2016年3月10日木曜日

合理的配慮

 最近、勤務先の大学での卒業研究発表会で、発表者の学生が聴衆から特別支援教育の実践にあたり何が重要ですかと質問された。その学生が「障害児を特別扱いしないことが何より大事だと思います。」と答えるのを聞いて、がっくりした。毎年いるんだ。「特別扱いをしない」と嬉しそうに言う奴が。現在の日本の教育現場では、一人ひとりの教育的ニーズに基づいて合理的配慮が求められることを知らないのだろうか。そもそも「特別支援」において特別扱いをしないなんて、字面だけ見ても矛盾しているじゃないか。
 などと偉そうに憤慨してみたものの、特別支援教育とは何か、合理的配慮って何のことか、僕自身の頭の中でスッキリとまとまっていないなあと気付き、二重にがっくりした。これを機会に、特別支援教育や合理的配慮という考えが法令としてどういう流れで定められてきたのか整理しようと思い立ち、この文章を書くことにした。もう、先に言っておくが、極めて付け焼き刃のメモである。それでも読んでやろうという親切な方は、読後に間違いや誤解を指摘していただくと共に、追加して説明すべきことをご教示願えれば幸いである。
 学校に、それが通常学級であっても特別支援学級であっても、障害のある子供が在籍しているときに何が必要になるのだろうか。2006年12月に教育基本法が改正され、以下の条項が付け加えられた。
国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 (第4条第2項)
つまり、少なくとも公立の学校園は障害のある子供が十分な教育を受けられるように支援を講じなければいけないのである。
 何だか漠然としているのだが、この部分の考え方の詳細は法律で規定されているわけではない。どこで知ることができるかといえば、2003年3月に発表された特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」や2005年12月の中央教育審議会答申「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」に示されている。僕は法律について詳しくないのだが、単に法律の条文だけではなく、審議会の報告、規則、通達など、法律以外の記述が法律の解釈や運営に実質的な力を持つらしい。で、2005年の中央教育審議会答申には以下の記述がある。
「特別支援教育」とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである。
ここでポイントとなるのは、「一人一人の教育的ニーズ」に対して適切に指導するように求めていることである。これらの報告書や答申は、もう一つ重要な提言をしている。それは、通常学級に在籍する子供に対しても、個々の教育的ニーズに沿った支援をすることが求められているということである。つまり、特別な教室や特別な学校に在籍する場合だけ配慮が求められるのではなく、教育現場のあらゆる場面で障害のある子供に適切に対応することが求められているのだ。
 さて、以上のように全ての学校現場では障害のある子供に対して必要な支援、あるいは適切な指導をしないといけないことになるのだが、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのだろうか。それを考える上でのキーワードになるものとして「合理的配慮」がある。
 実は、以上のような教育関係の法令整備は、2011年8月に改正された障害者基本法に沿ったものにするためである。そして、教育関連法令のみでなく全ての法令が障害者基本法に沿うように整えられてきたらしい。さらに、このような障害者に関連して法令・制度の大掛かりな整備が行われてきた背景として、2006年12月に国連総会で採択され、2008年に発効した障害者の権利に関する条約の存在がある。日本はこの条約を2007年9月に署名し、2014年1月20日に締結している。この条約に矛盾することがない様に、何年もかけて法令の整備が進められてきたのである。
 障害者の権利に関する条約では、障害に基づくいかなる差別もなしに、全ての障害者のあらゆる人権及び基本的自由を完全に実現することを確保し、及び促進することを締約国に義務付けている。そして重要な考え方として障害を有する人が地域社会に完全に包容(inclusion)され、自立して生活できるようにする処置を締約国に求めている。教育に関しても障害のある人を包容する教育制度(インクルーシブ教育システム)の構築を義務付けている。
 障害のある人が人権および基本的自由を享有し行使する上で必要となるものは合理的配慮である。条約では合理的配慮について以下のように説明している。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
日本の学校教育における合理的配慮に関連して触れておかないといけない公的文章がある。2012年7月に中央教育審議会初等中等教育分科会が作成した「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」である。この報告では共生社会の形成に向けて重要な理念としてインクルーシブ教育システムを位置づけている。そして、特別支援教育はインクルーシブ教育システム構築のために必要不可欠なものと位置付けている。特別支援教育の基本的考え方は既に書いたが、子ども一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うというものであり、この「適切な指導及び必要な支援を行う」ことを言い換えれば(報告には明記していないが)合理的配慮ということになると思う。この報告では、条約での定義をもとに合理的配慮を以下のように説明している。
本特別委員会における「合理的配慮」とは、「障害のある子どもが、他の子どもと平等に『教育を受ける権利』を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるもの」であり、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」、と定義した。
具体的な合理的配慮は一人一人の障害の状態や教育的ニーズに応じて学校の設置者や学校が個別の子供に対して行うことになる。そして、それを支えるために国や自治体が基礎的な環境整備を行う。個別に合理的配慮を提供するにあたって具体的に何が必要かといえば、個々の障害の状態や教育的ニーズに基づいて決定するため、予め全てを網羅して明文化することはできない。ただ、合理的配慮を決定する際には、1 教育内容・方法、2 支援体制、3 施設・設備について、の3つの観点を踏まえることが必要とされている。有効な合理的配慮が提供できるかどうかについて、1については教師個人のスキルや創意工夫が負うところが大きいと思われる。2については学校園の経営者の力や学校園の制度・文化が大きく関与し、3については行政の役割が大きそうである。ただ、それぞれの観点に様々な要素が関与するだろうし、3つの観点が上手くかみ合う必要があり、関係者が互いに協力することが必要になる。一人の子供に対する合理的配慮であっても特定の誰かが単独で背負い込む様なものではない。
 合理的配慮の決定においてはICF(国際生活機能分類)を活用することが推奨されている。また、設置者及び学校が保護者や本人と可能な限り合意形成を図った上で決定・提供されることが望ましいとされている。ICFを活用するということは、障害を有する子供達が日常のどういう活動においてどの様に、あるいはどの程度困難な状況になるかは、本人固有の特徴と環境との相互作用の中で決まる流動的なものであるということを意味する。つまり、同じ子供であってもその時々の状況で必要とされる合理的配慮は変化する可能性がある。また、合意形成を重視するということは、合理的配慮というものが一方的に与えられるものではなく、本人や保護者の希望を反映したものにすべきだということである。
 合理的配慮について、見落としてはならないポイントがある。条約の定義でも中央教育審議会報告の定義でも、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」と記述されているが、これは各学校の設置者及び学校が体制面、財政面を勘案して個別に判断することとされている。ここまで説明してきた様に、インクルーシブ教育システムを推進するために合理的配慮を提供することが教育に求められている。しかし、無制限の配慮を求めているわけではないことが分かる。現実的に無理なことまで提供することは求められていないのである。様々な状況を勘案し、それこそ「合理的」に合理的配慮をすることが必要なのだろう。
 この、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」という文言が適切な配慮をしないことの言い訳になるのではないかと心配する人もいる。しかし僕は必ずしもそうではないと思う。時間的、人的あるいは予算的制約を超えた支援を学校園及び教師に求められないのは当然のことである。ただ、ここまで説明してきたことから明らかだが、学校園及び教師は一切の配慮をしないとは口が裂けても言えない。なぜなら、一切の配慮をしないことは差別であり、日本の法律では認められないことだからである。学校園及び教師は常に合理的に配慮しなければならない義務を負っている。
 そう考えると、学校側に「これ以上の配慮は無理」と言われた場合でも、現在行っている配慮や支援において検討すべきことが少なくとも2つある。まず、物理的、人的あるいは予算的制約を本当に超えた「過度の負担」になっているかどうかを検証することである。ただ、これについては学校側がもう限界だと主張する以上は否定することはなかなか難しいだろう。もう一つは、現在行っている支援や配慮を、制約の範囲内で変更できないかを検討することである。支援の具体をより有効にするべく微修正したり、成果が挙がっていない無駄な支援を一度中止した上で新たな取り組みを工夫したりということは、無限にできるはずである(個人的には無駄な支援を中止することを強調したい)。これこそが「合理的」な配慮である。可能な合理的配慮が残っている限り、「これ以上、何もできない」とは言えないのである。
 特別支援教育における合理的配慮は、一人ひとりの教育的ニーズに合わせるものである。「〇〇には△△」「□□には××」というふうに予め用意された対策を機械的に当てはめていく様なマニュアル的対応では上手くいかない。現実を客観的に観察することによって集めたデータをもとに、柔軟に戦略を練り、一定期間後にその成果を評価し、戦略の修正をするというサイクルを持続させることが合理的配慮の最も重要なポイントではないかと思う。そう考えると、たとえ制約が大きくても「できることは全てやりました」と言える状況はありえない。何かしら工夫をする余地は常に残されているはずなのである。となれば、学校側は「これ以上何もできない」と言うことができないし、言えば差別である。もちろん、「障害児を特別扱いしない、他の子供と区別はしない」などという考えは許されないのである。

2016年2月28日日曜日

落ち着きのない子供

 これは第一線で診療する、子供のプライマリケア医に向けて用意した解説である。ひょっとしたら、福祉や教育の現場で働く人たちにも参考になるかもしれない。しかしかなり長文なので、暇を持て余しているか、相当強い興味がある人向けである。

1. 「落ち着きのない」が意味するもの 
 「落ち着きのない」という訴えは、子供の行動や発達に関連した相談の中では結構多いものである。「落ち着きのない」という言葉は本来どういう意味があるのだろう。「落ち着きのない」といえば、僕はちょこまか動きが多い状態をまず思い浮かべる。実は、広辞苑にも大辞林にも「落ち着きのない」あるいは「落ち着きがない」という見出し語はない。「落ち着く」あるいは「落ち着き」は掲載されており、移動のない状態、穏やかで安定した状態、軽率ではないこと、調和していることなど多様な意味がある。つまり、必ずしも動きに関連した表現ではない。実際、「落ち着きのない」が意味するところは人により、場合により、様々である。子供ごとに「落ち着きのない」が具体的に何を意味するのかを考える必要がある。

1.1. 動きが多い
 とはいえ、主訴が「落ち着きのない子供」の場合、多動を指していることは多い。通常、ややこしく考える必要はなく、一見して動きが多い。椅子の上で体を揺すったり、目に付いたものを触ろうとしたり、足をぶらぶら振る程度のこともあれば、椅子によじ登り、椅子からずり落ち、勝手に歩き回り、時には狭い部屋で走り回ったりベッドによじ登って飛び降りたりする。典型的な子供では一目見れば気がつく。しかし、慣れぬ場所や緊張している時にはじっとしている子供もよくいるので、短時間での判断は難しい場合もある。幼児や小学校低学年の子供は一般的に動きが多いので、年齢を考慮した上で判断する必要がある。
 動きが多い子供では、しゃべりすぎる子供が多く含まれる。親がちょっと黙ってくれと言うまで話し続ける子供もいるし、人が別のことを話しているところに割り込んできて、自分の話したいことをしゃべり出す子も多い。そのくせ、人の言うことはまるで聞いていないことがよくある。そのため話が一方的で噛み合いにくく感じることもよくある。ただ、自閉症的な傾向がなければ、落ち着いて話せば会話はよく噛み合う。
 動きの多い特殊な状況としてはチック症がある。上記の行動特徴としての多動ではその時その時の状況に反応して多彩な動きを示すが、チック症では1種類、または数種類の単純な動きを繰り返す。多くのチック症では瞬きをしたり、顔をちょっとしかめたり、首を少しかしげるなど小さな動きが中心なので、気にするのは家族だけのことが多い。しかし、頻度としてはそれほど大きくないが首を大きく振ったり、上肢を振り回したりと、かなり大きな動きを頻回に繰り返すこともある。また、咳払いや、「ウッウッ」と声を出す音声チックを伴うこともある。こういった場合はかなり目立ち、「落ち着きがない子供」という印象を与えることもしばしばある。なお、チック症を有する子供では、行動特徴としての多動を伴うことが非常に多い。

1.2. 動きが多いように見える(予想外の動き)
 親は「ちょこまか動いてじっとしていない」と、はっきり動きが多いことを訴えて受診するのだが、診察室で見ていても言うほど多動ではない子供がいる。平均的な子供と比較すれば多少は動きが多いことは多いのだが、親が困ったり憤慨したりするほど動き回るようにも見えない。こういう場合、具体的な状況をよく確認してみると多動そのものが問題ではないことがある。つまり、物理的な動きはそれほど多くはないのだが、親の期待に添わない動きや予想外の動きがとても多いのである。基本的にはその場その場に相応しい振る舞い方を把握できていないのである。こういう状態になる背景には複数のものが考えられる。
 意外に多いのは、どう振る舞うべきかをきちんと教えられていない場合である。大人は「このくらいは言わなくてもわかる。」と勝手に思い込んでいることが多いので、いちいち細かいことを説明しない。そのため、どう振る舞うべきか知らないという状況に陥る。
 本人の理解力に問題がある場合も、場面場面でどう振る舞うべきか知らないということにつながる。知的障害があれば、指示や説明の言葉が複雑すぎた時に理解できず、当てずっぽうで行動することがあるかもしれない。
 理解力の問題の一部と言っても良いかもしれないが、文脈や状況理解が悪い子供は場面ごとに必要な振る舞いを把握できていないことが多い。世の中にはある状況で許されることが別の状況では許されなかったり、ある状況では必要のないことが別の状況では必要になることは珍しくない。こういうことがピンとこない子供だと、日々場にそぐわない頓珍漢な言動をとることが増えてくる。文脈や状況理解が悪い子供と重なりやすいのだが、人が自分に何を期待しているかが分からない子供たちも、保護者の予想を超えた動きをしやすい。文脈理解や人の気持ちの理解の不十分さは、自閉スペクトラム症の子供たちで典型的に観察できる。

1.3. 動きが雑で唐突
 行動全体に動きの量がそれほど多くない場合でも、動作の開始が唐突であったり、雑な動きが多かったりすると落ち着きがない印象を与えることがある。こういうタイプでまず考えることは、手先の不器用さや身体の使い方の拙劣さがある子供だ。発達性協調運動症の子供が典型的である。
 注意散漫であったり一つのことに注意が集中してしまいやすい子供も、細かいことや周囲の状況に気をくばることが苦手で、作業が雑になりやすく、不適切なタイミングで行動しやすい(例:車が近づいてきている時に道路を横断しだすなど)。

1.4. よく考えずに行動する
 これは衝動性が強い状態である。思いついたことをすぐに実行する、あるいは口にするため、様々な状況で不適切な言動になりやすい。こういう行動特徴を有する子供は多動も合併していることが多いが、たとえ多動がなくても落ち着きのない印象を与えやすい。

1.5. 気が散りやすい、人の話を聞いていない
 これは主として注意能力の問題である。必要なことに注意を向けられないので、親が何か指示しても聞いていなかったりする。必要なことに注意を持続できないので、今している活動とは関係のないことに気が散りやすいし、課題を最後までやり遂げられないことが多い。目移りしやすく飽きっぽいので、何をやらせても(遊びでさえ)短時間でやめてしまい、別の活動に手をつけることが多い。

1.6. 癇癪、攻撃性(情動制御の問題)
 些細なことで興奮しやすく、怒ったり人を攻撃したりすることが多いと、落ち着きのない印象を与えることがある。この場合は、日常の冷静な時に見れば落ち着いた行動ができている。もっとも、癇癪や攻撃性が問題になる子供では、日常的な多動−衝動性や不注意を伴っている子が少なからず存在するので、そういう特徴がないか確認する必要があるだろう。

1.7. 親や教師の指示に従わない
 これは、「言っても言っても、素直に従わないのです。」とか、「私の言うことに逆らってばかりいるのです。」というような訴えがある場合である。親や教師の主観では「従わない」ということになるのであるが、ここにも複数の要因がある。
 よくあるのは注意能力の問題だ。一つのことに集中できない、あるいは気が散りやすいため、親の指示をきちんと聞き取れていなかったり、とりあえず指示されたことに取り組みかけても、途中で別のことを始めてしまい、結局指示されたことをやり遂げられなかったりする。
 同じく稀ならず認められる問題として、必要な情報を必要なタイミングで意識できないことがある。親や教師が「何度叱ってもすぐ忘れるんです。」という表現をすることが多い。これは予定記憶の弱さである。注意・指示されたことやルールなど大切なポイントを本当に忘れたわけではなく、肝心のタイミングで意識できないのである。落ち着いているときに尋ねると、必要な情報を述べることができたりする。
 文字通り「従わない」、すなわち親や教師に反抗している場合もあるだろう。指示された内容が嫌だといった明確な理由があるわけではなく、日常生活のさまざまな場面で反抗的な言動を、特に親など大人に対して取りやすい状態としては反抗挑発症(反抗挑戦性障害)の可能性を考える必要がある。その場合、多動や注意の問題も併存していることが多いので、具体的なエピソードそれぞれがどういう機序で生じているのか慎重に判断する必要がある。

2. まず明らかにすべきこと
2.1. 具体的に何に困っているのか?
 子供の日常行動の問題を扱う診療においては、何に困っているかを具体的に把握することが最大の仕事であると言っても良い。また、何に困っているかを具体的に把握し整理する過程は、上記の「落ち着きのない」が意味するものを明らかにする過程と表裏の関係にある。何に困っているかを具体的に明らかにする過程で、「落ち着きのない」が意味するものが明確になってくるし、「落ち着きのない」が意味するものを想定することで何に困っているのかがより深く理解できるようになる。
 何に困っているかを明確にするためには、いかに具体的レベルで状況を把握できるかが鍵になる。大人はとかく抽象的に物事を把握し、表現しがちである。「落ち着きのない」などはその典型である。しかし、一つ一つのエピソードを具体的に採取することで、分析が可能となる。
 話の進め方は色々あるが、まず誰が困っているのかを明らかにすることから始めるのは一つの方法だ。もちろん本人が困っていることは多いのだが、実際には家族、周囲の子供達、教師や保育士など、本人以外が困っているという話が多い。表面的に困っている人がどのように困るか、あるいは何を心配しているのかを具体的に聴取していく。具体的にというのは、何時、何処で、何をしている時に、周囲の状況は、きっかけは、その後どう推移したのか、といったことを明らかにしていくということである。そのためには、具体的なエピソードの一つ一つを聞き出すのが良い。そして、ある程度代表的なエピソードを聞き取れば、それぞれがどのくらい日常生活に影響を及ぼすかの程度や、同様のことが生じる頻度も確認しておく必要がある。

2.2. 困っていなければ問題ないという訳ではない
 問題の具体を聞き取る際に、話を進めにくい事態が生じることがある。受診した本人も家族も何も困っていない場合である。子供本人が何も問題を感じていないことは珍しくないが、家族も問題を感じていないという事態はなぜ生じるのだろうか。こういった状況は、家族は何も問題があるとは思っていないのだが、保育園、幼稚園、あるいは小学校で問題が持続するため、先生が家族を拝み倒して、あるいは半ば脅しをかけて受診させる時に生じる。このような場合、親は何も問題がないことを強調するし、家庭外のことはあまり具体的に把握していないので、何も問題がないという結論になりがちである。
 しかし、あまり簡単に問題なしという結論を出すべきではない。なぜなら、受診しているからである。病院というものは一般の人にとってかなり敷居が高いものである。ささやかな心配事を理由に受診する人はめったにいない。家族ではなくても、誰かが受診が必要と考えた以上は、何らかの問題が存在する可能性を簡単に捨てないほうが良い。
 僕自身は、親が自分の子供には問題がないと主張する状況には、大まかに考えて2種類あるのではないかと考えている。一つは、これが結構多いのだが、親が非常に上手く子供を育てている場合である。甘やかす訳ではなく、本人の特性に合わせて指示したり物事を教えたりできているので、本当に家庭の中は穏やかで、何も問題が生じないのである。もう一つの場合は、親は何らかの問題を認識しているのだが、それを認めたくない状態である。後者の場合は、子供に問題があるかどうかではなく、親が子供を育てる中で何かしんどい思いや苦労をしていないか聞いてみると良い。親のしんどさに共感し、それでもよく頑張っていることを指摘していくと、色々話してくれることが多い。
 何れにしても、改めて学校園での具体的な様子を探る努力をしたほうが良い。少なくとも、何か理由をつけてしばらく受診を繰り返してもらい、病院とのつながりが切れないようにしたほうが良い。この点で、かかりつけ医は非常に有利なポジションにいる。

3. 診察室で
3.1. 待合から診察終了まで
 話を聞いたり診察したりすることから得られる情報以外に、待合室から診察終了までに様々な情報を取得できる。まず、多動や不注意に関してはかなり明確に確認できることが多い。無意味な手の動きの多さ、姿勢の安定性、不必要な移動の有無などは一目で確認できることが多い。喋りすぎないか、話はかみ合うか、人の指示や質問を最後まで聞くことができるか、人が喋っている時に割り込もうとしないかといったことにも注目するとよい。多動や衝動性は慣れない場所や慣れない人がいるときには目立たないことも多い。可能であれば、待合室の様子を覗き見ると参考になる。
 移動中やおもちゃで遊んでいる様子を見て、動きのスムーズさや手先の器用さに関する情報が得られることも多い。目は合うか、表情は自然か、周囲の人に興味を持つか、初対面の人への緊張や不安を持っているか、不安や困った時に親に頼ろうとするかなどの社会性に関連する所見が得られることもある。不安や緊張が強すぎないか、逆に弱すぎないかということにも注目しておくと良い。

3.2. 保護者からの病歴聴取
 診察室で確認できない日常の行動特性や、何に困っているかを知るためには病歴聴取が重要であることは言うまでもない。ただ、保護者の話を聞くにあたって留意しておくことが色々ある。まず、保護者と話をすることの子供本人への影響を意識しておいたほうが良い。「落ち着きのない」ことが主訴になっている場合、親の話の内容は本人にとって面白くないものが多くなる。そのことにより子供が過度に緊張を募らしたりイライラするようなら、親子関係に不協和音が生じているのかもしれない。逆に、自分の日常の問題が話題になっていることに全く無関心であれば、それは本人の社会性や状況判断の特性を知る一つの手がかりになるかもしれない。
 保護者の話に対する子供の反応が一つの情報になるとはいえ、なるべく悪い話は本人のいないところでしたほうが良い。また、どうしてもその場で話を聞かざるを得ない場合は、本人の診察の邪魔にならないように、保護者との会話と本人の診察の順番をよく考えた方が良い。一般的には最初は本人にとって悪くない話から始めておくべきだろう。
 保護者から話を聞く際には、まず受診に至る経過を簡単に聞き、積極的に受診したのか、学校園などから要請されて渋々受診したのかについて認識しておくと良い。また、話し始めは時間の許す限り保護者に何に困っているのか、何を心配しているのかを、自発的に思う存分に語ってもらうのが良い。そのためには強引に話の腰を折るようなポイントを絞った質問をすることは後回しにし、できるだけ傾聴する姿勢を示す必要がある。
 一般の人は事実を具体的に描写することが苦手なことが多い。ともすれば、物事を抽象的な言葉で言い表そうとする。しかし、すでに書いたように事実をできるだけ具体的に聴取することが重要になる。そのためには問題の具体例となる特定のエピソードを話してもらえるように促す必要がある。また、曖昧な表現に対してはこちらから「それは〇〇という意味ですか、それとも△△ということですか」というふうに選択肢を提供することが役に立つこともあるだろう。
 親の話を聞くにあたり、問題の分析に役立つ情報を聴取するように努力することが重要であるが、加えて心がけておくべきことがある。それは、親の褒めどころを探しながら話を聞くということである。親自身が意識していなくても適切な子供の接し方をしていたり、合理的な選択をしていることは多い。また、こういった問題を相談に来る親は何かしら努力し、「頑張って」いる。不安や心配に共感することも悪くはないが、親が親として上手くやっていることを指摘していくことは、親の不安を軽減することに役に立つ。

3.3. 本人と
 本人と会話し診察することで、多くの情報を得ることができる。ただ、日常の行動面が問題になっているときには診察室で把握できる情報は限られていることも認識しておくべきである。ただ何となく診察した印象で語るのではなく、何を確認しようとしているのか、そのためにはどういう働き掛けをするのかあるいはしないのか、意識しておくことが大切である。
 通常はすぐに診察するのではなく、雑談を含めて会話することから始める。ただ、不安が強い子供や言葉で表現することを苦手に感じている子供では、身体の診察をすることから始めた方がスムーズに進む場合もある。
 子供と話をする中で、一度は受診理由を聞いておく必要がある。多くの子供は、特に小学校低学年以下では受診理由を認識しておらず、きょとんとしていることが多い。時にはその場で思いついたように身体のどこかの痛みなど身体的訴えを口にすることもある。小学校高学年から思春期では、少ないながらも親とほぼ一致した受診理由を口にすることが増えてくる。問題意識を本人、家族及び医師の間で共有できていると、その後の様々な対処において本人と相談しながら方針を決定することがスムーズになる。受診理由や心配なことを述べてくれる場合は、それについて掘り下げて聞いておくと良い。
 雑談の中で、家庭や学校・園での好きなことや嫌いなことをある程度聞き出せるかもしれない。嫌なことだけではなく、楽しみにしていることを知っておくことは後々役に立つことがある。運が良ければ、本人が日常困っていることや心配していることを聞き出せることもある。受診理由を明確に述べられない子供でも、雑談の中で普段困っていることを聞き出せることがある。
 子供と言葉を交わしながら、会話は噛み合うか、奇妙さはないか、言葉を確実に理解できているか、といった言語性コミュニケーションや理解力の問題がないかを検討する。また、指示されたことに従えるか、指示や説明を最後まで聞いていられるか、などを確認する。鑑別と関係するが、幻覚妄想を思わせる発言がないか、離人症がないかといったことにも留意できると良い。
 一般的な身体診察と神経学的診察をすることには種々の意義がある。何よりも、基礎疾患や合併疾患の可能性を検討することは重要である。「落ち着きのない」ことが最初に述べたどういう状態を意味していたとしても、様々な脳障害や精神疾患、あるいは社会心理学的なストレスによって引き起こされる可能性がある。
 身体所見や神経学的所見を得る以外にも診察の意義がある。年少児や重度の知的障害を伴う子供以外の多くは、意外に身体の問題に焦点を絞ると警戒感を解きやすい。何か身体の不調がないか尋ねながら診察すると、素直に診察されるに任せる子供が多い。また、診察という働き掛けに対する反応を見ることが行動観察の一環にもなる。例えば、集中力がない子供は指示を正確に最後まで聞いていないことが多いし、眼球運動を見る時に視標を追いかけ続けられず、ともすれば関係のないものに視線を移してしまう。目を合わせるかとかこちらが期待していることを全て説明しなくても察知できるかなど、対人的相互作用が乏しいかどうかも、ある程度情報が得られる。

4. 鑑別
4.1. 器質性疾患、いわゆる心因性疾患、精神障害
 病歴聴取や診察が一通り終了すると(正確には並行して)、鑑別診断を行うことになる。主訴が「落ち着きのない」であれば、まず頭に浮かぶのは種々の発達障害である。しかし、ここでは詳しく述べないが、様々な器質性疾患、いわゆる心因性疾患あるいはその他の精神障害との鑑別が必要である。鑑別に際して病歴で重要な情報として、生育歴、家庭内・外環境の確認、最近身の回りで生じたイベントなどの背景要因を聞き出しておくべきである。受診理由となった症状や行動特徴については、出現様式や持続時間、その症状がどこで(どういう状況で)認められるかなどもできるだけ明確にしておく必要がある。「落ち着きのなさ」以外の症状の有無も聞き取っておかないといけない。
 鑑別に際して留意しておくべきことを一つ付け加えておく。器質性疾患や心因性の問題が存在しても必ずしも発達障害が否定されるわけではないということである。偶然の合併もあるし、両者の相互作用が考えられることもある。

4.2. 発達障害
 冒頭に説明した「落ち着きのない」が意味するものを念頭に、可能性がある発達障害病型を考える。主なところをあげれば、注意欠如・多動症、自閉スペクトラム症、反抗挑発症、素行症、発達性協調運動症、チック症、知的能力障害といったものがある。一人の子供が純粋に1病型に当てはまることはむしろ例外的で、幾つかの病型に当てはまることが多い。

5. 短時間で何処まで詰めるか
 プライマリケアの現場では、一人の子供に対して無制限に時間をかけることは難しい。行動の問題で困っている子供やその家族に十分な対応をしようとすれば、膨大な時間がかかる。あえて短時間の診療で成果を上げようとするならば、目指すものを絞る必要がある。その概略をここで解説する。なお、可能であれば少数でも良いので、十分な時間をかけて評価し対策を練る診療枠を定期的に確保しておいたほうが良い。詳細な評価をする経験がある方が大事なポイントを把握できているので、短い時間でどのように診療するかを計画しやすい。また、1回の診療でどこまで明らかにするかと張り切るよりは、1回1回はささやかで良いので、継続的にコンタクトを取れるようにすることの方が重要である。

5.1. まず押さえておくべきこと
 具体的に何に困っているのかを整理することが最重要課題である。家族が(年長児であれば本人も)問題を具体的レベルで整理し直し把握できれば、それだけで診療目的の八割がたは達成していると言っても良いと思う。そして、すでに述べたように何に困っているかを整理することと「落ち着きのない」が何を指しているのかを明らかにすることは表裏の関係にある。困っていることを具体化することでその子供が上手くいかないことの根底にある特性が明確になるし、それがまた何に困っているかをより具体的に理解する手がかりとなる。
 病院で相談しようかという事例では、日常生活における問題が一つで済むことは滅多にない。いろいろな問題が錯綜していることが普通である。しかし、1回の診察時間では一つか二つのことを具体化するだけでも良いと思う。通常この種の問題では、問題解決の主人公は本人と家族(付け加えれば学校・園の先生)である。問題の全てではなくとも一つか二つのことを具体的に把握することで、どのように事態を把握すれば良いのかという視点を得ることができる。その経験をもとに、他の問題にも自らアプローチしていくこともできる可能性がある。

5.2. 併せて押さえておくべきこと
 やはり小児科医としては体の問題の見逃しは避けたいところである。心理社会的ストレスから生じる問題や精神疾患についてはおいおい専門医に助けを求めるにしても、身体的所見や神経学的所見を通じて基礎疾患の検討は十分にしておきたい。

5.3. 可能なら検討したいこと
 日常生じるいくつかの問題を具体的に分析する過程で、本人の認知や行動の特性がある程度見えてくる。そうなれば、発達障害のどの病型を念頭におくべきかがある程度絞れてくるだろうし、それが暫定的な診断名としても使えることになる。
 もちろん、本格的に診断基準に沿って評価し直し、さらには知能検査などの心理検査も施行して、本格的に診断できればいうまでもない。だが、実際には時間的余裕がなかったり、心理士がいなかったりという事情で難しいことが多いだろう。

5.4. 診断をつけることが何より大事ということはない
 最後に発達障害の診断についての僕の考えを追加しておく。できるだけ精度の高い診断をつけることは将来生じる問題を予測したり、日常的な対処法を計画する上で役に立つことは間違いない。しかし、発達障害として診断することで全てが解決するかといえば、全くそういうことはない。また、診断しないと何もできないというわけでもない。むしろ、発達障害児の日々の援助は診断名よりも何に困っているのかを分析し、具体的に把握することに基づいてなされるものが非常に多い。診断することを無理に急がなくても、困っていることの具体や本人の認知・行動特性を一つ、二つと明確にするに従い、援助の方法も工夫することが可能になっていく。現実の十分な分析ができないままに診断を焦っても、援助に繋がらないばかりか家族に心理的負担をかける可能性が高いことを念頭に置いておく必要がある。

2016年2月10日水曜日

Help!

 友人の小児科医は若い頃に岩国の大病院に勤務していたことがある。その友人がよく話してくれたことがある。彼が夜間の救急外来を担当しているときの話だ。友人は小児科医なので、子供の病気や怪我の治療をする。子供とはいえ、小学生くらいになるとかなり痛い処置でもぐっと我慢していることが多い。さて、岩国には米軍基地がある。そのため救急外来では米軍兵が治療を受けていることが多かったそうだ。友人が言うには、米軍兵は軒並み痛みを率直に表現するらしい。怪我の痛み、あるいは処置の痛みに対して、大きなジェスチャーとともに大声で叫ぶ人が圧倒的に多かったそうである。か細い日本人の子供が痛みに耐えている横で屈強の米軍兵士が大きな声を出して痛がっている姿を想像すると、申し訳ないが笑ってしまう。
 しかしここで、日本人は子供の頃から忍耐心を持っている素晴らしい国民だという話をしたいわけではない。最近、この逸話のことを考えることが多いのだ。どうも解せないのである。屈強の米軍兵でさえ大声で痛みを訴えるのに、なぜ子供が我慢しているのだろう。岩国のことは知らないが、確かに自分の身の回りを見ても、子供達は結構我慢していることが多い気がする。幼い身で我慢することで、何か素晴らしいことが待っているのだろうか。なぜこの国の子供は我慢することを徹底的に刷り込まれているのだろうか。
 2、30年前であれば、「我慢強い日本人の子供」という話に僕自身が喜んでいたと思う。このことに疑問を感じ出したのは、自閉症の子供たちの診療を通じてである。自閉症の子供たちは、激しい感情爆発や他者への攻撃性が問題になることが多いのだが、意外に知られていないことで深刻な問題が他にある。それは、自分の気持ちを表明することが苦手であることがとても多いということである。心理的、身体的な苦痛があっても、それを言葉で表現しにくい傾向が、どの患者でも大なり小なり認められる。「嫌です。」「辛いです。」「困っています。」「助けてください。」といった言語表現を適切なタイミングで発することが、ほとんどの自閉症児は下手である。自分自身で客観的に認識できていないことさえ多そうである。苦しいことを発信できず、助けを求めることもできないまま、ある限界を超えると破綻をきたして感情的な爆発につながったり、引きこもったりしてしまう。したがって、如何に辛さを表現できるようにするか、困っていると表明できるように促せるか、助けを求めることができるように導けるか、ということが自閉症支援の重要なポイントの一つとなる。
 自分の気持ちや考えを表現することが苦手な人に、遠慮せずにどんどん気持ちを述べればいいのだよと説得してもあまり効果はない。積極的に表現させるためには、気持ちや願いを口にすることで何か良いことが起こることを繰り返し経験する必要がある。話した結果、願いが叶ったり苦しみから救われたりということを繰り返し経験することで、人は自分の気持ちや考えを口にしても良いことを確信し、積極的に話そうとする。少なくとも、願いが叶うかどうかは別にして、自分の気持ちや考えを表明したということ自体は温かく受け入れてもらう必要がある。もし、何かを言うたびに否定される経験を繰り返すと、自閉症児に限らず何も表現できなくなる。一種の学習性無力と言えるかもしれない。もともと表現することに難しさのある自閉症児は、簡単に躓いてしまう可能性が高い。
 ところが、多くの自閉症児の日常を見ていると、上手くいかないことが多い。色々な理由があると思うのだが、個人的に大きいと感じていることをここでは述べておく。それは、多くの場面で(家庭、幼稚園、保育園、小学校、etc.)発言内容に倫理的正しさが求められるということである。いわゆる「我儘な」主張や、誰かの悪口、不平、不満、愚痴、欲望、あるいは「死にたい」といった縁起でもないことなど、倫理的に正しくない発言をすると直ちに非難され否定されるのである。目の前にいる人を傷つけるような発言ならまだしも、とりあえず誰も傷つかない状況での表現であっても直ちに否定されてしまう。これでは率直に気持ちを表明する力が伸びることはない。何もその意見に賛成しろとは言わない。だが、とりあえず「ああ、君はそう思うんだね」と受け止め、内容はともかく話してくれたことについては評価して欲しいのである。その上で、実現できないことやすべきではないことは、そのように説明すれば良い。しかし、我が国の世間は人の発言に対して厳しい。子供であっても「正しくない」発言は否定される。常に世間に受け入れられる発言のみをするように、耐え忍ぶことが美徳とみなされているようだ。
 こういった傾向が影響を与えるのは自閉症児だけではないと、僕は考えている。冒頭に記した痛みを素直に表現できない子供達も、発言において我慢することばかりを要求され続けた結果ではないだろうか。別の例を挙げる。現在、僕は大学で教鞭をとっている。今の学生達は僕が大学生だった頃の学生達よりも穏やかで明るく礼儀正しい。しかし、何についても自分の考えを率直に口にできる人は少ない。何かを質問された時にはいつも「正解」が存在するという前提を持ち、その「正解」を探しているように見えることが多い。相手から反論されることをなんとか避ける様子が見て取れる。こういった大学生の様子も、救急室でひたすら痛みを我慢する子供も、必要な助けを求めることがなかなか上手くならない自閉症児達も、問題の根っこは共通しているのではないかという気がする。

2016年1月17日日曜日

大人の矜持

 海街diary第7巻が出た。最初の4巻か5巻は大人買いしたので、一気に楽しめた。そこまで読むと当然次が読みたくなる。しかし、第1巻が2007年に刊行されて以来、1年か2年に1冊しか出てこない。なんと待ち遠しいことか。第6巻から1年半を置いてめでたく第7巻が出たわけである。今回も一気に読んで、ああ面白かったと終わるところなのだが、妙に印象に残った場面がある。それは、大船の大叔母さんが遠い地にある高校に進学することを決めたすずに、「...困ったことがあった時はちゃんと誰か大人に話すこと...(略)...遠慮することはないわ 大人は子供を守るものなの...」と話す場面である。僕がこの場面に注目したのには伏線がある。第1巻には、すずの父親の葬式の場面がある。頼りない義母が喪主の挨拶を中学生のすずにさせようとした時、初めて出会った異母姉である幸がそれを止める。「これは大人の仕事です!」「大人のするべきことを子供に肩がわりさせてはいけないと思います」と幸は言うのである。第1巻のこの場面が強く印象に残っていたため、大船の大叔母さんの言葉にも注目したのだと思う。
 子供が大人になる過程で親や教師から散々聞かされる2種類の言葉ある。「まだ子供なのだから...」と「もう子供じゃないのだから...」。一体どっちなんだと悪態をつきながら、それぞれの子供はそれぞれのやり方で大人の介入に対応させられる羽目になる。まあ、子供を大人と対等に扱える訳がないし、といって成長を促す必要もあるので、子供に対して色々言を弄することにもそれなりに理由があるかもしれない。
 大人の子供に対する姿勢は大雑把に分けると2つの軸で理解できるのではないか、という気がする。一つはどう行動するかの判断を子供に任せる度合いが強いか弱いかである。もう一つは子供の行動の結果について責任を取ろうとするかどうかである。もちろん、いずれの軸も二者択一ではなく、個人個人で様々な程度に該当するのだろう。
 僕自身が良いと思うのは(実行できているという意味ではない)、子供自身に判断を委ねる割合が大きく、子供の行動の結果については自ら責任を取る大人である。僕自身を含めて、大人はともすれば先回りして細かく口を出し、子供が失敗しないように、問題を起こさないようにと誘導しがちである。しかしそういう対応を続けていると、子供達が何か有意義なことをすることよりも失敗をしないことを第一の目標としてしまいそうである。できるだけ子供に責任ある役割を任せ、何か上手くいかないことがあったときだけ大人が援助する。あらかじめどのような問題が起こり得るか予測し、ひどい失敗をしないようにだけお膳立てをしておく。残念ながら大きな問題が生じれば、そこは黙って大人が尻拭いする。そのようにやせ我慢するのが大人の矜持ってものではないかと思うのである。
 冒頭に挙げた海街daiaryだが、大人と子供の役割を明確に区別している。といって、登場する大人たちがすずの行動に細かく口を出している訳ではない。それどころか、日々の生活の中ではほとんどのことを本人に任せている。しかし、滅多にはないもののここぞという状況で、責任をとるのは大人だと明確に宣言するのである。そこに僕は格好良さを感じたらしい。

2015年12月27日日曜日

聞き取れないことに関するあれこれ

 僕は幾分耳が悪い。以前にも書いたことがあるが、語音を正確に聞き取りにくいのである。小さい音でも聞こえるのだが、/ba/と/da/とか/bu/と/fu/が聞き分けられなかったりする。特に口の中にものを入れて喋ったり、周りがザワザワしている時に喋ったりされると何を言っているのか分からないことが多い。聞き取れないままだと困るので、聞きなおす。以前は「ハアッ!?」、「エェ!?」とか、強い調子で聞き直していたのだが、最近は出来るだけ「聞き取れなかったので、もう一度言って」「今、なんとおっしゃいましたか」などと丁寧に言うようにしている。で、つくづく思うのだが、聞こえの悪い人に対して世間の態度は必ずしも親切ではない。「もういい」と言い放ってそっぽを向く人はさすがに多くないが、黙り込む人は結構いる。言い直してくれてもより明瞭に話そうと(声を大きくしたり、口を大きく開けて明瞭な発音にしたり)務めてくれる人は少ない。モゴモゴッと言い、聞きなおすともう一度モゴモゴッと言って終わり。はっきり話すということは、そんなに面倒なことなのだろうか。
 不明瞭な話し方といえば、人は自分の名前を名乗る時にとりわけ不明瞭な物言いになるような気がする。学会会場で演者に質問する人は最初に名乗ることが礼儀なのだが、所属や名前を聞き取れることがほとんどない。音響設備が粗末なことが一因となっていることもあるのだが、その後の質問内容は聞き取れるので、同じように喋ってくれれば聞き取れるはずである。自分の耳が悪いせいかと思い、同僚に「最初名乗る部分がほとんど分からないんだけど」と言うと、その同僚も「僕にも分からん」と言っていたので、やはり人は自己紹介をする時に不明瞭になりがちなのかもしれない。
 僕は自分の発音がモゴモゴと不明瞭であることを自覚しているし、学生からの希望もあって、講義の時にマイクを使う。当然、学生に意見や質問を述べてもらう時にもマイクを渡す。面白い現象に気がついたのだが、学生は自分がマイクを使うことを好まない。こちらが注意しないと意図的かどうかは知らないがマイクを持った手を下げて、マイクなしに話そうとする人が多い。特に顕著な現象として、自分の名前を名乗る時にマイクを使わない人が圧倒的に多い。
 どうも世間の人ははっきりと名乗り、はっきりと自分の声を届けることに積極的ではないようだ。不思議な気がする。せっかく話すのであれば、自分が誰かを正確に認識して欲しいし、自分が話す内容をきちんと理解して欲しいのではないかと思うのだが。少なくとも、僕はそうだ。しかし、そう思わない人が少なからず存在するようである。
 明瞭な話し方をしないということに関連して、別のことも書いておく。話の内容についてだ。世間には話す内容が明確でない人がかなり多い。結論をはっきり述べなかったり、いわゆるこそあど言葉つまり指示代名詞を多用したり、「〜みたいな」「〜な感じ」という表現を使ったり、結局何を主張しようとしているのか明確ではない物言いをする人がとても多い。発声が明瞭でないことと何か関係があるのだろうか。僕は外国の状況をあまり知らないが、少なくとも日本の社会では不明瞭であることが良しとされているような気がして、思考が単純な僕は毎日モヤモヤとしている。

2015年12月5日土曜日

肥大した診断学

昔話をする。35、6年前、僕は医学部の学生だった。その頃は、1960年代から70年台にかけて吹き荒れた学生運動もすっかりエネルギーを失っていた。ただ、名残はまだ残っており、誰も聞いていないのにヘルメットをかぶって演説をしている学生がいたり、講義室の机の上にゴミ箱の肥やしとなるだけのビラが配られたりしていた。ある日、講義室に入り机の上にあるビラを何気なく見ると、「肥大した診断学を粉砕せよ!人民のための医療を!」といった意味合いのことが書いてあった(昔のことなので正確ではない)。僕は学生運動には全く興味がない三無主義(なんと懐かしい響き!)の典型みたいな学生だったのだが、なんとなくその「肥大した診断学」というフレーズが印象に残った。
 当時はまだ様々な病気について本格的に学び出す前であった。「内科診断学」という講義があったのだが、患者を診察し所見をとる方法を解説するものだ。かなり地味で細かい知識を詰め込まないといけない講義で、まだ具体的な病気のことをほとんど知らない身としてはかなりうんざりさせられるものであった。また、社会的に「検査漬け」という言葉が医療を批判する定番のフレーズとして口にされることが多かったと思う。肥大した診断学云々の意味はおそらく、延々と診断のために手間と時間を費やし患者の負担を増やすことよりも、早く患者の苦しみや痛みを軽減することを重視せよ、と意識改革を迫ったものだったのだろう。そして、内科診断学に辟易し、検査漬け批判の声を耳にしていた僕の心に引っかかるものがあったのだと思う。
 医師になってしばらくしてから、ごく単純なことが分かった。多少なりとも真面目に診療に取り組んだ医師の多くは同意してくれるのではないかと思うのだが、「診断は重要だ」ということである。診断するということは、単に症状や検査所見の集積に名前を付けるということではない。診断は見かけ上の症状に加えて様々な情報を内包する。例えば、なぜこの様な問題が生じているのかという原因や発生機序に関する情報をなにがしか教えてくれる。さらに、その状態が持続すると患者本人が今後どういう問題に直面し、どういうことに苦痛を感じるようになるかということを示していることもある。また、多くの先人が築いた有効な治療法のリストが示されるかもしれないし、残念ながら現時点では治療法がないことが示されるかもしれない。だからこそ、熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤というような単純な対応よりもはるかにきめ細かく合理的な治療的対応が可能となるのである。つまり、より精密な診断はより適切な治療的対応に結びつくのだ。時には診断にかける手間暇に比してその後可能な治療的対応が乏しすぎることもある。一見無駄に診断作業ばかりにかまけているように見えるかもしれない。それでも診断を精緻化することにより治療的対応が向上する可能性が高まるのだ。
 診断を精緻化することは、患者への対応を改善することにつながる。医学的診断は患者にとって役に立つからなされるものなのである。診断を研ぎ澄ますことは、個人レベルにおいてはその患者の治療的対応を向上させる可能性を増すし、診断技術の進歩と診断概念の整理を軸にして医療全体も発展してきたのではないかと思う。そう考えると、「肥大した診断学」なる発想は、かなり視野の狭いものの見方を反映していると思う。診断学は決して不必要なまでに肥大しているわけではないのである。
 さて、以上を前提に考えるとき、発達障害を伴う子供達のサポートにおいて重大な問題がある。それは、発達障害では診断する人と治療・支援する人が別々という状態にあるということだ。完全に別個というわけではないが、かなりの部分が重なっていない。具体的に述べると、評価・診断は通常医療機関である。しかし、発達障害を伴う子供達の支援に占める医療機関の役割は圧倒的に小さいのである。就学前であれば医療機関内にある療育施設の関与もあるが、就学後に医療機関ができることは時折本人または家族に助言することと、限られた問題に対してのみ投薬することに限られる。そして、子供達の支援の役割を職業的に担うことになる人達のうち圧倒的多数を占めるのが保育者や教師である。
 この問題については以前にも書いたことがあるが、診断する人と治療・支援する人が別々だと支援者は診断によって得られた情報を十二分に活用できない。実際、僕が見聞きしている範囲では、診断名というラベルだけが活用されているのに近い印象を受けることが少なくない。これでは診断の一人歩きである。こういう状態では、まさしく「診断学の肥大化」になりそうである。ところが現実にはそうでもない。十二分に活用される当てがない状態では、診断も内容の乏しいものになりがちで、肥大化どころかやせ細っていくような気がする。評価者と支援者をできるだけ一致させること、あるいは評価者と支援者の連携を密にし双方向性のコミュニケーションが厚くなることが、発達障害を伴う人々への支援において重要な課題の一つではないかと思う。

2015年11月21日土曜日

教育に成果主義はそぐわない、で良いのか?ーー「学力の経済学」を読んで

 小児医療に携わると、特に発達障害を専門に診療していると、教員と知り合ったり、教員の仕事の様子を聞いたりすることが多い。そして率直に思うのだが、教員とは大変な仕事である。現実的な労働量も多いし、心理的な負担も多い。それにもかかわらず多くの教員は真面目に頑張っている。多くの教員が日々身をすり減らして努力しているのだから、その成果が最大限に発揮されるように教育政策を推進して欲しい。しかし現実を見ると、ありとあらゆる人が思い思いに教育を語り、それを受けて単なる思いつきかしらと疑うような教育政策の方向性が決められてきた。これに関連したことは、以前「教師の専門性」という文章にも書いたことがある。
 最近、教育経済学者の中室牧子さんが著した「学力の経済学」という本を読んだ。まさに日本では誰もが教育に関して一家言あり「一億総評論家状態」とも言える状況であるという話から始まるこの書籍は、非常にすっきりと筋の通った、しかし分かりやすく読める本であった。日本の教育政策に欠けているものに気づかせるだけではなく、日本社会全体に根深く存在する非合理的な考え方への批判にもなっている。読み捨てるにはもったいないので、本の要点や考えたことを書きとめることにした。
 まず、内容を簡単にまとめておく。本書は第1章から第5章、および補論からなっている。第1章で、この本全体を貫いている教育経済学での考え方を簡明に解説している。続く第2章から第5章まではそれぞれ、誰でもが答えを知りたい質問を主たるテーマに掲げ、今まで世界の教育研究ではどのようなことが明らかになってきたのかを解説している。

【第1章 他人の”成功体験”は我が子にも活かせるのか?】
 2001年にアメリカで成立した「落ちこぼれ防止法」には「科学的な根拠に基づく」というフレーズが111回用いられているそうだ。「科学的根拠」すなわちエビデンスは数字で示されるものである。科学的に因果関係を明らかにするためには、一人か二人の成功体験や「専門家」の主観的意見を参考にするのではなく、多数例について統計的に検証する必要がある。なぜそうなのかということを分かりやすく説明している。この本の第2章以降に記述される内容のほとんどは、実験や実験に近い状況で集めたデータをもとに、統計学的に確認されたエビデンスである。

【第2章 子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?】
 ご褒美を使うことを嫌う人が多いが、実はご褒美は効果的なのである。本を読む、宿題をする、学校に出席する、など勉強する個々の活動に対してご褒美を与えると学力が向上する。ただし、テストで良い点を取ればご褒美をあげる、というように勉強の結果にご褒美を用意しても学力は改善しない。ご褒美にお金を用いることにはさらに抵抗感を抱く人は多いと思う。しかし、ご褒美としてお金を与えられた子供はそうでない子供より堅実なお金の使い方をしていたことを示した研究も紹介されている。
 「褒めて育てろ」とは日本でもよく口にされるが、褒めることの効果はどうなのだろう。ご褒美とは反対に褒めることは良いことだと考える人は結構多いと思う。実は、「君はやればできる」という様な自尊心を高めるメッセージや「あなたは頭が良いのね」と、子供らの元々の能力を賞賛するメッセージを子供に与えるとむしろ成績が悪くなることが示されている。しかも、能力を褒められた子供は良い点が取れなかったときに成績について嘘をつく傾向が高く、「自分は才能がないからだ」と考える傾向が高い。ただし、褒めることはすべて悪いわけではない。「あなたはよく頑張ったわね」と努力を賞賛すると成績は上がりやすい。ご褒美にしろ褒め方にしろ、勉強する一つ一つの具体的過程を促していくことが重要ということなのだろう。応用行動分析を用いた指導法にも通じる話である。
 クラスメートからの影響についても述べられている。クラスの学力は個人の学力に影響する。クラスの平均点が上がればその影響で個人の学力も上がるのである。しかし、成績優秀者を多数編入すれば効果的かというと、そうではない。成績優秀者の影響はもともと成績の良い生徒に限られる。中間層や成績の悪い層には影響しない。それどころか成績の悪い層に悪影響を及ぼすこともある。つまり、同じ程度の学力の子供達がお互いに影響を及ぼす時は正の影響になりやすい。このことは習熟度別学級の効果をみた研究で確認された。習熟度別学級は全ての学力層の子供達において学力を向上させることが示されている。しかも、特にもともと学力の低い子供達において大きな学力の向上がみられる。ただし、学齢が低い段階で習熟度別学級を導入すると学力の格差が広がりやすいという指摘もある。
 一定額の教育投資をした時、子供の将来の収入がどれくらい高くなるかについても説明されている。教育の収益率である。年齢別にみた時に収益率が最も高いのは就学前であり、その後急速に低下する。就学前教育の効果の例としてして取り上げられている「ペリー幼稚園プログラム」について、少し詳しく記述しておこう。
 このプログラムでは、低所得のアフリカ系米国人の3~4歳の子供たちに質の高い就学前教育を提供し、その効果を40年間にわたり調査した。質の高い就学前教育のポイントは以下の通りである。
・幼稚園の先生は、修士号以上の学位を持つ児童心理学等の専門家に限定
・子供6人を先生一人が担当
・午前中に約2.5時間の読み書きや歌のレッスンを週に5日、2年間受講
・1週間につき1.5時間の家庭訪問
子供達に対して非常に濃厚な指導を行うだけではなく、家庭訪問によってどのように子供と遊ぶかなどのモデルを親に示し、家庭資源の乏しさにも対処していることが特徴である。このプログラムへの参加者を非参加者と比較した結果、6歳時点でのIQは高く、19歳時点での高校卒業率が高く、27歳時点での持ち家率が高く、40歳時点での所得が高く、40歳時点での逮捕率が低い。さらに、このプログラムをもとに推計された社会収益率は7~10%にのぼる。これは4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されることを示しているそうである。

【第3章 勉強は本当にそんなに大切なのか?】
 上記のペリー幼稚園プログラムでは、意外な事実も判明した。このプログラムの成果は必ずしも学力向上の結果ではないのだ。確かに小学校入学後のIQや学力テストの成績は上昇した。しかし、学力やIQへの効果は短期的であり、8歳頃には効果は明確ではなくなっている。ではなぜ学歴・年収・雇用が長期にわたり改善したのだろうか。ペリー幼稚園プログラムによって改善したのは「忍耐力がある」とか、「社会性がある」とか、「意欲的である」といった、人間の気質や性格的な特徴、すなわち非認知スキルと呼ばれるものであったことが判明している。大学生が大学をきちんと卒業できるかどうかについて調べた研究でも、入学時の学力自体よりも様々な非認知スキルが影響していることが示唆されている。
 著者は、過去の実験研究の結果を元に特に重要な非認知スキルとして自制心とやり抜く力をあげている。そして、日本でも中・高校生の時に培われた勤勉性、協調性、リーダーシップなどの非認知能力が学歴、雇用、年収に影響することが明らかにされている。

【第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?】
 この章ではとりわけ著者の経済学者としての視野の広さが光る。まず、米国で1985年から89年にかけて行われた有名なスタープロジェクトの話から始まる。この実験では幼稚園・小学校の生徒約6500人を1学級当たり生徒数が13~17人の少人数学級と22~25人の学級に振り分け比較している。その結果、幼稚園から中学校2年性まで少人数学級の生徒のほうが学力が高く、その効果は貧困世帯の子供で特に大きかった。
 今の日本でも1学級の人数について財務省と文部科学省が角突き合わせているが、このスタープロジェクトの話を聞けば、「ほーら、やはり少人数学級がいいに決まっている。」と言いたくなる人は多いと思う。かくいう僕もそうである。しかし、著者は少人数学級の導入には慎重であるべきと主張する。なぜなら費用対効果が小さいからである。実は日本でも学級規模の学力への影響を客観的に検討した研究がある。その研究では、小学校の国語は学級規模が1人小さくなると偏差値が0.1上昇する効果が確認されたが、国語以外の教科や中学生には効果が認められなかった。スタープロジェクトのような大掛かりな研究ではないので、調査し直せば結果は変わるかもしれない。しかし、仮に少人数学級にいくばくかの効果があるとしても、非常にささやかなものである可能性が高い。わずかな効果を求めるために教員を大幅に増やすということを、財政赤字の日本で進めると非常に危険だというわけである。それよりも、はるかに効果が高い習熟度別学級を取り入れれば、人件費をさほど増やさずに明確な効果を上げることができる。

【第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?】
 教員の質をどう評価するかといえば日本では抽象的な議論が展開されそうだが、諸外国の研究ではやはり子供たちの学力の変化が注目される。教員の質を評価する指標として信頼性の高いものに、「付加価値」というものがある。1年間で標準テスト得点が何点上昇したか(あるいは下降したか)を調べ、この学力の変化を付加価値と呼ぶ。付加価値の高い教員は、ただ単に子供の学力を上昇させているということにとどまらず、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めていることが分かっている。
 こういった研究成果をもとに、著者は、少人数学級によって教員の数を増加させることよりも、教員の質を高める政策の方が、教育効果や経済効果が高いのではないかと述べている。では、どうすれば教員の質を高められるのか。誰でも考えつきそうなのは、生徒の成績が上がれば給与やボーナスを上げるという方法である。実は、こういう優秀な教師への報酬を増やす方法で教育が改善されるという証拠はあまりないらしい。また、教員研修も考えつきやすい方法だが、研修の効果に対しては否定的なデータが既に示されている。文部科学省も各自治体の教育委員会も、教員の質を上げるには研修という発想が強いが、研修の効果を客観的に検証してほしいものである。
 ここで著者は、経済学者にとっては常識的であるが、我々一般人(とりわけ教員)には衝撃的な考えを紹介している。より優秀な人が教員を目指せるように参入障壁を取り除くのである。つまりどういうことかといえば、教員免許を廃止するのである。おそらくこんな話を聞けば文部科学省の役人と教員は憤慨するだろう。しかし、このことについてもアメリカでは客観的な研究がなされている。
 ティーチ・フォー・アメリカという非営利団体があり、一流大学の卒業生を卒業後2年間低学力に悩む公立学校に教員として派遣する活動を行っている。ティーチ・フォー・アメリカから派遣される教員の多くは教員免許を持っていない。このことを利用して教員免許保有の有無の影響が検証されている。結果、免許を保有しないティーチ・フォー・アメリカが派遣した教員に教えられた生徒は免許を保有する教員に教えられた生徒よりも成績が良いか変わらないという結果であった。このことは複数の研究で示されている。ハーバード大学ケイン教授は「教員免許を持っているかどうかが子供の学力に与える影響は小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい。」と述べており、考えさせられる。

 この本の最後は【補論:なぜ教育に実験が必要なのか】で締めくくられる。ここでは、ランダム化比較試験を中心に実験研究とは具体的にどういうことをし、どういう意義があるかを解説している。
 教育研究が提出した様々なエビデンスを紹介する合間に、日本の行政の動き方や考え方に対する鋭い批判が書かれている。まず、学問的に妥当な客観的なデータ収集や分析がほとんどなされていない。全国学力・学習状況調査のようにデータはあっても公開していないものも多い。日本の行政はデータを外部に公開することを避け、自分達だけで分析しようとしていることが多いらしい。自分の推進した政策の結果を誰にも見せず自分で分析していれば、失敗や問題点を認めないままに終わる可能性が高い。だから著者は、政策評価は第三者機関が中立性を担保しつつ行うのが望ましいと考えている。ちなみに、南アフリカは労働力調査や家計調査などの政府統計の個票データをインターネット上で世界中すべての人に公開しているそうだ。こうすることによって世界中の優秀なエコノミストがこぞって分析してくれる。そのおかげで、ほとんどコストをかけずに新たな政策を計画しやすくなっているという。実に合理的である。
 客観的根拠のない政策を推進する危険性とともに著者が指摘する日本の政策の問題は手段が目的化することである。例えば、こういうことが記述されている。
 海外の政策評価においては、まず『学力の上昇』のように、教育政策の目的を明確にし、それを実現するためにどういった政策手段の費用対効果が高いのか、という検証を行います。一方、日本では、『2020年までにすべての小中学校の生徒1人に1台のタブレット端末を配布する』という政策目標が掲げられていることからも明らかなように、本来、政策目的ではなく『手段』であるはずのものが政策目的化してしまっています。
 確かに国の政策を見ても、個人的に教育関係者と話していても、「何のために」という本来の目的が意識されていないことがとても多い。いや、正確には少し違う。遠大で抽象的な目的は意識されていることは多い。「すべての子供が生き生きと暮らせるように」とか「グローバル人材を育てる」といったものである。短・中期的に具体的な目標を設定することができないのだろうと思う。また、予算が足りない時の節約の仕方にも目的意識がかけやすい。そのため一律に予算を削減しようとする傾向がある。
 著者の批判は日本の教育の平等主義にも向かう。新たに何らかの教育政策を講じる時、その効果を客観的に評価しようと思えば、その政策を適用した一群と適用しなかった一群に分けて比較検討する必要がある。しかし、そういうことをすると新しい方法を適用された子供達と適用されなかった子供達ができ不公平であるという強い批判が生じる。一見もっともだが、比較検討ができなければ教育政策の真の有効性は分からないままである。もし本当は効果がなかったりむしろ悪影響があればどうなるか。その時の教育政策の舵取りが間違っていた場合、被害が世代全体に及んでしまう。つまり、世代内では平等であっても世代間では不平等という事態が生じる。
 調査段階の話だけではなく、すでに有効であることが分かっている政策を推進する際にも、平等主義が有効性を低下させたりコストパフォーマンスを悪化させたりする。例えば、上述のように少人数学級の効果は特に貧困世帯の子どもで大きかった。そうであれば、就学援助利用率の高い学校に重点的に少人数学級を導入すれば政策の有効性やコストパフォーマンスが高まると中室さんは指摘する。
 平等主義に関連して紹介されている神戸大学の伊藤准教授らの研究が面白い。この研究が明らかにしたところでは、学校で平等を重視した教育、例えば手をつないでゴールしましょうという方針の運動会など、の影響を受けた人は他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに欠ける大人になるというのである。何故そうなるかということについて、次のように説明されている。平等主義的な教育は人間が生まれながらに持つ能力には差がないという考え方が基礎となっているため、努力次第で全員が良い成績を取れるという考えが強くなる。その結果、成功しないのは努力をせずに怠けているからだと考えがちになる。つまり、世の中には個人の努力ではどうにもならない能力や環境の差が存在するということに目が向かなくなるというのである。
 実に面白い本であった。おそらく中室さんにこの本を書かせた原動力は怒りではないかと僕は想像している。多くの人が教育に一家言を持ち様々な主張がなされているにもかかわらず、客観的な根拠に基づく論理的な議論が存在しない日本の現状に対する怒りである。そして、それ以前に根拠を形成するためのデータがほとんどない現状に対する怒りである。しかし、そういう怒りがあからさまに語られるわけではない。著者は極めてクールに、根拠に基づいた教育政策を推進するためには何が必要かということを説いていく。それも分かりやすい文章で。
 実はこの本は売れないだろうと思っていた。教育の成果を客観的に評価するとか、データ重視とかの考え方は日本に暮らす多くの人には抵抗があるのではないかと思ったからだ。僕は教員や教育行政に関わる人など、教育関係者と接することが多い。その多くは教育に成果主義は適さないと言う。社会一般にもそういう意見は多い気がする。しかしエビデンスを元に教育政策を立てるということは、成果を問うということである。この本に書かれているように、教育や教員の良し悪しを子供の学力や将来の収入で評価することに抵抗感を抱く人は多いのではないだろうか。しかし、一見身も蓋もない学力や収入を指標に検討する中で、非認知スキルの重要性が確認され、その評価法も開発されている。日本で多くの人が実態がはっきりしないままに「生きる力」や「人間力」のような抽象的な言葉を振り回している間に、エビデンスに基づいた研究を推進している国ではより具体的に目指すべきものの定義が進んでいるのである。可能なかぎり学力が保障され、学校からドロップアウトすることがなく、収入が安定し、犯罪に手を染めずに暮らしていることがそれだけで幸せの証明にはならないが、多くの人にとっての幸せの前提条件になることは確かであろう。成果主義が悪いのではない。適切な成果の指標を設定し、適切な評価法を用い、適切な比較をするるということをしないことが問題を生んでいるのだと思う。単純に全国学力・学習状況調査の平均点を比較するといった粗末で荒っぽいことをすれば、適切な教育の評価ができないのは当たり前のことだ。
 改めて奥付を見ると、2015年6月18日に出版されたばかりなのに2015年8月1日には第6刷になっている。僕の予想はまるで外れていた。なかなかよく売れているのである。こういう書籍が執筆され、そして売れているということは、結構日本も良い方向に変化しているのかなと、少し明るい気分になる。