学校や幼稚園・保育園で働く先生対象の研修会で、障害を持つ子供についての講演を依頼されるとき、事例を中心に話してくださいと言われることが非常に多い。教師や保育士は判で押したように事例が好きである(というふうに僕には見えている)。そういう時、僕は必ず「事例は苦手です。」と言うことにしている。これに深い理由はない。単に、記憶力が悪いからである。
記憶という言葉は色々な意味を含むが、ここでは過去の情報を時間が経ってから意識に上らせる能力と考える。記憶にはエピソード記憶と意味記憶がある。エピソード記憶は「いつ」「どこで」「誰が」「何をした」ということと密接に結びついた記憶である。一方、意味記憶とは言葉の意味、物の名前や概念、法則や規則といった情報の記憶である。僕はどちらの記憶能力も非常に悪い。人の名前や漢字を典型例として、意味記憶が大層貧弱である。しかし、意味的に関連付けたものや理屈で説明できるものはある程度覚えることができる。意味記憶以上に、僕のエピソード記憶はボロボロなのである。10年前はおろか、1週間前のある1日の出来事や食事を正確に思い出せることがほとんどない。漠然とした匂いや雰囲気、あるいはクオリアとでもいうようなものの記憶は少し残っているのだが、具体的な記憶が残らない。大げさにいえば、僕は思い出のない人間である。
エピソード記憶が弱いと、特定の事例をなかなか思い出せない。頭の中では色々な事例の断片的な記憶が、カオスのように入り乱れている。といって、病院の記録を検索して、これはという事例のカルテを出してくるのは面倒である。そういう事情で、僕は講演の中に事例を混ぜることはほとんどない。勢い、理屈が中心の話になる。精一杯、抽象的で理論的な話を目論む。ところで、大概講演の後で会の主催者側の人が挨拶をし、講演内容を褒めてくれる。褒めてくれること自体は外交辞令だから、さして思うことはない。ただ、どの様に褒めるかといえば、「先生のお話は、とても具体的でわかりやすく...」と言われることが多く、首をかしげる。
後付けの理屈なのだが、障害を持つ子供の支援を考えるときに、瑣末な具体を羅列するよりも理論的枠組みとか考え方を重視する方が良いと思っている。「○○には△△」「××には~~」といったマニュアル的対応では、無限にバリエーションがある日々の問題に柔軟に対応できないと思うからである。だから、僕の話の中では、理屈で考えよーね、共感なんかに頼っちゃためだよー、具体的な評価と具体的な戦略が大切ですよー、僕は情緒的な話は嫌いですよー、と繰り返し強調するようにしているつもりである。ある学校の研修会で、やはり終了時に挨拶された方が「先生には子供たちに寄り添うことが大事ということを教えていただいたと思います。」と仰しゃり、頚椎を脱臼するくらい強く首をかしげたことがある。
この話には、落ちも結論もない。
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