2014年9月24日水曜日

謝るか謝らないか

 朝日新聞が大変なことになっている。吉田証言について32年振りに誤報を認めたものの謝罪しなかったり、そのことを不適切と指摘した池上彰さんの原稿掲載を拒否したり、少し以前に報道した福島第一原発の吉田調書(吉田続きで分かりにくい)に関する報道も誤報であったことまでが判明したり、大騒動である。で、とうとう社長が出てきて自らの辞任を臭わせつつの謝罪会見を行った。もっと早く、こまめに謝っておけばここまで苦しまなくても済んだのに、と思うのだが、何故人は謝ることをかくも嫌がるのだろうか。
 思うに、謝るという行為を、心のどこかで相手に屈服し自己を全否定することという意味付けをしている人が多いのではないだろうか。全面的無条件降伏である。謝ったが最後、自分は相手に全面降伏したことになる。それどころか、自分の価値を全否定しないといけなくなる。そう感じてしまうのではないだろうか。相手に謝らせようとしている人の言い分を聞いていても、同じことを感じることがよくある。謝罪している人を「心がこもっていない」と責め続ける人達がいるが、いったい何を求めているのだろう。こういう場合、大概謝罪する人がどう言いなおしても満足してもらえない。下手に誠実な説明をしようものなら更に吊るし上げられかねない。恐らく、鞭打たれることを覚悟して身を投げ出すような、全てを謝罪相手に委ねてしまう態度を欲しているのではないだろうか。つまり、多くの人にとっては謝る時も謝られる時も、謝罪に抱くイメージは全面降伏ではないかという気がする。しかし、謝るということは本来そのような意味を持つ言葉なのだろうか。
 広辞苑で「謝る」を引くと、「過失や罪を認めて許しを求める。」と説明されている。これを信頼すれば、2つのステップがある。「過失や罪を認める」ことと「許しを求める」ことである。世の中ではしばしば許してもらえるかどうか、許すかどうか、ということが肥大化している。その延長線として敗北したものと征服したものという、人間同士の力関係の象徴として謝罪が扱われている。しかし、許してもらえるかどうかは相手次第である。時と場合によっては決して許されないことだって多々あるのは自明のことである。それでも許しを請うのはなぜかといえば、自らが確かに過失や罪があったと認めるからだ。謝るという行為の本質は、自分が間違っていたことを認めることではないかと思う。その帰結として、許しを求める行為が現れるのだ。こう考えて来ると、本来、謝るという行為は謝る人自身の問題であり、その結果として相手が許すかどうかは本質的な問題ではない。
 謝罪が人と人の社会的立場の上下を示すための儀式となっていることは、現在の世の中の息苦しさを少なからず助長しているのではないかと思う。逆に、謝るということは自分の犯した間違いを認めることであり自分自身の問題と理解する文化が広まれば、少し大げさだが世の中の風通しが良くなるのではないかという気がする。それぞれの人が過剰に他人との関係を気にせず、淡々と自分の失敗を見つめ、より良い高みを目指して日々を送っている方が生産的ではないか。
 何故、少なからぬ人達が謝ることを人に対する全面降伏と感じているのだろうか。謝罪の社会的意味を過剰に意識するのだろうか。この件に関連しているのではないかと疑っている現象がある。それは、教育・保育現場における「謝らせ主義」である。子どもが何か間違いを犯したり喧嘩をしたりしたとき、教師・保育士はとにかく謝らせようとする。とにかく落ち度のある子供を特定し、謝らせようとする。その結果、「過失や罪を認める」ということをすっ飛ばして謝ることになる場合が多々ある。
 子供には色々なタイプがいるが、僕が仕事柄接することが多い自閉症や注意欠如・多動症の子供達は対人関係において不器用で勘の悪い子が多い。こういう子供達は、自分の言動を客観的に振り返ることが苦手だし、人の言葉をきちんと理解することに困難を伴うことが多い。喧嘩の最中や叱られているときのような感情的に不安定になっている時であればなおさらである。いきおい自分の何が間違っていたのかを十分に納得しないまま謝らされることが多い。そこに残るのは屈辱感だけであったりする。主観的には首根っこを押さえられて無理矢理頭を下げさせられる様な体験を繰り返し味わった先に、果たして実り多い世界が待っているだろうか?
 全く別のタイプの子供もいるのではないかと思う。それは、謝ることがお手軽な手段になる子供達である。とにかくあっさり謝ればすぐに解放されることを学習すれば、謝罪の安売りをする子供は多いのではないか。「過失や罪を認める」なんて七面倒くさいことなんてしなくても、さっさと謝ってしまえばとりあえず日々は順調に過ごせるだろう。かくして、自分の失敗について十分考えることも無く、上手に謝ることだけが上達するのである。先に挙げた「謝らされる」子供達と見かけは違うが、自分の過ちに正面から向かい合うことが出来ていないという点では共通している。こういう子供が実際にどのくらい存在するのか、実感としては分からない。僕の診療場面では現実に遭遇することはほとんどないからである。何しろ、さっさと謝る子供は社会を器用に泳いでいくので、僕の診察室を訪れるということはあまりないのである。
 ただ、こういう自分の過ちを深く考えない子供の存在を考えるときに、頭に浮かんでくる大人達が大勢いる。それは、とりあえず謝ってしまう人々である。僕はずっと不思議で堪らないのだが、大学や企業の構成員が何らかの不祥事や犯罪を犯した時に、その所属施設が謝罪することがよくある。例えば、昨年デーマパークでボートを転覆させるなどの迷惑行為を大学生がしでかしたとき、大学外の出来事にも関わらず学生が所属する大学が謝罪の声明を発表した。奇妙な話である。学生が学外で迷惑行為をしでかすに寄与する大学の過失とは何であったのか。人が大勢集まればおかしな人も交じっているものである。大学が全ての学生の倫理観や社会的振る舞いを制御できるはずがない。何ら具体的な過失を認識していないのに、軽々しく謝るのは、恐らく謝っておいた方が話が早い程度の理由であろう。小学校や中学校で、生徒の親が何らかの苦情を学校に対して強く申し入れたとき、学校側の具体的な過失が何であったのか、それは防ぎ得たことなのか、といったことを十分に考えないままに謝罪するという話も日常ちょくちょく耳にする。こういうケースでは得てして折角謝罪したのに、その後に親の意向に添わない言動を教師がとり、さらに炎上するということがよくある。なんとか手っ取り早く事体を沈静化したいがために、自分には具体的にどのような過ちがあったのかを十分に吟味しないままに謝る例を見聞きすることはうんざりするくらい多い。
 謝ることの最も重要な意義は、自分自身が自分の行動を冷静に分析し、その過程で過ちに気づき、何故それが間違っているかを十分に理解し納得することだと思う。そうすることによって、人は将来の改善策を講ずることができるのではないか。こういう態度を身につけるために子供達にまず教えるべきことは、自分の振る舞いを誠実に振り返ることと納得しないままに謝るべきではないことだと思う。そして、自分の振る舞いを誠実に振り返ることには発達段階に応じた限界があるし、責める気満々の人々に囲まれて冷静な振り返りなど出来るものでもない。幼いうちから過ちを犯すたびに逐一謝り反省して「見せる」ことばかりを練習させると、結果的には自分の過ちに正面から向かい合えない人を育てることになるのではないかと思う。

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