政治家で現場を自分の目で見ることを重視する(と、強調する)人が多い。現場を見ることでの気付きを重視しているのだろう。現場を自分の目で見、現場の声を自分の耳で聞くことによって、それまでは自分に欠けていた情報を知り、思い込み、誤解、偏見、考えの足りない点を改善できるということであろう。確かに、現場の状況に興味を持つことは悪くない。まるで現場の状況に興味を持たない人が政策を考えるよりも良いと思う。しかし、僕は現場を見ることをやたらと強調したがる人に不安を感じる。それは、そういう人は自分の体験を絶対視しそうな気がするからである。
人間の経験は限られている。長年ある現場で働いてきた人でさえ、個人の意見は必ずしも全容を表現していないし、誤解に基づく誤ったものになっているかもしれない。ましてや短時間現場に赴き、限られた場面を見て、限られた人の話を聞いた経験がどれほどその領域に対する知見を深めるかと考えると、甚だ怪しい。情報のサンプリング数があまりにも少なすぎる。たまたま自分が見聞きした情報が極めて偏っている可能性があり、わずかな経験に基づく推論の精度は極めて低い。サンプリング数以前の問題もある。観察・評価手法の適切さといえば良いだろうか、適切な対象から適切な方法で情報を得ようとしているかということである。例えば、ある会社の労働実態を知ろうとした時、その会社の広報部門の社員の話を上司が監督している公開の席で聴いたとする。その場合、その会社にとって都合の良い話しか出てこないことは考えなくてもわかる。自分が知りたい情報を得るためには一言で現場を見るといっても、いつ、どういう対象を選択するかは重要な条件になる。
繰り返しになるが、現場の実態を自分の目で見ることは良いことである。というよりも現場の実態から得られる情報を重視することは当たり前であり、物事を考える上での前提条件である。霞が関の役人が頭で考えた調査項目を全国にばらまき、それによって収集した情報のみを根拠に政策立案をするということがあるのなら、実態にそぐわない政策になる可能性が高い。その場合、現場の状況を直接見たり、現場の声を直接聞くことは重要な計画修正につながる可能性がある。しかし、現場で見聞きした体験から得られた気付きだけに依存して計画を進めると、それはそれで誤った判断をする可能性がある。現場で見聞きしたことによる気付きから何をどう進めていくのかを考える時、もっと深く実態を検討した書籍や報告書を探すべきだし、足りなければもっと包括的な、あるいはもっと深く掘り下げるための調査を実行する必要がある。しかし、世の中は「現場」という言葉を重視しすぎているように思う。時には神格化さえしているように思う。現場重視をやたら強調する人を見るとき、果たして現場で得られた気付きを超える客観的な考察を広げる気があるのだろうかと不安になるのである。
今、僕は保育・教育系の大学に勤務している。この業界も現場信仰が強い。下手をすると現場経験年数が客観的データを遥かに上回る論拠になりやすい。しかし、広くデータを集める努力(つまり勉強)を欠いたままに経験年数だけが長くなると、無意味なばかりか誤った信念を増強して有害でさえあると思うのだが。
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