遅ればせながらスタックラー&バス「経済政策で人は死ぬか?」(草思社)を読んだ。1930年の暗黒の火曜日、ソ連崩壊、アジア通貨危機、リーマンショックなどの大規模な経済危機における政策の違いが人々の健康にどのような影響を与えるかを客観的データに基づいて分析した結果をわかりやすく解説した本である。現在、新型コロナ感染症の影響で深刻な経済危機になりそうだが、今後の方向性を考える上で重要な本ではないかと思う。健康状態の評価としては、死亡率、自殺率、うつ病の罹患率、HIVなどの感染症罹患率などの指標を検討している。いずれの経済危機においても財政刺激策を採用した地域では人々の健康は保たれ、財政緊縮策を採用した地域では健康状態が悪化することが明確に示されている。しかも、健康だけではなく、財政刺激策を採用した地域の方がその後の景気の改善も良好なのである。
景気改善につながるメカニズムを考える上で参考にすべき情報の一つに政府支出乗数というものがある。政府支出を1ドル増やした時に国民所得が何ドル増えるかを示した指標である。長年政府支出乗数は0.5とされてきたという。これが正しければ政府が支出を増やすほど国民の所得は下がるということだ。しかし、この0.5という数字には実は根拠がなかった。そこで著者らが欧米や日本の過去10年間のデータから改めて算出すると1.7であったという。特に、保険医療と教育分野では乗数が3を超えていた。逆に、防衛や銀行救済処置では1を大幅に下回る。つまり、酷い不況の時にこそ保険医療や教育分野への税金の投入を躊躇うべきではないということになる。
この本には、医療の世界では市場原理がうまく働かないことにも触れられている。民間の保険会社が主体になると、保険会社は支出(支払い)を節約するために医療を必要とする可能性が低い人のみを選んで加入させるようになる。その結果、医療を必要としている人ほど医療を受けにくく、医療を必要としていない人ほど医療を受けやすくなる状況(さかさま医療ケアの法則)が生じるようになる。しかも皮肉なことに医療に市場原理を持ち込むとトータルの医療費は増加するという。それは予防などの「ヘルスケア」よりも金のかかる「病気のケア」への投資が優勢になるからである。全体としての医療費を下げるためにも医療福祉に対する公的資金の投入を控えるべきではないということになる。この他、再就職を促す積極的労働市場政策(ALMP)や住む場所を保証する住宅支援策の意義についてもページを割かれており、興味深かった。
あまりにもシンプルで明確な結果が客観的に示されているにもかかわらず、なぜ現実の社会では財政緊縮策を唱える人々が主流なのか不思議な気がする。日本ではずいぶん長い間公務員を減らし医療者を制限し大学の研究費を削減してきた結果、所得格差、研究能力の低下、災害時の対応の不十分さなど問題が増えてきているように見える。そして、このたびのコロナ禍で今までなんとか持ち堪えてきた領域が一気に綻びつつある。もちろん、専門家から見ればこの書籍に対する反論も色々できるのかもしれない。しかし、与野党を問わず反緊縮論が政治の一大勢力になっても不思議ではないのに、そうはなっていない現状がなぜ生じるのだろうか。現在のような未曾有の危機に際して、反緊縮の声を上げていく必要があると思う。
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