2019年4月26日金曜日

既に世界標準があります

 最近、パソコンのキーボードに関して、自分の生来の特徴か加齢のなせる技かは分からないのだが、実に間抜けな失敗を繰り返している。まず、自分のMacbook airを最近新しい機種に買い換えた。デスクトップでは英語版キーボードを使うことが多かったので英語キーボードのMacbook airを購入した。購入して1ヶ月以上経ってから自分が購入したMacbook airは日本語キーボードであることに気づいた。ノートPCではあるが英語版外部キーボードを接続していたので、間違った製品を注文していたことに長らくピンとこなかったのだ。なんとも間の抜けた話である。
 別の案件だが、職場で使っている電子カルテに付属するキーボードが非常にちゃちなもので、かねがね気になっていた。最近の僕の仕事なんてしゃべっているか診察結果を説明する文章を書いているかしかない。やはり仕事の道具は奮発すべきだと考え、27,000円もするリアルフォースの英語版キーボードを購入した。ところが、電子カルテに使われているパソコンでは英語版キーボードを認識できず、日本語キーボードとして認識することが判明したのである。いくつかのキーではトップに表示されているものとは違う文字が画面に現れるので、使いにくいったらありゃしない。しかし、27,000円である。意地でも使い続けてやると表示がデタラメなキーボードに慣れるべく頑張っている最中である。
 前置きが長くなったが、こういう状況に陥るくらいに僕は長年日本語キーボードと英語キーボードを取り混ぜて使用している。しかも、DOS/WindowsパソコンとMACいずれでも日本語と英語キーボードを使ってきた。その経験から自信を持って言えるが、英語キーボードを使っても何も困ることはない。日本語キーボードでできることは英語キーボードでも可能である。そうなると、なんで日本語キーボードという変なものをわざわざ作ったのだろうかという疑問が湧いてくる。どちらでも用が足りるなら英語キーボードの方がキーが少なくてシンプルだし、世界中のあらゆる製品を使えて良いではないか。
 日本は独自規格を作りたがる傾向が強いと思う。医療の世界でも、病気の診断基準を日本独自に作成することが昔からよくあった。もちろん、信頼性の高い診断基準がない疾患において日本の研究水準が高く、その結果として日本発の診断基準ができるのであればなんの文句もない。しかし、世界中でかなり広く使われている診断基準が存在する時に、わざわざ日本独自の基準を作る必要性はどこにあるのだろうか。
 少なくとも技術的な世界では普遍性が高い方が便利で生産的である。独自な企画を作ることには明確な理由が必要だと思う。疾患の診断基準であれば、世界標準の基準を使っている時にそれでは問題が生じることを確認できればそれを補えるような修正案を出せば良い。明確な根拠もなく独自基準を使ってもデータの比較が難しくなるだけである。キーボードも基本は世界標準仕様にしておき、それでどうしても問題がある時に修正すれば良い。なぜ初っ端から大した根拠もないだろうに日本独自キーボードを設定したのか不思議な気がする。
 話が飛躍するような気はするが、今の日本の停滞は「日本はオンリーワンなんだぜ!」「日本は他の国とはちょっと違う」と言いたがる心性が基盤にあるのではないかと睨んでいる。普遍的な価値観を精査する中から独自の気づきを得る努力をせずに、客観的な根拠もなく日本の独自性ばかりを追いたがる傾向が様々な場面でブレーキをかけているのではないかという気がしている。

2019年3月1日金曜日

親に伝えたい総論

 発達障害を伴う子供を対象にした診療をしていると、育てている親への助言が日々の活動の中で重要な位置を占める。通常こういった助言は生活の中の問題を具体的に取り上げ、具体的な対応を考える各論的助言の積み重ねが中心となる。総論を伝えたからといって具体的な問題が解決するわけではない。とはいえ、子供への接し方を工夫するときに一貫して念頭におくべき総論的な考え方もある。ここでは親に助言するときに伝えたい総論をまとめてみた。

1. 親の心構え

 まず、総論中の総論である。

1)親子で楽に暮らせることを目指す

 どういう未来を目指すのかというイメージを持つことは大切である。「良いこと」や「あるべき状態」を目指すと精神的に追い詰められやすい。少なくとも短期、中期的には親子で疲れず楽しく暮らせることを目指せば良いと思う。具体的にはしっかり眠れる、疲れたら休める、生活を楽しめることを目指すのである。

2)無駄な努力をしない、損得勘定で作戦を考える、情緒よりは技術

 子育てで煮詰まっている状態のかなりの部分は、何も成果がないにも関わらず同じ方向で頑張り続けていることが原因になっているのではないかと思う。成果が出れば多少の苦労も報われるが、何ら得るものがないままに頑張り続けてもエネルギーを消耗するだけである。世間には「無駄な苦労はない」などと無責任に言いたがる人が大勢いるが、耳を貸してはいけない。成果をあげるということは、言い換えれば損得勘定で作戦を練ることである。上記の「親子で楽に暮らせる」ことに少しでも近づければ「得」だし、遠のくなら「損」である。そして、得が損を上回るようにするために必要なものは合理的な技術である。決して子供への愛情と熱意などという情緒的なものではない。エンジニアになったつもりになって欲しい。

3)最初の仕事は諦めること

 さあ、子供にまつわる様々な問題を解決しよう!と動き始める時、最初の仕事は諦めることである。「この子はこういう子なんだ」、「この子にはまだ無理なんだ」と諦めることである。子供が計画的に親を追い詰めようとすることなどまずない。親の期待通りの状態にならないことには何か理由がある。その理由を何とかできなければ、親も子供自身も現状を変えることはできないのである。諦めることができるとまず、親が楽になる。「しゃあないなあ」と思えるだけで随分楽になる。さらに、何が「理由」なんだろうと落ち着いて子供や子供の周囲の状況を観察する余裕ができる。

4)人を頼る、人に助けを求める、人に迷惑をかける

 おそらく日本の社会の大きな特徴の一つではないかと睨んでいるのだが、自分の力で何事も解決すべきという呪いが蔓延している。しかし、冷静に考えればすぐに分かることであるが、人は誰も自分一人の力では生きていけない。「俺は自分の力で生きてきた」とほざくおっさんは多いが、その人達全てが日々多くの人に助けられながら生きているのである。お互いに、いかに上手く人に頼れるか、上手く人に助けられるか、ということが人間社会の土台の主要成分になっていると言っても良い。
 ところが困ったことに、日々の問題が大きくて疲労困憊している時ほど人に助けを求めにくくなる。平均的な子供を育てるだけでも結構大変なのだが、発達障害を伴う子供を育てる苦労は並大抵ではない。これを切り抜けるためには、一人でも多くの人から効果的な援助を受けることが必要だ。勇気を持って人を頼り、人に助けを求めないといけない。人に迷惑をかけることを心配している暇なんて親には無いのだ。なーに、心配はいらない。世の中の人は結構親切で優しい。意地悪く非難する人達の声は大きいので、世の中敵だらけに見えてしまうかもしれない。しかし、そういう人はむしろ少数派だ。声が大きいし、心を傷つけられがちなので非難の声だらけに思えるかもしれないけれど、結構世の中捨てたもんじゃないということを理解しておこう。ただし、人を頼るといっても以下に挙げたような特徴の強い人は避けておく方が良い。

・やたらとお説教をし、人の道を説きだす
・じっくりと話を聞いてくれない、自分ばかり喋ろうとする
・根拠もなく「大丈夫よ」とか「心配のしすぎ」とか言う
・暗いことばかり言う、すぐにイライラして脅し口調になる
・助言が抽象的なことばかりで、具体的にどう動けば良いのか分からない


5)「親の務め」ってなに?それ、食べられるの?

 僕が出会った例を振り返る限り、世の中の親は、特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合、真面目な人が圧倒的に多い。こういう人達は「親なら〜すべき」と親の務めや義務を生真面目に果たそうとしている。この姿勢が100%悪いとも言わないが、問題を生じやすい。それは、実現不可能な目標を立ててしまいがちなことである。上に書いたこととも関連するが、何らかの理由があって上手くいかないことや問題は生じている。その多くはすぐには解決できないことなのである。1歳未満の乳児に、上手に箸でご飯を食べさせようとしても出来るわけがない。これと同じようなことを大真面目に目標にしてしまうと、親子揃ってひどく苦しむことになる。「べき論」とは距離を置く方が良い。なお、上に「特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合」との但し書きを書いたのは、子育てをパートナーに全面的に任せてしまっている親もいるからである。そういう親は生真面目に頑張るというよりも、批評家的にパートナーにケチをつける人が多い気がする。

2. 子供に接する上での基本戦略

1)まず目指すことは、本人を変えることではなく環境を変えること

 自閉スペクトラム症であれ、注意欠如・多動症であれ、発達障害と呼ばれる状態の特徴は物の認識の仕方や振る舞い方の特徴である。暮らし辛さにつながっていくので症状と捉え診断に繋がるが、取り立てて暮らし辛さに繋がらなければ「性格」と称しても良い、その子供個人の基本的な特徴の一部である。自分の性格を変えたいと考える人はよくいるが、短期間で変えることなど不可能である。つまり、発達障害としての特徴を無くそうとすることは別の人間に変えようとしていることに等しい。無理なのである。したがって、発達障害を伴う子供を支援する上でまず考えないといけないことは環境を変えることである。発達障害の特徴を持ったそのままの状態を受け入れ、そのような特徴を持っていても困ることが減り出来ることが増えるように環境を変えることなのである。本人以外のものは全て環境であるが、とりわけ重要な環境は親や学校園の指導者など、子供に対して指導的立場にいる大人たちである。家や土地、風土を急に変えることは困難であるが、大人なら自ら子供への接し方を変えることは可能である。

2)出来ていることに注目、出来ていないことは無視

 発達障害と診断される子供は皆、何もできない子供では決してない。それどころか、出来ることの方が圧倒的に多い。夜寝て日中は起きているだろうし、毎日ご飯は食べているだろう。着替えも出来るようになっているかもしれないし、保育園には通っているかもしれない。このレベルから改めて生活を見直せば、出来ないことより出来ていることの方が圧倒的に多いことに気づくはずである。気が散りやすく課題に集中できないとしても断続的に取り組めていれば、その断続的に取り組んでいる状態が出来ていることだ。出来ていることを意識しこまめに褒めると、出来ていることはより一層増えるし完成度も高まる。その一方で、上手くいかないこと、失敗していることは余程の実害がなければ気づかぬふりで無視することが原則である。これを徹底すると、次第にできていることが一層増え、その一方で問題は減っていく。

3)本人の納得は大切

 大人が子供に何かをさせよう、あるいは何らかの行動を止めさせようとするとき、それが当然のことだからという意識を持っていることが多い。しかし子供の立場で考えると、突然に気が進まない行動を強制されたとか、不当に自分の活動を妨害されたという風に感じることになる。いくら世間一般から見て正しいことであっても、突然何かの振る舞いを強制されたり禁止されたりしたら大人でも俄かには納得できない。1回か2回なら黙って従うかもしれないが、こういう「無理強い」が繰り返されたら素直に従えなくなるだろうし、相手に敵意を持つことにもなるだろう。これは子供でも大人でも同じことである。余程の事情がない限り、子供が納得できることを尊重した接し方が必要である。

4)変わり者を認める

 発達障害を伴う子供達は平均的な人に比べると振る舞い方や物の考え方がちょっとずれている。つまり、「変わり者」なのである。隅から隅まで周りの子供達と同じように振舞わねばならないと考えると親も子供も苦しみが増える一方である。ちょっと変わったところがあっても実害がない限りは、変わり者で良いではないかと受け入れてしまうとだいぶ楽に過ごせるようになる。

2019年2月9日土曜日

ボツになった手紙

 詳細は省くが、落ち着きのなさを主訴に受診した子供が通う保育園に対してカチンときたことがあった。ムラムラと芽生えた悪意から、その保育園に思いっきり皮肉を言ってやりたくなり手紙を書いた。10分後には悪意が透けるような文章が完成したのであるが、賢明なスタッフによって保育園にその文章を送るという計画は阻止された。ボツになった文章をここにさらしておく。もしもこの文章を読んでくださる保育者や教師がいて、たかだか診察室でしか子供に接していない医者の勘違いや考えの足りなさを指摘し、批判していただけると本望である。

 物事の認識や行動の仕方で平均的な子供たちとずれのある子供を指導するときには指導者側に思考が必要です。型通りのマニュアル的対応ではなかなか上手く行きません。最低限、以下の点について考えながら試行錯誤していくことが必要ではないかと考えます。保育・教育の素養がない医師が考えたことですから、不十分かもしれません。ぜひ、保育・教育の専門家としてより良い対応を工夫していただきたいと思います。

1)子供の強みと弱み
 日常生活において出来ることと出来ないこと(難しいこと)をきちんと整理する必要があります。弱みを知ることよりも強みを把握することの方がはるかに重要です。「集中できない」などと曖昧な捉え方をするのではなく、「仮定法を含む短めの文章が2つ程度の指示なら聞いて理解できるが、それ以上たくさんのことを言っても理解できない」という風に、出来ることと難しいことを具体的に把握する必要があります。「食事に集中できる」か否かとか「読み聞かせを聞いて楽しめる」か否かという大雑把な捉え方ではなく、「数分間なら椅子に座って食べることが出来る」とか「登場人物が3人以内で5分以内に終わる絵本なら聞いて楽しめる」という風に一つの活動の中をさらに細かく分析する必要があります。そうすることで、「出来ない」と考えていた活動の中でさえ「出来ている」ことがたくさんあることに気付くことができます。

2)何故出来ないのか
 基本的に子供が悪意で振舞うことはほとんどありません。上記1)の分析の結果整理できた弱み、あるいは出来ないことには何らかの理由が必ずあります。まず考えることは子供本人に備わる要因です。例えば、注意を集中できる時間が平均より短い、反射的な行動を抑制する力が平均より弱い、直感的に人の気持ちを理解する力が弱い、知的な理解力が低い、一度に聞き取れる言葉の量が少ない、というようなことです。そして、これらの本人に備わった要因と環境とのミスマッチにより上手く出来ていない状態になったのだと考えます。つまり、現在の環境が本人の特性を許容できていないことに問題があると考えます。本人の行動の仕方をよく観察し、どの様な本人要因があるのか、そして環境の中で子供にあっていないものは何か、ということについて仮説を立てる必要があります。その仮説に基づいて、子供の苦手さを援助する具体的な作戦を考え実行しましょう。上手くいかなければ、仮説を修正したり、新しい仮説を立てて作戦を練り直したりしましょう。

3)指導の目的は何か
 それぞれの活動において何を目的として指導するのかをよく考える必要があります。指導者の計画どおりに子供が振舞うことを目的にしてはいけません。集団での指導に問題なくついてくる子供達であれば個別に目的を設定する必要はないと思います。しかし、指導者の想定についてこられない子供の場合は、それでもその子が何か得るものがあるような目的を個別に設定しなおす必要があります。たとえ集団生活の中で基本的には同じ活動に参加させるのであっても、子供によっては狙いを変え、それに応じて参加の仕方を修正していく必要があります。

4)まず考えることは環境を変えること
 上記2)で説明しましたように、生活の中で上手くいかないことは本人の特性と環境とのミスマッチによって生じます。本人を変えることは別人に変えることに近いので、そうそう出来ることではありません。まず考えるべきことは本人の苦手さを補えるように環境を変えることです。例えば、集中力が弱く長時間人の説明を聞くことが難しい子供に対しては、一度に多くの指示をせず、短く具体的な言葉を選ぶことや、目で見て分かるような補助手段を併用することなどを考える必要があります。
 苦手な部分を補うことと並行して大切なことは強みを伸ばすことです。上記1)の分析をすれば、ほとんどの子供は出来ることがたくさんあることに気が付きます。むしろ、大問題に見えていた出来ないことは子供の生活の中のほんの一部であり、できることが圧倒的に多いことに気づけます。指導者は出来ていることの一つ一つに注目し、それらの成し遂げていることを繰り返し本人に伝える必要があります。そうすることで、すでに出来ていることが一層増え、子供は自信を持てます。(※)
(※)実はこの段落は後付けである。公開前に見直しているときに、とても重要なことを説明し忘れていることに気付いて書き足したのである
5)繰り返す問題行動には、その行動を起こすことによって得る物がある
 注意しても注意しても繰り返す問題行動があるときは、その行動をとることで子供自身が得られる物があります。欲しい物が手に入るとかしたいことが出来るようになる程度のことなら分かりやすいと思います。分かりにくいことが多いのは、嫌なことから逃げられる場合や、人(特に担任など大事な人)からの注目を得られる場合があります。逃げたい嫌な活動とは無関係な騒ぎを起こして逃げ出すことに成功するときは、何から逃げようとしているのかが分かりにくくなります。また、担任から繰り返し叱られている場合、担任からの注目が得る物となっていることがしばしばあります。その場合は、叱れば叱るほど問題行動を繰り返させることにも繋がります。
 以上のように考えると、問題行動への対処はその行動を起こしても得る物がないようにすることだということは考え付きやすいと思います。しかし、それだけではなかなか解決できないことがよくあります。何かを得る必要があるため問題行動を繰り返しているわけですから、合理的な対処で最も重要なことは問題行動を起こさなくても必要なものをその子供が手に入れられる状況を作ることです。例えば、担任の注目を得るために問題行動を繰り返す子供の場合は、問題行動を起こしても担任が注目しないようにすることに加えて、普段そこそこ適切に振舞っているときに繰り返し良い注目を与えることが必要となります。

6)善悪の観点で物を考えない
 保育や教育の場で上手く適応できない子供達の振る舞いは、指導者の目から見ると「よくないこと」になることが多いものです。いけないことや悪いことをした子供として繰り返し注意したり叱ったりすると、解決のチャンスが遠ざかります。倫理的問題と考えず、上で説明したように本人の特性と環境とのミスマッチと考え、環境をどの様に変化させようかと技術的問題として考えることが重要だと思います。

2018年12月31日月曜日

発達障害の境目

 発達障害の診療をする外来には、「障害なのかどうかはっきりさせるために」と担任に言われ、あるいは親がそう考えて、受診する子供たちが大勢いる。障害かどうか、という問いには意味があるのだろうか。あるとも言えるし、無いとも言える。ただ、意味があるとしてもその実態は受診を勧めた担任や親が想定していることとはかなり異なる。発達障害の中には様々なものが含まれる。中でも核となる病型は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)および学習障害である。発達障害には、少なくとも核となる3病型には共通した特徴がある。それは程度問題だということである。


 ASDにしてもADHDにしても、あるいは学習障害でも、個々の人がそれぞれの特性をどの程度持っているかを測定する評価尺度がある。例えば、どの程度ASD的な特徴を持っているのかを評価するツールは複数ある。どの病型の評価尺度でも、普通に暮らす人々を対象に評価し得点分布をプロットすると図1の様になる。横軸は評価尺度の得点を表し、高いほど(つまり右に行くほど)その病型の特性が強い。縦軸は人数である。発達障害の診断を受けていない人々が対象なので、当然大多数の人は得点の低い方に集中する。ただ、図に示した様に、かなり高得点の領域まで長い裾を引くことが普通である。


 図1に、診断された人を対象とした得点分布を重ねたものが図2である。赤い線で示したプロットが診断された人々での得点分布だ。診断を受けた人達を対象にすると一般の人と比較して山が高得点の方に寄る。何らかの発達障害病型の診断を受けた人にその特性が強いことは当たり前である。ただ、ここで注目すべきことは左の低得点領域までかなり裾が伸びていることである。つまり、診断されていない「普通の人」として暮らしている人々と診断された人達には少なからぬ重なりがある。特性が比較的弱くても診断される人もいるし、かなり強くても診断が必要ない人もいる。「普通の人」と発達障害を伴う人の境目は一体どこにあるのだろうか。
 こう考えれば分かりやすい。発達障害特性というものは「普通の人」には認められない特殊な特徴ではなく、人間のバリエーションの範囲内の特徴なのである。分かりやすいのでADHDを例にとって説明する。ADHDは日常的な言葉で言えばうっかり屋さんでぼんやり屋さんで落ち着きのない人である。世の中の人はうっかりしていない人とうっかりしている人に綺麗に別れるわけではない。かなりうっかりの少ない人から相当うっかりの強い人まで様々な人が存在する。その中で生活に支障が出る人、周囲の人の配慮や援助がなければ暮らし辛い人がADHDと診断されることになる。冒頭に書いた「障害かどうか」という問いへの答えであるが、暮らし辛く困っていれば障害なのである。環境に不適応を生じた状態だ。うっかりの程度がどの程度であっても、日常生活において暮らし辛さに繋がらなければ性格とか個性と言えば良い。うっかりすることによって今現在何らかの問題が生じ暮らし辛い時、それが障害による問題なのかそうでないのかを議論することはナンセンスである。問題が生じ暮らし辛いというその状態を障害と呼ぶのだから。そして、この困るかどうか、苦しむかどうかの境目は本人が生まれた時から持っている特性の程度のみによって決まるのではない。暮らしている環境がどの程度その特性を許容できるかどうかとの兼ね合いで決まるのである。


 ここまで書いたことを図示したものが図3である。なんらかの発達障害特性は人間のバリエーションとして非常に弱い人から非常に強い人までが存在するが、多くの人は比較的弱い領域に集中する。その特性が強くなるほど環境への不適応を起こしやすく、発達障害として診断される割合が高まる。図3の赤い斜線で示した部分が診断された人を表す。同じ程度に特性を持っていても、環境の条件が良ければ適応できるし、条件が悪ければ不適応を生じて診断されることになる。
 さて、教育界では2000年前後から10年ほどかけて特殊教育から特別支援教育への変換がなされた。それとあい前後して社会全体にも発達障害が認識される様になってきた。この流れの中で、誰にも気付かれず密かに苦しんでいた人達が見出され、合理的な配慮をすることの重要性に気付かれたことは意義があったと思う。しかし、発達障害の可能性がある子供を見つけ、片っ端から医療機関を受診させることに夢中になっている現状はそろそろ見直すべき時に来ているのではないだろうか。少しでも平均からずれた子供を抽出して医療に委ねるのではなく、多少何らかの特性を強く持っている子供も特に意識することなく暮らせる場を作ることを目指すべきである。



 上で述べた様に、同じ程度の特性を持っている人であっても環境との兼ね合いによって暮らしづらさは変わるし、診断されるかどうかも違ってくる。もしも社会全体が余裕に乏しく少しでも平均から外れた人を受け入れられない状態なら赤い斜線部は左に寄る(図4)。こういう社会では、かなり平均に近い人でも場合によっては暮らしづらくなり障害と診断される。逆に、社会全体が人間のバリエーションを広い範囲で許容できれば斜線部は右に寄る(図5)。より多くの「変わり者」を包摂できる社会である。大勢の人が暮らしやすいのは言うまでもなく図5の社会である。社会全体が一気に図5の様な社会に変わることは難しいだろう。まずは明日の社会を支える子供たちの暮らす場から変えていく必要があるのではないだろうか。そのためには平均からずれた子供たちを掘り起こして片っ端から医療機関に送ることではなく、その様な子供たちが暮らしやすい学校園に変える努力が求められる。

2018年12月16日日曜日

学校園の皆様へ

 発達障害を専門に診療している医療機関を受診する時、保護者が保育園、幼稚園、小学校の先生に受診を勧められたからというケースがかなり多い。それ自体は悪くない。しかし、学校園の担任が受診を勧める過程によってはそれ以降の子供の支援に悪影響を及ぼすこともあり得る。とりわけ、保護者が受診に不本意であり、「させられた」という意識が強い時、問題を残しやすい。ここでは学校園の担任が保護者に受診を勧める際に留意してほしいことを解説する。まず、受診をする最低条件を説明する。次いで、最低条件の説明を念頭においた追加の提案を述べる。
 病院を受診する前に最低限クリアすべき3つの条件がある。それは、1)問題になっている具体的な状況を保護者が十分把握している、2)問題であることを保護者が認めている、3)保護者が受診を希望している、の3つである。以下にそれぞれについて詳しく説明する。

1)問題になっている具体的な状況を保護者が十分把握している

 誤解している人が多い気がするが、発達障害に属する病型の診断は診察や検査によって確定できるものではない。診察のみで診断基準を満たす患者はかなり例外的である。また、発達検査とか知能検査は本人の能力を把握するために重要であるが、ほとんど発達障害の診断根拠にはならない。では何が必要かと言えば、日常生活における行動についての具体な情報である。とりわけ、問題が生じている状況についての詳細な情報が必要となる。通常子供本人がその様な状況を語ることは難しいので、発達障害の診断は保護者からの情報に依存している。保護者が具体的な状況を何も把握していなければ、何らかの診断をすることは困難になる。「大きな問題はないですね」で済んでしまう可能性だってある。そうなると、多くの親は問題がないということにすがってしまい、結果的に必要な援助がなされるまで却って時間がかかることにもなりかねない。
 学校園の担任が熱心な場合、詳細な状況を書類にして提供してもらえる時がある。これは子供を評価する上で非常に役に立つ。ただ、具体的な状況を的確かつ簡潔に文章にまとめることは誰にでもできることではない。多くの場合は必要な情報が十分記載されていない。本当は医師が直接担任に質問し話を聞き出せれば良いのだが、多くの教師・保育者は忙しくてその様な時間は取れない。結局、状況を把握していない保護者から聞き取ったことと学校園からの不十分な情報しかなければ正確な評価をし、結論を出すことは難しいのである。
 話が横道にそれるが、学校園からの情報について補足しておく。学校園の状況を書類で病院に伝える時、それを保護者に見せたがらない教師・保育者が結構多い。しかし、保護者に秘密にした上で医師に情報提供をすることは原理的に難しい。診療の過程で受け取った書類は基本的にはカルテの中にファイルされていく。仮にカルテとは別にして保存するとしても、少なくとも学校園からの情報を診断の根拠の一部とする際には、その情報を学校園から得ていることをカルテに記載する。そして、カルテは患者のものである。患者の求めに応じて見せなければならないし、医師がそれを拒んでも開示請求されたら患者に提供しないといけない。つまり、診療にまつわる情報である限りは、保護者に内緒で医師に提供できると考えない方が良い。このことからも、学校園で観察された具体的状況を初めから保護者と共有するようにしておく方が良い。保護者に内緒で病院に伝えることは、虐待の疑いがあるなど直接受診理由とはならないが配慮しておいた方が良い情報に留めておく方が良い。

2)問題であることを保護者が認めている

 学校園での状況を具体的に把握できたら、次は保護者がその状況を問題として認識できることが必要である。「問題」と表現したが、これはその子供が正常か異常かという観点の話ではない。倫理的な善悪も考慮の外である。ここでいう問題とは、本人が意識できているかどうかに関係なく子供が現在困っている、あるいは近い将来困りそうな状態を意味している。従ってその暮らし辛さを軽減するあるいは予防する必要性がある状態である。言い換えれば、子供が生き生きと建設的に暮らせるようにするためには援助が必要な状況であることを保護者が認識できることが必要である。

3)保護者が受診を希望している

 上に説明した手順を丁寧に踏めば、保護者自身が受診を希望しやすくなる。しかし、ここでは敢えて保護者(ある程度年齢が上がれば子供自身も)が受診を希望することの重要性を強調しておく。以前、ある自治体の教育委員会の職員と話をしていてお互いに気が付いたことがある。教師は良いこととされていることはするのが当たり前と考えがちだ。社会一般の価値観として考えがちなのである。ところが、医療では必ずしもそうではない。医療は基本的に患者との個人契約の上に成り立っている。仮に患者が自ら損をする判断をした場合でも、そのリスクを説明はするが結局は患者の意思を重視する。例えば、特定の宗教の信者が輸血拒否をすれば、たとえ命を救うために輸血が必要であっても医師が無理やり輸血することはない。医師は「教え、指導する」ことが仕事ではない。苦しみを逃れたいという患者の要望を可能な範囲で実現することが仕事なのである。患者自身、あるいは保護者が受診を希望することは、救急医療などの特殊な状況を除き最大限尊重されるべきことである。

 この文章で主として伝えたいことは以上である。ここまで述べたことを元に学校園で子供達を育てている方々へ、幾つかの提案をしておく。まず、保護者が納得していないのに受診を強要することはやめていただきたい。保護者に子供が困っている状況を丁寧に説明し、共に子供を支えるチームの一員として方策を考えていく中で、一つの策として受診を提案することが望ましい。ここまでは学校園の担当者の職務の範囲内である。病院を、問題の存在を親に納得させるための手段には決してしないでいただきたい。本来病院は苦しみから救われたいときに頼ることのできる選択肢の一つである。ところが、不本意な結論を飲まされた場所になると、下手をすれば病院を頼ることができなくなる。
 次に、診断だけが目的の受診は無駄なので、やめることをお勧めしたい。発達障害の診断は対処に直結しない。発達障害を伴う子供達への支援は日常の具体的な問題に対して工夫していくことが基本だからである。注意欠如・多動症で薬物療法を行うなど、一部例外はある。しかし、学校園での支援策が診断によって決まることはない。逆に、診断をしなくても支援はできる。診断名を聞いて適切に子供を指導できるようになったと主張する担任もいるかもしれない。しかし、その様な人は診断名を聞かなくても適切な指導ができるはずである。なぜなら、発達障害を伴う子供に適切な支援ができるということは、診断名が示す子供の行動特徴をよく理解するだけではなく、診断を超えた子供の行動特徴も把握できているはずだからである。そのようなことができる指導者なら、必要があれば病院に頼らなくても自分で診断できると思う。
 最後に、「育て方」や「指導の仕方」について医療者は素人であることを改めて意識していただきたい。教師や保育者が医師に指導の仕方を教えてもらおうとすることは、医師が教師や保育者に診察法や薬の使い方を教えてもらおうとすることと同じ様なもので、極めて的外れな状況である。教師や保育者の皆さんには是非、「育て方」や「指導の仕方」の専門家としての自負を大切にしていただきたい。
 今の発達障害を伴う子供への対応は医療中心になりすぎていると思う。診断が問題になりがちであるためどうしても医療が前面に立ちやすい。しかし、医療が果たせる役割はそう大きくない。一部の薬物療法や、原因疾患あるいは合併障害・二次障害への対応に限られる。もっと教育や保育のシステムの中で、個々の教師・保育者が適切に子供達を指導できる様に支援する仕組みを構築する必要があるのではないだろうか。

【蛇足】
 2000年前後から、中央教育審議会の「特別支援教育を推進するための制度の在り方について(2005)」、2006年の教育基本法の改正、2007年の学校教育法の改正などを経て、特殊教育から特別支援教育へと教育制度が大きく変化した。この流れの中で、それまで日が当たりにくかった発達障害を伴う子供達についての認識が高まったことは大きな成果であったと思う。ただ、特別支援教育への転換が始まってから20年近くが経つ今となっては、そろそろ発達障害を伴う子供達の支援について考え方を修正する時期に来ていると思う。当初は、それまで気づかなかった自閉スペクトラム症や注意欠如・多動症などの発達障害という概念に気付き、その可能性がある子供達を掘り起こしていくことには意味があったと思う。しかし、そろそろ発達障害の可能性があれば兎にも角にも病院を受診させることはやめるべきである。つまり、たとえ発達障害を伴っていても基本的には学校園の中で援助し、育てられる様にしていくべきである。文部科学省も特別支援教育とは「障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものです。 」と述べている。多少平均的な子供たちから振る舞い方や考え方がずれた子供でも、一般の子供のバリエーションの範囲内として包摂できる様に教育の枠組みや指導方法を変えていくべきである。その中で、困難さの度合いが特別高く医療的アプローチの必要性がありそうな子供に限って病院を受診させれば良いと思う。

2018年8月31日金曜日

親と学校園のすれ違い

 発達障害診療をしていると、学校園側と親の認識の差に悩まされることがしばしばある。子供に問題があるという認識が学校園側に強く親に弱いというパターンと、親が強く気にしているが学校園側はなんとも思っていないパターンがある。特に困るのが前者である。親が受診の必要性をほとんど感じていないにも関わらず、学校園側が拝むようにして、時には脅すような言動までとって受診を勧めた結果、親が渋々、あるいは半信半疑で子供を病院に連れてくるという状況になる。
 このような状態で受診されても子供にはほとんどメリットがない。仮に医師が親から聞き取った話だけを根拠に判断すれば、ほとんど問題ありませんという結論になる。親はその結論に飛びつくので、その結果子供は適切な支援を受けるチャンスが遠のくことになる。
 逆に、診察時の観察と学校園側からの乏しい情報を精一杯拡大解釈をして自閉スペクトラム症なり注意欠如・多動症なりの診断を下したらどうだろうか。問題の存在を無理やり押し付けられた親は建設的に子供に接することができるのだろうか。そして親の心中にお構いなく療育だ、特別支援教育だと公的制度に機械的に当てはめられていくことが果たして良い結果につながるのだろうか。長期にわたり誰よりも子供を支えていくのは親である。当然、親こそが最も子供の置かれた状況を正しく理解し主体的に子育てに取り組んで欲しいのに、親置き去りで物事が進んでいくことによって子供にとって適切な生活を保証できるのだろうか。
 親が十分に受け入れられないままに発達障害の診断を急いでも得るものはあまりない。子供が困っている、あるいは困りそうな状況について親と十分に共通認識を形成できるまでは原則として受診させるべきではない。問題点の共通認識を形成することは学校園の教師・保育者が責任をもってなすべき仕事である。何故これが上手くできない担当者が多いのだろうか。
 学校園と親のディスコミュニケーションが生じる要因は色々あると思うが、中でも重要なポイントは親に問題を伝える際に事実と解釈の分離をきちんとできているかどうかではないかと思う。親には解釈を伝えるのではなく日々起こっている事実を淡々と伝えてほしい。単なる事実の伝達なら、担当者が嘘つきと思われていない限りは親も受け入れやすいと思う。正常か異常かという観点や何らかの診断に該当するという前提が前面に出ると、日常問題を感じていなかった親ほど素直に受け止められなくなる。たとえ明確に結論を述べていなくても話の持って行き方によっては担任が子供を異常と考えている、あるいは何らかの障害と見做しているということは分かるものである。いきなり病院受診を勧めればいかなる言い訳をしようが御宅の子供さんは異常ですよ、何らかの診断がつきますよと言い放っているも同然である。焦って病院受診を迫らなくても良いように、あまり大きな問題が生じていない段階から気になる振る舞いがあればこまめに客観的な態度で伝えていくべきである。
 とはいえ、問題となる事実ばかりを繰り返し聞かされると親は凹むものである。何かが上手くできるようになったとか、何かに頑張ったとか、良いニュースも織り交ぜながら伝えるべきだろう。その他にも事実を伝える際に配慮すべきことがいくつかある。まず、徹頭徹尾子供の立場に立って、子供が困らないようにサポートしたいという姿勢を前面に出す必要がある。また、親に解決を迫っていると受け取られないように細心の注意を払うべきである。間違っても、教師・保育者が迷惑を受けて困っていると主張しているように受け取られないようにする必要がある。そのためには、ささやかで良いので自らが次の一手を考えていることを伝えるべきである。伝えてはみても成果が上がらずに終わるということを恐れる必要はない。たとえすぐに成果を出せなくても、子供のためにあれこれと工夫しようとしてくれている先生を親は信頼するはずである。
 このように、教師・保育者自身がなんとか解決の枠組みを構築する中で、その一要素として病院受診を提案すれば良い。困り果てた時に病院に放り投げたらなんとかなると期待したくなるかもしれないが、発達障害を伴う子供たちの支援において病院や医師が果たせる役割は極めて小さいということを認識しておくべきである。もともと病院が関与するかどうかに関係なく、学校園での問題を解決できるかどうかは教師や保育士が自らの責任において対策を工夫し、それを実行していくかどうかにかかっている。

2018年3月28日水曜日

続くことと切れること

 12年前、僕は年男だった。そしてその年に僕は私立大学文系学部の教員になった。我ながら柄にもないと思うのだが、「教育者」になった訳だ。厳密に言えばそれ以前も名目上は大学教員だったのだが、実態は大学付属病院の勤務医だったので教員という意識はほとんどなかった。そして12年経った今年、年男である僕は自分に不似合いな大学教員を辞し、医療職に戻ることになった。ここでは転職に伴って抱いた極めて私的な感情について述べようと思う。それは、転職に伴う罪悪感についてである。
 大学病院勤務を実質的に教職ではないとみなせば、僕が教職を辞するのは今回が初めてである。しかし、医療職として勤務していた施設を辞めることは今までに何度もあった。この度も職を変わるに伴い非常勤医として通っていた病院をいくつか辞めることになった。病院を辞する時、僕はいつも少なからぬ罪悪感を感じる。これは非常勤の病院であっても同じである。何に対する罪悪感かと言えば、長く受診してくれる患者を継続して診られなくなることに対する罪悪感だ。大した力もない僕を、それでも頼ってくれていた患者との付き合いを続けられなくなることに、胸中痛みを感じるのである。
 今年大学を去るにあたり、医療職を辞める時とは違うことに気づいた。あまり罪悪感を感じないのである。もちろん、碌な仕事をしていなかった僕でも辞めるとなれば、僕が担当していた講義の担当者を探すことを始めとする諸々の後始末を他の職員がすることになる。申し訳ないといえば申し訳ない。しかし、これは職務の範囲内である。僕の様な義理人情に薄い人間にとってはもともと大した話ではない。僕がおやっと思ったのは、学生に対しての罪悪感の乏しさである。医師にとっての患者は教員にとっての学生であるからして、辞めるとなれば学生に対する申し訳なさで胸が痛むかと言えばそうでもない。病院を辞めるときに患者に申し訳ないという気持ちが湧いてくるのに、学生に申し訳ないという気持ちは湧かないのである。ただ、唯一の例外がある。それは2年間の付き合いをする予定であったのにたった1年で放り出してしまうことになったゼミ生達である。彼らに対してだけは申し訳ないという思いが強く残った。まさにここがポイントである。本来なら今後も付き合い責任を負うはずであるという継続性があるかないかが罪悪感を覚えるかどうかの境界線なのだ。原則として、教員の仕事は連続性が乏しい。あるいは節目が明確であると言っても良い。基本的に年度ごとに一区切りになる。大学の教員であれば半期の講義ごとに一仕事が済んでしまう。もともと「切りがついた」という感覚を持ちやすいのではないだろうか。一方、臨床医は様々な患者を並行して診ているので、切れ目を感じにくい。特に僕は専門が子供の障害であるため、それぞれの患者との付き合いが何年にも渡ることは普通である。
 ところで、以前から気になっていたのだが小中学校の教師は申し送りをしない。発達障害を伴うなど特別な支援が必要な子供に対して、多くの教師は熱心に対応する。その過程で、その子供についての沢山の気付きがあるだろうし、自ら支援の手立てを工夫することも多いだろう。せっかく積み重ねた貴重な経験を次の担任に伝えれば、子供本人にも次の担任にも大きな助けになるに違いない。しかし、僕の経験する限りでは、旧担任から新担任への引き継ぎが丁寧に行われていることは滅多にない。もちろん例外はあるが。今まで僕は、教師間の引き継ぎが充分にされないのは医師がカルテを書くことに匹敵する生徒個人個人の記録を残す習慣が無いことや、個々の子供ではなく子供集団として考えやすいことが関係しているのだろうかと想像していた。これらに加えて、この度の退職にまつわる個人的感慨から、ひょっとしたら教師は年度単位で考える習慣が身に付き継続性を考慮しにくいのかもしれないなあと気付いたのだ。もちろん僕の勝手な想像であり、不確実な話である。
 さて、来週から新しい職場の生活が始まる。感傷に浸って根拠なく愚にもつかない想像を巡らすのはここまでにしておこう。