2014年10月3日金曜日

決断する

発達障害の診療をし、その辺りのことを学生にも講義していると、自分自身の能力のアンバランスさに色々気付いてしまう。発達障害や神経心理学に首を突っ込むよりも遥か前から自分のことをバランスの悪い人間だなあと気がついていたが、最近それが非常に具体性を持って認識でき出した。発達性読字障害に該当するのではないかということについては既に書いたが( http://amnesictatsu.blogspot.com/2014/08/1.html )、他にも注意散漫さ、衝動性、機械的暗記やエピソード記憶の拙さ、運動能力やリズム感覚の粗末さなど、一つひとつ確認していくと次第に目の前が暗くなり、うなだれてしまう。そうそう、子どもの頃から十二分に自覚していたことがあった。それはかんしゃく持ちということである。ほんの些細なきっかけで、自分でも不思議な程の怒りが吹き出すことがよくあり、間欠性爆発性障害と診断しても良い。
 などなど自分の弱いところを並べ立てると身の置き所がなくなってくる。子供達の指導の基本は出来ないことよりも出来ていることや、弱みよりも強みに注目することである。自分に対しても同じ配慮をした方が良いだろう。では、僕の強みは何かと考えてみるが、なかなか自分では何に強いのか分からない。ただ、ひょっとするとこれは自分の強みなのかもしれないなと最近思うことが一つある。それは、物事を決めることが割と速いということだ。特に、選択肢が明確な事案ではあまり時間をかけずに決断する。もちろん、熟慮することなく決めていくことは必ずしも良い結果に結びつかないので、決断が速いことを単純に「優れている」とは言えない。実際、僕も「あー、もっとよく考えればよかった」と後悔することが多い。ただ、物事を決めるという過程は一つの能力かもしれないなあと最近よく思う。
 何故そう考えるようになったかと言えば、なかなか決められない人物をよく目にするからである。仕事をしていてもしょっちゅう遭遇するのであるが、このことを意識し出したきっかけは次男である。既に成人した今ではさほど目に付かないが、子供の頃はケーキ屋で食べたいケーキを選ぶだけで随分時間をかけていた。日常、楽器やスポーツなど何かの活動に興味を持っても、それを始めるかどうか考えているうちに月日が経ち、チャンスを逃すことが多かった。次男以外では、最近の極めつけは年老いた母親である。昔はそうでもなかったように思うのだが、今はうどん屋で何を注文するのかさえ人に任せようとする。僕にしてみれば何をそんなに悩む必要があるのかよく分からないのだが、「決める」ということはかなりエネルギーを必要とすることらしいのだ。年を取るとともに決める力は低下するようである。
 ある案を採用するか否か、あるいは複数の案のいずれを採用するか、といったことを決定しないといけない時、概ね次のような作業をすると思う。まず、何時までに結論を出す必要があるのかを考える。次に、特定の案を採用することおよびしないことそれぞれの利点と欠点のうち、現在明確に分かっていること、ある程度推測できること、現時点でほとんど情報がないことをリストアップする。そして、悪い結果として何が予想でき、その深刻度や対処法の有無を考慮に加える。これらの思考を経て物事を決めている。後先になるが、これらの作業の前にその問題が公的なものか私的なものかとか、重要度が高いか低いかといった重み付けもしており、これも考慮して結論を出す。
 自分で分析する限りでは、僕が物事を決めるのが速い主な理由は、曖昧な情報にあまり捕われないことのようだ。不確かな情報をもとにあれこれ考えても何か進展がある訳がないと考え、そこに時間をかけないのだと思う。不確かな情報をもとに考えることが可能なことは、せいぜいある幅を持って起こり得る可能性をリストアップするまでである。ましてや情報がないことについては考えるだけ時間の無駄である。従って、情報を得る手段がないと判断した時は、その要因について考えることは直ちに放棄してしまう。どうも無駄なことが嫌いらしい。面倒くさがりなのだろう。成果のないことにとろとろと時間やエネルギーを費やすことが嫌いで面倒くさくてたまらないのだ。また、考えても得ることのない問題については運を天に任せると割り切ってしまうらしく、さほど不安も感じない。まあ、能天気な人間なのだろう。
 決断できない人々は曖昧なことや情報の無いことで悩んでしまうのだろうか。「万が一~が起こったら」という発想から逃れられないのだろうか。考えた所で結論を出せる訳でもない時に悩むのは無駄だし、根拠も無い不安に基づく「万が一のことを避けたい」にこだわることで、決められないことのリスクが増大するのだが、多くの人はそこで身動きできなくなるのだろうか。本当の所は分からない。しかし、同じ状況におかれても決断にかかる時間は人それぞれであり、結論を出せるか否かでさえ人それぞれであることはどうも確かである。そう考えると、「決断する」ということ自体が人の一つの能力なのではないかと思えてくるのである。
 前述の様に、決断が早ければいつも良い結果を残す訳ではない。「もっと時間をかけて十分に考えれば良かった。」と歯嚙みすることは結構多い。ただ、決めることが早い性格に生まれついて最も損だなと思うことは、自分が熟慮しなかったために失敗したという経験ではない。なかなか物事を決められない人と付き合うことが至って苦手であることだ。選択肢も明確だし、決断の期限も明確だし、取り立てて準備するものは無くただ決断すれば良いと思われることを、それでもなかなか決められない人と個人的に、あるいは会議の席で接するたびに、イライラとしていたたまれなくなるのだ。思わず「代わりに僕が決めましょうか?」と言ってしまいそうになりストレスは弥が上にも高まってしまうのである。全く持って僕はバランスの悪いかんしゃく持ちである。

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