2015年12月5日土曜日

肥大した診断学

昔話をする。35、6年前、僕は医学部の学生だった。その頃は、1960年代から70年台にかけて吹き荒れた学生運動もすっかりエネルギーを失っていた。ただ、名残はまだ残っており、誰も聞いていないのにヘルメットをかぶって演説をしている学生がいたり、講義室の机の上にゴミ箱の肥やしとなるだけのビラが配られたりしていた。ある日、講義室に入り机の上にあるビラを何気なく見ると、「肥大した診断学を粉砕せよ!人民のための医療を!」といった意味合いのことが書いてあった(昔のことなので正確ではない)。僕は学生運動には全く興味がない三無主義(なんと懐かしい響き!)の典型みたいな学生だったのだが、なんとなくその「肥大した診断学」というフレーズが印象に残った。
 当時はまだ様々な病気について本格的に学び出す前であった。「内科診断学」という講義があったのだが、患者を診察し所見をとる方法を解説するものだ。かなり地味で細かい知識を詰め込まないといけない講義で、まだ具体的な病気のことをほとんど知らない身としてはかなりうんざりさせられるものであった。また、社会的に「検査漬け」という言葉が医療を批判する定番のフレーズとして口にされることが多かったと思う。肥大した診断学云々の意味はおそらく、延々と診断のために手間と時間を費やし患者の負担を増やすことよりも、早く患者の苦しみや痛みを軽減することを重視せよ、と意識改革を迫ったものだったのだろう。そして、内科診断学に辟易し、検査漬け批判の声を耳にしていた僕の心に引っかかるものがあったのだと思う。
 医師になってしばらくしてから、ごく単純なことが分かった。多少なりとも真面目に診療に取り組んだ医師の多くは同意してくれるのではないかと思うのだが、「診断は重要だ」ということである。診断するということは、単に症状や検査所見の集積に名前を付けるということではない。診断は見かけ上の症状に加えて様々な情報を内包する。例えば、なぜこの様な問題が生じているのかという原因や発生機序に関する情報をなにがしか教えてくれる。さらに、その状態が持続すると患者本人が今後どういう問題に直面し、どういうことに苦痛を感じるようになるかということを示していることもある。また、多くの先人が築いた有効な治療法のリストが示されるかもしれないし、残念ながら現時点では治療法がないことが示されるかもしれない。だからこそ、熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤というような単純な対応よりもはるかにきめ細かく合理的な治療的対応が可能となるのである。つまり、より精密な診断はより適切な治療的対応に結びつくのだ。時には診断にかける手間暇に比してその後可能な治療的対応が乏しすぎることもある。一見無駄に診断作業ばかりにかまけているように見えるかもしれない。それでも診断を精緻化することにより治療的対応が向上する可能性が高まるのだ。
 診断を精緻化することは、患者への対応を改善することにつながる。医学的診断は患者にとって役に立つからなされるものなのである。診断を研ぎ澄ますことは、個人レベルにおいてはその患者の治療的対応を向上させる可能性を増すし、診断技術の進歩と診断概念の整理を軸にして医療全体も発展してきたのではないかと思う。そう考えると、「肥大した診断学」なる発想は、かなり視野の狭いものの見方を反映していると思う。診断学は決して不必要なまでに肥大しているわけではないのである。
 さて、以上を前提に考えるとき、発達障害を伴う子供達のサポートにおいて重大な問題がある。それは、発達障害では診断する人と治療・支援する人が別々という状態にあるということだ。完全に別個というわけではないが、かなりの部分が重なっていない。具体的に述べると、評価・診断は通常医療機関である。しかし、発達障害を伴う子供達の支援に占める医療機関の役割は圧倒的に小さいのである。就学前であれば医療機関内にある療育施設の関与もあるが、就学後に医療機関ができることは時折本人または家族に助言することと、限られた問題に対してのみ投薬することに限られる。そして、子供達の支援の役割を職業的に担うことになる人達のうち圧倒的多数を占めるのが保育者や教師である。
 この問題については以前にも書いたことがあるが、診断する人と治療・支援する人が別々だと支援者は診断によって得られた情報を十二分に活用できない。実際、僕が見聞きしている範囲では、診断名というラベルだけが活用されているのに近い印象を受けることが少なくない。これでは診断の一人歩きである。こういう状態では、まさしく「診断学の肥大化」になりそうである。ところが現実にはそうでもない。十二分に活用される当てがない状態では、診断も内容の乏しいものになりがちで、肥大化どころかやせ細っていくような気がする。評価者と支援者をできるだけ一致させること、あるいは評価者と支援者の連携を密にし双方向性のコミュニケーションが厚くなることが、発達障害を伴う人々への支援において重要な課題の一つではないかと思う。

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