1)対等な立場で接する
世の中には人から「先生」と呼ばれる職業がある。政治家、医師、教師、保育士などである。もちろんどの職業でも、個人個人でずいぶん性格やものの考え方は違っており、皆が同じ言動をとるわけではない。しかし、「先生」と呼ばれる人々に比較的共通した振る舞い方の傾向がある。それは、他者を教えよう、指導しようとする傾向である。一般的に、発達障害のある子供を育てている保護者は、しかも支援が必要と言える保護者は、不安を抱き、自信を失いかけている人が多い。教え諭そうとする態度は、相手の緊張を高めがちだし、言われた通りのことができないとますます自信を失わせることになりやすい。特に、倫理的判断に基づいて保護者の言動を非難し、改善させようとすると、保護者の不安が増強し自信を失うだけでなく、支援者に対する反発を募らせることになる。また、非難するわけではないにしても、保護者の考えと明らかに異なる価値観を押し付けると、保護者は反発し、支援者との距離を置こうとしかねない。保護者を支援するときに最も重要なことの一つは、根気よく長く付き合い続けることである。短期間で袂を別つ関係では、有益な支援などできない。
緊張を強いず、反発を招かない支援を続ける上で念頭に置いておくと良いことがある。あまり役に立とうとしない、ということである。困っている人を助けてあげたいと考えれば、誰しも役に立つことをまず第一に考えるだろう。何らかの専門職の立場にあれば、なおのこと役に立たねばならないというプレッシャーは強くなりがちである。しかし、発達障害を有する子供を育てる親が何かに困っていたり悩んでいるときに、そのような状態に至る要因は複数あり、それらが互いに複雑に影響し合っていることが普通である。つまり、そう簡単に解決できるものではないことが圧倒的に多い。複雑な問題を前にしたとき、とにかく解決しようと焦るほど、実効性のない行動に出て事態を悪化させる可能性が高くなるし、事態が改善しない責任を保護者にかぶせ、責めることになりやすい。根拠のない解決策を連発するよりも、確実な対処法を提案できるまでは事態を把握することに徹した方が良い。
2)話すよりも聞く
「支援」という言葉には能動的な意味合いが強いので、つい何かをしなければと思いがちである。しかし、保護者支援で最も基本的な活動は話を聞くことではないかと思う。当たり前のことだが、保護者が何を不安に思い、何に困っているのかを把握せずに適切な支援はできない。発達障害を有する子供の暮らしている家庭に泊まり込んで直接状況を確認することなど無理である。通常は、問題を把握するためには話を聞くこと以外に方法がない。保護者の話をよく聞くことには、現状把握以外に様々な利点がある。まず、保護者が自分の頭を整理できる。自分は何に不安を感じ何に困っているのか、初めからきちんと把握し言葉にできる人はあまりいない。聞き手が適切なタイミングで話を促したり、質問したり、保護者の話をまとめたりできるかどうかによって程度は異なるだろうが、話をしている中で問題点を改めて客観的に把握できるようになることが多い。また、不思議なもので、十分に悩みを吐露することだけで人間はかなり不安が軽減されるらしい。下手な助言をしたり、ましてや余計なお世話の説教をするよりも、ひたすら話を聞くことの方が相手の気持ちを安定させる上で効果がある。しっかり話を聞くことによって、保護者の支援者に対する信頼感が高まることも見逃せない。頻回に長時間話を聞くことは難しくても、たまに十分に時間をとって話を聞くと、その後保護者と話がしやすくなるし、こちらの意見を受け入れてくれる可能性が高まる。
保護者から話を聞いている時に留意すべきことがある。まず、不安や心配を軽んじてはいけない。たとえ根拠の薄い不安を訴えたりありえないことを心配したりしていても、しょっぱなから「そんなことはありえない。」とか「それは心配のしすぎですよ。」と言ってはいけない。親切心から安心してもらいたくて「それは心配のしすぎですよ。」という人も多いのだが、この様に雑な対応で安心できることは滅多にない。不安で心配な気持ちを抱いていることをまず受け止めるべきである。その上で、実際心配している状態になる可能性はどの程度あるのかを一緒にゆっくり考えたり、万が一心配していることが生じた時にはどういう手立てがあるかを考えたりするのが良い。不安や心配だけではなく、保護者の考えも即座に否定しない様に注意したほうが良い。相当歪んでいる、あるいは明らかに間違った考えを主張する人はしばしばいる。それが信念に近いほど、即座に否定された時に一層強固にその考えにしがみつきやすい。別に賛成する必要もないが、真剣に時間をかけて考えている姿を見せた方が良い。
もう一点、保護者の話を聞いている時に留意すべきこととして、「出来ていることを聞き出す」努力・工夫が必要である。子供が様々な問題を起こしていても、その合間には出来ていることも数多くある。また、保護者自身の子供への接し方の中にも、上手な、あるいは好ましい接し方を数多く実行できていることが多い。子供が引き起こす問題や、保護者の子育ての拙さばかりに注目しても解決策に繋げることは難しい。むしろ、子供の持っている力や保護者の持っている力に注目させ、それを生かしていける様に援助すべきである。
3)助言や説明
聞くことの方が重要といっても、有意義な助言ができればそれに越したことはない。助言は具体性が高いほど良い。役に立たない助言の筆頭格とも言える例を挙げると、「たっぷりと愛情をかけてあげてください。」というものがある。これは具体的にはどうしたら良いのかまったく不明な言い方である。特に自罰的な考えを持ちやすい保護者の場合は、日常の問題が残っている限り自分の愛情が足りないと悩むことになりやすく、役に立たないどころか有害でさえある。「しっかり言葉がけしてあげましょう。」なども大変抽象的で分かりにくい。ところが、「朝起きてきたら必ずおはようと声をかけてあげましょう。」とか「あなたが指示したことを子供がし始めたら、ありがとうと言いましょう。」という具体的な話ならまったく迷いどころがなく、実行しやすい。発達障害児を育てている中で生じる問題に対処するとき、目から鱗の斬新な解決策があることは少ない。それどころか、分かっちゃいるけど実行できないということが多い。したがって、保護者がどう振る舞えば良いかばかりを助言し続けると、上手くできない現実に押しつぶされそうになる親や、やけになって反発する親も多くなる。今現在できていないことをするようにという助言ばかりだとなかなか事態が良い方向に動かない。ではどうすれば良いのかというと、僕は希望の持てる話を増やしていくことが必要だと考えている。希望の持てる話として特に重要なポイントは、子供の強みを説明すること、保護者の強みを説明すること、そして保育園での前向きな計画である。
どのような障害特性を持っていたとしても、何もできない子供は存在しない。少なくとも保育園に通ってきているくらいの子供であれば、出来ないことよりも出来ることの方がはるかに多い。それを当たり前のこととして見過ごしているだけである。また、上手くいかないことであっても、細かく見ていけば評価すべき点が色々あるものだ。途中までは上手く出来たとか、部分的にはすべきことをしているとか。例えば、食事中きちんと座っていられない子供であっても数分間くらいは席について食事に専念している時が繰り返し見られたりする。既にできていることはその子供の強みであり、将来の可能性をも示している。日常的な暮らしにくさの原因とみなされる発達障害特性でさえ、場合によっては強みに転じさせることもできる。例えば、すぐに気が散るADHD児は、その旺盛な好奇心を利用して建設的な活動に打ち込ませることができる場合もある。人と交わろうとせず、細かいことにこだわる自閉症児は、一人でものを楽しむことができることが強みになるし、一度身につけた作業を正確にこなすようになることも多い。
子供のことが問題になっているので保護者との話は子供に関することに終始しがちである。しかし、親の強みを探し、それを本人に伝えることも重要である。どんなに頼りなさそうに見える親でも、ネグレクト状態のような特殊な状況でなければ、何かしら子供に良い接し方をしている点が色々ある。特に、上記の子供が持つ強みはその親が育ててきたものである。子供が様々な力を身につける過程で、親が自覚していなくても数々の理にかなった育て方をしているはずである。色々と暮らしにくさを持つ発達障害児の保護者は、自信を失っていることが多い。自信がないままに、ただただ反省をし、そして問題を全て解決しようという高いハードルを自ら課していることがよくある。そういう押しつぶされそうな状況にいる保護者に、自分が今まで成し遂げてきたものを自覚してもらい、少しでも自信を回復するための援助が重要である。
保育士が、発達障害児の保護者と話す時、家庭での問題の相談に乗ることもあると思うが、保育園での問題について話すことが多いのではないかと思う。保育園で上手くいかないことは本人の暮らし辛さにつながるのだが、とりあえずは保育士が困る事態として表面化しやすい。そうなると、人情としては保護者への単なる事実報告にとどまらず、愚痴になりやすい。生じた事実を伝えることは大事だが、愚痴にならないように気をつける必要がある。特に、保育園で生じる問題の解決を親に委ねるべきではない。「おうちでもよく言って聞かせてくださいね。」などと保護者に伝える事例が現実には結構ある。しかし、家で言って聞かせるだけで問題が解決することはまずない。むしろ子供にとっては保育園でも家庭でも同じことで叱られることになって心が安らがないし、親も子供を叱るという不愉快な作業が増えた割には効果につながらず、罪悪感や焦りを増す一方となりやすい。保護者に保育園での問題を伝える時には、併せて保育園での前向きな対処の計画を説明すると良い。別にささやかなもので良いし、100%有効でなければいけないというものでもない。何か困った状態にある時でも、前向きな対策が控えていることを知るだけで気持ちが軽くなる。やって見て上手くいかなければ次の工夫を親に伝えれば良いだけである。保育士の側が常に前向きになり、将来に希望を持った態度を示し続けるのである。愚痴ったり悲観的なことばかりを伝えて親を萎縮させても、保育士にとっても親にとっても、何より子供にとっても碌なことはない。
保育士は、一人で解決しない、一人で背負い込まないということを常に意識しておくべきである。これは、発達障害を有する子供に限らず、何らかの障害に苦しむ人々をサポートする時に重要なことである。障害児(者)の抱える問題は様々な要素が複雑に絡み合っていることが普通であり、何らかの専門性を持っている一人の人間が解決できることは少ない。もちろん、同僚や上司など同じ職場のメンバーで協力し合うことも必要だが、同時に利用できる地域資源を少しでも多く把握しておく必要がある。児童発達支援センター/事業、病院、教育相談、児童相談所、福祉制度など、様々な施設や人々が大きな力になることが少なくない。子供が抱えた問題に応じて相談先を選べるように、地域にどのような資源があるかできるだけ把握しておく必要がある。自治体が中心となって地域資源をまとめたハンドブックを出していることもあるが、それだけで全て把握できるわけではない。常日頃、様々な施設や人との繋がりを持つように意識しておくと良いかもしれない。
発達障害に関連した問題が生じた時、まず相談先として浮かんでくるのは医療機関である。確かに、発達障害が疑われる場合に医療機関を受診することには大きな意味がある。医療機関を受診することで得られるものは多く、少なくとも一度は医療機関で評価を受けた方が良い。ただ、病院受診をあまり焦らない方が良い。あまり気が進まない保護者に、病院受診を強硬に迫るようなことをすべきではないし、そこまでして受診する意義は乏しい。まず第一に、病院で下される診断は絶対的なものではない。しかも、診断名がつくと対処法が自動的に決まるわけではない。その上、すべての問題を解決する薬物治療など存在しないし、対処において医師が果たせる役割は極めて限られている。結局のところ、発達障害児に関連した保育現場で生じる問題への対処では、中心的役割を保育士が担うことになる。その際に非常に大切なことは保護者との良好な関係を保つことである。意に沿わぬ保護者を説き伏せてでも病院受診を強要することのメリットはない。診断に関する問題については項を改めて、さらに具体的に説明する。
4)病院での診断についての補足
発達障害から「診断」という言葉が切り離せないため、どうしても病院受診が必須と考えられやすい。私見だが、保育士や教師の中にも病院受診に強くこだわる人が多い気がする。これは全く間違いという訳ではない。病院には他の施設には期待できない様々な機能を期待できる。ただ、多くの人がこの領域における病院の役割に過剰に期待しすぎているし、誤解していることも多いと思う。まず、当たり前のことを指摘しておく。発達障害の特性を持った子供が病院を受診すれば診断されるし、受診しなければ診断されない。病院で診断を受けたから発達障害なのではなく、診断の有無に関わらず発達障害児は発達障害児なのである。こう改めて書くとひどく当たり前のことのように見える。しかし、なぜか診断を受けているか受けていないかにこだわる保育士や教師はとても多い。診断の有無で実際の保育現場で生じる問題が異なるわけではないし、支援の必要性や具体的な支援方法が変わるわけでもない。病院の診断が大きな意味を持つのは、加配をつける時や、受給者証の発行あるいは就学に際して特別支援学級選ぶといった、公的な制度を利用するときだけである。診断があろうがなかろうが、保育現場で困難を抱えている子供に対しては合理的な支援をせねばならない。
病院での診断は基本的にはカテゴリー診断だということも認識しておく必要がある。カテゴリー診断とは、ある診断名に当てはまるか否かを結論とすることである。つまり、結論は黒か白かのいずれかである。ところが、これは発達障害という概念の実態にあまりそぐわない。例えば多動という症状一つを取っても、まったく問題のないレベルから極端に逸脱したレベルまでの間に、様々な程度の多動状態が存在し得る。どこから異常でどこまでは正常などと単純に線引きできない。ほとんど程度の変わらない多動状態の子供の一方が例えばADHDと診断され、他方が明確な診断を受けなかったとしても、診断を受けた子供だけが問題であり援助が必要といえるだろうか。また、同じ子供であっても属している社会環境の状況によって、多動が暮らしづらさに繋がることもあれば、何の問題も引き起こさないということもある。かように、診断を受けた子供が問題だらけで、診断されなかった子供には何の問題もない、ということはまったく言えないのである。
発達障害の診断精度は、情報源に依存していることも重要である。同一人物に関する評価でも、多くの問題を感じる人もいればほとんど問題を感じていない人もいる。保育士はとても困っているのに保護者は問題を感じていないとか、その逆とかは現実には数多く遭遇する事態である。一般的に、問題を強く感じている立場の人が情報源となる時の方が、問題をあまり感じていない人が情報源となる時よりも、発達障害の診断に結びつきやすい。問題の有無が微妙な事例では、最終的な判断が医師の主観によって左右されることもある。もちろん、医師のスキルや評価に費やせる時間によっても診断は左右される。そのため、同じ子供のことであっても、複数の病院でまったく異なる結論となることが珍しくない。
最後に、医師の診断は最も問題となる一つか二つの診断名で結論づけられることが普通である。したがって、いかに正確で妥当な診断を受けていたとしても、診断名はその子供の特徴の一部を表しているに過ぎない。結局、現場での支援は保育士の、子供の特性を正確に見抜く観察力にかかっているのである。
なお、支援者の立場から発達障害の診断をどう理解すれば良いかについて、もっと詳しく解説した文章を書いたことがある。よかったら参考にしてほしい。
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