2026年1月17日土曜日

障害ではなく個性だと考えています

  教師や保育者と発達障害についての話をしているときに、明らかに善意から「障害ではなく個性だと考えています」と仰る方を時々目にします。このような主張をされる人達は障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しておられるのでしょうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをし、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話です。言葉の言い換え程度で救えるものではありません。教師や保育者などの障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきです。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているのではないかと思います。

 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題があります。個性という言葉は本来、暮らし辛さや生き辛さを表す言葉ではありません。個性と言い換えてしまうことで、障害がもたらす苦しさを見えにくくしてしまいます。なぜ障害という言葉が公に用いられているかというと、本人には変えることができない暮らしにくさを有する人には社会が援助する必要があるからです。


 現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF、上図)で定義されています(厚生労働省、2002)。図4では真ん中に描かれている、心身機能・身体構造、活動、参加の3要素をまとめて ICFでは生活機能と呼びます。人が生活する状態を総合的に表したものです。ICFの定義によれば、生活機能の3つの要素全てが問題を呈している状態が障害です。障害は単に心身の調子が悪い状態のみを意味するものではありません。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での「活動」が制限されていることを含んでいます。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面や社会への「参加」に制約があることも含んでいます。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできていない「状態」を意味しています。つまり、暮らし辛い、生き辛い「状態」であり、人として当然保障されるべき権利が侵害されているのです。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まります。環境を変えることで活動や参加の状態を改善することができるのです。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための環境の調整が必要です。

 簡単に言えば「困っている」状況が障害なのですから、「それは個性ですよ」と能天気なことを言われても困ります。障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧するわけです。念のために補足しておきますが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じません。あくまで障害を持つ人たちを職業的に支えるべき立場の人たちが口にすることは問題だと考えるのです。

 話が少しそれますが、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく指導します」と口にする学校園の先生がしばしばいらっしゃいます。「障害は個性です」も、「どの子供も区別する気はありません」も、どちらも障害という括りで子供を分けたくないという気持ちが共通しているように思えます。ただ、私は両者から違う印象を受けます。「障害は個性です」には無知な無邪気さや能天気な善意を感じます。しかし、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」というセリフには自分の考え通りに人を従わせようという支配欲のようなものを感じます。これは多分に私の個人的経験の影響でしょう。私が経験した、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と仰る先生は受け持ちの子供に一律の指導をし、一律の課題に取り組むことを求めます。どれだけ子供本人が困っていても、「自分のやり方」「自分が必要と考えたこと」を押し通そうとされる方ばかりでした。個人的経験を一般化して良いかどうかわかりませんが、現在、私は教師が「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と口にするのを見ると、おそらく力量の低い先生なんだろうなと判断する癖がついています。

 話を元に戻しましょう。結論を申し上げれば、子供の健やかな成長を支えることを生業としている先生方には困っている子供を際限なく困らせることや、苦しんでいる子を弥が上にも苦しめるようなことに加担してほしくないのです。障害があるということは生活に支障をきたしているのだということをしっかり認識し、必要な支援が速やかに提供されるような環境を構築することに尽力していただきたいと願っているのです。その結果として、子供達が持てる力を十分に発揮しながら日々の生活を楽しめるような環境になったとき、今まで発達障害として捉えられていた特性を文字通り個性と称することが可能となると思います。


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月4日日曜日

接し方/指導の仕方を教えてください

  思いがけず時間ができたので、本田英美は机に頬杖をついてぼんやりしていた。視線を向けた診察室の窓の外では色付き始めたもみじが風に揺れている。英美が診療している発達障害専門外来は原則予約制で、一人当たりの診療時間が結構長くとってある。毎日隙間なく組み込まれた受診予約に沿って子どもたちの診療をしているのだが、たまに予約のキャンセルがあるとポッカリと時間が空いてしまう。こういうぼんやりしている時には得てしてあまり面白くない記憶が蘇ってくる。今日の英美は先週参加した学会での出来事を思い出していた。その学会で、英美は注意欠如多動症患者を対象としたワーキングメモリ検査得点と薬物治療との関連について検討した研究を発表した。時間内にプレゼンテーションを終え質問タイムになった時、演台に近い前方の席に座っている男性が手を挙げた。立ち上がりマイクへと歩む男性を見て、英美は見覚えがある顔だと気づいた。発達障害を専門とする臨床家や研究者なら知らぬものはいない大物である。自ら臨床に携わりながら子供の認知科学的研究でも多くの業績を上げているこの分野での権威である。男性はゆっくりとマイクを握り、穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。「素人質問で恐縮なのですが...」。その言葉を聞いて英美はぞっとした。学会場で権威のある学者が口にする「素人質問で恐縮なのですが...」が本当に素人質問であることなど滅多にない。自分が最も力を入れて研究している分野とずれていますが、程度の意味であり、むしろ自分が興味を持つ領域だから食いついてきていることが多い。事実、この時に英美に投げかけられた質問は簡単に答えられるようなものではなく、彼女は脂汗を流すことになった。

 「本田先生」、苦い記憶に浸っている時に診療所スタッフの吉川鉄子に声をかけられ、英美はハッとして振り向いた。「健太くんのお母さんと小学校の担任の先生がいらっしゃいました」と鉄子が告げる。健太くんは注意欠如多動症の小学生である。可愛らしい子なのだが、何しろ集中力が続かないし、思いついたことをすぐに行動に移してしまう。おまけに多少読字の拙さがあるため文章を読むことが苦手で、特に国語の時間は今何の説明をされているのかわからなくなることがしばしばある。そのため、授業中に離席したり、隣や前の席の子供に話しかけたり、時にはイライラして突然叫んだりする。すでに数年前から時々相談に乗っていたのだが、この日は担任の教師が医師に直接話を聞きたいと強く希望したため、母親と一緒に来院することになったのである。

 2人を診察室に招き入れ、椅子を勧める。内心、ちょっと失礼かもしれないなあと思わせる程度に古くて薄汚れた椅子なので、少々気が咎める。しかし、綺麗な調度品を揃えるほど潤沢な予算はないので仕方がない。すでに馴染みの母親はリラックスしてすんなり座った。それに続いて担任の先生も椅子に座ったが、慣れぬ場で緊張しているのか硬い表情だ。英美は、2人が椅子に座ったことを確認してから担任の先生に顔を向け、「今日はどのようなご用件でしょうか」と質問した。間髪を入れず「今日は健太くんにどのように接すれば良いのか、どのように指導すれば良いのかを教えていただきたいと考えやってまいりました」と担任は口にした。一瞬、英美の脳裏には先週の学会で英美に質問した学者の顔が浮かび上がった。いったい何を言っているのだろう。教師が医師に、よりにもよって指導の仕方を尋ねるなんて。学会場で耳にする「素人質問で恐縮なのですが...」みたいなものではないか。だが、担任の先生の顔は至って真剣である。学会で質問した権威のような余裕に満ちた表情ではない。元々生真面目そうな先生に見えるが、英美に対しても真面目に真剣に質問しているようなのだ。

 実は英美が教師や保育者からこのようなセリフを聞くのは今回が初めてではない。というか、何回聞かされたか覚えていない程度には何度も経験している。このような質問をされるたびに英美は、教師や保育者が医者に子供の指導方法を教えてもらおうとして良いのか?それが許されるのなら医師が教師に病気の治療法を教えて欲しいと相談しても許されるのか?そうなのか?と叫びたくなる。もちろん本当に叫んだりはしない。何しろこの道20年のキャリアである。どんな質問を受けても涼しい顔をしていられるだけの自制心は身につけている。それどころか、発達障害を専門に診療していると必要に迫られて色々な付け焼き刃の知識だけは膨らんでいるので、一見それらしい返事をすることさえできるようになっている。しかし、教師としての職歴はないし、教育学を本気で勉強したこともない。自分の説明が本当にそれで良いのか自信がない。一見涼しい顔をしながらも、このような、立場が逆転しているだろうと言いたくなる質問を受けるたびに心の中に割り切れない思いが満ちてくるのである。

 今日も英美はまずまず無難なことを説明し、健太くんの担任と母親はそれなりに腑に落ちた雰囲気で帰っていった。2人の姿が診察室のドアから出て行き見えなくなると、英美は溜め息をついた。「どうしました、浮かない顔ですね」と後ろから声がする。スタッフの鉄子である。鉄子はその名前に似合わずふっくらとした顔をしているし、物言いも優しげである。なぜ鉄子という名前になったのだろう。父親が製鉄会社の社員か大の鉄道ファンだったのかもしれないと英美は想像したりもするが、本当のところはわからない。

「また言われたよ、どのように指導したら良いか教えてくださいって、教師にだよ」と英美は愚痴った。

「あらあら、ぷんぷんせずに教えてあげれば良いじゃないですか」と鉄子。英美が10年前にこのクリニックで働き出した時にはすでに鉄子はいた。長年の付き合いのせいか、英美のことはその時々の気分まで鉄子は鋭く見抜いてしまう。

「だって、子供を指導するなんて、あっちの方が専門家でしょ。なんで医師にそんな質問ができるのかなあ」

「確かにそうですね。なんでなんでしょうね」

「うーん、よくわからないなあ。発達障害は『障害』なのだから明確な異常がある病気と感じているのかなあ。そう感じているのなら、医者だけが正しく診断し、適切な『治療』や『処方』ができると考えているのかもしれないけど」

「あ、そうかもしれませんね。発達障害といえばどうしても診断という話になりやすいし、医者が診断するものなら医者が治療や対処も考えられると思っている可能性はありますね」

「それは誤解なんだけどなあ。医者は教師としてのトレーニングを受けたことなんてないんだから。それに、発達障害に見られる特徴は正常の人には見られない特殊な異常なんかではなくて多くの人に見られる行動や認識の仕方のバリエーションにすぎないよ」

「先生、いつもそう言ってますね。そのことを理解していれば、指導方法や接し方なんて経験を積んだ教師や保育者なら日常の業務でしていることから発展させれば対応できそうですけどね」と鉄子。鉄子自身、以前は発達障害の子供は普通の子供とは違う独特の異常を持っている子供たちだろうとなんとなく考えていた。しかし、英美と一緒に働き出し、実際の子供達に接しながら英実から発達障害の説明を詳しく聞くうちに、以前考えていたことは誤解だったということを実感として理解できるようになった。発達障害と言われる子供は「正常」な子供とは明確に区別される「異常」があるのではなく、人としての行動パターンや物事の認識の仕方のバリエーションの範囲内にいる子供たちにすぎない。実際、診察室で出会う子供たちは決して想像を絶するような存在ではない。

「そうなんですよねぇ。教育や保育の専門家がわざわざ医者に質問するようなものではないんだけどなあ」

「でも先生、そうは言いながらもいつも説得力のある助言をされているじゃないですか。少なくとも、先生の返事を聞いた教師や保育者の皆さんは納得したような表情で頷いていますよ」

「そりゃあね、素人なりに勉強しましたもん。相談を受けるたびに、困りましたねぇ、で終わってたら格好つきませんものね」

「確かに。私がいうのもなんですけど、お医者さんって割と見栄っ張りというか、わかっているような態度を取りたがりますものね」

「ん?腹立たしくも鋭いご指摘、ありがとうございます。まあ、発達障害の診療に関連する書籍を読み漁りましたよ。応用行動分析の本には本当に助けられたなあ。読字障害や算数障害の本も目に付くものがあれば買って読むし。おかげで、『わかっているような態度』でものが言えるようになりましたよ。でもね、私自身が子供を教育指導したわけではないから、本に書かれていることの良し悪しを経験的に判断することはできないんですよ。ものを言いながらも、本当にこれで良いのかなあという疑問が常に付き纏う」

「教師や保育者たちが、先生が読んできたような本を読めばお医者さんよりももっと実践的な知識を得られそうですね」

「本当にそう思う。教育や保育を実践している専門家が関連する書籍を読めば、そして、そうすることで得られるノウハウをお互いに伝え合えば、医者なんぞが口を挟む余地もない大きな成果を上げると思いますよ。実際、そのように実践されている先生方もいることはいますよ。個人的にも知っていますし」

「教師が医者に指導方法を尋ねるのは格好悪いという意識がもっと広まると良いですね」

「本当にそうですよ。でもね、教師や保育者の先生方の立場に立つと同情してしまう点も多いんだなあ」英美は眉をひそめながら言う。

「どうしてですか?」診察室の窓のブラインドを下ろしながら鉄子は尋ねた。

「おそらく彼らは、子供の年齢ごと、学年ごとに一律の目標を持って指導することを求められているみたいなんですよ。特に、小学校以降の教科教育は基本的には学習指導要領に沿って教えなければいけませんからね。だから、学年ごとに期待される『子供像』を前提にした指導には慣れているのだけど、平均的な子供からはずれた特徴を持っている子供への指導技術には通じていないように見えますね。先生なんだから個々の子供の特徴に合わせて理想的な指導をするべきだ、って主張されても戸惑ってしまう先生が多いのではないかなあ」

「おやまあ、それは気の毒ですね。といって、医者に指導方法を聞きにくるような状況が良いとも思えないし、大体診察室でサラッと総論的な説明をされても現場で実行するには色々難しさもあるかもしれませんね」

「その通りだと思いますよ。先生によっては、医者の話を聞きながら『現場のことをわかってないなあ』と内心イライラしているかもしれませんしね」

「どうすれば子供達が救われる状況ができるのかなあ」

「私は、そもそも発達障害支援の仕組みを医療ベースで考えることは間違っていると思うんですよ」英美は机の上の鉛筆を突っつきながら言った。

「というのはどういうことですか?」

「発達障害支援は基本的に生活支援ですからね。学校や保育所などの子どもたちの生活環境が暮らしやすくなることが根本的に目指すべきことですからね。これは医療の手に余る。やはり、教育や保育自身が発達障害児を受け入れるキャパシティを増やさないといけない。そのためには行政のシステムとして教師や保育者を援助する仕組みが必要だと思いますよ。先生達からの相談を受けたら専門的な知識を持ったスタッフが現場に赴き、教師や保育者に助言をしながらその取り組みが成果を上げるところまで確認するような制度ができるといいんですけどね。そのような組織的な取り組みの中で医学的な知見も必要ということであれば私たち医療者が協力すればよいし」

「それはもっともな意見ですねえ。でも、行政の上層部や政治家がこういうことに理解を持たなければなかなか実現しないかもしれませんねえ。あ、診療時間が終了しましたよ。お昼ご飯を食べに行きましょう」

「そうですね。鉄子さん、お供いたします」

「今日の私のお弁当には、先生が褒めてくれた卵焼きが多めに入っていますよ」

「ごちになります」


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次





2025年12月31日水曜日

学校との話し合い

 発達障害のある子供への学校の指導が上手くいっていないことがしばしばある。もちろん教師の技量が低い場合もあるだろうが、必ずしもそうではなく単に先生の指導方法が子供個人の特性とあっていないこともある。いずれにしても、子供が学校生活にうまく適応できず困っているのなら保護者は率直に学校に懸念や心配を伝える方が良い。学校との話し合いを建設的なものにするために、僕は保護者に以下のことを念頭に置くように説明している。


1)礼儀正しく。人として、大人として当然のことである。

2)抽象的な表現を使わない。例えば、「子供の気持ちを無視した指導をする」といった曖昧な表現は避ける。抽象的で曖昧な主張は論証することが難しく、得てして水掛け論になってしまう。

3)心配な事実の時系列を元に話し合う。そのためには記録が大事。主観的な印象などは人によって受け止め方が異なるが、事実は議論の確固たる土台になりやすい。なお、子供の主張したことは、その内容が事実なのではなく、子供がそう言うのを保護者が聞いたということが事実。例えば、子供が「先生がめちゃくちゃきつく叱るので怖い」と言ったとして、本当に先生がめちゃくちゃきつく叱っているかどうかは不明である。ただ、子供がそう言ったということは事実だし、子供がそう感じている可能性が高いということは考慮すべきポイントとなる。

4)担任との話し合いが建設的に進まないときは、学校を代表する人に話し合いの場を作るように要望すると良い。保護者は心配な時の申し入れ先としてまず担任を考える。勘が良くフットワークの軽い担任ならそれでうまくいく。しかし、担任の人柄や力量によっては一対一の話し合いは泥沼になりやすい。そうなると、お互いに疲弊する。話が進まないときはいつまでも担任を相手にせず、校長、教頭、コーディネーターなど学校という組織を代表する人と話し合う方が良い。

5)学校を代表する立場の人と話すときに担任の人格や力量を批判しない。あくまで気になり心配な事実が生じていることについての対処を申し入れる。むしろ、一生懸命指導してくれている担任を学校として援助してあげてほしい、くらいの文脈で良い(あまりにも白々しくならなければ)。仮に、担任が明らかに不適切な発言や子供への接し方をしたということがあっても、その不適切な事実を事実として取り上げれば良い。それを元に担任の人格や考え方を非難することは避けるべきである。

6)子供自身や保護者の希望は率直に伝えれば良いが、よほど明確で具体的なこと(例:発達性読み障害があるので音声教材を使いたい)以外は、対処方法を要求するのではなく認識された問題の解決を求め、その方法は専門家集団である学校に任せる方が良い。原則として保護者は何か具体的な対策を要求するのではなく、子供が困っていることを伝えその解決を依頼するという立場に立つのが良い。

7)学校はすぐに動かない(動けない)ことが多い。一度の話し合いで物事が解決することは滅多にない。解決どころか問題を問題と認識するまでに時間がかかることがよくある。時間をかけ、繰り返し話し合いの場を持つ覚悟が必要である。そして、話し合いを繰り返す都度、それまでの間に行った対処方法、本人の状況の変化や成果を学校側と共に振り返ると良い。この振り返りももちろん事実の時系列を中心にすることが大切である。さらに、次の話し合いをいつするかと次回までに何を目標にするかを決めておくのが望ましい。

8)第三者を交える。保護者としては子供が心配で焦る気持ちがあって当然である。その状況で上に述べたような配慮をしながら冷静に話し合うことはなかなか難しい。さらに、学校に対して専門的な助言をする必要が出てくることもある。そうなると、保護者だけで学校と話し合うことはかなりハードルが高くなる。できれば、相談支援事業所職員など、事情や子供の特徴を理解し発達障害についての知識もある第三者を交えることが望ましい。話し合いに同席できる専門的知識を持った第三者を見つけることが難しいなら、せめて話し合いの前後に相談できる専門家を確保しておく方が良い。


 この文章は、子供の成長と幸せを実現するために保護者と学校が建設的な話し合いができるようにという前向きの動機で書いている。ただ、もっと消極的な理由もある。保護者が悪者になるという事態を避けたいのである。我が子が苦しんでいるとき、そしてその原因の幾許かを学校の指導に帰すことができそうなとき、親が冷静でいることは難しい。しかし、そのような感情に任せて碌に準備もせずに学校に乗り込むと、往々にして話し合いが建設的に進みにくいし、下手をすれば保護者がクレーマーやモンスターペアレントとみなされることにもなりかねない。そうなると事態は硬直し、子供がなかなか救われないことにもなる。上に記した配慮事項は子供と保護者自身を守るという意味でも念頭においていただきたい。

2025年12月24日水曜日

検査をしてもらってください

 子供が学校や保育所などで何らかの問題があってうまく暮らせていないときに、前項で書いたように保育者や教師の皆さんは診断や診断書を求めることが多いです。これに加えてしばしば耳にする言葉が「検査をしてもらってください」です。きっかけとしては、集中できない、かんしゃくが多い、指示が通らない、人の気持ちがピンとこない、など初めて診断を求める際と似たり寄ったりです。小学校になれば、本が読めないとか計算ができないなど、学習に関連した問題がきっかけになることも増えます。

 「検査をしてもらってください」には謎がいっぱいです。まず、「検査」とはいったい何を指しているのでしょうか。発達障害の(あるいは疑われる)子供に関する話なので、おそらく認知機能検査あるいは心理検査の類と思われます。世の中には記憶、知覚、実行機能などの個別の認知機能に関する検査や適応行動の評価など山ほど検査があります。ただ、その辺りを熟知されている教師や保育者の先生は多くないので、ほとんどの場合は知能検査や発達検査と呼ばれるものを指しているのだろうと思います。しかし、集中力がないとかかんしゃくとか交友関係がうまくいかないなどの問題があるときに知能検査をする意味なんてありません。学習の問題なら多少の関連はあるでしょうが、それにしても知能検査をすればどの教科のどの単元が難しいだろうということや、どういう指導法で子供が学習内容を理解できるのかが分かることはほとんどありません。実際に学習に取り組んでいる状況をつぶさに観察する方がよほど対策に直結する情報を得ることができます。

 簡単に片付けると大変失礼ですが、安易に「検査をしてもらってください」とおっしゃる先生方のほとんどは検査がどういう意義を持っているのか理解されていないのではないかという気がします。知能検査にはどのような課題が含まれ、それぞれの課題から算出される得点がどのような意味を持っているか、あまりご存知ないままに検査に謎の効用を漠然と期待しておられる方がほとんどではないでしょうか。そういえば、検査で発達障害の診断ができると考えておられる先生方も多そうです。知能検査で評価する対象は言葉の通り知能です。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症などはあくまで日常生活の中で観察される行動で定義されていますので、知能検査結果で診断できるわけではありません。現在発達障害に関連した診断病型で、診断に際し知能検査の重要性が高いものは知的発達症(知的障害)と限局性学習症(学習障害)だけです。しかし、この2つの病型であっても検査のみが診断を支えるものではなく、むしろ日常生活の中での適応状態や行動を確認し、知的発達症や限局性学習症の診断が実生活の状態をよく説明できていることを示す必要があります。

 以上述べてきたように、発達障害に関して何よりも検査が優先される状況などというものは滅多にありません。しかし、教師や保育者の先生方が「検査をしてもらってください」と強く主張すると保護者も不安になり、医療機関に検査をすることを強く希望するという状況が頻発します。このことに関しては、一方的に教師や保育者を責めるのは気の毒な状況もあります。どういうことかというと、知能検査によって多くのことが明らかになるという幻想を持たせそうな説明をする医師や心理師も多いからです。学習や発達の問題があれば知能検査が必須であると医師や発達相談に出務している心理師が患者の親に説明することが結構あります。まるで特定の支援方法が有効であると知能検査の結果から証明されたように説明されることもあります。自閉スペクトラム症や注意欠如多動症の診断根拠が全て知能検査所見で説明されている医療機関の書類をこの目で見たこともあります。これらの状況をしばしば目や耳にしていれば、学校園の先生方が知能検査に過剰な期待を持ってしまうことも無理からぬ話かもしれません。しかし、知能検査をして得られることは非常に少ないのです。認知能力の特性が漠然と掴めることはあります。しかし、どの教科のどの単元が理解できるかどうかの予測はできませんし、学習に困難を示す子供の具体的な支援方法を編みだせることもほとんどありません。ましてや、自閉スペクトラム症や注意欠如多動症など日常の行動特徴から定義されている状態の診断の根拠になることは決してありません。知能検査さえすれば明らかになることが色々ある、あるいは知能検査をしなければ手が打てないなどと主張する医療機関は少々怪しいと疑った方が良いと思います。

子供の日常に何らかの問題があるのなら、そしてそのことで子供自身が困り保護者が心配しているのなら、まずは検査のことには触れずに医療機関に相談してごらんなさいといえば良いのではないでしょうか。どうしても知能検査が欠かせないかどうかは医師に任せれば良いのです。「知能検査や発達検査は害がないしやってもバチは当たらないだろう」程度に考えている方がいれば、それは間違いです。知能検査や発達検査は結構子供にとってストレスになることが多いです。しかも、かかる医療費もそれほど安いものではありません。このご時世に、無駄に子供を辛い目に合わせたり意味のない医療費を発生させたりすることが許されるとは思いません。

 最後に、医療における検査の位置付けについて触れておきます。医師は基本的に臨床経過や診察所見から推定できる病態を裏付けるために検査を計画します。検査をすることでどの様な結果が出そうか、そしてその結果を得ることでその後のどのような具体的対応に結びつけられるかについて、ある程度の見通しを持っていることが前提です。具体的目的意識を持たないままに、とりあえず検査をするということは通常ありません。いや、正直に言いますと、とりあえず検査を絨毯爆撃のようにしてしまう医師もいるにはいます。しかし、その様な医師は医療の世界では恥ずかしい存在とみなされます。検診や人間ドッグなどは多少「とりあえず検査」に近いかもしれませんが、それでも対象集団において頻度の高い疾患を念頭に置き、有意な所見が得られた時は次にどう進めるのか具体的な対応が想定されています。それぞれの検査の具体的意味やその結果の具体的利用方法を考えることなく検査を計画することは、少なくともまともな医療機関ならしないということを知っていただけると嬉しいです。

2025年12月11日木曜日

診断書を書いてもらってください

  教師や保育者の皆さんが子供の指導に梃子摺ったり困ったりしている時に医療機関受診を促す流れで、しばしば先生から保護者に「診断書を書いてもらってください」という言葉が発せられます。さて、診断書を何に使うのでしょうか。明確な使い道はあります。加配の保育士や、小学校であれば支援員を配置する際に診断書は役に立ちます。公的支援制度の利用には診断書が必要になることは多いからです。ただ、公的制度の利用を想定していない時でも、しばしば診断書が必要とおっしゃる先生がいらっしゃいます。診断書までは求めなくても、「診断してもらってください」「診断が必要です」とおっしゃる先生はとても多いです。保護者があまり気乗りしない時には頼み込み、あるいは脅すようにして医療機関を受診させようとする先生もしばしばいらっしゃいます。

 保育士や教師たちは一体どういう理由で診断を求めるのでしょうか。繰り返し考えている疑問なのですが、僕にはよくわかりません。発達障害やそれに関連する障害病型のほとんどは、平均的な子供からずれた行動や認知の傾向が主たる特徴(発達特性)です。例えば、自閉スペクトラム症なら交友関係や会話など人とのやり取りがスムーズにいかない社会性の問題と、興味や関心が限られたものに集中しがちで繰り返し行動が多く環境の変化に抵抗する傾向が特徴です。注意欠如多動症なら不注意さと、多動と衝動性が主たる特徴となります。いずれの場合も振る舞い方や物事の認識の仕方が平均的な人からずれているがために色々な失敗をし、困難に遭遇しています。このような特徴はCTを撮ったり内視鏡検査を行ったりして初めて明確になるものではありません。日常生活の中での本人の振る舞い方を見ればわかります。自閉スペクトラム症や注意欠如多動症という診断名はそのような特徴があることを示しているに過ぎません。保育者や教師の先生こそが、医師よりもよほど子供たちの特徴を把握できる立場におられます。もしも教師や保育者がそのような診断概念を熟知されているのであれば、闇雲に医療機関受診を勧めるまでもなく自分で日々の子供の様子を見ていればご自分たちで判断できることです。逆に診断名が持つ意味を具体的に把握できていないのなら、単に診断書を用意され診断名を告げられても日々の指導に活かせることはないでしょう。

 ある診断名がついたとしても個人差がかなりあります。特定の診断の基本的特徴ではないものの、伴いやすい様々な症状や障害もあります。基本的な診断概念についてはよく知っているのではあるが、子供ごとの様々なバリエーションについてどう理解すれば良いのかを専門的に診療している医師に問うてみたいと考え、できれば受診してほしいと保護者に提案する先生も中にはいらっしゃるかもしれません。しかし、私個人の経験では、一旦診断がついた後も診断に関連する様々な疑問について問い合わせてくる保育者や教師に出会うことはほとんどありません。となると、診断されることに一体何を期待しているのでしょうか。

 ひょっとしたら、と思うことが一つあります。保護者に、「あなたの子供には問題がある」ということを納得させたい、言い方が悪いですが、医師から引導を渡してもらいたいという気持ちがあるのかもしれません。医師が診断することによって保護者が子供に問題があることを受け入れるのではないか、そういう期待を医療に抱いているのではないか。ただ、もしそうだとするならば、考え直していただく必要があります。単に子供に問題があることを親に納得させるためだけに受診させることは、いろいろな理由から好ましいことではありません。まず、多くの親御さんは子供に楽しく有意義に登校、登園してほしいと願っています。きちんと説明すれば子供の学校園での生活に支障が出ていることは理解しますし、問題を解決したいと願います。もし親御さんが子供の生活に支障が出ていることを受け入れられないのなら、まずは問題の伝え方が悪かった可能性を考えなければいけません。

 子供の、学校園で生じている問題を保護者に伝える際に留意したほうが良いことがあります。まず、善悪の問題にするのではなく、子供自身が困っているという観点で説明すべきです。困っている子供を何とか支えたいという文脈で伝えるのです。また、子供がうまくできていることとか頑張っていることを併せて伝えるべきです。決して何もかもが問題なわけではなく、むしろうまくいっていることが多いことを説明すべきです。そして、先生なりの子供を援助するプランを合わせて説明すると良いと思います。成功を保証する必要はありません。うまくいくかどうか不確かでも、次に実行できる対策があると知るだけで保護者は受け止めやすくなります。保護者に解決を求めないということも大切です。学校園で生じている問題を保護者が解決することはまずできません。せいぜい学校園で頑張っていることを褒めてあげるとか、ポイント制度などを用いる時に学校園では用意できない特典を家庭で用意してもらうとか、ごくささやかなことしか保護者には協力できません。たまに、「お家でもしっかり言って聞かせてくださいね」などと保護者に伝える先生がいるのですが、言われたことを真面目に頑張ろうとする保護者ほど結果は悲惨なことになりがちです。

 学校園で問題が生じているということをどうしても受け入れられない保護者もいることはいます。しかし、医師の診断で問題の存在を納得させたとして、教師や保育者の業務にどの程度のメリットがあるのでしょうか。学校で生じている問題は保護者に解決できるものはほとんどありません。保護者が問題を受け入れたとしても、結局は先生たちが自力で解決しなければいけないことがほとんどです。保護者との関係性を不安定にするリスクを押してまで病院で診断を受けさせるメリットなどありません。さらに考慮すべき観点があります。それは「診断」の持つ暴力性です。私たち医師にとっては、診断は医学的に明確に定義された概念にしか過ぎません。しかし、一般の方は診断にそれぞれ個人的なイメージを抱いており、それは必ずしも明るいものではないのです。受け入れる準備ができていない人に無理やり診断を押し付けることが大きな心の傷につながる可能性を教師や保育者なら十分認識しておく必要があります。

 最後に、医療費のことに言及しておきます。発達障害に関連した状態での診断評価をする場合、仮に小児科で受診2、3回かけて評価するとして、発達および認知機能検査、小児特定疾患カウンセリング料、診断書料など合わせて少なくとも2、3万円以上かかります。子供に医療費補助制度がある自治体が多いからと軽く考えるべきではありません。国の予算を医療費が圧迫している現在、単に親に問題を受け入れさせるためだけに受診させるようなことが許されるとは思いません。学校園での問題を適切に保護者に伝えることは、教師や保育者の務めだと考えるべきでしょう。


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

 


先生、お言葉を返すようで恐縮ですが

  私は発達障害専門のクリニックで、毎日子供たちの診療をしています。こういう仕事をしていると、直接的にも間接的にも保育所・幼稚園・こども園や学校の先生と接する機会が増えます。教師や保育者の多くは、我々小児科医には信じられないほどの忍耐心を持って子供達を支え、指導されています。なにしろ、医師、特に小児科医はせっかちが多く根気よく関わり続けることが苦手です。そして、すぐに結果を求めようとすることが多いので、教師や保育者の粘り強さと熱意には心の底から感心してしまいます。もちろん、様々な点で我々医師と教師・保育士では考え方が異なることもあります。しかし、そもそも属する文化が違いますので、考え方が異なっていることが多いのも当たり前と言えましょう。総じて、教師や保育者の皆さんは必ずしも良好とは言えない労働環境の中でもよく頑張っておられるなあと感じています。

 とはいえ、世の中美しい話ばかりではありません。特に、発達障害を有する子どもやその親が私の外来に相談しに来るのは困っているからです。日々の生活に何らかの支障をきたしているから受診するのです。万事幸せな親子が私の外来を受診することはありません。いきおい、保育所・幼稚園・こども園や学校の保育者や教師が子供たちへの対応を上手にできていないケースも数多く見られます。稀には、人としてどうなのかと感じるようなエピソードや、明らかに倫理的、場合によっては法的に間違っている事例もあります。しかし、そのような例はごくごく少数であり、上手に対応できていないケースの多くでは、明らかに教師や保育者は誠心誠意子供のために頑張ろうとされているように思います。それにもかかわらずなかなか成果を上げることができないばかりか問題が増している状況の根底には、教育や保育の世界に流れる考え方や文化の影響があるのではないかなという気がしています。私がこのように考えるきっかけの一つは教師や保育者の皆さんがしばしば口にする言葉です。保護者から間接的に聞く時もあれば、なんらかの機会に直接聞くこともあります。私が気になってしまう発言の多くは表面的には悪いものではありません。礼を失しているとか子供を悪様に言うといったものではないのです。むしろ、本人は善意で言っておられるのだろうなと思えるものが多いです。

 よくよく考えた上で口にする発言よりも、何気なく話したことや、むしろ良かれと思って話すことにその人の基本的な考えが反映されます。私は教師の発言そのものよりも、そういった発言をする背景となる考え方や文化が発達障害を有する子供たちの指導者としてあまり適切ではないのではないかと気になってしまいます。このような、よく耳にする気になる一言にまつわる話をしていきたいと思います。単なる私の思いつきですし、一体誰の役に立つのかという気がいたします。しかし、同じ発達障害を有する子供に関わる別の立場の人間の感想は、教師や保育者の皆さんの参考になる可能性も多少あるのではないか、とこっそり思ったりもします。

【目次】

・診断書を書いてもらってください

・検査をしてもらってください

・接し方/指導の仕方を教えてください

・障害ではなく個性だと考えています

(続く)

2024年8月26日月曜日

小学校の教科教育に関して思うこと

 僕は勤務時間の大半を発達障害関連の診療に費やしている。発達障害児といえば、何らかの脳機能に発達の遅れや偏りがあり、日常の生活環境にうまく適応できずに困っている子供達である。子供の生活環境といえば最も重要なものは家庭であるが、それに並んで幼児なら幼稚園、保育園、こども園が大きな位置を占める。当然、就学後は小学校と関連して生じる問題についての相談が増える。就学前と同様に、集中力なさや感情制御の問題などの行動面での問題や、交友関係にまつわる問題についての相談が多い。不登校や登校渋りの相談もよくある。そして、就学前と大きく違ってくるのは学習面での問題に関する相談である。

 学業についていけないことを主たる問題として受診する子供は多い。医者に勉強のことを訴えてもお門違いだと思うのだが、学業の問題は小学生ではとても多い相談事である。前述のように、落ち着きのなさやかんしゃくなどの行動の問題や、登校しぶりや不登校なども多いのだが、これらの問題でも学業についていけてないことが不適応の背景にありそうな例が多い。

 学業に躓く子供達の話を繰り返し聞くうちに気がついたことがある。教師個人の問題ももちろんあるだろうが、構造的な問題があるのではないかと。日本の教育行政や教育界の文化に起因する問題が多いのではないかと考えるようになったのである。小学校の教科指導に関するいくつかの具体的問題点を考えたので、ここに記す。教える内容に関してではなく、主に指導方法やシステムに関する問題である。おそらく構造的問題なので、教師個人には如何ともし難いことが多いかもしれない。ただ、校長や教頭など、リーダーが工夫すればなにかしら現状を変えていけることもあるかもしれない。

 何しろ教育の埒外にいる人間が無責任な立場で書くわけだから、「現場を知らん人間が、なにぬかしとんねん!」と感じる人も多いだろう。そういう人たちには「ごめんなさい」としか言いようがない。


1)最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃される


 僕自身の経験から考えると、学業不振を主訴とする子供のかなりの割合は文字を読むことが苦手である。教科書を音読してもらうと、たどたどしい。1文字ずつ区切って読む逐次読みの子もいるし、そこまでひどくなくても音節の途中など不自然な部位で途切れがちだったりする。読み誤りや読み飛ばしなども多い。そのような子の多くは、平仮名一音表記がスムーズに読めない。一音表記とは、清音44文字(いわゆる五十音)に加えて拗音、濁音、半濁音、撥音、「を」などである。厳密には一音表記ではないが、促音(「いった」「やった」などの小さい「っ」)も含める。平仮名一音表記がスムーズに読めない子供に長文読解や作文を課題として与えると、それは拷問に近い。音読がスムーズではない子供ではまず平仮名一音表記をスムーズに読めるかどうかを確認すべきだ。平仮名一音表記をスムーズに読めないなら、まず、そこを援助することが最優先である(注1)。

 低学年のうちに習得すべき最も基本的なことができていないという、平仮名読み問題と類似したこととして、数の概念の理解ができていないままに学年が上がっていく子供もいるのではないかと思う。このことについては自分の診療ではきちんと確認できていないので、多いのか少ないのか自信を持って言えない。ただ、最近のことだが、一桁の加減算で指を使いながら考えている知能は全く正常範囲内の5年生の子に会った。適当な一桁の数を線分や円で表し、それを参考に別の数に相当する線分や円を描かせると、とんでもない長さや大きさの図を描く子は多い。基数(集合数)の大きさをおおよその感覚で掴めていないようだ。算数は国語以上に積み重ねが重要なので、どこかで躓くとそれ以降の学習が総倒れになりかねない。最も基本である数の概念(序数と基数)が十分に理解できていないままだと、早晩算数が理解できなくなるのは目に見えている。


注1:以下を参照のこと

小枝達也、関あゆみ「T式ひらがな音読支援の理論と実践ーディスレクシアから読みの苦手な子まで」中山書店


2)評価がきちんとなされない


 先の1)と無関係ではない問題だが、学校では評価がきちんとなされていないように見える。学力テストとかあるではないかと反論したくなる人もいるかもしれない。確かに学力テストも評価の一つと言えるが、これでは不十分である。学力テストは現在教えていることが身についているかどうかをチェックしているにすぎない。子供ごとにどの程度の学力が身についているのかを知るためには、教科ごとの学習内容を就学前の準備段階から中学校卒業後のレベルまで連続的なものとみなし、その中で今現在その子供はどのレベルにあるかを評価できる方法が必要である。学習到達度の評価である。このような評価が当たり前になされていれば、平仮名がスムーズに読めない子供に長文の作文を書かせたり、一桁の数の概念を身につけていない子に二桁三桁の繰り上がり繰り下がりのある計算をさせたりはしないはずである。何年にもわたる「発達」という観点から、一人一人の子供が今どのレベルにあるのかということをきちんと評価するという発想がないことが不思議である。そのくせ(嫌味な蛇足になってしまうが)、知能検査が好きな教師は多い。何かといえばWISCを受けて来て欲しいなどと保護者にせっつく先生のなんと多いことか。WISCをしたところで、その結果が教科指導に役立つとはとても思えないのだが。


3)子供の理解力に合わせた指導計画ではない


 さて、1)や2)を踏まえると当然の帰結とも言えるが、今の小中学校の教科指導は個々の子供の理解力や習得できているものを前提としたカリキュラムになっていない。大多数の子供は一斉に同じレベルの内容が教えられている。これは原則として学習指導要領に沿った指導をしないといけないと決められているからであって、教師個人や学校の責任ではない。とはいえ、このままで良いとも思えない。学習指導要領では各科目の指導順序だけを定め、学年ごとに内容を固定することをやめれば良いのではないかと思う。そして、一人一人にオーダーメイドで教えるのはあまりにも非効率なので、教科ごとに進度の違う複数のクラスを用意し、子供自身の希望も取り入れてクラスを選択させれば良いのではなかろうか。どうしても一学年の大半の子供に同じ内容を教えることに固執するのであれば、8、9割以上の子供が理解し身につけられる内容に留めるべきである。その場合は、知的能力が高い子供たちに意欲を持たせ続けるにはどうすれば良いかという問題が生じるが。


4)非合理的な特別支援学級制度


 制度的に学習指導要領を外れることが認められているのは、現状では知的障害者対象の特別支援学級(知的学級)と特別支援学校である。ただ、本人の力に合わせた内容を指導するはずの知的学級に在籍する子供が、勉強についていけないという訴えで僕の外来をしばしば受診するという笑えない笑い話のような現実がある。知的学級でさえ、子供の理解レベルを考慮せずにあらかじめ決め打ちの教育内容が設定されていることが多いのかもしれない。

 特別支援学級の設定はずいぶん非現実的な枠組みになっている。現在、制度的には障害種別ごとの特別支援学級が設置されることになっている。具体的な障害種としては、知的障害者、肢体不自由者、病弱者及び身体虚弱者、弱視者、難聴者、言語障害者、自閉症者・情緒障害者が指定されている。ほとんどの学校にあるのは知的学級と、自閉症・情緒障害者対象特別支援学級(情緒学級)である。前述のように、知的学級では学習指導要領の縛りが外れるが、情緒学級では通常学級と同様に学習指導要領に沿った指導がなされることが原則である(注2)。その結果、境界レベルの知能の子供や知的にはなんとか正常範囲内だが不注意さや文脈理解の悪さから学習に不利な子供達が教科学習に躓くという事態が頻発する。だいたい、知的障害と自閉症・情緒障害に分けるという発想が根本的に間違っている。知的理解力の低さへの支援と行動面や社会性の問題への支援の両方が必要な子供は大勢いるのだから、現在の特別支援学級の設定は非合理的としかいえない。知的学級と情緒学級という分け方をなくし、少人数でかつ教科指導も子供に合わせた進度で計画できる特別支援学級を作れば良いのではないだろうか。このようにすると、今まで特別支援学級では対処できなかった限局性学習症(学習障害)や著しく知能の高い子供に対するサポートもしやすくなるのではないだろうか。

 そうはいっても、特別支援学級としてではなく、すべての子どもが個々の習得レベルをベースに指導内容を決定するような学校制度になってくれると一番良いのだが。

注2:厳密にいうと、法律的には情緒学級で学習指導要領から外れた内容を教えることも可能である。したがって、校長と担当者が度胸を示してくれれば情緒学級でも本人の能力に応じた教科指導ができるはずである。ただ、実際にそのような対応がなされることはほとんどないと思う。


5)効率の良い学び方が子供によって異なることへの配慮の不足


 同じことを学ばせる場合でも、成果の出やすい学び方が子供によって違うことがある。個人的にとてもよく遭遇する例としては漢字の学習方法がある。おそらく多くの学校では同じ漢字を何度も書かせる方略を採用しているように見える。しかし、同じ字を何回も書くことがひどく苦痛となる子は少なからず存在する。こういう子供はとにかく早く済ませたいがために非常に雑な書きっぷりになる。まず偏だけを次々に書き、次いで旁を書いていく、という奇妙な作戦を取る子供も出現する(何を隠そう、僕のことである)。とにかく苦痛から早く逃れたくて、じっくりと文字の構造を見ることがない。何度も書くことで学べる子もいるだろうが、一つの字をじっくり綺麗に書かせることや、粘土で文字を作らせることの方が文字の形の細部まで意識して身につけられる子もいるかもしれない。文字の構成要素を「タテ タテ ヨコ ヨコ」などと音にして唱えると覚えやすい子もいるかもしれない。


6)学問的真実よりも指導に従うことを優先する


 小学校の先生は、学問的真実よりも自分が指示した通りに子供が行動することを重視しているように見える。このことに関して、僕自身がしばしば聞き及ぶ例は漢字指導の問題である。伝統的にも学問的にも根拠のないとめやはねにこだわった指導をすることが多い(「小学校の漢字教育」https://amnesictatsu.blogspot.com/2014/08/blog-post_69.html)。僕自身はあまり経験したことがないが、インターネット情報では(従って、どの程度実際に生じているのかは不確か)いろいろ指摘されている。有名どころでは、習っていない漢字を書くとばつをつけられる、掛け算の順序が決められている、などがある。また、問題文を文字通りに解釈すれば間違いではないのに、教師の事前の思惑に沿わないためばつをつけられる例もあるらしい(例えば、「この物語を読んで考えたことを書きなさい」という指示に対して、「なにも考えませんでした」とか「つまらないなあと思いました」と解答するとペケをつけられるなど)。いずれの例も何が問題かといえば、学問的根拠も論理的な説明もなく間違いとされることである。掛け算の順序を決めることについては、もし教授法としての有効性が立証されているのなら、指導の方便として用いることに問題はないと思う。しかし、間違いではないのに間違いとされることが問題なのである。もしも順序にこだわるのなら、「以下の問題を解くにあたり、掛け算の立式は(1つぶんの数)×(いくつ分)の順序に統一すること」という但し書きをつければよい。

 基本的に、指導の有効性を考えると誤りを正すことよりも正しい行動を正しいと指摘し、賞賛する方が成果が出やすい。これは教科指導でも当てはまるのではないかと思う。義務として学ぶよりポジティブな喜びに導かれて学ぶ方が学んだことが身につくのではないかと思う。いわんや、学問的、あるいは論理的には間違いではない解答を間違いと決めつけられて学習意欲が維持できるとは思えない。


7)高すぎる負荷をかける傾向


 ここまで述べたこと全てと関連するし、教科指導に限定された話でもないが、小学校は並べて子供に高い負荷をかけすぎているのではないかと感じる。「ほどほどにしとけよー」「疲れたら休めよー」という雰囲気があまりにも欠けている。一方的に「頑張る」ことに価値を置きすぎている。大人と同様に、子供にもそれぞれのペースがある。教科学習に限定しても、知的な理解力のレベルだけで物事が決まるわけではない。褒められながら思いっきり突っ走ることが嬉しい子供もいるし、なかなかエンジンのかからない子供もいる。疑問に感じたことを延々と考え続ける子供もいれば、考え続けることが至って苦手な子供もいる。それぞれの子供のペースが全く考慮されない指導を続けた時、遅かれ早かれ子供は限界に達するだろう。難しすぎる内容を延々と聞かされ続けることや、分かりきった退屈な内容に取り組まされ続けることも、学習意欲を消失させることは考えるまでもないことだ。色々な意味でその子供のペースからかけ離れた指導が続くと、苦痛に満ちた時間を耐え忍ぶことになる。高すぎる負荷という表現を使うと、学習内容のレベルが子供にとって高すぎる場合を想像しやすいが、子供にとって不適切な状況が続く状態は全て負荷が高すぎると言える。教科教育の中で過負荷が続くことは学力的な問題を増加させるだけではなく、暴力やかんしゃくなどの行動の問題、不登校や登校渋りにもつながっていく。小学校生活の中で教科学習の時間が圧倒的に長いのだから、当然のことである。