2016年1月17日日曜日

大人の矜持

 海街diary第7巻が出た。最初の4巻か5巻は大人買いしたので、一気に楽しめた。そこまで読むと当然次が読みたくなる。しかし、第1巻が2007年に刊行されて以来、1年か2年に1冊しか出てこない。なんと待ち遠しいことか。第6巻から1年半を置いてめでたく第7巻が出たわけである。今回も一気に読んで、ああ面白かったと終わるところなのだが、妙に印象に残った場面がある。それは、大船の大叔母さんが遠い地にある高校に進学することを決めたすずに、「...困ったことがあった時はちゃんと誰か大人に話すこと...(略)...遠慮することはないわ 大人は子供を守るものなの...」と話す場面である。僕がこの場面に注目したのには伏線がある。第1巻には、すずの父親の葬式の場面がある。頼りない義母が喪主の挨拶を中学生のすずにさせようとした時、初めて出会った異母姉である幸がそれを止める。「これは大人の仕事です!」「大人のするべきことを子供に肩がわりさせてはいけないと思います」と幸は言うのである。第1巻のこの場面が強く印象に残っていたため、大船の大叔母さんの言葉にも注目したのだと思う。
 子供が大人になる過程で親や教師から散々聞かされる2種類の言葉ある。「まだ子供なのだから...」と「もう子供じゃないのだから...」。一体どっちなんだと悪態をつきながら、それぞれの子供はそれぞれのやり方で大人の介入に対応させられる羽目になる。まあ、子供を大人と対等に扱える訳がないし、といって成長を促す必要もあるので、子供に対して色々言を弄することにもそれなりに理由があるかもしれない。
 大人の子供に対する姿勢は大雑把に分けると2つの軸で理解できるのではないか、という気がする。一つはどう行動するかの判断を子供に任せる度合いが強いか弱いかである。もう一つは子供の行動の結果について責任を取ろうとするかどうかである。もちろん、いずれの軸も二者択一ではなく、個人個人で様々な程度に該当するのだろう。
 僕自身が良いと思うのは(実行できているという意味ではない)、子供自身に判断を委ねる割合が大きく、子供の行動の結果については自ら責任を取る大人である。僕自身を含めて、大人はともすれば先回りして細かく口を出し、子供が失敗しないように、問題を起こさないようにと誘導しがちである。しかしそういう対応を続けていると、子供達が何か有意義なことをすることよりも失敗をしないことを第一の目標としてしまいそうである。できるだけ子供に責任ある役割を任せ、何か上手くいかないことがあったときだけ大人が援助する。あらかじめどのような問題が起こり得るか予測し、ひどい失敗をしないようにだけお膳立てをしておく。残念ながら大きな問題が生じれば、そこは黙って大人が尻拭いする。そのようにやせ我慢するのが大人の矜持ってものではないかと思うのである。
 冒頭に挙げた海街daiaryだが、大人と子供の役割を明確に区別している。といって、登場する大人たちがすずの行動に細かく口を出している訳ではない。それどころか、日々の生活の中ではほとんどのことを本人に任せている。しかし、滅多にはないもののここぞという状況で、責任をとるのは大人だと明確に宣言するのである。そこに僕は格好良さを感じたらしい。

2015年12月27日日曜日

聞き取れないことに関するあれこれ

 僕は幾分耳が悪い。以前にも書いたことがあるが、語音を正確に聞き取りにくいのである。小さい音でも聞こえるのだが、/ba/と/da/とか/bu/と/fu/が聞き分けられなかったりする。特に口の中にものを入れて喋ったり、周りがザワザワしている時に喋ったりされると何を言っているのか分からないことが多い。聞き取れないままだと困るので、聞きなおす。以前は「ハアッ!?」、「エェ!?」とか、強い調子で聞き直していたのだが、最近は出来るだけ「聞き取れなかったので、もう一度言って」「今、なんとおっしゃいましたか」などと丁寧に言うようにしている。で、つくづく思うのだが、聞こえの悪い人に対して世間の態度は必ずしも親切ではない。「もういい」と言い放ってそっぽを向く人はさすがに多くないが、黙り込む人は結構いる。言い直してくれてもより明瞭に話そうと(声を大きくしたり、口を大きく開けて明瞭な発音にしたり)務めてくれる人は少ない。モゴモゴッと言い、聞きなおすともう一度モゴモゴッと言って終わり。はっきり話すということは、そんなに面倒なことなのだろうか。
 不明瞭な話し方といえば、人は自分の名前を名乗る時にとりわけ不明瞭な物言いになるような気がする。学会会場で演者に質問する人は最初に名乗ることが礼儀なのだが、所属や名前を聞き取れることがほとんどない。音響設備が粗末なことが一因となっていることもあるのだが、その後の質問内容は聞き取れるので、同じように喋ってくれれば聞き取れるはずである。自分の耳が悪いせいかと思い、同僚に「最初名乗る部分がほとんど分からないんだけど」と言うと、その同僚も「僕にも分からん」と言っていたので、やはり人は自己紹介をする時に不明瞭になりがちなのかもしれない。
 僕は自分の発音がモゴモゴと不明瞭であることを自覚しているし、学生からの希望もあって、講義の時にマイクを使う。当然、学生に意見や質問を述べてもらう時にもマイクを渡す。面白い現象に気がついたのだが、学生は自分がマイクを使うことを好まない。こちらが注意しないと意図的かどうかは知らないがマイクを持った手を下げて、マイクなしに話そうとする人が多い。特に顕著な現象として、自分の名前を名乗る時にマイクを使わない人が圧倒的に多い。
 どうも世間の人ははっきりと名乗り、はっきりと自分の声を届けることに積極的ではないようだ。不思議な気がする。せっかく話すのであれば、自分が誰かを正確に認識して欲しいし、自分が話す内容をきちんと理解して欲しいのではないかと思うのだが。少なくとも、僕はそうだ。しかし、そう思わない人が少なからず存在するようである。
 明瞭な話し方をしないということに関連して、別のことも書いておく。話の内容についてだ。世間には話す内容が明確でない人がかなり多い。結論をはっきり述べなかったり、いわゆるこそあど言葉つまり指示代名詞を多用したり、「〜みたいな」「〜な感じ」という表現を使ったり、結局何を主張しようとしているのか明確ではない物言いをする人がとても多い。発声が明瞭でないことと何か関係があるのだろうか。僕は外国の状況をあまり知らないが、少なくとも日本の社会では不明瞭であることが良しとされているような気がして、思考が単純な僕は毎日モヤモヤとしている。

2015年12月5日土曜日

肥大した診断学

昔話をする。35、6年前、僕は医学部の学生だった。その頃は、1960年代から70年台にかけて吹き荒れた学生運動もすっかりエネルギーを失っていた。ただ、名残はまだ残っており、誰も聞いていないのにヘルメットをかぶって演説をしている学生がいたり、講義室の机の上にゴミ箱の肥やしとなるだけのビラが配られたりしていた。ある日、講義室に入り机の上にあるビラを何気なく見ると、「肥大した診断学を粉砕せよ!人民のための医療を!」といった意味合いのことが書いてあった(昔のことなので正確ではない)。僕は学生運動には全く興味がない三無主義(なんと懐かしい響き!)の典型みたいな学生だったのだが、なんとなくその「肥大した診断学」というフレーズが印象に残った。
 当時はまだ様々な病気について本格的に学び出す前であった。「内科診断学」という講義があったのだが、患者を診察し所見をとる方法を解説するものだ。かなり地味で細かい知識を詰め込まないといけない講義で、まだ具体的な病気のことをほとんど知らない身としてはかなりうんざりさせられるものであった。また、社会的に「検査漬け」という言葉が医療を批判する定番のフレーズとして口にされることが多かったと思う。肥大した診断学云々の意味はおそらく、延々と診断のために手間と時間を費やし患者の負担を増やすことよりも、早く患者の苦しみや痛みを軽減することを重視せよ、と意識改革を迫ったものだったのだろう。そして、内科診断学に辟易し、検査漬け批判の声を耳にしていた僕の心に引っかかるものがあったのだと思う。
 医師になってしばらくしてから、ごく単純なことが分かった。多少なりとも真面目に診療に取り組んだ医師の多くは同意してくれるのではないかと思うのだが、「診断は重要だ」ということである。診断するということは、単に症状や検査所見の集積に名前を付けるということではない。診断は見かけ上の症状に加えて様々な情報を内包する。例えば、なぜこの様な問題が生じているのかという原因や発生機序に関する情報をなにがしか教えてくれる。さらに、その状態が持続すると患者本人が今後どういう問題に直面し、どういうことに苦痛を感じるようになるかということを示していることもある。また、多くの先人が築いた有効な治療法のリストが示されるかもしれないし、残念ながら現時点では治療法がないことが示されるかもしれない。だからこそ、熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤というような単純な対応よりもはるかにきめ細かく合理的な治療的対応が可能となるのである。つまり、より精密な診断はより適切な治療的対応に結びつくのだ。時には診断にかける手間暇に比してその後可能な治療的対応が乏しすぎることもある。一見無駄に診断作業ばかりにかまけているように見えるかもしれない。それでも診断を精緻化することにより治療的対応が向上する可能性が高まるのだ。
 診断を精緻化することは、患者への対応を改善することにつながる。医学的診断は患者にとって役に立つからなされるものなのである。診断を研ぎ澄ますことは、個人レベルにおいてはその患者の治療的対応を向上させる可能性を増すし、診断技術の進歩と診断概念の整理を軸にして医療全体も発展してきたのではないかと思う。そう考えると、「肥大した診断学」なる発想は、かなり視野の狭いものの見方を反映していると思う。診断学は決して不必要なまでに肥大しているわけではないのである。
 さて、以上を前提に考えるとき、発達障害を伴う子供達のサポートにおいて重大な問題がある。それは、発達障害では診断する人と治療・支援する人が別々という状態にあるということだ。完全に別個というわけではないが、かなりの部分が重なっていない。具体的に述べると、評価・診断は通常医療機関である。しかし、発達障害を伴う子供達の支援に占める医療機関の役割は圧倒的に小さいのである。就学前であれば医療機関内にある療育施設の関与もあるが、就学後に医療機関ができることは時折本人または家族に助言することと、限られた問題に対してのみ投薬することに限られる。そして、子供達の支援の役割を職業的に担うことになる人達のうち圧倒的多数を占めるのが保育者や教師である。
 この問題については以前にも書いたことがあるが、診断する人と治療・支援する人が別々だと支援者は診断によって得られた情報を十二分に活用できない。実際、僕が見聞きしている範囲では、診断名というラベルだけが活用されているのに近い印象を受けることが少なくない。これでは診断の一人歩きである。こういう状態では、まさしく「診断学の肥大化」になりそうである。ところが現実にはそうでもない。十二分に活用される当てがない状態では、診断も内容の乏しいものになりがちで、肥大化どころかやせ細っていくような気がする。評価者と支援者をできるだけ一致させること、あるいは評価者と支援者の連携を密にし双方向性のコミュニケーションが厚くなることが、発達障害を伴う人々への支援において重要な課題の一つではないかと思う。

2015年11月21日土曜日

教育に成果主義はそぐわない、で良いのか?ーー「学力の経済学」を読んで

 小児医療に携わると、特に発達障害を専門に診療していると、教員と知り合ったり、教員の仕事の様子を聞いたりすることが多い。そして率直に思うのだが、教員とは大変な仕事である。現実的な労働量も多いし、心理的な負担も多い。それにもかかわらず多くの教員は真面目に頑張っている。多くの教員が日々身をすり減らして努力しているのだから、その成果が最大限に発揮されるように教育政策を推進して欲しい。しかし現実を見ると、ありとあらゆる人が思い思いに教育を語り、それを受けて単なる思いつきかしらと疑うような教育政策の方向性が決められてきた。これに関連したことは、以前「教師の専門性」という文章にも書いたことがある。
 最近、教育経済学者の中室牧子さんが著した「学力の経済学」という本を読んだ。まさに日本では誰もが教育に関して一家言あり「一億総評論家状態」とも言える状況であるという話から始まるこの書籍は、非常にすっきりと筋の通った、しかし分かりやすく読める本であった。日本の教育政策に欠けているものに気づかせるだけではなく、日本社会全体に根深く存在する非合理的な考え方への批判にもなっている。読み捨てるにはもったいないので、本の要点や考えたことを書きとめることにした。
 まず、内容を簡単にまとめておく。本書は第1章から第5章、および補論からなっている。第1章で、この本全体を貫いている教育経済学での考え方を簡明に解説している。続く第2章から第5章まではそれぞれ、誰でもが答えを知りたい質問を主たるテーマに掲げ、今まで世界の教育研究ではどのようなことが明らかになってきたのかを解説している。

【第1章 他人の”成功体験”は我が子にも活かせるのか?】
 2001年にアメリカで成立した「落ちこぼれ防止法」には「科学的な根拠に基づく」というフレーズが111回用いられているそうだ。「科学的根拠」すなわちエビデンスは数字で示されるものである。科学的に因果関係を明らかにするためには、一人か二人の成功体験や「専門家」の主観的意見を参考にするのではなく、多数例について統計的に検証する必要がある。なぜそうなのかということを分かりやすく説明している。この本の第2章以降に記述される内容のほとんどは、実験や実験に近い状況で集めたデータをもとに、統計学的に確認されたエビデンスである。

【第2章 子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?】
 ご褒美を使うことを嫌う人が多いが、実はご褒美は効果的なのである。本を読む、宿題をする、学校に出席する、など勉強する個々の活動に対してご褒美を与えると学力が向上する。ただし、テストで良い点を取ればご褒美をあげる、というように勉強の結果にご褒美を用意しても学力は改善しない。ご褒美にお金を用いることにはさらに抵抗感を抱く人は多いと思う。しかし、ご褒美としてお金を与えられた子供はそうでない子供より堅実なお金の使い方をしていたことを示した研究も紹介されている。
 「褒めて育てろ」とは日本でもよく口にされるが、褒めることの効果はどうなのだろう。ご褒美とは反対に褒めることは良いことだと考える人は結構多いと思う。実は、「君はやればできる」という様な自尊心を高めるメッセージや「あなたは頭が良いのね」と、子供らの元々の能力を賞賛するメッセージを子供に与えるとむしろ成績が悪くなることが示されている。しかも、能力を褒められた子供は良い点が取れなかったときに成績について嘘をつく傾向が高く、「自分は才能がないからだ」と考える傾向が高い。ただし、褒めることはすべて悪いわけではない。「あなたはよく頑張ったわね」と努力を賞賛すると成績は上がりやすい。ご褒美にしろ褒め方にしろ、勉強する一つ一つの具体的過程を促していくことが重要ということなのだろう。応用行動分析を用いた指導法にも通じる話である。
 クラスメートからの影響についても述べられている。クラスの学力は個人の学力に影響する。クラスの平均点が上がればその影響で個人の学力も上がるのである。しかし、成績優秀者を多数編入すれば効果的かというと、そうではない。成績優秀者の影響はもともと成績の良い生徒に限られる。中間層や成績の悪い層には影響しない。それどころか成績の悪い層に悪影響を及ぼすこともある。つまり、同じ程度の学力の子供達がお互いに影響を及ぼす時は正の影響になりやすい。このことは習熟度別学級の効果をみた研究で確認された。習熟度別学級は全ての学力層の子供達において学力を向上させることが示されている。しかも、特にもともと学力の低い子供達において大きな学力の向上がみられる。ただし、学齢が低い段階で習熟度別学級を導入すると学力の格差が広がりやすいという指摘もある。
 一定額の教育投資をした時、子供の将来の収入がどれくらい高くなるかについても説明されている。教育の収益率である。年齢別にみた時に収益率が最も高いのは就学前であり、その後急速に低下する。就学前教育の効果の例としてして取り上げられている「ペリー幼稚園プログラム」について、少し詳しく記述しておこう。
 このプログラムでは、低所得のアフリカ系米国人の3~4歳の子供たちに質の高い就学前教育を提供し、その効果を40年間にわたり調査した。質の高い就学前教育のポイントは以下の通りである。
・幼稚園の先生は、修士号以上の学位を持つ児童心理学等の専門家に限定
・子供6人を先生一人が担当
・午前中に約2.5時間の読み書きや歌のレッスンを週に5日、2年間受講
・1週間につき1.5時間の家庭訪問
子供達に対して非常に濃厚な指導を行うだけではなく、家庭訪問によってどのように子供と遊ぶかなどのモデルを親に示し、家庭資源の乏しさにも対処していることが特徴である。このプログラムへの参加者を非参加者と比較した結果、6歳時点でのIQは高く、19歳時点での高校卒業率が高く、27歳時点での持ち家率が高く、40歳時点での所得が高く、40歳時点での逮捕率が低い。さらに、このプログラムをもとに推計された社会収益率は7~10%にのぼる。これは4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されることを示しているそうである。

【第3章 勉強は本当にそんなに大切なのか?】
 上記のペリー幼稚園プログラムでは、意外な事実も判明した。このプログラムの成果は必ずしも学力向上の結果ではないのだ。確かに小学校入学後のIQや学力テストの成績は上昇した。しかし、学力やIQへの効果は短期的であり、8歳頃には効果は明確ではなくなっている。ではなぜ学歴・年収・雇用が長期にわたり改善したのだろうか。ペリー幼稚園プログラムによって改善したのは「忍耐力がある」とか、「社会性がある」とか、「意欲的である」といった、人間の気質や性格的な特徴、すなわち非認知スキルと呼ばれるものであったことが判明している。大学生が大学をきちんと卒業できるかどうかについて調べた研究でも、入学時の学力自体よりも様々な非認知スキルが影響していることが示唆されている。
 著者は、過去の実験研究の結果を元に特に重要な非認知スキルとして自制心とやり抜く力をあげている。そして、日本でも中・高校生の時に培われた勤勉性、協調性、リーダーシップなどの非認知能力が学歴、雇用、年収に影響することが明らかにされている。

【第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?】
 この章ではとりわけ著者の経済学者としての視野の広さが光る。まず、米国で1985年から89年にかけて行われた有名なスタープロジェクトの話から始まる。この実験では幼稚園・小学校の生徒約6500人を1学級当たり生徒数が13~17人の少人数学級と22~25人の学級に振り分け比較している。その結果、幼稚園から中学校2年性まで少人数学級の生徒のほうが学力が高く、その効果は貧困世帯の子供で特に大きかった。
 今の日本でも1学級の人数について財務省と文部科学省が角突き合わせているが、このスタープロジェクトの話を聞けば、「ほーら、やはり少人数学級がいいに決まっている。」と言いたくなる人は多いと思う。かくいう僕もそうである。しかし、著者は少人数学級の導入には慎重であるべきと主張する。なぜなら費用対効果が小さいからである。実は日本でも学級規模の学力への影響を客観的に検討した研究がある。その研究では、小学校の国語は学級規模が1人小さくなると偏差値が0.1上昇する効果が確認されたが、国語以外の教科や中学生には効果が認められなかった。スタープロジェクトのような大掛かりな研究ではないので、調査し直せば結果は変わるかもしれない。しかし、仮に少人数学級にいくばくかの効果があるとしても、非常にささやかなものである可能性が高い。わずかな効果を求めるために教員を大幅に増やすということを、財政赤字の日本で進めると非常に危険だというわけである。それよりも、はるかに効果が高い習熟度別学級を取り入れれば、人件費をさほど増やさずに明確な効果を上げることができる。

【第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?】
 教員の質をどう評価するかといえば日本では抽象的な議論が展開されそうだが、諸外国の研究ではやはり子供たちの学力の変化が注目される。教員の質を評価する指標として信頼性の高いものに、「付加価値」というものがある。1年間で標準テスト得点が何点上昇したか(あるいは下降したか)を調べ、この学力の変化を付加価値と呼ぶ。付加価値の高い教員は、ただ単に子供の学力を上昇させているということにとどまらず、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めていることが分かっている。
 こういった研究成果をもとに、著者は、少人数学級によって教員の数を増加させることよりも、教員の質を高める政策の方が、教育効果や経済効果が高いのではないかと述べている。では、どうすれば教員の質を高められるのか。誰でも考えつきそうなのは、生徒の成績が上がれば給与やボーナスを上げるという方法である。実は、こういう優秀な教師への報酬を増やす方法で教育が改善されるという証拠はあまりないらしい。また、教員研修も考えつきやすい方法だが、研修の効果に対しては否定的なデータが既に示されている。文部科学省も各自治体の教育委員会も、教員の質を上げるには研修という発想が強いが、研修の効果を客観的に検証してほしいものである。
 ここで著者は、経済学者にとっては常識的であるが、我々一般人(とりわけ教員)には衝撃的な考えを紹介している。より優秀な人が教員を目指せるように参入障壁を取り除くのである。つまりどういうことかといえば、教員免許を廃止するのである。おそらくこんな話を聞けば文部科学省の役人と教員は憤慨するだろう。しかし、このことについてもアメリカでは客観的な研究がなされている。
 ティーチ・フォー・アメリカという非営利団体があり、一流大学の卒業生を卒業後2年間低学力に悩む公立学校に教員として派遣する活動を行っている。ティーチ・フォー・アメリカから派遣される教員の多くは教員免許を持っていない。このことを利用して教員免許保有の有無の影響が検証されている。結果、免許を保有しないティーチ・フォー・アメリカが派遣した教員に教えられた生徒は免許を保有する教員に教えられた生徒よりも成績が良いか変わらないという結果であった。このことは複数の研究で示されている。ハーバード大学ケイン教授は「教員免許を持っているかどうかが子供の学力に与える影響は小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい。」と述べており、考えさせられる。

 この本の最後は【補論:なぜ教育に実験が必要なのか】で締めくくられる。ここでは、ランダム化比較試験を中心に実験研究とは具体的にどういうことをし、どういう意義があるかを解説している。
 教育研究が提出した様々なエビデンスを紹介する合間に、日本の行政の動き方や考え方に対する鋭い批判が書かれている。まず、学問的に妥当な客観的なデータ収集や分析がほとんどなされていない。全国学力・学習状況調査のようにデータはあっても公開していないものも多い。日本の行政はデータを外部に公開することを避け、自分達だけで分析しようとしていることが多いらしい。自分の推進した政策の結果を誰にも見せず自分で分析していれば、失敗や問題点を認めないままに終わる可能性が高い。だから著者は、政策評価は第三者機関が中立性を担保しつつ行うのが望ましいと考えている。ちなみに、南アフリカは労働力調査や家計調査などの政府統計の個票データをインターネット上で世界中すべての人に公開しているそうだ。こうすることによって世界中の優秀なエコノミストがこぞって分析してくれる。そのおかげで、ほとんどコストをかけずに新たな政策を計画しやすくなっているという。実に合理的である。
 客観的根拠のない政策を推進する危険性とともに著者が指摘する日本の政策の問題は手段が目的化することである。例えば、こういうことが記述されている。
 海外の政策評価においては、まず『学力の上昇』のように、教育政策の目的を明確にし、それを実現するためにどういった政策手段の費用対効果が高いのか、という検証を行います。一方、日本では、『2020年までにすべての小中学校の生徒1人に1台のタブレット端末を配布する』という政策目標が掲げられていることからも明らかなように、本来、政策目的ではなく『手段』であるはずのものが政策目的化してしまっています。
 確かに国の政策を見ても、個人的に教育関係者と話していても、「何のために」という本来の目的が意識されていないことがとても多い。いや、正確には少し違う。遠大で抽象的な目的は意識されていることは多い。「すべての子供が生き生きと暮らせるように」とか「グローバル人材を育てる」といったものである。短・中期的に具体的な目標を設定することができないのだろうと思う。また、予算が足りない時の節約の仕方にも目的意識がかけやすい。そのため一律に予算を削減しようとする傾向がある。
 著者の批判は日本の教育の平等主義にも向かう。新たに何らかの教育政策を講じる時、その効果を客観的に評価しようと思えば、その政策を適用した一群と適用しなかった一群に分けて比較検討する必要がある。しかし、そういうことをすると新しい方法を適用された子供達と適用されなかった子供達ができ不公平であるという強い批判が生じる。一見もっともだが、比較検討ができなければ教育政策の真の有効性は分からないままである。もし本当は効果がなかったりむしろ悪影響があればどうなるか。その時の教育政策の舵取りが間違っていた場合、被害が世代全体に及んでしまう。つまり、世代内では平等であっても世代間では不平等という事態が生じる。
 調査段階の話だけではなく、すでに有効であることが分かっている政策を推進する際にも、平等主義が有効性を低下させたりコストパフォーマンスを悪化させたりする。例えば、上述のように少人数学級の効果は特に貧困世帯の子どもで大きかった。そうであれば、就学援助利用率の高い学校に重点的に少人数学級を導入すれば政策の有効性やコストパフォーマンスが高まると中室さんは指摘する。
 平等主義に関連して紹介されている神戸大学の伊藤准教授らの研究が面白い。この研究が明らかにしたところでは、学校で平等を重視した教育、例えば手をつないでゴールしましょうという方針の運動会など、の影響を受けた人は他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに欠ける大人になるというのである。何故そうなるかということについて、次のように説明されている。平等主義的な教育は人間が生まれながらに持つ能力には差がないという考え方が基礎となっているため、努力次第で全員が良い成績を取れるという考えが強くなる。その結果、成功しないのは努力をせずに怠けているからだと考えがちになる。つまり、世の中には個人の努力ではどうにもならない能力や環境の差が存在するということに目が向かなくなるというのである。
 実に面白い本であった。おそらく中室さんにこの本を書かせた原動力は怒りではないかと僕は想像している。多くの人が教育に一家言を持ち様々な主張がなされているにもかかわらず、客観的な根拠に基づく論理的な議論が存在しない日本の現状に対する怒りである。そして、それ以前に根拠を形成するためのデータがほとんどない現状に対する怒りである。しかし、そういう怒りがあからさまに語られるわけではない。著者は極めてクールに、根拠に基づいた教育政策を推進するためには何が必要かということを説いていく。それも分かりやすい文章で。
 実はこの本は売れないだろうと思っていた。教育の成果を客観的に評価するとか、データ重視とかの考え方は日本に暮らす多くの人には抵抗があるのではないかと思ったからだ。僕は教員や教育行政に関わる人など、教育関係者と接することが多い。その多くは教育に成果主義は適さないと言う。社会一般にもそういう意見は多い気がする。しかしエビデンスを元に教育政策を立てるということは、成果を問うということである。この本に書かれているように、教育や教員の良し悪しを子供の学力や将来の収入で評価することに抵抗感を抱く人は多いのではないだろうか。しかし、一見身も蓋もない学力や収入を指標に検討する中で、非認知スキルの重要性が確認され、その評価法も開発されている。日本で多くの人が実態がはっきりしないままに「生きる力」や「人間力」のような抽象的な言葉を振り回している間に、エビデンスに基づいた研究を推進している国ではより具体的に目指すべきものの定義が進んでいるのである。可能なかぎり学力が保障され、学校からドロップアウトすることがなく、収入が安定し、犯罪に手を染めずに暮らしていることがそれだけで幸せの証明にはならないが、多くの人にとっての幸せの前提条件になることは確かであろう。成果主義が悪いのではない。適切な成果の指標を設定し、適切な評価法を用い、適切な比較をするるということをしないことが問題を生んでいるのだと思う。単純に全国学力・学習状況調査の平均点を比較するといった粗末で荒っぽいことをすれば、適切な教育の評価ができないのは当たり前のことだ。
 改めて奥付を見ると、2015年6月18日に出版されたばかりなのに2015年8月1日には第6刷になっている。僕の予想はまるで外れていた。なかなかよく売れているのである。こういう書籍が執筆され、そして売れているということは、結構日本も良い方向に変化しているのかなと、少し明るい気分になる。

2015年10月8日木曜日

発達障害の診断と料理

 妙に落ち着きがない、ぼんやりしている、他の人とうまく付き合えない、言動が乱暴など、親や学校の先生が子供の日常的な振る舞いに不安を感じた時、近頃では大概の人がもしかしてこの子は発達障害ではないだろうかと考える。そうなると紆余曲折を経た上で多くの場合は病院を受診しようという話になる。「紆余曲折」の部分も色々大変な問題があったりするのだが、今回はそのことには触れない。
 積極的に、あるいはしぶしぶ病院を受診しようと親が決意してから、診断がつくまでが結構大変な工程になる。まず、発達障害を専門に診療を行っている病院はどこも受け入れキャパシティを超えた患者が受診するため、予約を入れてから実際に受診するまでひどく時間がかかる。1、2ヶ月待たされることはザラで、病院によっては半年待ちになる。だが、ここでは予約待ちの話をするつもりもない。取り上げたいのはそこから先である。
 実際に病院を受診して、診断ないし何らかの結論がでるまでに結構な手間がかかる。僕が関わっている病院の場合を例にとれば、最初の受診でおおよその受診理由の聴取と診察により大体の問題の方向性を決め、検査(知能検査や他の認知機能検査、必要に応じて脳波検査などの医学的検査も)をし、改めて疑わしい障害の診断基準に沿った病歴聴取を行う。その間、家族や学校の担任に種々の質問紙の記入を求めることも多い。何やかんやで3回前後、全部で3時間余りを費やした上で診断を出すことになる。当然、とりあえず診断を出せばそれを本人や家族に説明するのでその時間も必要である。全過程の中で、検査に要する時間も長いが、会話をしている時間が最も長い。日常全般にわたり困っていることや、困っていなくても振る舞い方・考え方の特徴など、根掘り葉掘り聞き出さないと信頼性の高い診断に辿り着けない。
 複数回にわたり長時間受診しないといけないとなると、結構患者や家族の負担になる。しかも、「正しい診断をし、適切な対処を計画していく以上は必要なことなので仕方がない。」と言い切れないところがあり、問題は複雑である。率直に言って、発達障害の評価診断に関してこれだけのことをやれば必要十分というものはない。3時間どころか10時間かけても一分の隙もない完璧な診断ができる訳ではない。逆に、何に困って受診したのか5分か10分程聞けば、精度は落ちるものの診断して多少の助言をすることも可能である。いやそれどころか、こういった問題は受診しなければ絶対駄目とも言えないのである。実際、20年くらい前にはこの程度の問題で病院に行くなどとは考えもしない人が圧倒的に多かっただろうし、今現在でも発達障害的特性を持った子供を育てながら病院に行かない人は大勢いる。それでもその子供たちは暮らしている。
 こういった問題で病院を受診するということを一体どのように理解すれば良いのだろうとぼんやり考えている時にふと閃いた。それは「発達障害の評価と診断は、料亭の料理に似ている」説である。まあ、無理やり感満載だが書き残すことにした。

・手間暇を掛けた料理は、雑に作った料理と必ずしも大きく変わらない
 一般的に料亭の料理は家庭料理に比べて手間暇をかけていると思われるが、かけたからといってそのことが食べる側に理解できるとは限らない。実際にその手間がほとんど何も結果に影響しない場合もあるし、違いがあったとしてもそこに気付けるかどうかは食べる側の味覚や知識にも影響される。発達障害の診療も、手間暇かけたからといって必ずしも結論が大きく変わってくるわけではないし、何らかの違いが結果に反映されたとしてもそれが患者・家族にとって大きな意味を持たないこともある。

・手間暇を掛けたからといって美味しくなるとは限らない
 これは前項と同じ。

・手間暇をかける料亭ほど事前の予約が必要だったり、料理が出るまでに暇がかかったりする
 当然手間暇をかけるほど料理人一人当たりが用意できるお膳は減少するし、一品一品が出来上がるまでに時間もかかるだろう。かけた手間暇が真っ当な形で結果(味)につながり、客にも評価されている場合(つまり人気がある場合)、飛び込みで席が空いている確率は低くなり、随分前から予約しておく必要がある。診療も同じで、丁寧に時間をかけて診療するほど医師一人当たりが診療できる患者数は減少し、結果診察を受けるまで待たされることになるし、1回当たりの診療時間も長くなる。

・料亭なんか行かなくても生きていける
 確かにそうなのである。単に生きていくためには料亭もレストランも必要ない。同じ様に、繰り返しになるが、実生活での行動に何らかの問題があっても、病院を受診しなくても多くの子供は破綻せずに生きていける。

・適切な手間暇を多く掛けた料理は、それだけ深みがある
 ここまでネガティブなことばかり並べた。とはいえ、適切な材料に適切な手間をかけた料理は価値がある。平均的な人が自分で作った料理や、ファーストフードとは大きく異なる。人に日常とは異なる新しい経験をもたらす。もちろん、その違いを楽しめない人にとっては意味がないかもしれないが、経験することで新たに目を開かされることは多いと思う。自らがかなりの料理の腕を持っている人であれば、新しいスキルや発想に接することで日々の料理体験をより豊かにすることができるかもしれない。発達障害の診断も、丁寧な手間暇をかけるほど、より子供のリアルな日常の具体に基づいた結論を出すことができるし、その後の様々な生活場面における支援の計画にもつなげていくことができる。もともと子供についての理解が深く、適切な対応ができている親であっても、体系的な評価をもとに子供の特性について説明されることでより客観的な理解を得ることができるかもしれない。

・使える材料が多いほど、多くのニーズに対応できる
 もちろん使いこなせるアイデアと技術があれば、という話だが、多くの食材を必要に応じて手に入れることができれば、それだけ多様なメニューを準備できる。様々な顧客のニーズに応えることが可能となる。発達障害児の診断においても、臨床医が素養として身につけている領域(小児科学、小児神経学、精神医学、心理学など)の数、スタッフの人数や専門性の種類、利用可能な診療設備などが多い程、より幅広い患者のニーズに応えることが可能となる。ただし、ニーズの多さと利用可能な資源との現実的なバランスが必要だが。また、医療では料亭以上に必要のないことをしないようにする配慮が必要となる。

・手間暇を掛け多くの素材を使い分けられる料理人は簡単な料理を作ることも出来るが、その逆はない
 強迫的な思い込みで手間をかけている人は別にして、適切な材料に適切な手間を十分にかけられる料理人であれば、入手可能な材料と使える時間に応じて簡略化した料理を用意することは可能だろう。その逆に、簡単で大雑把な料理しかしたことがない人が突然珍しい材料を取り入れ複雑な工程を必要とする料理を作るように言われても難しいに違いない。同様に、発達障害の診断をできるだけ丁寧に時間をかけて行っている医師は、使える時間も利用できる検査も少ない状況であってもそれなりに効率の良い情報収集に基づいてできるだけ今後の対応に役に立つ結論を出すことができるだろう。それだけではなく、そういう制約の多い状況においてたどり着いた結論にはどういう限界があるかも明瞭に意識した上で診断できる。

 さて、どうだろう。料亭の料理と診断が類似しているとして、それに何の意味がある?程度の話だ。発達障害の診断のために受診することは全てを犠牲にしてまで優先するほどのものではないけれど、でもそれなりに価値はあるよという話。

2015年9月2日水曜日

ハノイの喧騒

最近、小さな学会に参加するためにベトナムのハノイに行った。短いながらもなかなか面白い旅であったが、特に印象に残ったのは市街地の道路上で繰り広げられる喧騒である。空港に到着し、ミニバン型タクシーに乗ることになった。我々は6人で、タクシーの座席は7人乗りである。運転手を計算に入れるとちょうど良い。と、思いきや、そのままではスーツケースが載せられないことが判明し、座席を一つ潰すことになった。それでは一人乗れないではないかと心配すると、運転手は「大丈夫」と言い切り、2列目の3人席に4人詰め込んで出発した。この時点で嫌な予感がしたのであるが、ハノイの市街地に入ると道路の混沌とした状態に驚愕した。
 殆どの大通りは大量の車とバイクで溢れている。何と言えば良いのだろう、自分の進行方向に少しでも隙間があれば、皆グイグイと入っていくのだ。車同士の車間距離は日本の常識では考えられないくらいに狭いし、その隙間に横からバイクが入ってくる。ハノイ市内の大通りには信号機が非常に少ないのだが、信号機があって、しかも赤になっていても、進行方向に進む余地があれば強引に入り込んでくる。バイクの多くには複数の人が乗っている。二人乗りとは限らない。3人乗り、4人乗りが少なからず走っている。そして、車もバイクも進行方向を妨げるものがあれば、遠慮会釈なくクラクションを鳴らす。だから交通量の多い通りではひっきりなしにクラクションが鳴り響いている。まるで洪水の濁流のように車とバイクがけたたましくクラクションを鳴らしながら走っているのだ。滞在中、タクシーに乗っている時には僕は常に緊張で全身を強張らせていた。
 さらに驚くべきことには、この自動車とバイクが入り乱れて走っている道路を歩行者が横断するのである。若くて特別機敏な人だけが横断しているわけではない。老若男女関係なく、どんどん横断しているのだ。なぜこの濁流を渡りきることができるのか?まるで魔術か奇跡をそこかしこで目撃してしまうような気分になった。単なる歩行者だけではない。天秤棒を担いだ人や自転車に乗った人達も道路に沿って進み、あるいは横断している。さらにさらに驚くべきことに(と、僕には思えたのだが)、これだけ混沌とした道路状況にもかかわらず、事故が起こらないのである。わずかな滞在期間で自分の目で見た範囲のことを言っているので、実際どの程度交通事故が発生しているのか把握していない。しかし、これ程でたらめな(に見える)交通状況なら至る所で事故が発生しても不思議ではない気がしたのであるが、少なくとも僕が見た範囲では事故が起こっている様子は全くなかった。
 数日間滞在しているうちに、気がついた。ハノイの道路、悪くないなと。まず、けたたましいクラクションで最初は気づかなかったが、意外にどの人の運転も荒くない。グイグイと隙間に入ってくるのだから荒くないという表現で良いのかどうかわからないが、殆どの車やバイクの挙動は穏やかで、猛烈なスピードで走る車や急発進・急停止をする車は見当たらない。前方に自分が入る隙間がない時には穏やかに停車する。だから、歩行者がスタスタと歩いていれば(よけきれなければ)ちゃんと停止する。歩行者側も車が止まることに対して完全に信頼している様子で、悠然と横断する。むしろ、隙を見て走り出すような唐突な行動をとる方が車側から予測が難しくて危険なのではないかと思う。クラクションの鳴らし方も、大概実務的な目的があるように見える。俺は後ろにいるぞーとか、そこに入りたいので開けてくれとか、何か伝えたいことがあるようなタイミングで鳴らしている。怒りに任せた鳴らし方には殆ど遭遇しなかったと思う。そう、これほど混沌とした道路の上で、怒りの感情を目撃することが殆どないのである。
 ひょっとしたら、ハノイの人達は自分はこうしたいという要求を率直に表明しあっているのかもしれない。その上で、それぞれがギリギリのラインで譲り合っているのではないかと思う。現地で直接交流した人達から受けた印象も、この推測と矛盾しない。直接接することのできたハノイの人達の殆どは穏やかで親切であった。しかし、遠慮深いとか控えめということは全くなく、自説を堂々と主張するし、相手への要望をしたたかに表明する。そして人々はお互いに相手の主張や要望を根気よく聞こうとする。恐らく互いに考えを率直に主張し、粘り強く交渉するという文化ではないかなと想像する。5日間しかいなかったので本当のところは分からないが。
 さて、日本に帰ってくるとなんと道路の穏やかなことか。車は車間距離を空けて整然と走るし、バイクが入り乱れていることもない。信号機は至る所で見事に機能している。ハノイと日本の道路事情の違いから、日本人のマナーの良さを主張したくなる人もいるかもしれない。
 日本の社会は自分の意見や要求を率直に表明することをあまり良しとしない。相手が口を開く前に相手の気持ちを忖度し、それに沿って振舞うことが求められがちである。そして人を不愉快にさせない振る舞い方の細かい規則が増殖し、マナーとして広まっていく。見えない規則でガチガチに縛られている社会に暮らしているせいか、少し逸脱した人に対しては一斉に非難の矛先が向かってしまう。もしもハノイが、僕の想像した通りに自分の主張や要求を率直に表明し、他者の主張や要求をきちんと聴き、その上で交渉し譲り合う文化だとしたら、その方が住みやすいのかなあとも思う。ただし、ハノイに住んだとしても自分で車を運転する自信はない。

2015年8月29日土曜日

アクティブで感動的、そして空虚

最近ある大学でアクティブラーニングの実践例という講義を見学する機会があった。参加者の緊張を取る軽いゲーム(アイスブレーク)で始まり、グループ討議、グループごとのプレゼンテーションと進行する、今流行りの形式を踏襲していた。15コマの講義の最終日にあたるらしく、教師も学生も前期の総決算という意気込みで取り組んでいた。全グループのプレゼンテーションが終了したらその講義も終わりだ。最後に一言ずつ学生がコメントしていたが、人前で話すのが苦手だったが自分の意見を言えるようになったと感動しながら述べる学生が何人かいた。参観者からも学生の能動性を引き出したことに感心したという賞賛のコメントが多く寄せられていた。それらの発言を聞きながら、僕は困り果てていた。僕には大学の講義として考える限り、賞賛に値するとは思えなかったからである。
 確かに学生達のプレゼンテーションは要領よくまとまっていた。しかし、どの発表を聞いても「学」が全くないのだ。どのグループがまとめた内容も、そのアイデアや主張には根拠となる理論的枠組みや方法論がなく、ほぼ100%自分達の頭の中で考えた思いつきだけで成立していた。5、6グループの中で唯一自説の裏付けとなる他者が著したデータをプレゼンテーションに含めていたグループがあったが、これも明らかに怪しいデータを引用しており(なおかつ情報源を明示していない)、情報源の確かさを検証することや引用元を明記することが教えられていないようであった。15コマを費やした講義の成果と呼ぶにはあまりにも空虚な発表ばかりである。
 昨今大学教育においてアクティブラーニングが話題になることが多い。アクティブラーニングは「学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称」である。教える内容があってこその教授・学習法である。 アクティブラーニングそのものに意味がある訳ではない。高等教育機関であれば、それに相応しい学問を学修する手段としなければ価値がない。単なる思いつきをまとめれば良いのなら、小学生でもできる。人前で自分の意見を表明できるようになったことにだけ意味を見出すなど、怪しげな自己啓発セミナーと変わらない。
 方法論は学問の重要な要素である。自由な発想といえば素晴らしいことの様に言う人が多いが、人間は本当に自由にされた時には碌な思考力を発揮できない。方法論という不自由な枠組みを構築することによって、人は様々な領域へ思索を深めることが可能となったと思う。きっちりと学問を修得させること、それを基盤として自らの考えを構築させること、こういったことにアクティブラーニングを用いてこその高等教育ではないかと思う。枠に嵌めるということに関して、国際日本文化研究センター助教授の渡辺雅子さんが興味深いことを述べている

「子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に『綴り方』の伝統に則って、『自由に、思ったままを書けばいいんだよ』と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の『型』の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、ときにはさまざまな様式を組み合わせる多様な作文です。」

 これは高等教育において学問を教えるということに通じる話ではないかと思う。