教師が発達障害について学ぶときにまず最初に押さえておくべきと、僕が考える項目を具体的に説明する。
1.大前提
1)発達障害は行動・認知特性と環境のミスマッチであり、その種類は一つではない
病型に関わらず発達障害児の困難さを規定する要因は2つある。本人の物事の受け止め方(認知)や振る舞い方(行動)が平均的な子供のそれとはずれているということと、生活している環境がその行動・認知のずれ方と上手く合わないということである。例えば注意を向ける範囲が平均的な子供に比べて狭すぎたり(あるいは広すぎたり)、他人と接する際に直感的に相手の気持ちや考えを読み取り計算に入れる能力が弱かったり、といったことである。
こういった特性それ自体は善でも悪でもない。本人の生活を阻害するかどうかは暮らす環境との組み合わせによって決まる。例えば、注意や興味が狭い範囲に集中する程度が強い場合、人の話を聞き逃したり重要な状況の変化に気づけなかったりすることにつながるかもしれないが、特定の活動に集中せねばならない環境であればむしろ有利に働く。人の気持ちを敏感に読み取れる方が一見良さそうに思えるが、世の中には常に人の顔色ばかり伺っていては成功しない領域もある。人の行動・認知の特性と環境との組み合わせがうまくいっていない時に暮らし辛さが発生する。つまり、障害とは本人に固有の特徴ではなく、本人の行動・認知特性と環境のミスマッチによって生じた状態像である(このことに関連して、国際生活機能分類 - ICFによる障害の考え方を理解しておくべきである)。
自閉症スペクトラムでも注意欠如・多動症でも学習障害でも、平均的な子供からずれている特性は一つではない。発達障害に関連する多くの病型を通じて考えれば、非常に多くの種類の「ずれ」が存在することになる。それぞれのずれと特性と環境のミスマッチの結果、あるいは複数のミスマッチの複合体として現実の困難さが生じることになる。
なお、行動・認知の「ずれ」ということからもう一つ分かることがある。上述のように、どの様な行動・認知の特性のずれかは個人個人で様々であるが、さらにはそれぞれの特性のずれ方の程度も様々だということである。本人の特性のずれ具合も様々であれば、取り巻く環境の許容力も様々である。つまり、発達障害は程度問題なのである。自閉症か否か、注意欠如・多動症か否か、などと白黒を明確にすることに拘っていると、ピントがずれた理解になる。
2)問題を認める
発達障害児に限らず子供が日々の生活の中で何かがうまく行っていない時、周囲の大人達(親、教師など)は「できない」という現実を否定することから始めることがよくある。「出来るのにしない」、「私の注意を聞こうとしない」、「こんなことをしでかすなんて信じられない!」といった具合である。しかし、子供がわざわざ意図的に失敗するはずがない。誰が好き好んで恥をさらしたり叱られたりするものか。失敗するときには、なんらかの理由があってうまくいっていないのである。出来ないのである。そして、本人に自覚があるかどうかにかかわらず、困っているのである。何かが出来ない、そして困っているということを認めることから支援は始まる。
教師と話していると、「自閉症だから支援が必要」、「ADHDだから援助が必要」という発想を持つ人が多い。それは考える方向が逆である。「出来ないから、困っているから支援が必要」なのであり、平均的な環境で支援が必要な状態があれば、その基盤となる問題は何かと検討を進める中で、行動・認知特性と環境とのミスマッチが存在すれば、主たる問題は発達障害として理解できるという話になる。自閉症とかADHDという診断は、生活の中で困るかもしれないという予測因子になるのであり、支援の根拠ではない。支援の根拠は困っていることや近い将来に高確率で困りそうだという状況であり、発達障害かどうかに関係なく全ての困っている子供に、問題に応じた適切な援助を用意するという発想が必要である。ただし、当然のことだが子供のすべての問題を発達障害と結びつけてはいけない。
3)本人の性格に原因を求めたり、倫理的問題にしない
繰り返し述べてきたように、問題が生じるのは本人要因と環境要因の相互作用の結果と考える。「努力が足りない」「我儘」「依存心が強い」「意欲がない」「自己中心的だから」「人に対する思いやりがない」といった台詞(もちろん考え方も)は禁止である。もしも本人の性格や人間性が根本的におかしいことが問題の原因なら、問題を解決するためには本人の人間性を変えないといけない。別の人間に変えて見せようという話になる。これは不可能だ。本人の行動・認知特性をそのままで認めた上で、うまく社会に適応させるにはどういう工夫をすればよいかを考えれば建設的である。
2.対策よりも評価・分析
何か問題が生じているとき、対策として何をすれば良いかと次の一手を知ることばかりに捉われる人が多い。しかし、意識して対策を練ろうという状況は、通常そう単純な話ではない。本人の種々の特性と、環境の複数の要因が複雑に絡まって問題が生じていることがほとんどである。直感的な対応やマニュアル的な対応で何とかなるのなら、問題解決を意識せざるを得ない状況にはなっていないだろう。対策を考えるよりも現状を評価・分析し、どういう要因が今の問題を形成しているのかを考えることが必要である。教師は極めて高い知性を要求される職種である。
1)状況を具体的に認識する
各論的に個々の問題への対処を考えるときに、具体的にどういう状況において、具体的にどういうことに取り組んでいるときに、具体的にどういう問題が生じるのかということを把握することが基本である。
学習面で問題が生じているのであれば、まずどの教科のどの段階まで習得でき、どこで躓いているのかを出来るだけ明らかにするべきである。特に算数などの積み重ねがものをいう教科では、学年を下って検証し、躓いた段階を明らかにする必要がある。出来ることと出来ないことの差がないかについても検討が必要である。読字、書字能力は全ての学習の基本となるので、特に慎重に評価すべきである。一見読み書きできているように見えても、スムーズさに欠ける場合や、読み誤りが多い場合は注目する必要がある。
問題行動については、誰にでも状況が目に浮かぶように具体的に把握する必要がある。例えば、「落ち着きがない」という認識よりも「1時間の授業中に3、4回は勝手に立ち上がったり歩き出したりするし、席に座っている間も鉛筆や消しゴムを意味なくいじっているときの方が多い」という認識の方が具体的で良い。
問題行動が生じる前後の状態をできるだけ詳細に把握することは、その行動がなぜ生じるかというメカニズムを考える上で重要である。特に、ほかの子供との喧嘩になったり暴力を振るったときは、その行動自体にばかり注目されがちなので、注意が必要である。必ず前後の状況を可能な限り検証しなくてはいけない。人の行動は、その行動が生じた状況でかなり説明ができる。学校で生じたことを家庭の問題として説明しようとする人をよく見かけるが、ある行動を生じさせる直接的なメカニズムは、学校で生じたものであれば学校に、家庭で生じたものであれば家庭に存在する。
問題となっている行動の前後の状況で何が特に重要なのかは、1回のエピソードでは判然としないことも多いだろう。しかし、同じ問題行動が繰り返し生じている場合には推測が可能となることが多い。これをより確実にするためには、記録を取ることが重要である。個々のエピソードの際には何が重要かはっきりしなくても行動自体とその前後の状況を可能なかぎり具体的に記録しておく。こうすることによって、後日記録を読み返しているときにキーとなる要素に気づける可能性が高くなる。
2)日常全般から本人要因を推定する
目を引く問題が生じた時だけに注目していても、本人要因を推定しにくい。発達障害児の行動・認知面の特徴(平均的な子供とのずれ)は、普段の生活の中で認められることが普通である。何も難しく考える必要はない。普段から周りの子供と見比べた時に「おや?」と感じることがあれば無視せずに記憶に留めるようにすれば良い。
例えば、何か他の子供に比べて理解が悪いように感じたら、そこに注目する。我々は一度言葉にするとそれ以上掘り下げない傾向があるが、何に対してどのように理解が悪いのかも分析する。言語面だろうか。教科書やプリントに書かれた文章が正確に理解できないのだろうか。会話で目立つ特徴だろうか。単純に単語の意味や構文の理解が悪いのだろうか。それとも、言外に語られたことの理解が悪いのだろうか。言語面以外の理解はどうなのか。ものの扱い方や操作の仕方が分かっていないのだろうか。物理的な現象が理解できないのだろうか。ゲームのルールが飲み込めないのだろうか。対人的な振る舞い方とその結果として何が起こるかを理解できないのだろうか。あらゆることが同程度に理解できないのだろうか、それとも特定の領域のみが理解できないのだろうか。
注意能力に疑問を感じた時には、それは注意を持続することが難しいのか、必要なことに注意を向けることが困難なのか、注意の向く範囲が広すぎるのか狭すぎるのか、などと色々な観点から考えてみると良い。記憶力に疑問を感じれば、それはどういう時にそう感じるのか、実際に覚えていないことは何なのか、高い記憶能力を示すことは全くないのかなどと考えを進める。記憶力の問題と思っていても、本当は記憶力以外の問題であることもしばしばある。
日常生活における振る舞い方や、物事の捉え方あるいは認識の仕方で、どこか周囲の子供とは違う、あるいは浮いていると感じた時、その印象を大事にし、そのずれている領域や程度を具体化していくと良い。その過程で判明するかもしれない能力の偏りは、知能、言語能力、長期記憶能力、短期記憶能力、注意能力、抑制能力、計画性、社会性、コミュニケーション能力、思考の柔軟性、などなど認知心理学的観点で整理できることが多い。しかし、無理にこういった専門用語らしきものにまとめる必要はない。むしろ日常用語で具体的に「○○を○○することが弱い」、「○○を○○と受け止める傾向が強い」と表現する方が良い。
こういったことを日常的に観察し、考察を進める際に重要なポイントがある。教師自身の目や耳で確認できる事実を根拠とし、できるだけ主観的な解釈を交えないようにすることである。例えば、注意の集中や持続が悪いということは、「計算問題を続けて3問以上解けない」とか「3フレーズ以上の説明は最後まで聞いていることがめったにない」という事実を上げることで確度の高い推測が可能となる。
3)本人要因を前提に環境との不整合を考える
上に述べてきたように、本人の振る舞い方や物事の受け止め方などの特徴(平均からのずれ)を把握すると、出来ないことや問題となることが生じるメカニズムが推測できる可能性が出てくる。ここで重要なことは、平均からずれた本人の特徴を「欠点」と考えないことである。そう考えると必然的に「欠点をどう直すか」という話に流れていく。こういう発想は、子供と教師自身の首を絞めることになる。「1.大前提」で述べたように、本人の特性自体は善でも悪でもない。問題が生じる時には本人の特性を許容できない環境があると考え、環境のどの部分を変えれば暮らしやすくなり、楽しみ、学べるようになるのかを考えていく必要がある。
本人の特性のどこが、環境とどのように不整合を起こしているのか、という仮説を立てることによって、介入方法を計画できることがあるし、その介入がある程度の成果を収めれば仮説の妥当性が確認できる。また、仮説が妥当性を欠いていれば、それに基づく介入計画は成果を上げないだろう。その場合は、さらに新たな仮説を組み立てていくことになり、それも成果である。教育や指導といえば何か絶対的に正しいことがあり、それを適用して完全に問題を解決すべきであると考える人々が、この社会には一定数いる。そして、偏見かもしれないが教育現場にはそういう発想をする人が多い印象を持っている。しかし、発達障害児を理解するためにはよく観察し、仮説を立て、検証するというサイクルを繰り返すことにより、少しずつ事態を改善していくことが早道だと思う。そのためには、科学者、あるいは技術者の目と発想を持つことが有用である。
3.その他
1)病院は重要だが、受診を焦らない
病院は、それなりにトレーニングを受けた医師が評価し、必要に応じて検査もし、発達障害児の特性を綺麗に整理してくれる可能性が高い。また、日常的に困っている状態に対してどう対処すれば良いか助言をくれる可能性があるし、注意欠如・多動症の症状や一部の行動障害、あるいは不安などの精神症状に対する薬物治療ができる場合もある。診断書を発行し、種々の福祉制度へ繋ぐこともサポートしてくれる。病院とはなかなかのポテンシャルを持っており、価値のあるものと言える。したがって、何らかの発達障害が疑われる子供は、一度は専門医のいる病院を受診した方が良い。
しかし、病院を受診するにあたって満たしておくべき重要な条件がある。それは、保護者が(出来れば本人も)納得して受診するということである。保護者との共同歩調は極めて重要である。問題の解決を焦るあまり、ほとんど泣くように懇願したり、あるいは脅迫じみた強硬さで受診するように指示し、保護者が納得しないままに病院を受診することがよくある。このようなことをすると、教師は多くのものを失う可能性がある。何よりも大きいのは、保護者との(場合によっては子供とも)信頼関係が破壊されることである。学校で講じる対処法を保護者が理解し、納得しておく必要があるが、これが難しくなる。また、学校だけで行えることには限界があり、様々な家庭の協力が必要になることも多いが、保護者との信頼関係が崩れるとこういったことが難しくなる。
保護者が納得していないままに病院を受診すると、診断の精度が落ちるという問題も知っておかないといけない。発達障害の診断は何か検査をすれば客観的に確定できると誤解している人が世の中には多い。しかし、診断する上で最も重要なものは日常生活で観察できる行動に関する詳細な情報である。多くの子供は保護者と共に受診するので、保護者からの聞き取りが最も重要な情報源になる。保護者が問題の存在を理解できていなかったり納得していない場合、正確かつ詳しい情報が医師に伝わらない。その結果、正確な診断が難しいこともあるし、何も問題はないと説明されて帰ることも有り得る。焦って受診させたばかりに、却って問題の把握や対処が遅れることになりかねない。
実は、教師が自分の指導戦略を練る上で、病院での診断の価値は極めて限られている。通常、なんらかの発達障害の診断を受ける子供たちは、複数の行動・認知上の特徴や、二次的に生じた様々な精神的問題を抱えていることが普通である。ところが、医師の下す診断は代表的な一つか二つの病型を指摘するだけのことが多い。一つか二つの診断名を知らされても、その子供に認められる様々な特徴や問題の一部が明確になるだけである。しかも、「発達障害理解の入り口:障害病型別に学ぶことは適切か」で述べたように、診断名に対して自動的に対処法が定まるわけではない。教師が病院の診断を自分の指導戦略に有効に生かしていくためには、病院で下される診断一つ一つの一般的意味を理解していないといけない。しかも、通常それだけでは非常に情報不足なので、結局は教師自身が子供の行動・認知特性をかなり把握しておく必要が有る。
多くのものを失いながら無理に病院を受診させても、診断が不正確になる可能性が有る上に、診断を子供の指導に活かすことが難しい。生じている問題が大きいほど、まずは保護者と良好な関係を作り、子供を支えるチームの一員となってもらうべきである。そして子供のより良い生活を一緒に模索する中で、一つの有効かもしれない道具として病院受診を提案するのが良い。
2)教師が(自分が)成し得てきたことを確認する
どんなに困り果てた状況が生じていても、子供に対して有効な指導が一切できていない教師はほとんどいない。他の教師や保護者にも協力してもらいながら日常の指導場面を検証すれば、どんなに手強い生徒に対しても、多少なりとも成果をあげる指導をしている場面をいくつも確認できるはずである。これこそがその教師の能力であり、強みである。子供を指導するときには子供が出来ていないことよりも出来ていることに注目する方が上手くいく。0から何かを生み出すよりも、すでにあるものをより良く伸ばしていく方が可能性が高いからである。このことは教師自身にも当てはまる。自分が成し得てきたことを自覚し、それをテコに作戦を考えていく方が、何の当てもなくただ足掻くよりも成功率が高いはずである。
※最後に
ここに書いたことはタイトルにあるように、発達障害理解の入り口である。職務として発達障害児を援助せねばならない人達は、この先際限なく勉強すべきだろう。診断概念ごとに特徴を解説した医学領域の文献はもちろん、応用行動分析や認知心理学、福祉制度やソーシャルワークの方法論、生徒指導や学級経営などの教育学で扱う題材など、役に立つ領域の文献は無数にあるだろう。ぜひ頑張って勉強していただきたい。その際、目の前の子供への援助にどう組み込めるかという、問題解決志向で勉強していただきたい。
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