2024年8月26日月曜日

小学校の教科教育に関して思うこと

 僕は勤務時間の大半を発達障害関連の診療に費やしている。発達障害児といえば、何らかの脳機能に発達の遅れや偏りがあり、日常の生活環境にうまく適応できずに困っている子供達である。子供の生活環境といえば最も重要なものは家庭であるが、それに並んで幼児なら幼稚園、保育園、こども園が大きな位置を占める。当然、就学後は小学校と関連して生じる問題についての相談が増える。就学前と同様に、集中力なさや感情制御の問題などの行動面での問題や、交友関係にまつわる問題についての相談が多い。不登校や登校渋りの相談もよくある。そして、就学前と大きく違ってくるのは学習面での問題に関する相談である。

 学業についていけないことを主たる問題として受診する子供は多い。医者に勉強のことを訴えてもお門違いだと思うのだが、学業の問題は小学生ではとても多い相談事である。前述のように、落ち着きのなさやかんしゃくなどの行動の問題や、登校しぶりや不登校なども多いのだが、これらの問題でも学業についていけてないことが不適応の背景にありそうな例が多い。

 学業に躓く子供達の話を繰り返し聞くうちに気がついたことがある。教師個人の問題ももちろんあるだろうが、構造的な問題があるのではないかと。日本の教育行政や教育界の文化に起因する問題が多いのではないかと考えるようになったのである。小学校の教科指導に関するいくつかの具体的問題点を考えたので、ここに記す。教える内容に関してではなく、主に指導方法やシステムに関する問題である。おそらく構造的問題なので、教師個人には如何ともし難いことが多いかもしれない。ただ、校長や教頭など、リーダーが工夫すればなにかしら現状を変えていけることもあるかもしれない。

 何しろ教育の埒外にいる人間が無責任な立場で書くわけだから、「現場を知らん人間が、なにぬかしとんねん!」と感じる人も多いだろう。そういう人たちには「ごめんなさい」としか言いようがない。


1)最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃される


 僕自身の経験から考えると、学業不振を主訴とする子供のかなりの割合は文字を読むことが苦手である。教科書を音読してもらうと、たどたどしい。1文字ずつ区切って読む逐次読みの子もいるし、そこまでひどくなくても音節の途中など不自然な部位で途切れがちだったりする。読み誤りや読み飛ばしなども多い。そのような子の多くは、平仮名一音表記がスムーズに読めない。一音表記とは、清音44文字(いわゆる五十音)に加えて拗音、濁音、半濁音、撥音、「を」などである。厳密には一音表記ではないが、促音(「いった」「やった」などの小さい「っ」)も含める。平仮名一音表記がスムーズに読めない子供に長文読解や作文を課題として与えると、それは拷問に近い。音読がスムーズではない子供ではまず平仮名一音表記をスムーズに読めるかどうかを確認すべきだ。平仮名一音表記をスムーズに読めないなら、まず、そこを援助することが最優先である(注1)。

 低学年のうちに習得すべき最も基本的なことができていないという、平仮名読み問題と類似したこととして、数の概念の理解ができていないままに学年が上がっていく子供もいるのではないかと思う。このことについては自分の診療ではきちんと確認できていないので、多いのか少ないのか自信を持って言えない。ただ、最近のことだが、一桁の加減算で指を使いながら考えている知能は全く正常範囲内の5年生の子に会った。適当な一桁の数を線分や円で表し、それを参考に別の数に相当する線分や円を描かせると、とんでもない長さや大きさの図を描く子は多い。基数(集合数)の大きさをおおよその感覚で掴めていないようだ。算数は国語以上に積み重ねが重要なので、どこかで躓くとそれ以降の学習が総倒れになりかねない。最も基本である数の概念(序数と基数)が十分に理解できていないままだと、早晩算数が理解できなくなるのは目に見えている。


注1:以下を参照のこと

小枝達也、関あゆみ「T式ひらがな音読支援の理論と実践ーディスレクシアから読みの苦手な子まで」中山書店


2)評価がきちんとなされない


 先の1)と無関係ではない問題だが、学校では評価がきちんとなされていないように見える。学力テストとかあるではないかと反論したくなる人もいるかもしれない。確かに学力テストも評価の一つと言えるが、これでは不十分である。学力テストは現在教えていることが身についているかどうかをチェックしているにすぎない。子供ごとにどの程度の学力が身についているのかを知るためには、教科ごとの学習内容を就学前の準備段階から中学校卒業後のレベルまで連続的なものとみなし、その中で今現在その子供はどのレベルにあるかを評価できる方法が必要である。学習到達度の評価である。このような評価が当たり前になされていれば、平仮名がスムーズに読めない子供に長文の作文を書かせたり、一桁の数の概念を身につけていない子に二桁三桁の繰り上がり繰り下がりのある計算をさせたりはしないはずである。何年にもわたる「発達」という観点から、一人一人の子供が今どのレベルにあるのかということをきちんと評価するという発想がないことが不思議である。そのくせ(嫌味な蛇足になってしまうが)、知能検査が好きな教師は多い。何かといえばWISCを受けて来て欲しいなどと保護者にせっつく先生のなんと多いことか。WISCをしたところで、その結果が教科指導に役立つとはとても思えないのだが。


3)子供の理解力に合わせた指導計画ではない


 さて、1)や2)を踏まえると当然の帰結とも言えるが、今の小中学校の教科指導は個々の子供の理解力や習得できているものを前提としたカリキュラムになっていない。大多数の子供は一斉に同じレベルの内容が教えられている。これは原則として学習指導要領に沿った指導をしないといけないと決められているからであって、教師個人や学校の責任ではない。とはいえ、このままで良いとも思えない。学習指導要領では各科目の指導順序だけを定め、学年ごとに内容を固定することをやめれば良いのではないかと思う。そして、一人一人にオーダーメイドで教えるのはあまりにも非効率なので、教科ごとに進度の違う複数のクラスを用意し、子供自身の希望も取り入れてクラスを選択させれば良いのではなかろうか。どうしても一学年の大半の子供に同じ内容を教えることに固執するのであれば、8、9割以上の子供が理解し身につけられる内容に留めるべきである。その場合は、知的能力が高い子供たちに意欲を持たせ続けるにはどうすれば良いかという問題が生じるが。


4)非合理的な特別支援学級制度


 制度的に学習指導要領を外れることが認められているのは、現状では知的障害者対象の特別支援学級(知的学級)と特別支援学校である。ただ、本人の力に合わせた内容を指導するはずの知的学級に在籍する子供が、勉強についていけないという訴えで僕の外来をしばしば受診するという笑えない笑い話のような現実がある。知的学級でさえ、子供の理解レベルを考慮せずにあらかじめ決め打ちの教育内容が設定されていることが多いのかもしれない。

 特別支援学級の設定はずいぶん非現実的な枠組みになっている。現在、制度的には障害種別ごとの特別支援学級が設置されることになっている。具体的な障害種としては、知的障害者、肢体不自由者、病弱者及び身体虚弱者、弱視者、難聴者、言語障害者、自閉症者・情緒障害者が指定されている。ほとんどの学校にあるのは知的学級と、自閉症・情緒障害者対象特別支援学級(情緒学級)である。前述のように、知的学級では学習指導要領の縛りが外れるが、情緒学級では通常学級と同様に学習指導要領に沿った指導がなされることが原則である(注2)。その結果、境界レベルの知能の子供や知的にはなんとか正常範囲内だが不注意さや文脈理解の悪さから学習に不利な子供達が教科学習に躓くという事態が頻発する。だいたい、知的障害と自閉症・情緒障害に分けるという発想が根本的に間違っている。知的理解力の低さへの支援と行動面や社会性の問題への支援の両方が必要な子供は大勢いるのだから、現在の特別支援学級の設定は非合理的としかいえない。知的学級と情緒学級という分け方をなくし、少人数でかつ教科指導も子供に合わせた進度で計画できる特別支援学級を作れば良いのではないだろうか。このようにすると、今まで特別支援学級では対処できなかった限局性学習症(学習障害)や著しく知能の高い子供に対するサポートもしやすくなるのではないだろうか。

 そうはいっても、特別支援学級としてではなく、すべての子どもが個々の習得レベルをベースに指導内容を決定するような学校制度になってくれると一番良いのだが。

注2:厳密にいうと、法律的には情緒学級で学習指導要領から外れた内容を教えることも可能である。したがって、校長と担当者が度胸を示してくれれば情緒学級でも本人の能力に応じた教科指導ができるはずである。ただ、実際にそのような対応がなされることはほとんどないと思う。


5)効率の良い学び方が子供によって異なることへの配慮の不足


 同じことを学ばせる場合でも、成果の出やすい学び方が子供によって違うことがある。個人的にとてもよく遭遇する例としては漢字の学習方法がある。おそらく多くの学校では同じ漢字を何度も書かせる方略を採用しているように見える。しかし、同じ字を何回も書くことがひどく苦痛となる子は少なからず存在する。こういう子供はとにかく早く済ませたいがために非常に雑な書きっぷりになる。まず偏だけを次々に書き、次いで旁を書いていく、という奇妙な作戦を取る子供も出現する(何を隠そう、僕のことである)。とにかく苦痛から早く逃れたくて、じっくりと文字の構造を見ることがない。何度も書くことで学べる子もいるだろうが、一つの字をじっくり綺麗に書かせることや、粘土で文字を作らせることの方が文字の形の細部まで意識して身につけられる子もいるかもしれない。文字の構成要素を「タテ タテ ヨコ ヨコ」などと音にして唱えると覚えやすい子もいるかもしれない。


6)学問的真実よりも指導に従うことを優先する


 小学校の先生は、学問的真実よりも自分が指示した通りに子供が行動することを重視しているように見える。このことに関して、僕自身がしばしば聞き及ぶ例は漢字指導の問題である。伝統的にも学問的にも根拠のないとめやはねにこだわった指導をすることが多い(「小学校の漢字教育」https://amnesictatsu.blogspot.com/2014/08/blog-post_69.html)。僕自身はあまり経験したことがないが、インターネット情報では(従って、どの程度実際に生じているのかは不確か)いろいろ指摘されている。有名どころでは、習っていない漢字を書くとばつをつけられる、掛け算の順序が決められている、などがある。また、問題文を文字通りに解釈すれば間違いではないのに、教師の事前の思惑に沿わないためばつをつけられる例もあるらしい(例えば、「この物語を読んで考えたことを書きなさい」という指示に対して、「なにも考えませんでした」とか「つまらないなあと思いました」と解答するとペケをつけられるなど)。いずれの例も何が問題かといえば、学問的根拠も論理的な説明もなく間違いとされることである。掛け算の順序を決めることについては、もし教授法としての有効性が立証されているのなら、指導の方便として用いることに問題はないと思う。しかし、間違いではないのに間違いとされることが問題なのである。もしも順序にこだわるのなら、「以下の問題を解くにあたり、掛け算の立式は(1つぶんの数)×(いくつ分)の順序に統一すること」という但し書きをつければよい。

 基本的に、指導の有効性を考えると誤りを正すことよりも正しい行動を正しいと指摘し、賞賛する方が成果が出やすい。これは教科指導でも当てはまるのではないかと思う。義務として学ぶよりポジティブな喜びに導かれて学ぶ方が学んだことが身につくのではないかと思う。いわんや、学問的、あるいは論理的には間違いではない解答を間違いと決めつけられて学習意欲が維持できるとは思えない。


7)高すぎる負荷をかける傾向


 ここまで述べたこと全てと関連するし、教科指導に限定された話でもないが、小学校は並べて子供に高い負荷をかけすぎているのではないかと感じる。「ほどほどにしとけよー」「疲れたら休めよー」という雰囲気があまりにも欠けている。一方的に「頑張る」ことに価値を置きすぎている。大人と同様に、子供にもそれぞれのペースがある。教科学習に限定しても、知的な理解力のレベルだけで物事が決まるわけではない。褒められながら思いっきり突っ走ることが嬉しい子供もいるし、なかなかエンジンのかからない子供もいる。疑問に感じたことを延々と考え続ける子供もいれば、考え続けることが至って苦手な子供もいる。それぞれの子供のペースが全く考慮されない指導を続けた時、遅かれ早かれ子供は限界に達するだろう。難しすぎる内容を延々と聞かされ続けることや、分かりきった退屈な内容に取り組まされ続けることも、学習意欲を消失させることは考えるまでもないことだ。色々な意味でその子供のペースからかけ離れた指導が続くと、苦痛に満ちた時間を耐え忍ぶことになる。高すぎる負荷という表現を使うと、学習内容のレベルが子供にとって高すぎる場合を想像しやすいが、子供にとって不適切な状況が続く状態は全て負荷が高すぎると言える。教科教育の中で過負荷が続くことは学力的な問題を増加させるだけではなく、暴力やかんしゃくなどの行動の問題、不登校や登校渋りにもつながっていく。小学校生活の中で教科学習の時間が圧倒的に長いのだから、当然のことである。

2024年7月18日木曜日

R チャンドラー「ロング・グッドバイ」読後感

R. チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読んだ(正確には聴いた)。一言でいえば、私には関係のない世界だ。連日35セルシウス度近くまで気温が上がる日本の夏で暮らす人にとっては好きな時に好きなだけスイスのサンモリッツで暮らせる人が関係ないことと同じくらい別の世界だ。登場人物の間に交わされるセリフは、人によっては比喩に満ちた粋なセリフと感じるのだろうが、私には両者共に相手が何を言おうとしているのかわからないままに言葉を交わしているように見える。意味ありげに無意味な言葉を口にし、意味ありげに無意味な振る舞いをする。無意味にナイフをチラチラ取り出す人物もいる。村上春樹の訳は「いささか」という言葉がいささか多いことも鼻につく。主人公マーロウは劇的な事件の真相を解明していくが、どの様な考えで真相に至るのかは、マーロウがやたらと吸っている煙草の煙に霞んで何も見えない。あらかじめ設定された驚くべき筋立てに、登場人物がご都合主義に話を合わせている。読んでいる身としては、「ああ、そういう設定なんだね」と言いながら肩をすくめるしかない。プロジェクト・ヘイル・メアリーのDr.グレースはマーロウと同じアメリカ人とは思えないくらい良い奴だった。誠実に考え、誠実に振る舞った。多少、セリフの端々にマーロウからの伝統かなと思わせるキザな物言いをする時もあるが、読者を置いてきぼりにして自分の世界で良い気持ちに浸っていることはなかった。そうは言っても有名な古典の一つである。世界の村上春樹が翻訳しようかと考える小説である。読みたいと考える人は少なくないだろう。一つ忠告しておこう。「ロング・グッドバイ」を読みたいのなら、せめてAudibleはやめておくことをお勧めする。単調な文章は、せめて単調ではない読み手が読まないと聴くのが辛い。振り返るに、チャンドラーの文章には、ヤクザ映画を見たおっさんが両手をポケットに突っ込み、肩をいからせ、火のついていないタバコを前歯で噛みながら映画館を出てくるのにも似た影響力を感じる。

2024年6月17日月曜日

発達障害診療の道しるべ

 2024年7月に書籍を出版することになりました。

荻野竜也「発達障害診療の道しるべ」南山堂 (2024/7/23) ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4525382711

本来は、なれない発達障害診療に取り組み出した小児科医の参考になればという趣旨で執筆したものです。ただ、全編にわたり保護者や支援者にどう説明し何を助言するかを考えられるようになることを目指していますので、支援者の方々に読んでいただいても参考になるのではないかと思います。以下に、本書の序文をお示しします。

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「はじめに」


 1999年の6月,教授からの指示により私は岡山大学病院小児神経科で発達障害の専門外来を始めました.これは実に無謀な試みとしかいえません.なぜなら,私は発達障害の診療に関する系統的なトレーニングを受けたことがなかったからです.それまでは,てんかんや脳性麻痺などの神経疾患を専門にするという特殊性はありましたが,身体や臓器の疾患を対象とするという意味で一般の小児科医と変わりのない仕事をしてきました.子供の日常生活における行動や精神の問題に取り組むということはほとんどなかったのです.周りには発達障害の診療に専念している人はいません.頼りになるのは書籍や論文だけという状況の中で,ほとんど半泣きのような状態で診療を開始したのです.尾籠な話で申し訳ないのですが,最初の1,2年間は発達障害の専門外来がある日は,必ずといってよいほど朝から下痢をしていました.その当時,最も頼りにした書籍はローナ・ウィング先生の「自閉症スペクトル 親と専門家のためのガイドブック(東京書籍)」でした.まず最初にウィング先生のまとまった記述に出会えたことは幸運だったと思います.

 冷や汗を流しながら発達障害の専門外来を開始してからいつの間にか四半世紀が経ってしまいました.その間,私の状況はあまり変わっていません.相変わらず文献と学会やSNSで触れる正統派のエキスパートである先生方の発言,そして受診する子供たちやその保護者からのフィードバックを師匠とし,日々手探りで診療を続けています.最初から発達障害や関連する状況の診療に通じた児童精神科医などの専門家の指導を受けていればスムーズに身につけられたであろうことも,方々で頭をぶつけながら紆余曲折の末に何とか知ることができれば幸運と感じる現状です.

 世間を見れば発達障害が人々の話題になることがずいぶん増えています.また,国や地方行政の課題として取り上げられることも多いです.しかし,発達障害を対象として診療する医師は需要に対して驚くほどに少数です.このような状況では好むと好まざるとにかかわらず発達障害児を対象とする診療を始めざるを得ない小児科医は多いのではないかと想像します.教科書的な書物を読めば,ある程度の知識は身につきます.でも,専門家がそろっている施設で働いているのでなければ,本に書かれた知識と実際に目の前にいる子供とを結びつけるときに迷うことが多いのではないでしょうか.診断基準を読んでも,それを現実の子供のエピソードに当てはめるときにどのような考え方をすれば良いのか,保護者の悩みを聞いたときにどのような助言をすれば良いのか,なかなか機械的に判断できるものではありません.この本は,そのような状況に至った小児科医を念頭に書いたものです.

 この本の内容は,私の悪戦苦闘の診療体験の過程で捻り出した考え方をまとめています.決してエキスパートの思考ではなく,素人がもがきながら作り上げた自己流の考え方です.そのようなものを世に出して良いのかという疑問はありますし,人がこれを読んでどの程度役に立つのか心許ない思いもあります.しかし,発達障害診療の中で遭遇するさまざまな疑問に,自分なりに納得できる説明をつけてきた結果ともいえます.似たような境遇の方には何がしかの参考になるのではないかと思います.

 この本では,発達障害の教科書的な解説はほとんどしていません.先にも述べましたように,臨床上疑問に思ったり困ったりしたことに自分なりの解釈を積み上げた結果を説明しています.そして,発達障害臨床の仕事の大半は聴いて喋ることです.患者と保護者の悩みや疑問をじっくりと聴きます.そして,問題を整理するために患者や保護者に質問するために喋りますし,状況を整理して説明するために喋ります.患者や家族が困っていることについてどう受け止めれば良いかとかどのような助言をすれば良いか,などひたすら聴き喋っています.この本では患者や家族,あるいはその支援者たちのために,しっかりと言葉を聴いたり喋ったりするにはどのように考えれば良いかということを強く意識しています.

 本書の構成を説明します.第1章では診療をする中で悩ましく感じるテーマについて記述しています.そもそも発達障害って何かという疑問から始まり,保護者の支援にはどのような原則が必要なのか,よくお目にかかる症状であってもその背景にはさまざまな状況が考えられることなどについて記述しています.第2章では実際に発達障害の病型を診断する際の具体的手順や考え方について説明しています.第3章では子供を評価し,診断した後にどのような助言をすれば良いかということについてのさまざまなヒントや考え方を記載しています.第4章では今日,明日の診療にすぐに役に立つわけではありませんが,長く診療していくうえで大切と思われることを説明しました.本書を読んでくださった方の日常の診療に,何らかの参考になることを心より願っています.


2024年7月

荻野竜也




2023年9月30日土曜日

指示は率直に

 僕は発達障害の子どもたちを対象に診療しているので、わりと保育者・教師と接する機会が多い。僕が個人的に知っている限りでは、保育者や教師は子供に「自分で考えさせる」ことを重視している。そして、そのことが顕著に現れるのは何かを指示する時である。してほしい行動を端的に指示するのではなく、今何をすべきかと質問するのである。おそらく、保育者や教師の養成過程でそういう教育をみっちりしているはずだ。

 なぜそう考えるかといえば、経験的な根拠がある。僕は平成最後の12年間、私立大学の保育士・教師養成課程で教員をしていた。似つかわしくもないのだが、教育者になりすましていたのである。その頃、講義でADHDへの対応を説明する際に、L.J. フィフナーさんの「こうすればうまくいくADHDをもつ子の学校生活(中央法規出版)」を下敷きにした内容を話していた。その中に、指示の出し方として「平叙文を用い、疑問文は用いない」という項目があったのだが、毎年必ず学生からなぜ疑問文を用いてはいけないのか、子供に考えさせないといけないのではないか、と怪訝そうに質問を受けたのである。それはもう見事なくらい判で押したように同じ質問をする。だから、これはかなり力を入れて指導されているポイントなのだなと分かった。

 時代はすでに令和になっているが、相変わらず僕は子供に何かを指示する時に質問の形にすることが良いことだとは思っていない。「そんなことをして良いと思っているの?」などと分かりきったことを質問の形にして強い非難の意味を持たせている場合など論外だが、そういう感情的な意味を持たせない場合でも指示をする時に質問の形にすることは良いことだとは思えない。

 まず、質問には必然的に「答えなさい」という指示が含まれる。目的の行動を促すだけではなく別の指示が重複するのである。もっと問題なのは、何かを指示する時に質問の形を取ることは単に必要な行動を促すのではなく「私が何をしてほしいと思っているのかを当てなさい」と命令していることになる。これは、単純に次の行動を指示することよりもはるかに負荷の高い作業であり子供を緊張させる。質問に対して考えたことを率直に伝えれば済む話ではない。質問する側はすでに答えを持っているのである。子供はそれを当てなければならない。これは要領の悪い子や、人の気持ちや文脈を察することが苦手な子供たちにはかなりハードルが高い。四苦八苦して考えたことを相手に伝えても、相手の考える正解にならなければ直ちに否定される。こんなことを繰り返して考える力がつくとは思えない。多くの人が期待する「正解」のコレクションをより多く身につけようとするだけだ。

 考えることを強制された時に考えつくことはそれ程多くない。本当に物事を考える癖をつけたいのであれば、自発的に考えたくなる状況を如何に増やすかということが重要なのではないだろうか。その筆頭は、好きなことや面白いと思うことに没頭する時間を増やすことだろう。好きなことや面白いことは、人から強制されなくても詳しく知りたくなるし、そのことにもっと精通し熟達するためにはどうすれば良いのだろうかと考えを巡らすはずだ。分からないことがあれば何故だろうと自然に考える。勉強は辛くてもするべきものである、と主張したい大人は多い。しかし、おそらく勉強に真剣に取り組む子供の多くは勉強を面白いと思えた経験があるのではなかろうか。勉強は義務だからと勉強に張り切る子はいたとしても少数ではないだろうか。

 もう一つ重要そうなことは、考えたことを躊躇いなく表出できるようにすることだろう。思考は頭の中だけで深まることはない。何らかの形で表現し、それに対する外部からの反応を得てこそ精緻化できる。考えるということは表現するということとほとんど同等なのではないかという気さえする。子供に臆することなく考えを表明してもらいたければ最も重要なことは子供が何を口にしても即座に否定しないということだ。たとえ倫理的に不適切な意見を口にしても、まずはそういうふうに考えるんだな、よく説明してくれたと感謝しながら耳を傾ける態度が必要だと思う。

 人から「考えなさい」と言われて考えられる程度のことは浅い。本当にに自分で考える子供を育てたいのなら、子供に接するあらゆる瞬間に何かに興味を持たせ、面白がらせ、意見を口にさせる様に促す指導者のスキルが問われるのではないだろうか。

2023年1月2日月曜日

自閉症をどう理解するか

 随分久しぶりに丁寧に論文を読んだ。論文を読むこと自体が久し振りとも言えるのだが。

Pellicano E & den Houting J. Annual Research Review: Shifting from ‘normal science’ to neurodiversity in autism science. J Child Psychol Psychiatry. 2022 Apr;63(4):381-396.  doi: 10.1111/jcpp.13534.

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9298391/

 自閉症という概念の捉え方の変化を解説したもので、具体的には神経多様性パラダイム(neurodiversity paradigm)の解説である。伝統的な医学的自閉症観では自閉症を障害と捉える。自閉症者に見られる特徴をすべて障害や欠陥として扱う。そして、自閉症者への援助の根底には障害である「自閉症」を消すことを目指すという暗黙の了解がある。医学的自閉症觀で最も重視されることは、自閉症の遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることである。そして、遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることは自閉症者を「正常」に近づけるべく治療をすることに連なる。

 神経多様性パラダイムは医学的な自閉症観に異議を唱え、自閉症者を、平均的な人と比べての強みも弱みも含めて、ありのままに受け止め、尊重し、敬意を払おうという考え方である。その上で、自閉症者達自身のニーズや主張を聞いた上で自閉症研究や支援方法の開発を目指す必要があるという主張も含まれる。

 僕にとって神経多様性という考え方は、5年くらい前にSilberman Sによる”Neuro Tribes”を読んで以来関心を持ってきた概念である。僕自身は神経多様性に共感を抱いているのだが、さて、具体的に社会に実装すると考えるとハードルの高さに眩暈がしそうでもある。ただ、Pellicanoとden Houtingによれば、劇的ではないものの自閉症研究の世界では明確な変化が見られだしているとのことで、喜ばしい。

 この論文の中に気になった点が一つある。自閉症者に対する不適切な治療的取り組みの代表として応用行動分析(ABA)を取り上げている。この文章の中ではABAを、電気ショックという嫌悪刺激を用いたごく特殊な取り組みや、(ごく特殊とまでは言えないが)自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づけるために行われる取り組みのことを指している。詳しくない人が何気なく読むと、応用行動分析は非常に悪しき治療法という印象を持ちそうだ。しかし、本来応用行動分析とは単なる心理学の1領域にしか過ぎない。特定の方法(e.g. 電気ショック)や特定の目的(e.g. 自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づける)を示すものではない。理論や学問という普遍性のある名称を、個別事例の名称として用いられると困るなあと思う。

 

2022年3月13日日曜日

知能の高い子ども

  この文章は、公開している下記の文章の加筆した1項目である。

「発達障害を伴う子供を支援するために

—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing


 時に,極めて知能の高い子どもがいます。厳密な定義があるわけではありませんが,知能検査でIQが130~140を超えるような子供です。知能が高いと聞けば良いことのように感じるかもしれませんが,意外にそうではありません。平均的な子ども集団の中で暮らしていくことにかなりストレスを感じることが多いのです。知能が高い子供が自閉スペクトラム症や注意欠如・多動症の特徴を有することもしばしばあり,このような時はひときわ暮らし難さが増しやすく,特別な配慮が必要です。この項ではそのような子供たちへの日常の配慮の要点を整理します。ただし、客観的な根拠がある話ではありません。あくまで経験の中でまとまってきた、少なくともこの程度に考えても良いのではないかという私個人の考えを記述しています。知能が著しく高い子供への支援については客観的な知見の蓄積はまだ不十分なようです。まとまった記述のある成書も乏しいです。私自身が把握しているものをご紹介しますと、翻訳物ではJ. T. ウェブら(注1)、日本人では松村 暢隆(注2)による書籍があるくらいです。以下の記述を読んでいただければ理解していただけると思いますが,指導者は大人としての器を問われているつもりで接し方を考えることが必要です。
 まず,何事もきちんと説明する必要があります。情緒的に説明するのではなく理屈の通った論理的な説明をし,その中で本人の納得を引き出すということが重要です。強引に力でねじ伏せるような指導方法は論外といえます。一見不適切あるいは理不尽な言動でも本人なりの理屈がある場合が多いと考えましょう。こういう時に一方的に押さえつけるような指導をすると,長期的な成果が期待できないばかりか,かえって問題行動が増加する可能性があります。本人の頭にある理屈を丁寧に聞き出し,その中のもっともな部分の正しさを認めるとともに修正すべきことはなぜ修正すべきなのかを理を尽くして説明する必要があります。
 日々の活動に退屈させない工夫が必要です。集団での活動をすべてその子供に合わせて組む必要はありませんが,他児と全く同じ課題を与え続けると本人にとっては無為な時間を過ごすことになりやすいです。活動に関連付けながらでも本人が興味を持ち,取り組む意義を感じる課題を随時用意する必要があります。時には先生の助手をしてもらったり、課題の理解が難しい子供のサポートをお願いしたりすると良いこともあります。ただ、当然のように特定の子供の世話を押し付けることがないようにすべきです。
 習っていない知識を披露したり習っていない解法で問題を解いたりしたときにそれを非難することは避けなければいけません。むしろ,その知的好奇心を讃えるべきです。授業の流れの都合があれば常にその場で時間をかけて付き合う必要はありませんが,可能な限り別の時間をとり本人の意見や考えを聞き取り吟味し,正しい考えについては正当に評価するべきです。指導者はお子様の考えや意見の正誤を学問的に認められる根拠に基づいて判断し説明すべきであり,学問的には間違っていないことを指導の方便の都合で間違いと告げるようなことは決してすべきではありません。
 高い能力と,それとは不釣り合いに幼い面が共存していることを十分に意識する必要があります。本人の知的レベルとは整合性の欠けた幼い考え方や振る舞い方しかできない面を非難すべきではありませんし,高い能力に対してはそれに見合った敬意を表する必要があります。特に、社会性に関して未熟なことがよくあります。ずけずけと指導者の間違いを指摘することも多いかもしれません。その場合の最適解は、指導者が素直に誤りを認めることです。運動や手先の使い方が未熟なことも珍しくはないと思います。
 まだまだ人生経験が乏しいわけですから、視野が狭く、考え方に多様性がないことが多いと思います。人の考え方,感じ方,境遇,生活,物事がうまくいくかどうかや予定どおりに物事がすすむかどうかなど,様々な面で世界は多様であることに少しずつ気づかせる必要があります。そのためには,興味を持てるものからでよいので本を読む習慣を促し,読書体験を広げていくことが役に立つかもしれません。
 子ども同士で一体となることを強制しないように注意しましょう。他者に対して礼儀正しく接することは求めるべきですが,他者と仲良くする必要は必ずしもありません。その子供によって感じ方は多様ですが、知能が高い子供は往往にして同年代の子供の活動に退屈しがちです。同年齢の子供たちの遊びに無理に合わせるよりも、自分の知的好奇心に基づいた活動をしたいと考えることを自然なことと認める必要があります。また,興味の有る活動や分野を軸に世代を超えた人間関係を構築できる場があると望ましいと考えます。子供だからといって子供だけの閉じた世界にとどまらせる必要はありません。

注1:J. T. ウェブ、他「ギフティッド その誤診と重複診断: 心理・医療・教育の現場から」北大路書房、2019年.
注2:松村 暢隆「2E教育の理解と実践: 発達障害児の才能を活かす」金子書房、2018年.

注3:この項を書き終えてから下記の本の存在を知りました。家族や教師にとっては上の2冊よりも有用かもしれません。
片桐正敏、他「ギフテッドの個性を知り伸ばす方法」小学館、2021年.


2021年11月15日月曜日

発達障害病歴聴取の手引き

https://drive.google.com/file/d/1xGDFiQDWk5664D7g-yOM01rSoXiCp-_m/view?usp=sharing

 「発達障害病歴聴取の手引き」と称しているが、発達障害という言葉よりフォーカスは狭い。DSM-5の自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症の診断基準に沿った聞き取りをするときにどのようなことを意識すればよいかをまとめた文章である。

 僕はてんかん診療を中心として小児神経学の臨床については結構ブランドものと言ってもよさそうな環境でトレーニングを受けた。しかし、発達障害の臨床に関して系統的なトレーニングを受けた経験が全くない。いろいろな経緯があって発達障害専門外来を引き受けることになったのだが、半泣きの状態で書籍と論文だけを師匠としながら細々と外来を続けてきた。そのような五里霧中でジタバタしながら作ってきた病歴聴取法をまとめたものがこの「発達障害病歴聴取の手引き」である。端的に言えば僕の自己流の塊である。

 このようなものをなぜ公表するかといえば、この世には一流の臨床家によるトレーニングを受ける機会もないままに発達障害の診療をせざるを得ない状況に至った小児科医が大勢いるのではないかと考えたからである。診断基準なるものがあることは分かっているものの、その文面をどの程度に解釈すればよいのだろうかと悩んでいる小児科医にとって、絶対的な基準にはなり得なくても診療のヒントぐらいにはなるのではないだろうか。あくまで導入編である。実際に発達障害の診療を始め、結構面白いと感じた人はもっと専門的な書籍や論文に手を伸ばしてほしい。

 児童精神医学の本格的な研修を受けている人が読んで得られるものはない。ただ、そのような人がひょっと気まぐれで読み、感想や批判を送ってくださると大変ありがたい。