数々の確定した冤罪事件の裁判について見聞きしている時、何時も不思議に思うことがある。有罪とするにはかなり明確な矛盾点や、無罪を示唆する物証が色々あっても、検察は躍起になって有罪を勝ち取ろうとすることである。また、一度有罪となった事件の再審請求を、再審の場で有罪を主張するのであればまだしも、再審自体を封じようとすることである。冤罪被害者への同情や正義に反することへの怒りもあるのだが、ここではそういうことを論じようと考えているわけではない。僕が不思議に思っているのは、無罪を示唆する状況が少なからずあるにもかかわらず、なぜ検察が組織をあげて有罪判決を求めようとするのか、ということである。
何か社会正義に反することが行われた時、その職に就く人全体を根っから悪人のように主張したがる人が結構いる。例えば、保険料の水増し請求で逮捕される医師が何人かいれば、医者なんてみんなズルをしているんだと言われがちである。しかし、自分が医師として接してきた医師達は(まあ、自分は置いておくとして)、圧倒的多数が真剣に仕事に取り組んでいる。何の雑念もなく、とまでは言わないが、かなりのことを犠牲にして患者のための活動を最優先にしている医師はむしろ多数派だと考えている。この認識から、多くの業界で、個人レベルで見れば真面目に理想を掲げながら職務に励む人は多いのではないかと、僕は考えている。悪口を言われる代表格に見える政治家や企業経営者も、実態は真面目に理想を追いかけている人は多いに違いない。当然、検察にも正義と法の精神を守ることを使命と考えて働いている検察官が多いのではないかと想像する。そうであれば、冤罪を作ることを何よりも恐れるのではないか。有罪率が下がるよりも、一人でも冤罪を作ることこそを何とか避けようと考えるのではないだろうか。それなのに、無罪を示唆する客観的状況がかなりあるときでさえ、裁判で有罪を勝ち取り、再審の道を塞ごうと組織をあげて頑張るのはなぜだろう。僕にはそれがどうも分からない。
分からないなりに、このことに深く関わっているのではないかと感じているものが一つある。それは日本社会、とりわけ役所で色濃く見られるものであるが、無謬主義である。一度立てた方針は正しい、決して間違い無いという前提にこだわるという、お馴染みの考え方である。すべて方針が正しいという前提から論理が始まるので、役所が一旦動き始めると滅多なことでは方向修正ができない。東北の大震災で福島の原子力発電所が事故を起こしたとき、原発事故処理に使えるロボットが存在しなかった。日本はロボット技術のレベルが高いにもかかわらずだ。その理由が、原発は安全だからロボットを開発する必要がないという論理だったという冗談みたいな話を聞いたことがある。これが本当かどうかは知らないが、似たような話はあちらこちらに存在しているに違いない。「方針が正しい以上結果も良いはず」の延長で、我々の社会は結果の客観的な評価、特に数値による評価を避ける傾向が顕著である。最近多少改善の機運は見られるが、数値による評価を嫌悪する発言は随所で聞かれるし、物事を物語として理解しようとする人が山ほどいる。そこここで(役所だけではなく、ちっぽけな私企業でさえ)横行する秘密主義も、無謬主義とその帰結としての結果を評価することを忌避する思考の産物ではないかと思う。
失敗を認めれば良いじゃないかと思う。規模が大きくなればなるほど、失敗したことは隠しおおせない。むしろ、失敗した可能性があれば正直に言及し、それを衆人環視のもとに客観的に検証すれば良いではないか。その方が、失敗に基づく損失を最小限にできる。最初に述べた司法の話題に戻れば、失敗を認めることで冤罪の可能性を下げることができる。検証の結果、もとの方針が良かったということもあるだろう。それならめでたいことだ。殆どの人が「人間なのだから失敗することもある。」というくせに、公的に失敗することを許さないこの息苦しい社会がもっと柔軟にならないのかと僕は考えるのだが、同意してくれる人はあまりいないのだろうか。
愛想のない文章なので、一つ落ちを付けておこう。てっきり無謬は「むびょう」と読むのだと、今日の今日まで信じていました。ごめんなさい。
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