択的注意は独立した機能なのか、といったことについては結構不確かである。今後脳科学の研究が進み、選択的注意がより具体性を増す可能性もある。しかし、素人ながらに最近の脳科学の動向を見ていると、あらゆる認知機能は脳全体のネットワークとしてのみ理解されるようになる可能性もある。そうなると、個別の機能に分解して論じることがナンセンスと言われだす可能性さえある(素人の直感、鵜呑みにしないでね)。
 研究者は、脳科学の手法を駆使してADHD患者固有の障害を明らかにしようと張り切っていることが多い気がする。一般の人も、障害といえば個々の患者の中に原因があると考えやすい。研究者も一般の人も最新の科学を駆使した知見が大好きである。何かはっきり説明できることがしっくり来るのだろう。しかし、ADHDやその他の発達障害を伴う子供達の臨床に携わっていると、事はそんなに単純なのだろうかと懐疑的になる。少数の原因が問題を生成するのではなく、数え切れないくらいの多くの要因が互いに複雑に作用しあった結果が現状ではないのだろうかと思うのだが、もちろん根拠のない僕の勝手な思いである。

2017年5月3日水曜日

学ぶことが面白いと感じることもある

 大学でも職場でもどこでも良いが、何かがきっかけで猛烈に勉強しだす人がいる。僕の知っているある若者は、中学校で習うようなことさえ碌に身についていないにもかかわらず、ちょっと解説本を読めと紹介するだけで1年も経たない内に統計ソフトをほとんど独習で扱えるようになり、標準偏差やp値の概念を理解し、分散分析も実行し、その意味もかなり理解している状態になった。それでも英語の力は如何ともし難いなあと半分あきらめていたが、かなり強引に英語論文もなんとかかんとか読み出した。こういう人は何に火をつけられたのだろうか。必要に迫られたことももちろんありそうだが、何かを面白いと認識してしまうことが大きいのではないかと思う。僕自身を振り返っても、仕事を始めてから学校の試験勉強や受験勉強などよりもはるかに真剣に勉強した時期がある。必要に迫られた時にも努力はするが、面白みを感じている時には自分でも意外な力を発揮することがあった。学問に取り組むことはとっつきが悪く、なかなか辛いものである。しかし、必死で取り組むと必ず面白さがあり、それに気づくことができると自分の能力にはレベルが高すぎる論文をかき集め、いまいち理解できないにもかかわらず必死に読んだりしだす。別に誰もが学問に面白さを感じる必要はない。しかし、誰でもそういう経験ができるチャンスを持てるような社会であった方が良いのではないか。
 「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
 教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。

2017年4月10日月曜日

抜本的に解決したい問題は多いけれど

 僕は大学の教育・保育系学部に勤めている。主に子供の発達、病気、障害などに関することを教師や保育士を目指している学生に教えている。講義をしている中で、ある現象に気付き、興味を持つようになった。病気でも子供の問題行動でも何でも良いのだが、何らかの問題をどう解決すれば良いかという質問に対して、ほとんど常に学生たちは「原因を見つけ取り除く」と発言するのである。彼らは、世の中の問題には原因があり、それを取り除くことが正しい対応であると、様々な場面で教えられているようなのである。確かに、この「原因を見つけ取り除く」は教育・保育業界の人達と話していると聞く機会が多い発想のように思う。
 そういう医療従事者だって原因論を重視するではないかという人もいるかもしれない。確かに医師は原因を重要と思っていないわけではない。医学生は根治療法と対症療法という言葉を教えられ、なんとなく根治療法の方が偉いという感覚も身につける。特に先端的なことをテーマにする医学研究者には原因を解明するという意識が強いかもしれない。しかし、臨床家は必ずしも原因のみに拘っているわけではない。それは、明確な原因が分かっている疾患よりも原因がはっきりしない病気の方が余程多いからということがあるし、それ以上に、臨床医にとっての最大関心事項は患者の病気が治ることであり、治らなくても少しでも苦しみを軽減することだからである。要は、治れば、あるいは患者の苦痛を軽減できればそれで良しなのである。たとえ原因がはっきりしている疾患であっても、原因に直接手をつけることに危険性や大きな苦痛がある場合は、原因に直接触れずに治療できる方法を探る。原因はまったく分からないものの、放置すればいずれ治る病気もあり、それが分かっていれば手を出さずに経過を見ることが原則となる。
 問題の原因を探り、その原因を取り除くという考え方は何かが足りない。おそらく医師は、原因よりも意識しているものが他にあると思う。それは何だろうと考えていたのだが、最近思いついたことがある。原因と結果だけを想定した考え方に足りない要素は機序(mechanism)である。もったいつけた割には大したことはない。当たり前といっても良いことかもしれない。
 人は原因と結果の関係を単純に考えやすい。一つの原因が存在する。そして、その原因が直接問題を引き起こす。だから、原因を取り除けば問題は解決する。こういう流れである。もう少し具体的な例をあげればこんな感じである。「ばい菌が原因となり、扁桃腺炎を引き起こす。そこで原因であるばい菌を退治すれば扁桃腺炎が治る。」
 こういう発想の第一の問題は、「一つの原因がある」という前提である。医学的な問題に限っても、単一原因を特定できない疾患や障害は数多くある。複数の要因が重なり影響し合うことで臨床像が決まってくるのである。通常、精神科的な問題などはほとんど全てが単一の原因では説明できないと言っても過言ではない。それどころか、通常単一原因と言われているものを取り上げても、ことはさほど単純ではない。例えば、先に書いた扁桃腺炎を例に考えてみよう。太郎君がA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎と診断されたら、その原因はA群溶血性連鎖球菌ということになる。しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。感染症であるからには感染源がある。太郎君は同級生の健太君からA群溶血性連鎖球菌をうつされたのかもしれない。そうすると、菌を持った健太君がそばにいたことが原因とは言えないだろうか。また、A群溶血性連鎖球菌感染症が保育園で流行していたとしても、すべての子供が扁桃腺炎になるわけではない。菌が喉に付着していてさえ全く感染状態にならない子供もいる。おそらく本人の免疫機能を含めた体の状態が感染を成立させやすい人だけが疾病として発症するのだろう。ならば、A群溶血性連鎖球菌に対して感染状態を成立しやすいというもともと本人が持っている体の状態も原因の一つと言えるのではないだろうか。このように考えると、原因という言葉は自明なものでは全くなく、かなり難しい概念である。
 第二の問題は、原因が直接結果を生成するという誤解を生じがちだということである。このことも、A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎を使って考えてみる。百歩譲ってこの場合扁桃腺炎の原因はA群溶血性連鎖球菌単独だとしよう。だからと言って連鎖球菌が扁桃表面に達すれば魔法のように扁桃腺炎が始まるわけではない。菌が粘膜表面に結合し、そこから臓器内結合組織に入り込み、増殖しながら種々の化学物質を分泌し、細胞が障害されていき、白血球が局所に集まり、などなど多くの現象が展開することによって扁桃腺の炎症が生じる。これらの過程の成り行きによっては一旦感染しても扁桃腺炎にならないかもしれないし、あるいは扁桃腺炎以外の症状を呈するようになることもある。つまり、大元は単一の原因だったとしても、その原因が次の現象を引き起こし、生じた現象それぞれがさらに次の現象を引き起こすという連鎖が続いて扁桃腺炎という結果に至るわけである。この、次々と新しい現象が引き起こされていき結果に至る過程を機序という。
 この次々と引き起こされる現象の連鎖である機序という概念を考えていると、原因についての見方が変わってくる。通常、Aという現象によってBという現象が引き起こされた時、Aは原因であり、Bは結果である。BによってCが引き起こされれば、BはもちろんAもCの原因といえる。そうすると、現象の連鎖である機序によって結果が生じるということは、一つ一つの現象が全て結果の原因と見做すことができる。たとえば、A群溶血性連鎖球菌感染症によって扁桃腺炎が生じるには、粘膜を通過し、結合組織内で増殖し、毒素や酵素を産生し、そこへ白血球が集まって菌を貪食し、白血球から化学物質が放出され、などなど多くの現象が生じる。その一つ一つの現象がそれ以降に生じたことの原因となる。逆に、A群溶血性連鎖球菌が感染するより時間的前にも様々な現象の連鎖が考えられる。A群溶血性連鎖球菌を持った健太くんが太郎くんに接触したことが感染につながるし、さらに遡れば健太くんに菌をうつした人がいる。もっと言えば生物進化の過程でA群溶血性連鎖球菌が発生したことがのちの扁桃腺炎につながるわけだし、いやいや地球上にアミノ酸ができたのが原因だし、それどころかそもそも地球ができたことが、と切りがないのである。一体我々が無邪気に「原因」と呼んでいるものはなんだろう。
 かなり明確に原因を特定できそうなA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎であっても扁桃腺炎という結果に辿り着くまでに無数とも言える現象の、遥か過去からの連鎖が存在するわけである。その連綿と続く連鎖の中でA群溶血性連鎖球菌は必要不可欠な経路となっており、なおかつA群溶血性連鎖球菌を殺す事で疾患が治癒することから、A群溶血性連鎖球菌が明確な原因のように見えるだけである。しかし、実際にはA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に至るまでには様々な現象、その一つ一つが原因といっても良い、の連鎖が続いているのである。多くの要因が次々と参入し、互いに複雑に絡み合いながら連綿と続く連鎖の過程が一旦A群溶血性連鎖球菌に収束したに過ぎないのである。そして、A群溶血性連鎖球菌の後には様々な因果の連鎖が並行して、あるいは影響しあいながら扁桃腺炎という結果に至るまで続いていくのである。
 A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に話を限定すれば、このようにややこしく考えなくても「A群溶血性連鎖球菌が原因である」と言っておけば良いのかもしれない。しかし、世の中の多くのことは因果の連鎖が1つか2つの要因に収束したりはしない。何が現在の結果につながる影響を及ぼしたのかをずっと遡って検証しても、常に様々な現象が同時並行的に関与しているものが多いし、そもそも影響を及ぼした要因を次々と辿れず、藪の中のことが多い。ほぼ明確な原因を特定できる状態であっても、原因を取り除くことで問題解決とは必ずしもいかない。例えば、単一の異常遺伝子によってもたらされる優勢遺伝あるいは劣性遺伝の遺伝性疾患でも、遺伝子そのものに手をつけることは非常に困難である。最近は遺伝子治療と称するものの話題がちらほら出てくるが、受精卵が分裂し、一人の人間として生まれ育っていく過程で遺伝子異常の直接的影響だけではなく、二次的、三次的な影響が広がってきて現在の状態につながっているため、生まれ育った後で遺伝子の異常を修復できたとしても多くの現状の問題が解決されることはよほど例外的と考えられる。医学的なことだけを考えてもこの有様である。世間一般に生じていることのほとんどは、原因を1つか2つの事象に帰すことはできないのではないだろうか。
 あまり意地になって「原因を取り除くことによって抜本的な解決を図る」ことを目指すと、却って自体が悪くなる危険性がある。なぜなら、「原因を探るべきであり、見つけるべきであり、取り除くべきである」という考えに固執すると、客観的根拠がないままに犯人探しをしてしまい、ピント外れな「原因」を捏造してしまうからである。こうなると本来の問題が改善しないだけではなく、関係のないものを「原因」とみなして排除しようとすることによる損害が生じる可能性が高い。僕はこういう問題を引き起こさないためには、原因よりも機序を考える習慣を持つことが役に立つのではないかと考えている。生じた問題への対策を考えるとき、その問題の出現に直接影響を与えたと客観的かつ確実に指摘できる要因を一通り洗い出していく。そして考えられた要因一つ一つに直接影響を与えたと確実に言えそうな要因をさらに洗い出していく。こういう作業を地道に繰り返すことで、なぜその問題が生じたのか、少なくとも直近の機序を明らかにできる可能性が高い。機序さえ分かれば、たとえ「原因」が不明なままでもその連鎖を止める、あるいは不完全にする方法を考えていくことができる。原因を取り除いて抜本的な問題解決を図るよりも、部分的であっても確実に問題につながることを客観的に示せる機序に対して実行可能な介入をする方が、劇的な変化はなくても世の中を改善しやすいのではないかと思う。

2017年2月19日日曜日

このままでは将来困るから

 片付けがてんでダメで、忘れ物も多いが面倒臭くてメモも取れないという子供がよくいる。何度もなんども教師が注意したり叱ったりするものの一向に改善の兆しがない。もうこうなったら自分で解決することはまず無理だし、といって放置すると様々なことで不利になる。だったらこまめに指示を出したり、必要な手順を表にして机に置いてあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる必要がある。
 僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診する。最近、こういう片付けが全くできないしメモも取れない子供を育てているお母さんが、学校の先生に連絡帳をきちんと書いているかどうかを確認して欲しいと頼んだ時の経験を語っていた。本人任せではまず無理なので先生に協力して欲しいと頼んだ訳だが、教師は「このままずっと自分でできないと将来困ることになる。だから手伝うべきではない。」と返事をしたとのことであった。
 「このままでは将来困るから」というセリフはこの事例に限らずとてもよく耳にする言葉である。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなく自分でなんとかさせようとする。何かと言えば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとする。発達障害のある子供のための専門外来をしていると、稀ならず見聞するエピソードである。
 この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題がある。「このままでは将来困るから」という意見に問題はない。確かに困る可能性が高い。ならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探るべきだろう。しかし、担任がこういうセリフを口にする事例では、1ヶ月経っても半年経っても事態がほとんど改善していないのである。改善しないどころか子供本人は一層投げやりになっていたりもする。本当に「このままでは将来困るから」と心配するのであれば、何か有効な対策を考えようとするのが自然な発想だと思う。しかし、少なくとも個人的な経験で見る限りは、積極的な援助策を講じようとしない教師に限って「このままでは将来困るから」と口にしがちである。そして、「自主性を育てる」と称してうっかりぼんやりした子供には忘れ物が多い状態を続けさせる。口を荒らす子供がますます荒れ出しても、口を開くたびに細かく細かく叱り続けることになる。そして時々、ちっとも改善しないとこぼしてため息をつく。
 多分、今までのやり方と違うことをするのが面倒なのだろう。別に教師に限った話ではない。今まで繰り返してきたやり方を変えることに強い抵抗を感じる人は一定数いると思う。そして、十年一日のごとく同じ行動をとることに問題があるかもしれないと指摘されかけた時、自分の振る舞いを正当化する理由が必要になる。それが「このままでは将来困るから」なのではないだろうか。真の問題設定として「このままでは将来困るから」と思うなら、成果を出せそうな戦略を立てる必要があるし、一定期間の後に成果が上がっているかどうかを評価する必要がある。言うまでもなく、何ヶ月あるいは半年も事態が改善しないような介入法が成果を出せるはずがない。
 上記のお母さんには、先生にこう言ように提案しておいた。「なるほど、手助けせずに放っておいたらこの子は自分でできるようになるのですね。先生は勝算をお持ちなのですね。あと何ヶ月見れば明らかな改善が見られると計算しておられますか。もしその時まで待っても改善が見られない場合には、次に打つ手も準備されているのですね。」

2017年2月14日火曜日

宣言的記憶の発達

 人の記憶はどのくらいの時間情報を保持できるかで短期記憶と長期記憶に分けられる(厳密には短期記憶よりも保持期間の短い感覚記憶がある)。長期記憶は記憶内容を意識できる宣言的記憶と、意識できない非宣言的記憶に分けられる。そして、宣言的記憶には、世界の事実についての記憶である意味記憶と、自伝的出来事の記憶であるエピソード記憶が含まれる。言葉の意味を知っていたり、者の名前を知っていたり、何かの理論を知っているというような、いわゆる「知識」は意味記憶になる。これに対して、大学の受験の日には珍しく雪が結構降って辺りが白くなっていたなあとか、昨夜飲んだ味噌汁は少し辛かったなあというような、いつ、どこで、誰が、何を、という情報と強く結びついた記憶がエピソード記憶である。
 神経学の教科書に記述してある知識ではこういったことをさらっと書いてあるので、ふむふむ宣言的記憶は意味記憶とエピソード記憶に分かれるんだな、2つの違う種類の記憶があるんだ、と考えがちだ(少なくとも僕はそう理解していた)。しかし、記憶の発達研究の知見を見ると、意味記憶とエピソード記憶は結構関係が深い。
 発達の過程で最も早く確認できる記憶は視覚性再認記憶である。これは、目の前に提示されたものが過去に見たことがあると認識する記憶である。乳児には見慣れたものよりも新しい刺激を好む新奇選好という特性がある。これを利用して、過去に見たことがあるものと見たことのないものを同時に見せて、乳児がどちらを長く見るかを検証すれば、見たことがあると記憶しているかどうかを確認できる。一つのものを見なれさせた直後なら新生児でもどちらが目新しいかを判断できるし、生後3ヶ月児なら丸1日記憶が保たれる。
 乳児期早期には特定のものを知っているかどうかを判断するだけの単純な記憶であったものが、生後半年を過ぎると記憶の構成要素同士を関連づけることができるようになる。例えば特定の顔を記憶するときに、顔を提示された時の背景を結びつけて記憶できるようになる。複数の要素を関連づける機能は2歳にかけて次第に発達し、関連づけられる要素の数が増えるだけではなく、柔軟性を増していく。例えば、遅延模倣課題という手法を使った実験で判明したことにこのようなものがある。遅延模倣課題では、検査者が人形を使って演じた一連の動作を一定の遅延時間後に子供が模倣するかどうかを確かめる。生後半年過ぎの乳児でもこの課題で、連続した複数の動作を模倣することが可能である。しかし、実験者が動作を演じた時と記憶確認時で人形が異なっていると模倣できなくなる。ところが、1歳半を過ぎると違う人形を見せられても、検査者が演じた動作を模倣できるようになる。人形を使って演じる「動作」と、別の「人形」とを新たに関連づけることが可能となったのである。
 記憶の構成要素を柔軟に関連づけられるようになってくると、エピソード記憶が機能し始める。エピソード記憶は唯一の空間的時間的文脈の中で生じた出来事の記憶である。つまり、経験された文脈の詳細に関する記憶が必要となる。このような記憶を情報源記憶とも呼ぶ。エピソード記憶が機能するためには情報源記憶が必要である。情報源記憶は未熟ながらも3〜4歳の子供で確認でき、その後10歳を超えるまで発達し続けると考えられている。
 以上をまとめると、まず知っているものを初めて見るものから区別できるようになり、ついで記憶の構成要素同士を関連づけられるようになり、関連付けがより柔軟になってくる頃に情報源記憶が成立しエピソード記憶が機能しだす。様々な要素を柔軟に関連づけて記憶できるようになれば意味記憶を維持するには十分である。つまり、意味記憶がエピソード記憶より先に完成するのである。意味記憶とエピソード記憶はいずれも大脳の内側側頭葉、特に海馬体という部位の機能によって支えられていることが分かっている。共通した脳部位が担っていることと、出現順序およびその連続性を考慮すると、意味記憶はエピソード記憶のベースとなっている可能性が高い。
 僕は記憶力が弱い。記憶全般に問題があるので、僕の海馬体は安普請なのだろう。中でもエピソード記憶が極めて弱い。ついで機械的暗記が大変苦手である。その一方で、何らかの理屈や理論になったものは比較的覚えていることができる。これは何を意味しているのかよくわからないが、複雑に関連づけられたものはかろうじて覚えているということなのだろうか。最近、記憶の発達について調べる機会があった。記憶について勉強したからといって記憶が改善するわけではない。調べたこともすぐに忘れていくのだろう。せめて要点を文章にして残しておこう。それがこの文章を書いた動機である。時が過ぎて、記憶の発達について調べたということさえ忘れても、ささやかな爪痕が残っているのを目にすれば多少思うところがあるのではないかと期待して。

2017年2月3日金曜日

大人ってえ奴は

 子供は能力が低いし、狭い世界のことしか分かっていないし、本当に大したことない奴らのくせに、いろいろ屁理屈をこねて大人を批判する。大人は信用できないなどとほざいたりする。全くもって度し難い奴らだぜ。子供は黙って大人の言うことを聞いていりゃあそれで良いんだよっ!と言いたくなることがないといえば嘘になる。しかし、事実大人は信用できないと思わせるようなことをよくしでかすのである。僕にも未だに忘れられない、大人に不信感を抱いたエピソードがある。

1)小学生の頃、僕は本が好きだった。それを良しとしてくれたのだろう。僕の親は、馴染みの本屋に話をつけ、僕が読みたいと思う本を何でも持って帰って良いことにし、その代金を払ってくれていた。おかげで暇があれば本屋に長居をし、延々としゃがみこんで立ち読み(?)をしていた。いつも立ち上がった時にはめまいがしていたことを覚えている。そして自由に本を選んで家に持ち帰り、続きを読んでいた。読みたい本を自由に読める環境を作ってくれたことを、今考えても親に感謝すべきことだと思っている。しかし、この思い出には消し難い染みがついている。ある日、僕はふと六法全書を手に取った。社会の仕組みも大して知らない小学生だったので、当然法律なんてよく知らなかった。ただ、世の中の様々なことが法律で定められており、法律は重要であることだけは知っていた。どんなことが定められているのだろうか。一度興味を持つと、当然好奇心を抑えられるわけがない。そこで、六法全書を読もうと考え、問題があるなどとは夢にも思わず、いつものように家に持ち帰ったのである。しかし、その時はなぜか母親が六法全書を見るなり怒り出した。何を言われたのか、はっきりとは覚えていない。なぜこのようなものを持って帰るのか。こんなものを読むと屁理屈ばかりこねるようになる。というようなことを言われたような気がする。そして母は、僕から六法全書を取り上げ、本屋に返したのである。好きな本を買って読めば良いと言われているのに、なぜ六法全書はダメなのか、しかも、叱られねばならぬ程のことだったのか。僕にはさっぱり分からなかった。当時全く納得できなかったし、いまでも納得できるとはいえない。

2)中学生になり、英語の授業が始まった。今は英語への苦手意識が強いのだが、中学生の頃は特に好きでもないものの、嫌いでもなかった。その頃、英語の授業内容のせいではないのだが、英語に関連して不満を持っていることがあった。それは、自分の名前を”Tatsuya Ogino”と書かねばいけないことだ。僕は取り立てて国粋主義者ではない。それどころか、その頃から無謀な戦争に走った日本を子供心にアホと違うかと思ったりするような子供だった。しかし、固有名詞、それも個人のアイデンティティである名前を別の言い方にすることに抵抗があったのだ。固有名詞なのになぜ他国の流儀に合わせねばならないのだろうか。しかも、国外では英語で表記するときもfirst nameを先に書かない国もあるらしいとも知り、なおのこと疑問を感じるようになっていた。そういう背景があったため、何年生の時か忘れたのだが、英語のテストで名前を”Ogino Tatsuya”と記述した。その日のうちか、後日かは忘れたが、英語の教師が僕を捕まえ、血相変えて怒り出したのである。年配の(といっても今の僕よりは若かったのかもしれない)女性であるその先生は、まさしく血相を変えていた。テスト問題への解答自体は結構良かったように記憶している。Family nameを最初に書いたというそのことだけで、目を釣り上げて叱られたのである。僕はそこまで非難されるようなことをしたとはどうしても思えず、ただただあっけにとられていた。

3)やはり中学校の頃である。理科の時間、おそらくエネルギー不変の法則のことを説明している時だったと思う。理科の教師が、「自転車のダイナモは、電灯をつけているときにエネルギーを生成しているので、回すのに力が必要になり重くなっている。電灯をつけなければエネルギーを消費しないので、軽く回せるはずである。しかし、実際には電灯をつけていなくてもダイナモをタイヤで回すと漕ぐ力が余分に必要になる。それはなぜだと思うか。」という問題を口にした。額が広く、ぎょろっとした目の、見るからに一癖ありそうな風貌の男性教師だった。僕が当てられたので、頭に浮かんだことを何のためらいもなく答えた。「電気を発生させるエネルギーが必要なくても、軸と軸受けの摩擦などで抵抗ができると思います。」てなことを答えたと思う(正確には覚えていないが、正解だったのだと思う)。教師は明らかにいらだった表情を浮かべ、あからさまに腹立たしそうな口調で、しかも皮肉な要素も湛えた口調で、他の生徒たちに向かって「荻野は頭が良いからすぐに答える。」と言い放ったのである。正解を答えたにもかかわらず、ほとんど晒し者のような目に遭わされ、しばらく事態をどう理解すれば良いのかわからないままに立ち尽くしていたことを覚えている。

 いずれのエピソードも、もう半世紀近く前のことである。しかし、今に至るまで、繰り返し思い出すエピソードである。なんども書いているが僕は記憶力が悪い。特に、エピソード記憶が悪い。だから、あまり具体的な思い出は多くないのだが、それでも繰り返し思い出すところを見ると、かなり印象深い出来事だったのだろう。いずれの状況も、責められるようなことをしたとは思えない。3)はまさに言いがかりであるが、他の2つにしても感情的に叱られるようなことだろうか。第一にこちらには悪意はないし、それどころか前向きな理由あっての行動である。もし間違っているのであれば、それを説明すれば良いことである。口を極めて非難するようなことではない。しかし、彼らは僕の行動に単に反対するのではなく、感情的に非難したり、晒し者にしたりしたのである。これらの記憶は大人に対して非常に暗い印象を僕にもたらした。
 とはいえ、僕自身が大人になってしまった。上記のエピソードに出てくる大人たちよりもおそらく年長になっている。自分が大人になると、上記エピソードの出演者である大人達の「気持ち」は分からなくはない。ああ、こんな子供を見たらイライラさせられるかもしれないなあと。しかし、気持ちは想像できても妥当な振る舞いだったとは、今でも思わない。大人が正当な根拠なく子供を責めるようなことをするべきではないと思う。
 さて、果たして僕は、かつての母親、英語教師、理科教師のような振る舞いをせずに済んでいるのだろうか。息子達や勤務する大学の学生達から責められたことはないが、彼らとてそう素直に不満を伝えてはくれないだろう。ひょっとしたら僕は、あの時の母親、英語教師、理科教師と同じ振る舞いを何度もしているのかもしれない。例えそうではあっても、敢えて主張したい。大人は、軽々しく感情的に子供を責めてはいけない。例え大きな問題があったとしても、ほとんどのことは責めるのではなく、説明すれば良いだけだ、と。

2017年1月6日金曜日

教育現場における発達障害児支援の専門家

 発達障害のある子供を対象にした診療をしていると、教師からの相談を受ける機会が結構ある。わざわざ病院に出向く教師は熱心な人が多く、親を通じてでは十分に把握できない学校園での子供の様子を知ることができる機会にもなるので、医師としては大歓迎である。であるのだが、どうもすっきりしない思いを抱くことにもなる。以前にも似たようなことを書いたことがあるが、学校園の先生からの質問はまず間違いなく子供にどう指導すれば良いかということである。聞かれたことには答えようとするのが臨床医の性であり、なんとか妥当性の高い回答を捻り出そうと、頭をフル回転させることになる。しかし、考えついたことを訥々と説明しながらも、脳裏には決まって一つの疑問が浮かんでくる。「俺は医者だぞ。医者が子供の指導法を、よりにもよって教師に助言しているのはおかしくないか?」
 脳機能の特徴や合併症、あるいは薬物療法や遺伝学的な知見について質問されるのであれば理解できる。しかし、教育や保育のトレーニングを受けたこともない医師が指導法について聞かれても、大したアイデアが出るとは思えない。TEACCHの創始者であるショプラーさんは治療者はジェネラリストとしての専門家たれと述べている。したがって、医師であっても教育や療育に踏み込んでいくべきだし、教師であっても医学的な知識を広げていくべきである。とはいえ、限界もある。教師が完全に医師の役割を担うことは難しいし、その逆も簡単にできることではない。教師が医師に指導法について助言を求めるという、専門性の完全な逆転にはかなり無理があるのではないだろうか。
 僕自身の経験を振り返る限り、相談を受けた事例では、教師がかなり困り悩んでいることは確かである。有効性の高い助言ができる専門家が必要なことは間違い無いだろう。発達障害のある子供の学校での指導を援助するためには、どのような専門家が必要なのだろう。少なくとも医師がその適任だとは思えない。やはり教育現場での問題を解決する以上、基盤となるべきは教育であり、教師の中に専門性を持った人を育てるべきであろう。教育現場に能力の高い専門家が育つことで、一義的には今現在困っている教師を助け、ひいては困難に直面している子供達を減らすことができるだろう。また、長期的には発達障害にまつわる問題を教育現場内で解決できる割合が増加することで、社会的支出を抑えることにも繋がるだろう。
 どのような専門家を育てる必要があるのだろうか。もちろん、最も重要なことは教育・指導のスキルである。行動面や感情制御、知能や識字能力などに何らかのハンディがある子供を前提にした教科内容の組み立て方や、教科指導の方法論は最も基本的なこととして抑えておくべきだろう。もしも十分な方法論が構築されていないのが現状であれば、そこを整備することは喫緊の課題である。しかし、まさしく僕の専門外の事柄になるので、ここでは立ち入らない。こういった教育内容や教育方法論と並行して専門家が習得すべきことや与えられるべき属性について、医師の立場から考え付くことを書いてみようと思う。
 まず、発達障害や関連する障害病型に関する診断基準、よく観察される症状や行動特徴、可能性のある二次障害などの理解は必須だろう。できれば認知科学・神経心理学的な基盤も抑えて欲しい。別に自分が医者だから、自分が関心を持っていることが重要といっているのではない。これらの事柄は、子供達が日常において経験する困難さに直結するものだからである。困難さの直接的原因と言い換えても良い。支援方法を考える時に、どういうメカニズムで困難が生じているかを理解できなければ、合理的な対策も難しいだろう。上に述べた教育内容や教育方法論も、対象となる子供の特性に沿ったものを構築すべきだろう。
 心理学的素養も重要な要素だと思う。上に、認知科学・神経心理学に言及したが、発達障害のある子供を支援する上で必須の心理学的領域は、行動分析学の分野ではないかと思う。行動分析学あるいは応用行動分析を習得すべきだと考える理由は大きく2つある。第一に、発達障害のある子供への対応の大半は、行動を対象とするものだからである。抑うつや強迫性障害などの二次障害への対応は別として、本人の行動レパートリーに即した生活環境を構築することや、生活環境に上手く適応することに役立つように行動レパートリーを広げ、逆に適応を阻害するような行動レパートリーを問題の少ない形へと変容させるというアプローチが必須である。ここでは応用行動分析学の考え方が直接的に役に立つ。第二に、行動分析学では介入と結果の関係を数量的に確認するということが非常に重視されているからである。介入対象を具体的に定義し、介入手続きを明確に規定し、具体的目標を立てた上で結果を数量的に評価するという考え方を繰り返し学ぶことで、説明変数と従属変数を常に意識した考え方のトレーニングになるのではないだろうか。もちろん、認知科学でもこういう考え方は基本であるし、その他多くの自然科学に共通した考え方でもある。しかし、「指導の効果」という教師としては最も興味を持ちやすい題材を使ってトレーニングできる点が、他の学問分野よりも有利な点ではないかと思う。
 最後になるが、発達障害のある子供への指導に関して教師や学校園に助言する専門家には、本人の学識やスキルだけではなく、立場に伴う権威も必要だと思う。例えば医師が何らかの診断書を作成したら公的な拘束力を持つ(ただし万能ではない)。これと同じ意味で、法律や制度に守られた権威がある程度必要ではないかと思う。学校の人事をさえ左右できるほど、とまでは言わないが、その専門家が提案したことや助言したことを聞き流すには教師や学校園側に相当な覚悟を要する程度の権威があることが望ましい。まあ、この考え方には反論したくなる人もいるだろう。僕は、教師には理屈が通じにくいという印象を持っている。もちろん例外は多いし、個人的に話しているぶんにはきちんと話が通じる人が多い。しかし、学校組織の一員としての教師は、理屈よりも兼ねてから培ってきた価値観を重視することが多い。しかも、教師としての経験年数が様々な主張の根拠になりやすいく、一層話はややこしい。いかに理論に裏打ちされていたとしても、自らの価値観に沿わない助言を受け入れにくいし、教師の経験年数が長いほど考えを変えにくいのではないかと思う。にもかかわらず、理屈に裏打ちされた合理的な助言を受け入れさせるには、ある程度権威の力を借りないといけないのではないかと思うのである。それは教師に対する偏見だと腹を立てる人が多いかもしれない。そう、単なる僕の偏見である可能性は否定できないし、僕自身この考えが間違いであることを願っている。
 以上、思いついたことをくどくどと並べて見た。果たしてこのような専門家が養成されることはあるのだろうか。現実的な方向性としては、特別支援学校教諭養成課程にテコ入れし、特別支援学校だけではなく全ての学校園で活動できるような特別な資格を与える課程に変えていくのが良いのではないかと思う。しかし、そういう特殊な専門的職種を教育界は受け入れられるだろうか。まあ、形はどうであれ、少しでも多くの発達障害を持つ子供たちが学校生活を楽しみ、能力に見合った学習をできるようになってくれるのであれば、僕としては特にいうことはないのだけれど。