この文章は、公開している下記の文章の加筆した1項目である。
「発達障害を伴う子供を支援するために
—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」
https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing
2022年3月13日日曜日
知能の高い子ども
2021年11月15日月曜日
発達障害病歴聴取の手引き
https://drive.google.com/file/d/1xGDFiQDWk5664D7g-yOM01rSoXiCp-_m/view?usp=sharing
「発達障害病歴聴取の手引き」と称しているが、発達障害という言葉よりフォーカスは狭い。DSM-5の自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症の診断基準に沿った聞き取りをするときにどのようなことを意識すればよいかをまとめた文章である。
僕はてんかん診療を中心として小児神経学の臨床については結構ブランドものと言ってもよさそうな環境でトレーニングを受けた。しかし、発達障害の臨床に関して系統的なトレーニングを受けた経験が全くない。いろいろな経緯があって発達障害専門外来を引き受けることになったのだが、半泣きの状態で書籍と論文だけを師匠としながら細々と外来を続けてきた。そのような五里霧中でジタバタしながら作ってきた病歴聴取法をまとめたものがこの「発達障害病歴聴取の手引き」である。端的に言えば僕の自己流の塊である。
このようなものをなぜ公表するかといえば、この世には一流の臨床家によるトレーニングを受ける機会もないままに発達障害の診療をせざるを得ない状況に至った小児科医が大勢いるのではないかと考えたからである。診断基準なるものがあることは分かっているものの、その文面をどの程度に解釈すればよいのだろうかと悩んでいる小児科医にとって、絶対的な基準にはなり得なくても診療のヒントぐらいにはなるのではないだろうか。あくまで導入編である。実際に発達障害の診療を始め、結構面白いと感じた人はもっと専門的な書籍や論文に手を伸ばしてほしい。
児童精神医学の本格的な研修を受けている人が読んで得られるものはない。ただ、そのような人がひょっと気まぐれで読み、感想や批判を送ってくださると大変ありがたい。
2021年10月25日月曜日
就学の悩み
発達障害を伴う幼児の診療をしていると、毎年夏を過ぎる頃から子供の就学に際して通常級を選ぶか特別支援級を選ぶかで悩む親が増える。仮に特別支援学級を選ぶことに決めた後でも知的障害者対象学級を選ぶのか自閉症・情緒障害者対象学級を選ぶのかと迷う人は多い。ここでは、僕の狭い経験の範囲内で気づいた就学時のクラスの選択にまつわる問題を取り上げようと思う。
簡単に説明しておくと、通常学級と特別支援学級の明確な違いはその生徒数である。通常学級の標準人数は35人であるのに対して特別支援学級は8人である。そのため個々の子供のニーズに合わせたきめ細やかな指導をしやすくなる。特別支援学級はさまざまな障害に対応するためにいろいろな種類があるのだが、多くの学校に設置されている主なものは知的障害者対象の特別支援学級と自閉症・情緒障害者対象の特別支援学級の2種類である。両者の大きな違いは教科指導にある。知的障害者対象学級では各教科の目標や内容を下の学年のものや特別支援学校のものに替えることが原則である。言い換えれば、子供の理解力に合わせた独自のカリキュラムを組むことができる。これに対して自閉症・情緒障害者対象学級では原則としてその学年の通常級と同じ教科の指導をすることになる。つまり、教科指導に関する自由度が少ない。ただし、必要に応じて各教科の目標や内容を下の学年のものに替えることも一応認められている。
個々の子供をどのクラスに入学させるかは自治体の教育委員会に設置されている教育支援委員会(自治体によって名称が違うかもしれない)での審議によって決定される。審議の前提として本人・保護者の希望、幼稚園・保育所などの意見、学校の意見、必要に応じて医療や療育施設からの意見などが収集され、それに基づいて個々の子供の教育的ニーズを満たすために最も有効なクラスの選択がなされることになっている。
率直に考えると、どのような受け入れ体制が子供に合っているのか最も的確な判断ができるのは校内の状況を一番把握している入学先の学校ではないかと思う。入学予定校の校長・教頭や特別支援コーディネーターなどが子供の幼稚園、保育園、療育施設での日々の様子、担当指導者の意見、保護者の気持ち、もしあれば病院での評価結果などを集め、その情報に基づいて主体的に教育計画を立てることが最も良いのではないかと思う。しかし、僕の観測範囲内という条件がつくが、実際には入学予定校が第一責任者となって教育計画を立てる一環として学級選択を進めている自治体は見たことがない。多いのは教育委員会が中心となり話を進めていく形態である。もちろん保護者の希望、入学予定校の意見、在籍幼稚園・保育所の意見を集め参考にした上で取りまとめていく。自治体によっては入学予定校の意見を取り上げないところもある。教育委員会、保育所・幼稚園、保護者の3者の意見をもとに審議するのである。中には保護者の希望と幼保の意見のみに基づいて審議をする自治体もある。小学校での活動実態をよく知らない幼保の意見が学級選択に大きな影響を及ぼすのだから幼稚園、保育園の先生も大変だなあと思ってしまう。現状に即して教育計画を立てるのなら入学予定校のスタッフが中心になって話を進めるのが最も合理的だと思うが、なんで現状は違っているのかと首を捻る。病院で例えれば、小児科の患者の治療方針を他科が寄ってたかって決めているようなものである。小児科の患者の治療方針は小児科スタッフが中心になって計画する方がうまくいく。
クラスの選択を進める過程で僕が最も問題と感じていることは保護者の扱いである。僕は保護者に対して丁寧な説明をする自治体を見たことがない。どの自治体でも保護者に対して「どの学級を希望しますか?」とざっくりとした質問を投げかけるだけである。そのため多くの保護者は自分たちで責任を持って結論を出さないといけないと考え、冒頭に述べたように迷いに迷うことになる。しかし、学校で実際の教育指導に携わったこともない多くの保護者にとっては判断に必要な情報があまりにも不足している。
相談に来た保護者が子供の就学に際してどの学級を選べば良いのか悩んでいるときに、各学級の制度的な特徴を説明をした上で僕にはどの親にも伝えていることがある。それは、就学前に親が学級選択で迷うことや責任を背負い込むことは損だからやめた方が良いということである。何故なら、実際に入学した後に上手くいくかどうかを就学前に予測することは不可能だからである。生徒数の多寡や学習指導要領に沿った教育をするかどうかという要因は重要なことではある。しかし、それだけで入学後に建設的な学校生活が待っているかどうかは決まらない。担任のスキルの良し悪しや同じクラスの子供達との相性など、様々な偶然の要因で子供にとって良好な学校生活が実現するかどうかが違ってくる。選択したクラスが子供に合っているのかどうかは結局入学してみないと分からない。おそらく教育者にさえ確信を持った予測はできない。ましてや教師でも無い一般家庭の親にどのクラスが自分の子供に適しているのか判断できるはずがない。予測不可能な状況で決断させても保護者には酷である。
保護者がかなり確信を持って言えることは、子供に楽しく学校に通ってほしい、学べることを学んでほしい、自分に対する自信を深めてほしいという漠然とした願いだけではないだろうか。どのように子供を教育・指導するかと言う具体的方法を考えることは教師や学校などの教育側の仕事である。僕は保護者にこう勧めている。「学級選択で悩むことはやめにして、そのエネルギーを使って教育委員会や学校に質問すれば良いのですよ。それぞれのクラスを選択するとき予測できるあなたのお子さんにとってのメリットとデメリットは何ですか、結論として教育委員会や学校としてのおすすめは何ですかと、納得いくまで質問しまくれば良いのですよ」と。そして、拙い例え話を付け加えることが多い。「病気をして病院を受診したときに、医者が大した説明もせずにAの薬とBの薬と手術のどれがいいですか?と無邪気に聞いてきたら腹が立つでしょう。それぞれの治療法の利点欠点を説明し、医者としてはどれを進めるのかまで聞かないと決めようがないですよね。クラスの選択は教育の方法論なのだから、まず教育側が主体的に計画を立て、それを保護者が納得できるように説明するべきです。きちんと説明されて初めて保護者は納得して受け入れるかどうかを判断できますよね。」
2015年の学校教育法施行令の一部改正について文部科学省は就学先の決定に際しては市町村教育委員会が「本人・保護者に対し十分情報提供をしつつ、本人・保護者の意見を最大限尊重し」決定することが必要であると解説している。すなわち、単に保護者の意見を尊重すれば良いわけではない。保護者が自らの意見を持てるようにするための十分な情報提供が必要なのである。
2021年7月22日木曜日
面白いが一番やで
なぜこのような現象が生じるのか分からない。僕の勝手な想像だが、多少なりとも人目や社会的評価を気にし出した子供たちが日頃身の回りで人々が口にしやすい評価だけで表面的な価値観を形成してしまったのではないかと思う。これを和らげるためには一番になれないこと、負けること、失敗することの中にある価値を伝えることが重要なのではないかと思っている。負けることや失敗することで次の良い結果を積み増すことができるし、負けた人や失敗した人が必ずしも人から見下されないこと、それどころか振る舞い方によっては尊敬さえされることを説明する必要があるのではないかと思う。
ただ、我々の社会が忘れかけているもっと重要な価値があるのではないかという気がする。それは面白いと思うことにのめり込むことの尊さだ。人は面白いことには結果を気にすることなくのめり込むことができるのである。本来、発達障害、特に自閉症を伴う子供たちは勝ち負けや一番かどうかに全く関係のないことに没頭する達人が多い。世間が「好きなことを思いっきりできる人は格好良いよ」というサインをもっとしっかり出していれば一番病なんかにならなかったかもしれないなあと思ったりもする。まあ、好きなことばかりして生きていけるもんか。必要なことはきっちり身に付けさせないといけないと主張する人も多いだろう。
考えてみればこういうことは別に自閉症に限った話ではなく昔から多くの人が大事だと経験的に認識してきたことだ。「好きこそ物の上手なれ」というではないか。一周回って戻ってきた様な感じもする。身につけるべきことは身につけるべきである。取り組むべきことは取り組むべきである。世間ではこういう考え方の何と強いことか。本当は、何かを身に付けさせたい取り組ませたいと考える指導者はまずどうすれば本人がそのことに興味を持ちそれをしたくなるのかを考えないといけないのである。
歯を食いしばって頑張れ!などというよりも面白いことに打ち込めば良いんだよというメッセージが社会に満ち溢れると良いなと思う。スポーツ選手には「人々に勇気を与える」とか「子供たちに笑顔を届けたい」てなことではなく、「僕はこれが面白くて楽しくて好きやねん。だからやってきたんや」てなことを言って欲しい。
2021年7月18日日曜日
便利な概念
人々が発達障害という言葉を使いたくなる気持ちは分からなくはない。発達障害に含まれる診断概念は多数含まれるのだが、それぞれが分かりにくい。しかも同じ人が複数の診断に該当することが多い。発達障害と言ってしまえば何でも説明できそうで便利だ。
発達障害とHSPは似ているなあ。非常に様々な意味を内包し、平均的な社会では暮らしにくさや生きづらさを感じる人々を一つのカテゴリーにまとめることができる。厳密な定義はないので、何か一つ二つ当てはまる特徴があればどんな人でも全て一語で括ることができる。
名前が付くと人は安心できる。目前の現象を説明できそうな名前があれば、それに飛びつきたくなる気持ちは分からなくもない。しかし、厳密さを欠く名前で分類することでどんなメリットがあるのだろう。せいぜいその人は困っているというサインになるだけではないかな。
自閉スペクトラム症やADHDという具体的診断名でさえ結構漠然とした概念で支援に直結しない。支援に慣れない人は診断というモデルをその人の困っていることや苦しんでいることを理解するための拠り所にしていると思うが、おそらく支援の達人は診断名には頼っていない。
その人の行動の具体的特徴や困っている具体的な状況を観察し、それをもとに有効な支援方法を計画しているのではないかな。医療が必要な状況でも、精神や行動の問題に関してスキルの高い医師はそれほど診断名にとらわれていないのではないかと思う。
人をカテゴリーに分類するよりも、人それぞれの特徴や困っていることを率直に受け入れ認められるような社会が理想なんだろうけど、理解や気づきを助ける働きがカテゴリーにはあるからなあ。カテゴリーを利用しつつもカテゴリーに囚われない人間理解の構築。難しいところだ。
2020年8月31日月曜日
許される死の理由
10年か20年くらい前から気にかかっていたことが、この度のコロナ騒ぎで一層気になり出した。それは、許される死の理由が次第に狭まっているのではないかということである。本来死ぬ理由に許されるも許されないもない。死んでしまえばもう文句のつけようもない。そして、人は必ず死ぬのである。たまたまどういう死因で死ぬかは運次第、目くじら立てても仕方がないはずだ。もちろん、多くの人は死にたくないだろうし、多くの場合は死者の家族、親戚、友人などが悲しむだろう。それはそうとしても、死というものは本来的に人間がどうにかできるものではないものだと思う。強いて許されない理不尽な死があるとすれば、犯罪の犠牲になる、戦争の犠牲になる、自殺する、という極めて不自然な死だけではなかろうか。これとても、単なる感情論であり、どうしようもない経緯でたまたま死ぬに過ぎない。何を言いたいかというと、常に一定数の人間は死んでいるわけで有り、大概のことは「仕方がない」と思わなければいけないのではないか、ということである。
ところが、最近はあってはいけない死がどんどん広がっている。たとえ論理的に証明できなくても誰かの落ち度が疑われるような理由で人が死ぬことは許されない。それが、前代未聞の天災であってもあってはならない死という扱いがどんどん増え、「これは天災ではなく人災だ」と主張されたりもする。癌も今や撲滅すべき対象になっている。「少しでも助かる人を増やしましょう」ではない。「撲滅」である。新型コロナ感染症なんてそこそこの病気である。国の公衆衛生の観点からはそれなりの対策を立てるべき事案だということには異論はないが、一つの自治体で一桁の患者が出ることさえ防ぐべきだという目標を立てるような感染症ではない。仮に大流行してもほとんどの患者は、特に若年者はめったなことでは死にはしない。ここまで恐れ慄き、一人でも患者が発生すると大騒ぎすべき疾患なのか疑問を感じる。
万事この調子で「人はいつかは死ぬよなあ」で済まなくなってくると、いったいどういう理由で死ねば良いのかと悩ましい。最低でも80歳以上まで生きた上で、家族に囲まれながら老衰で静かに死ぬしか選択できなくなるのではないだろうか。コロナで死のうものなら世間様に顔向けできないし、子や孫にも申し訳ないと戦々恐々せねばならない。肺癌で死ねばタバコを吸ったから悪いとか酒の飲み過ぎだとか非難されるのかもしれない。孤独死(このネーミングがなんとも嫌らしい)なんてしようものなら本人はもちろん一族郎党の名誉を地に落としそうではないか。
多くの日本人は十分長く生きていると思う。むしろ、自分自身の意思と体力で主体的に生きることが難しくなってからも長く死ねない状況に陥る人がどんどん増えている。もう良いのではないかと思ってしまう。生の選別をするべきだと主張しているわけではない。ただ、「世の中運悪く死ぬ理由は色々あるよね。特に病気で死ぬなんて仕方ないよね。それは寿命だったと思うことにしよう」というような感覚を残して欲しいものだと個人的には願っている。自分が生まれてしまったこと、自分が選んでしまった道、そして自分が死んでしまうことを「仕方ないなあ」で済ませたい今日この頃なのである。少なくとも、癌の撲滅を目指すくらいなら、まずはHPVワクチンをきちんと打つ様にしようと言いたい。コロナ感染で大騒ぎするくらいなら、これ程豊かな社会においてなお存在する貧しさの直接的間接的結果としての死を減らしたいものだ。
2020年5月16日土曜日
スタックラー&バス『経済政策で人は死ぬか?』
景気改善につながるメカニズムを考える上で参考にすべき情報の一つに政府支出乗数というものがある。政府支出を1ドル増やした時に国民所得が何ドル増えるかを示した指標である。長年政府支出乗数は0.5とされてきたという。これが正しければ政府が支出を増やすほど国民の所得は下がるということだ。しかし、この0.5という数字には実は根拠がなかった。そこで著者らが欧米や日本の過去10年間のデータから改めて算出すると1.7であったという。特に、保険医療と教育分野では乗数が3を超えていた。逆に、防衛や銀行救済処置では1を大幅に下回る。つまり、酷い不況の時にこそ保険医療や教育分野への税金の投入を躊躇うべきではないということになる。
この本には、医療の世界では市場原理がうまく働かないことにも触れられている。民間の保険会社が主体になると、保険会社は支出(支払い)を節約するために医療を必要とする可能性が低い人のみを選んで加入させるようになる。その結果、医療を必要としている人ほど医療を受けにくく、医療を必要としていない人ほど医療を受けやすくなる状況(さかさま医療ケアの法則)が生じるようになる。しかも皮肉なことに医療に市場原理を持ち込むとトータルの医療費は増加するという。それは予防などの「ヘルスケア」よりも金のかかる「病気のケア」への投資が優勢になるからである。全体としての医療費を下げるためにも医療福祉に対する公的資金の投入を控えるべきではないということになる。この他、再就職を促す積極的労働市場政策(ALMP)や住む場所を保証する住宅支援策の意義についてもページを割かれており、興味深かった。
あまりにもシンプルで明確な結果が客観的に示されているにもかかわらず、なぜ現実の社会では財政緊縮策を唱える人々が主流なのか不思議な気がする。日本ではずいぶん長い間公務員を減らし医療者を制限し大学の研究費を削減してきた結果、所得格差、研究能力の低下、災害時の対応の不十分さなど問題が増えてきているように見える。そして、このたびのコロナ禍で今までなんとか持ち堪えてきた領域が一気に綻びつつある。もちろん、専門家から見ればこの書籍に対する反論も色々できるのかもしれない。しかし、与野党を問わず反緊縮論が政治の一大勢力になっても不思議ではないのに、そうはなっていない現状がなぜ生じるのだろうか。現在のような未曾有の危機に際して、反緊縮の声を上げていく必要があると思う。