2018年12月31日月曜日

発達障害の境目

 発達障害の診療をする外来には、「障害なのかどうかはっきりさせるために」と担任に言われ、あるいは親がそう考えて、受診する子供たちが大勢いる。障害かどうか、という問いには意味があるのだろうか。あるとも言えるし、無いとも言える。ただ、意味があるとしてもその実態は受診を勧めた担任や親が想定していることとはかなり異なる。発達障害の中には様々なものが含まれる。中でも核となる病型は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)および学習障害である。発達障害には、少なくとも核となる3病型には共通した特徴がある。それは程度問題だということである。


 ASDにしてもADHDにしても、あるいは学習障害でも、個々の人がそれぞれの特性をどの程度持っているかを測定する評価尺度がある。例えば、どの程度ASD的な特徴を持っているのかを評価するツールは複数ある。どの病型の評価尺度でも、普通に暮らす人々を対象に評価し得点分布をプロットすると図1の様になる。横軸は評価尺度の得点を表し、高いほど(つまり右に行くほど)その病型の特性が強い。縦軸は人数である。発達障害の診断を受けていない人々が対象なので、当然大多数の人は得点の低い方に集中する。ただ、図に示した様に、かなり高得点の領域まで長い裾を引くことが普通である。


 図1に、診断された人を対象とした得点分布を重ねたものが図2である。赤い線で示したプロットが診断された人々での得点分布だ。診断を受けた人達を対象にすると一般の人と比較して山が高得点の方に寄る。何らかの発達障害病型の診断を受けた人にその特性が強いことは当たり前である。ただ、ここで注目すべきことは左の低得点領域までかなり裾が伸びていることである。つまり、診断されていない「普通の人」として暮らしている人々と診断された人達には少なからぬ重なりがある。特性が比較的弱くても診断される人もいるし、かなり強くても診断が必要ない人もいる。「普通の人」と発達障害を伴う人の境目は一体どこにあるのだろうか。
 こう考えれば分かりやすい。発達障害特性というものは「普通の人」には認められない特殊な特徴ではなく、人間のバリエーションの範囲内の特徴なのである。分かりやすいのでADHDを例にとって説明する。ADHDは日常的な言葉で言えばうっかり屋さんでぼんやり屋さんで落ち着きのない人である。世の中の人はうっかりしていない人とうっかりしている人に綺麗に別れるわけではない。かなりうっかりの少ない人から相当うっかりの強い人まで様々な人が存在する。その中で生活に支障が出る人、周囲の人の配慮や援助がなければ暮らし辛い人がADHDと診断されることになる。冒頭に書いた「障害かどうか」という問いへの答えであるが、暮らし辛く困っていれば障害なのである。環境に不適応を生じた状態だ。うっかりの程度がどの程度であっても、日常生活において暮らし辛さに繋がらなければ性格とか個性と言えば良い。うっかりすることによって今現在何らかの問題が生じ暮らし辛い時、それが障害による問題なのかそうでないのかを議論することはナンセンスである。問題が生じ暮らし辛いというその状態を障害と呼ぶのだから。そして、この困るかどうか、苦しむかどうかの境目は本人が生まれた時から持っている特性の程度のみによって決まるのではない。暮らしている環境がどの程度その特性を許容できるかどうかとの兼ね合いで決まるのである。


 ここまで書いたことを図示したものが図3である。なんらかの発達障害特性は人間のバリエーションとして非常に弱い人から非常に強い人までが存在するが、多くの人は比較的弱い領域に集中する。その特性が強くなるほど環境への不適応を起こしやすく、発達障害として診断される割合が高まる。図3の赤い斜線で示した部分が診断された人を表す。同じ程度に特性を持っていても、環境の条件が良ければ適応できるし、条件が悪ければ不適応を生じて診断されることになる。
 さて、教育界では2000年前後から10年ほどかけて特殊教育から特別支援教育への変換がなされた。それとあい前後して社会全体にも発達障害が認識される様になってきた。この流れの中で、誰にも気付かれず密かに苦しんでいた人達が見出され、合理的な配慮をすることの重要性に気付かれたことは意義があったと思う。しかし、発達障害の可能性がある子供を見つけ、片っ端から医療機関を受診させることに夢中になっている現状はそろそろ見直すべき時に来ているのではないだろうか。少しでも平均からずれた子供を抽出して医療に委ねるのではなく、多少何らかの特性を強く持っている子供も特に意識することなく暮らせる場を作ることを目指すべきである。



 上で述べた様に、同じ程度の特性を持っている人であっても環境との兼ね合いによって暮らしづらさは変わるし、診断されるかどうかも違ってくる。もしも社会全体が余裕に乏しく少しでも平均から外れた人を受け入れられない状態なら赤い斜線部は左に寄る(図4)。こういう社会では、かなり平均に近い人でも場合によっては暮らしづらくなり障害と診断される。逆に、社会全体が人間のバリエーションを広い範囲で許容できれば斜線部は右に寄る(図5)。より多くの「変わり者」を包摂できる社会である。大勢の人が暮らしやすいのは言うまでもなく図5の社会である。社会全体が一気に図5の様な社会に変わることは難しいだろう。まずは明日の社会を支える子供たちの暮らす場から変えていく必要があるのではないだろうか。そのためには平均からずれた子供たちを掘り起こして片っ端から医療機関に送ることではなく、その様な子供たちが暮らしやすい学校園に変える努力が求められる。

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